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育児中に消えるのは、自分ではなく「汚染された時間」かもしれない

育児中に消えるのは、自分ではなく「汚染された時間」かもしれない

育児中によく使われる「自分を取り戻す」という言い方は、成り立たない前提の上に立っているかもしれない。母になることで人がどう変わるかという研究と、育児期の時間がなぜ休息として機能しにくいのかという研究、その両方から自分の時間の話を考え直す。

TOMOAKI··趣味

「取り戻す」という言葉が、すでに何かを決めつけている

子供が寝静まったあとの数十分、かつて好きだった何かに手を伸ばそうとして、結局スマホを眺めて終わることがある。子供が生まれてから、自分のための時間がめっきり減った。多くの親がそう感じるし、実際に減っている。厄介なのは、その先に続く言葉のほうだ。「自分の時間を取り戻したい」——この言い方は、どこかに元の自分がまだ無傷で存在していて、うまくすればそこに帰れる、という前提を含んでいる。しかし、その前提自体がすでに怪しい。育児という出来事を経た人間が、経る前とまったく同じ状態に戻るという想定は、心理学や神経科学の研究が積み上げてきた知見とは、実はあまり噛み合っていない。

「そんな時間があるなら家事をしなきゃ」と、自分の欲求を先に諦めてしまう感覚には見覚えがある人が多いだろう。ただ、その罪悪感の正体を「性格の問題」や「意志の弱さ」で片づける前に、もう少し立ち止まる価値がある。育児期に起きているのは、単に時間が足りないという量の問題だけではなく、自分という存在そのものが作り替えられている過程と、時間の質そのものが変質してしまう過程という、少なくとも二つの別々の出来事が同時に進行している状態だからだ。

この二つを分けずに、まとめて「自分が変わってしまった」という漠然とした不安として抱え込むと、対処のしようがない。原因が曖昧なまま抱え続ける不安ほど、扱いにくいものはない。だからこそ、何が本当に変化していて、何がまだ変化していないのか、そして何が単に構造上取り上げられているだけなのかを、いったん要素ごとに切り分けて見ていく価値がある。

母になることは、思春期と同じ発達段階として扱われてこなかった

1973年、医療人類学者ダナ・ラファエルは、女性が母親になる過程を指して「マトレセンス(matrescence)」という語を提唱した。身体の状態、集団内での立場、感情生活、日々の関心の焦点、自己認識、周囲との関係——これらすべてが同時に変化する通過儀礼として、母になることを捉え直す試みだった。思春期(adolescence)に似た響きを持つ言葉をあえて選んだのは、両者が構造的に似ているからだ。ホルモンの急激な変化が、感情の起伏や自己認識の揺らぎ、社会の中での居場所の再定義を伴って進む。ただし思春期には、それが誰にでも起こる正常な発達段階だという合意が社会にある。マトレセンスには、長らくそれがなかった。

この概念を掘り起こし、現代の臨床心理学の枠組みに引き上げたのが、コロンビア大学の心理学者オレリー・アタンである。アタンは2020年に発表した論文「Reproductive Identity: An Emerging Concept」の中で、母になる過程を生物学的・神経学的・心理学的・社会的・経済的・実存的な要素が絡み合う、生涯にわたる発達的変容として定義し直した。裏を返せば、育児中に「前の自分ではなくなった」と感じること自体は、異常でも弱さの証拠でもなく、記述されてこなかっただけの、ごくありふれた発達過程だという話になる。問題は現象の側にあったのではなく、それを名指す語彙が長らく用意されていなかった側にあった。

