目次▼
「0円で自分を取り戻す」と言う前に、罪悪感の話をしたほうがいい
母親が自分のために時間を使うことへの罪悪感は、支出を0円にしても消えない。インテンシブ・マザリング規範や汚染された時間、認知労働の研究を手がかりに、金額を操作することが実は何を解決していないのかを検討する。
「自分の時間を持ちたいけれど、家計を削ってまでやるのは気が引ける」という声を見かけることがある。それに対する定番の答えが「0円でできる趣味」という提案だ。お金がかからないなら誰にも迷惑をかけていない、だから気兼ねなく始めればいい、という理屈である。一見親切だが、この理屈には見落としがある。後ろめたさの原因を、金額だと決めてかかっている点だ。
試しに逆から考えてみよう。もし本当に金額が原因なら、0円の提案を渡された母親は罪悪感から解放されて当然のはずだ。ところが実際には、道具代がかからない散歩や読書ですら、気兼ねなく楽しめない人もいる。子どもを預けてもいないのに、自室で15分本を開いただけで妙な気まずさを覚える、という話も聞く。財布は痛んでいないのに、何かを咎められているような感覚だけが残る。だとすれば、削るべきだったのは支出ではなく、もっと別の何かだったことになる。
「良い母親」の基準は、誰かが決めて渡したものだ
社会学者シャロン・ヘイズは1996年の著書で、現代の母親規範を「intensive mothering(インテンシブ・マザリング)」と名付けた。子ども中心で、専門家の助言に従い、感情的に献身し、労力も費用も惜しまない子育てこそが「良い母親」の条件だとする考え方である。ヘイズが強調したのは、これが自然な母性から自動的に生まれる態度ではなく、特定の時代に構築された規範だという点だ。育児書の分析と母親への聞き取りから、彼女はこの規範がとりわけ働く母親を板挟みにすることを示した。職場では競争的であれと求められながら、家庭では無私であれと求められる。両立できない二つの要求を同時に満たせと言われているようなものである。
この規範の厄介なところは、外側から押しつけられているにもかかわらず、内側の声のように感じられることだ。「趣味に時間を使うなんて」という囁きは、特定の誰かが発しているわけではない。夫でも姑でもなく、拡散した基準そのものが自己検閲として作動しているのではないか。そうだとすれば、この基準を満たす方法をいくら工夫しても、たとえば支出を0円に抑えても、検閲そのものは解除されない。基準が求めているのは、子どもに惜しみなく注ぐことの裏返しとして、母親が自分自身に時間を割り当てないことなのだろう。子どもに向けた費用と、母親自身の支出は、別の話だ。
お金を使わないことは、自己犠牲の証明にならない
ヘイズの議論には、もう一つ見逃せない補助線がある。彼女は、現代社会を貫く基本原理は自己利益の追求だと述べたうえで、母親という役割にはその原理が当てはまらず、自己を後回しにすること――自己犠牲――が求められ続けていると指摘した。市場では誰もが自分の利益を最大化してよいとされる一方で、母親業には、その原理とは逆の、無償で自分を差し出す領域という位置が与えられてきた、と論じた。この非対称をヘイズは、社会が自己利益中心の価値観に対して抱く居心地の悪さを、母親という役割に肩代わりさせているのだと読んだ。誰もが自分の得を追い求めてよいという前提の社会は、それだけでは落ち着かない。どこかに、損得抜きで自分を差し出す領域を確保しておきたい。その領域として選ばれたのが、母親業だったというわけである。
この枠組みに沿って考えると、「0円だから趣味を始めてもいい」という論法の奇妙さがはっきりする。この論法が取り除いているのは、お金という市場的な交換の要素だけである。ところが求められているのは、市場から距離を置くことではなく、自己利益そのものを主張しないことだ。趣味に使う時間は、たとえ1円もかからなくても、それを「自分のために」割り当てるという行為である以上、自己利益の表明であることに変わりはない。0円にすることで消せるのは価格というラベルだけで、自己犠牲を求める規範がその奥に構えていることには手が届かない。倹約は美徳として扱われやすいぶん、かえってこの取り違えを見えにくくしている。
手厚い政策の国でも、罪悪感は消えなかった
この規範がどれほど頑丈かを見るうえで、手がかりになる研究がある。社会学者ケイトリン・コリンズは、スウェーデン、ドイツ、イタリア、アメリカの働く母親109人への聞き取りのうち、とくに4人の詳しい事例をもとに、2020年に発表した論文でこう問うた。育児休業や保育の支援が手厚い国では、母親の罪悪感は軽くなるのか。コリンズの答えは、政策は罪悪感に効く面と効かない面がある、というものだった。罪悪感は四つの国のどこでも、「良い母親」を定義する感情として現れていた。