脳の構造まで変わるというのは、本当なのか

「自分が変わった」という感覚は、単なる気のせいでは済まされないところまで、実証研究が踏み込んでいる。2017年、神経科学者エルセリン・ホークゼマらが『ネイチャー・ニューロサイエンス』誌に発表した研究では、妊娠前後の女性の脳をMRIで追跡し、社会的認知に関わる脳領域の灰白質量が妊娠を経て有意に減少していることを確認した。この変化は初めて出産する女性に限って一貫して見られ、その変化のパターンだけをもとに、被験者が妊娠を経験したかどうかをほぼ完全に判別できるほど明確だったという。しかも、この変化は出産から2年が経過した時点でもなお持続しており、変化が大きい領域ほど、赤ちゃんに対する愛着の強さと関連していたことも示されている。

比較対象として調べられた父親や、子供のいない女性にはこうした変化は見られなかった。つまり「産後、頭がぼんやりする」「前のように集中できない」という感覚は、単なる睡眠不足の副作用にとどまらず、脳の構造そのものが子育てに適応する方向へ作り替えられている過程の、いわば副産物である可能性が高い。これは能力の劣化ではなく、別の種類の認知——他者の状態を読み取り、優先順位を組み替える能力——のために脳の資源が再配分されている状態に近い。「元の自分の脳」に単純に巻き戻ることを前提にするのは、この研究の描く像とはやや整合しない。

誤解しないでおきたいのは、これが「能力が下がった」という話ではなく、灰白質量の減少がむしろ機能の効率化と結びついているらしい、という点だ。神経科学の世界では、使われる回路が刈り込まれて洗練されていく現象は、青年期の脳の発達過程でも広く観察されている。母親の脳に起きている変化も、失われたというより、特定の目的に合わせて磨き直された結果である可能性のほうが高い。だとすれば、育児期に「頭の回転が前と違う」と感じるのは欠陥の兆候ではなく、脳がすでに新しい仕事に最適化され始めている途中経過だと捉えたほうが実情に近い。

ただし、消えたと決めつけるのも早計らしい

とはいえ、ここで「自分は消えて、別人に置き換わった」と結論づけるのも、また性急だろう。マトレセンスという枠組みが強調するのは変容そのものであって、消失ではない。アタン自身も、この過程が危機にも成長の機会にもなり得る、両義的なものだと位置づけている。実際、育児期の女性を対象にした古典的な研究——レジャー研究者デボラ・ビアレシュキとサラ・ミッチェナーが1994年に発表した聞き取り調査——では、子育てがひと段落した時点を振り返った母親たちの語りの中に、余暇を「自分に焦点を当て直す機会」として捉える語りと、子育て期間を「一時中断」として捉え、その先でまた元の関心に戻っていく「フルサークル」的な語りの両方が見られた。変わり方も、変わった後の戻り方も一様ではないということだ。

もう一つ、より重い臨床的な文脈での証拠も存在する。看護学者シェリル・タタノ・ベックが1993年に発表した産後うつのグラウンデッド・セオリー研究では、支援グループへの18か月にわたる参与観察と12人への詳細な面接から、「コントロールの喪失」を中核とする四段階のプロセス——恐怖に直面する、自己が損なわれる、生き延びようともがく、コントロールを取り戻す——が見出されている。ここで注意しておきたいのは、この研究が対象にしているのは産後うつという臨床的な状態であって、育児期の誰もがこの強度の喪失を経験するわけではないという点だ。それでも、自己感覚の揺らぎが医学研究の対象になるほど実在の現象として扱われてきたという事実は、日常レベルでの「前の自分が見当たらない」という感覚が、決して大げさな比喩ではないことを裏づけている。

この感覚は、特定の文化や制度に限った話でもないらしい。2025年に発表された、南インド・チェンナイの都市部に住む母親を対象にした現象学的研究では、62人の回答者から選ばれた5人の詳細な語りが分析されている。就労経験のある母親たちの語りには、「自分が別の誰かに置き換わったようだ」という自己感覚の断絶、キャリアの見通しが崩れていく感覚、そしてその負担の多くが周囲からは見えない形で処理されているという共通のテーマが繰り返し現れた。研究者たちは、この状態を個人の適応の失敗としてではなく、家庭内の役割分担や社会制度の側に原因を求めるべき現象として位置づけている。国も制度も家族構成もまったく異なる環境で、似た語りが繰り返し観察されるという事実は、この感覚が特定の社会だけの特殊事情ではなく、母親という立場に構造的に付随しやすい何かであることを示唆している。