政策が効く面と効かない面があるのなら、罪悪感は負担の軽さだけでは決まらない。時間の余裕や父親のケア、子育ての責任と費用の分担(コリンズが罪悪感を減らす経路として挙げたもの)は罪悪感に効くが、母親自身の支出をゼロにするという、はるかに小さな条件変更だけで罪悪感が消えると期待するのは難しい。社会が子育ての費用を分け合うことと、母親が自分のために使う金額は、区別して考える必要がある。
ドイツの母親17人にメールで聞き取りをしたバトラム=ツァントフォールトらの2022年の調査(2020年春のロックダウン下)からは、規範の重なりが負担になる様子がうかがえる。働いている母親のうち、役割の対立や罪悪感、疲労を訴えて自己像が悪化した人がいた一方、働いていても自己像が良くなった人もいた。専業主婦の一部や就職前の女性は自己像が保たれていたが、休職中の一人は強い消耗を語っている。著者らは、母親規範と「理想の労働者」の規範が重なることが、働く母親の負担を重くしうると読んだ。
「自由時間」の中身は、同じ量でも同じではない
母親の自由時間が父親より少ないという話は広く知られているが、問題は量の差だけではない。社会学者のメアリーベス・マッティングリーとスザンヌ・ビアンキが2003年に発表した研究は、自由時間の「質」を測ろうとした点で興味深い。彼らは家事や育児が自由時間にどれだけ混入しているか、その時間がどれだけ細切れになっているか、子どもの要求にどれだけ頻繁に対応しなければならないかを時間日誌から算出した。この系統の研究では、こうした自由時間は「contaminated time(汚染された時間)」と呼ばれることがある。同じ1時間の「自由時間」でも、洗濯物を畳みながらの1時間と、誰にも呼ばれない1時間はまったく別物だという指摘である。
ピュー・リサーチ・センターが時間日誌データをまとめた分析は、2010年の米国時間利用調査にもとづく。余暇の定義が先の研究の「自由時間」より狭いので、数字はそのまま並べられないが、18歳未満の子どもを持つ父親の週あたりの余暇は27.5時間、母親は24.5時間で、差はおよそ3時間にとどまる。数字だけ見れば、それほど大きな開きではない。余暇活動のうち、母親は63%を「非常に有意義」と評価し、父親は52%だった。それでも母親のほうが、余暇のあいだに疲労を感じ、ストレスも高いと答えている。有意義さは高いのに、疲れとストレスも高い。矛盾しているように見えるが、「汚染された時間」という説明とは符合しうる。中断される前提で過ごす時間は、意味を感じられても休息にはならないのかもしれない。
この観点に立つと、0円趣味という発想の限界が見えてくる。0円の散歩やストリートビュー散策は、支出という意味では家計を汚染しない。しかし子どもがいつ呼ぶかわからない状態で歩く15分は、依然として「汚染された時間」でありうる。0円にしたところで、時間そのものの質、つまり中断されずに自分のためだけに使える時間かどうかという条件は変わらない。罪悪感の出どころが支出ではなく時間の専有だとすれば、これは当然の帰結にすぎない。
「オフの時間」でも、頭の中は稼働している
時間の汚染は、子どもに実際に呼ばれることだけで起きるわけではない。呼ばれるかもしれないと予期し続けること自体が、すでに時間を汚染している。社会学者アリソン・ダミンジャーが2019年に発表した研究は、アメリカの35組のカップル、計70人への聞き取りから、家事育児には「認知労働」と呼べる領域があることを示した。何が必要になりそうかを予測し、選択肢を洗い出し、決定し、その後の進み具合を見届ける――この一連の思考作業は、目に見える家事とは別に発生し、しかも当事者にすら気づかれにくい。ダミンジャーの調査では、女性のほうが認知労働を多く担い、なかでも「予期」と「見届け」でその差が目立った(決定への関与は男女ほぼ同等だった)。
この知見を趣味の話に重ねると、0円趣味がなぜ完全な休息にならないのかが、また別の角度から見えてくる。散歩中に足を止めているのは体だけで、頭のほうは「保育園からの電話が来るかもしれない」「夕飯の下ごしらえはあとどれくらい残っているか」といった予期と見届けを続けていることがある。ダミンジャーが調べたのは分担であって趣味ではないが、この稼働が支出の有無で止まるとは考えにくい。0円の趣味であろうと1万円の趣味であろうと、認知労働の分担が変わらない限り、頭の中の稼働状態は同じままだろう。
罪悪感には、性差がある
仕事と家庭の両立に伴う罪悪感の感じ方に、性差があることを示した研究もある。心理学者ジェシカ・ボレッリらが2016年に発表した研究は、幼児を育てる南カリフォルニアの親255人を対象に、仕事と家庭に関する自由記述を分析した。その結果、母親は父親に比べて有意に高い水準の「ワーク・ファミリー・ギルト」を報告した。「仕事が家庭に悪影響を及ぼしている」という罪悪感(研究では「ワーク・インターフィアリング・ウィズ・ファミリー・ギルト」と呼ばれる)も、母親のほうが有意に高かった。