仮に自分が変わっていないとしても、時間の方が変わっている

ここで話をもう一段動かしたい。仮に「自分」という要素をいったん脇に置いたとしても、育児期には時間そのものの性質が変わってしまうという、もう一つの独立した問題が残る。社会学者メアリベス・マッティングリーとスザンヌ・ビアンキが2003年に発表した時間使用調査の分析では、女性の余暇時間の多くが家事や育児の見守りといった非余暇的な活動と重なり合っている、いわゆる「汚染された時間(contaminated time)」として費やされていることが示されている。同じ30分の「自由時間」でも、それが純粋に自分だけのものである場合と、洗濯機の様子や子供の気配に絶えず注意を割きながらの30分である場合とでは、回復効果としてはまったくの別物になる。時間の長さを測るだけの統計には、この違いが映らない。

もう一つ、統計として意外な事実がある。ピュー・リサーチ・センターが2013年に発表した米国の時間使用データの分析によれば、父親は母親より週あたり平均で約3時間多く余暇時間を持っている。ただし、この差の中身を見ると単純な話ではない。父親が余分に得ている時間の大半——週にして2.8時間分——はテレビや動画視聴に費やされており、余暇に占めるテレビ・メディアの割合も父親が64%、母親が60%とさほど変わらない。それでいて、同じ調査では母親のほうが自分の余暇時間をより「意味のあるもの」だと感じていると回答している。時間の量では劣っているのに、時間の手応えでは負けていないという、単純な「奪われている」という物語には収まりきらない結果である。

さらに踏み込んだ数字もある。マッティングリーが社会学者リアナ・セイヤーと2006年に発表した追跡研究では、1975年と1998年の米国の時間使用データを比較した結果、1975年時点では女性にとっても自由時間が多いほど「急かされている」という感覚がわずかながら和らいでいたのに対し、1998年になると、その効果は女性についてはほぼ消えてしまっていたことが確認されている。男性については、自由時間の量が「急かされている感覚」を和らげる効果が、両方の年で一貫して見られた。つまりこの二十数年の間に、女性にとって自由時間は「増やせば急かされる感覚が和らぐもの」ではなくなっていったことになる。時間を確保すること自体が、以前ほど効かなくなっているとすれば、「時間さえ作れば楽になる」という素朴な解決策は、少なくとも女性については、統計の上でもすでに分が悪い。

時間そのものが、融通の利かない形に組み替えられている

時間が汚染されるだけでなく、時間割そのものが硬直するという指摘もある。公衆衛生学者フィオナ・スポッツウッドらが2021年に発表した英国の母親を対象にした調査は、育児にまつわる送り迎えや食事、就寝前の一連の作業が、一日の特定の時間帯に集中して重なり合う「ホットスポット」を形成することを指摘している。仕事帰りの時間帯や夕方から夜にかけての数時間は、こうしたホットスポットが積み重なりやすく、身体を動かす余暇活動をその隙間に差し込む余地がほとんど残らない。母親の側に予定を動かす裁量がないわけではないが、複数の育児実践が同じ時間帯に集中して要求されるという構造そのものが、活動の種類を問わず、余暇を「差し込みにくいもの」に変えてしまっている。

これは「意志さえあれば時間は作れる」という発想への、もう一つの反証になる。時間が足りないのではなく、時間の使い道がすでに特定の形に固定されていて、そこに新しい活動を挿入する隙間の設計自体が難しいのだとすれば、問題は本人の計画性ではなく、一日の時間割の組まれ方の側にある。

興味深いのは、この研究がホットスポットの解消策として、母親個人の時間管理術を提案していない点だ。むしろ焦点は、送り迎えや食事の準備といった個々の実践が、なぜ特定の時間帯に集中して重なり合うよう社会的に配置されているのか、という制度設計の側に向けられている。保育園の開所時間、勤務時間の融通のきかなさ、地域の交通事情——これらが折り重なって「動かせない時間帯」を作り出しているのだとすれば、そこにどれだけ効率的なスケジュール表を当てはめても、隙間そのものは増えない。

「なんとなく忙しい」の正体は、思ったより具体的だった

時間が細切れになるだけでなく、頭の中も細切れにされているという指摘もある。社会学者アリソン・ダミンガーが2019年に『アメリカン・ソシオロジカル・レビュー』誌に発表した研究は、35組のカップルへの詳細な聞き取りから、家事や育児に伴う労働を「認知的労働(cognitive labor)」という独立した次元として捉え直した。必要を先回りして察知する「予期」、選択肢を洗い出す「特定」、決定を下す「意思決定」、結果を見届けて調整する「モニタリング」という四つの局面のうち、女性は特に「予期」と「モニタリング」——常に気配を張っておかなければならない、目に見えにくい負荷——を不釣り合いに多く担っていることが示されている。男性が関わるのは主に「意思決定」の場面で、その決定にたどり着くまでの下準備の大半は、パートナーの側に残り続けるという分担の偏りだ。

この「モニタリング」は、物理的に育児から離れた瞬間にも止まらない。子供が寝静まった後、趣味の道具を広げていても、頭の片隅では体調や物音への注意が常時起動したままになる。明日の保育園の持ち物は揃っているか、常備薬は切れていないか、次の予防接種の予約はいつだったか——こうした確認事項は誰かに指示されているわけではなく、気づいた本人が黙って処理し続けるほかない性質のものだ。同じ15分間の手仕事でも、その間ずっとこの種の別プロセスが裏で走り続けているとすれば、時間の長さだけを揃えても、体感としての回復量は揃わない。「せっかく時間を作ったのに、ちっとも休んだ気がしない」という感覚は、意志や工夫が足りないからではなく、認知的労働という、これまで名前すら与えられていなかった負荷が、時間の中身を静かに侵食しているからだと考えたほうが説明がつく。

足りているかどうかは、量ではなく感覚の問題らしい

では、時間の量そのものを増やせば解決するのかというと、これもまた単純ではない。人口学者エヴァ・ヤロシュが2023年に『ポピュレーション・アンド・ディベロップメント・レビュー』誌に発表した研究は、オーストラリアの家計・所得・労働動態調査(HILDA)の20年分のパネルデータを用いて、母親の自由時間と第二子出産への移行との関係を検証している。ここで示された結果が興味深いのは、自由時間の絶対量そのものよりも、その時間量に対する「満足度」——足りていると感じられるかどうか——のほうが、その後の家族形成に関する意思決定と結びついていたという点だ。時間の総量を客観的に測るだけの従来の枠組みでは、この主観的な充足感という変数がすっぽり抜け落ちていたことになる。

これは育児中の自分の時間を考えるうえでも示唆的だ。「1日15分」という数字自体には、絶対的な正解値があるわけではない。同じ15分でも、それが「今日はちゃんと自分の時間があった」という実感につながるかどうかのほうが、時間の絶対量よりも本人の状態を左右している可能性がある。だとすれば、時間をどれだけ切り出せたかを数えて一喜一憂するより、その時間が実際に「自分のもの」だったと感じられたかどうかのほうに、注意を向ける価値があるのかもしれない。

これは一見、精神論への後退のようにも聞こえる。だが実際には逆で、「量」という測定しやすい指標に頼ってきた従来の研究のほうが、本人の主観的な充足感という、測定しにくいが実際には重みのある変数を見落としていたという話である。時間を客観的に増やす努力と、その時間を「足りている」と感じられる状態に近づける努力は、似ているようでいて、必要な工夫の種類が違う。

罪悪感は、個人の性格の欠陥として説明しきれない

ここまでの話を重ね合わせると、「自分の時間を持つことへの罪悪感」は、単一の原因では説明がつかない、いくつかの要因が折り重なった結果だということが見えてくる。マトレセンスの観点から見れば、自己同一性そのものが変化の途上にあるときに、変化前の自分を思わせる活動へ意識的に時間を割くことは、新しい自己像への裏切りのようにも感じられかねない。時間使用の観点から見れば、そもそも「汚染されていない」自由時間そのものが構造的に希少で、女性にとっては時間を増やしても心理的な負荷が以前ほど軽減されなくなっている。認知的労働の観点から見れば、たとえ物理的な時間が確保できても、頭の中の監視プロセスは簡単には止まらない。罪悪感の背後には、少なくともこの三つの、互いに独立した機構が重なって働いている。

社会学の研究群が繰り返し指摘してきた「ケアの倫理」——自分より他者を優先することが女性性の一部として内面化されている状態——も、この構図に無関係ではない。だが、その内面化された規範だけを罪悪感の唯一の犯人に仕立てるのは、話を単純化しすぎている。規範の問題と、脳の変容の問題と、時間の構造の問題は、それぞれ別の学問領域から別々に検証されてきた別の現象であり、それが同じ一人の人間の中で同時に起きているというだけの話だ。三つのうちどれか一つを直せば罪悪感が消える、というほど都合よくはできていない。

逆に言えば、罪悪感が消えないからといって、自分の対処が間違っているとも限らない。神経学的な変容は本人の努力でどうにかなる話ではないし、社会に配置された時間割の硬直も、認知的労働の偏りも、家庭というひとつの単位の中だけで解決を図るには荷が重すぎる問題だ。これらを一人で背負い込んで「まだ工夫が足りない」と結論づけてしまうことのほうが、実は最も事実から遠い。

変わったものと、失われていないものを、分けて考える

「自分の時間を取り戻す」という言葉に立ち返ると、この言葉が指し示そうとしている実体は、思っていたより輪郭がはっきりしない。取り戻すべき「元の自分」は、脳の水準ではすでに後戻りしにくい形で変化しているかもしれないし、それでいて自己感覚そのものは消えたわけではなく、変容の途中にあるだけかもしれない。奪われているように見える時間は、量として本当に減っている部分と、質が汚染されて回復として機能しなくなっている部分とが混ざっていて、後者は時間をいくら足しても解決しない。

だとすれば、育児中に自分のための時間を持つという行為の意味も、多少組み替えて考えたほうがよさそうだ。それは失われた過去の自分を掘り出す作業というより、変化しつつある自分が、今どこにいるのかを確かめる作業に近いのかもしれない。15分の手仕事や読書が「元通りになるための処方箋」だと考えると、効果が実感できないたびに落胆することになる。そうではなく、その15分が「今の自分がまだここにいる」という感覚を確認するための、ささやかな座標のようなものだと捉え直すと、同じ時間の重みは少し変わってくる。

時間割が硬直しているという構造上の制約も、認知的労働が裏で走り続けるという負荷も、こちらの意志だけでどうにかできる範囲を超えている。それを個人の工夫不足のように扱う限り、うまくいかないたびに自分を責める材料が増えるだけだ。むしろ、うまく休めない日があっても、それは複数の独立した仕組みが同時に働いた結果であって、自分という人間の欠陥の証明ではないと、いったん切り離して考えられるかどうかのほうが大きい。答えを一つに決める必要はない。ただ、罪悪感の出どころが自分の性格ではなく、いくつもの独立した仕組みの重なりだと分かっているだけでも、その時間への向き合い方は多少なりとも変わるかもしれない。

出典

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