趣味の場面にも当てはまるかは、この研究からはわからない。ただ、当てはまるとすれば、「0円だから気兼ねなく」という助言は、この非対称性には触れないまま、金額という表層だけを操作していることになる。罪悪感を左右しているのは支出よりも、家庭の中で誰が「時間を使う権利」をデフォルトで持っているかという配分の問題なのではないか。
配分の問題だとすれば、金額では解けない。
「家族のため」と言い換えられる趣味は、免除されやすい
同じ趣味でも、説明の仕方次第で罪悪感の重さが変わるのではないか、というのが私の見立てである。料理教室に通うことは、それが「家族に美味しいものを作るため」だと説明できる限り、比較的すんなり受け入れられやすい。ヨガも「イライラしなくなるから、子どもに優しくなれる」という理由づけがつけば通りがよくなる。逆に、絵を描くこと、一人で映画館に行くこと、意味のない街歩きをすることは、家族の利益に接続する説明が作りにくいぶん、同じ時間・同じ金額でも重く感じられやすい。ヘイズが描いた自己犠牲の規範に照らせば、これは筋が通っている。趣味が家族への貢献として翻訳できるなら、それは自己利益の主張ではなく献身の一形態として処理できるからだ。
この構造は、0円趣味という発想の裏にもう一つの罠を仕掛けている。0円で始めやすい趣味として挙げられる散歩や片付けは、「気分転換すれば家族にも優しくできる」という家族貢献の物語に回収されることがある。だが、家族貢献の物語に回収しやすいことこそが、選ばれた本当の理由かもしれない。純粋に自分のためだけの、家族の利益に一切接続しない時間の使い方――それこそが本来問われているはずなのに、家族貢献の物語に乗せやすい活動ばかりが「実際に続いている0円趣味」として紹介されている印象がある。これでは、自己利益を主張してよいかという問いに向き合わないまま、また別の形で自己犠牲の物語をなぞっているのかもしれない。
0円が説明できるのは、罪悪感のごく一部にすぎない
ここで少し立ち止まって、0円という条件がなぜこれほど説得力を持つように見えるのかを考えてみたい。支出は数字で示せる。レシートを見せれば、家計にどれだけ影響したかを誰にでも証明できる。時間の専有はそうはいかない。「今日は自分のために30分使った」という事実には、それを裏づける明細書がない。だから罪悪感を鎮めようとするとき、人は測れるもの、つまり金額のほうに手を伸ばしやすい。0円趣味という発想が繰り返し提案されるのは、それが効くからというより、それが検証しやすいからではないか。支出をゼロにしたという事実は目に見えて確認できるが、時間を専有したことへのわだかまりが晴れたかどうかは、本人にしかわからず、しかも本人にすらはっきりしないことが多い。見えるものを操作して、見えないものが解決したことにする。これは家計管理としては合理的でも、心理の説明としては筋違いである。
趣味を小さく保つこと自体が、罪悪感の作用かもしれない
もう一つ、あまり指摘されない点がある。0円で続けられる趣味として挙げられるものは、たいてい規模が小さい。散歩、読書、片付け、耳を澄ませること。どれも数分から十数分で切り上げられ、途中で誰かに呼ばれてもさほど惜しくない。これは単に「お金がかからないものを選んだ結果」ではなく、「中断されても壊れない程度の規模に、あらかじめ趣味を縮めておいた結果」だと見ることもできる。マッティングリーとビアンキが描いた「汚染された時間」の中で生きている限り、大がかりな趣味――長時間の没入を要する創作や、遠出を伴う活動――は選びにくくなるのではないか。中断される可能性を織り込んで、最初から小さくしておくほうが安全だからだ。
だとすれば、0円という条件と規模の小ささは、別々の選択ではなく同じ根から生えている可能性がある。金額を切り詰めることと、野心を切り詰めることは、どちらも「これくらいなら許されるはずだ」という自己交渉の産物だ。数分で終わる0円の趣味を勧める記事は、その自己交渉の結果をそのまま追認しているにすぎず、なぜ最初から交渉が必要だったのかには触れない。趣味の規模を小さく保つことそのものが、罪悪感がすでに機能してしまった痕跡だとしたら、規模の小ささを称賛する語り口は、痕跡を指して「これでいい」と言っているようなものである。
罪悪感が、自分のための行動の手前に立つことがある
罪悪感が自己改善のきっかけになる、という理解は一部では正しい。何か悪いことをしたと感じ、それを埋め合わせようとする。これは罪悪感の建設的な側面だとされる。だが、この理屈がそのまま母親のセルフケアに当てはまるとは限らない。心理学者シンディ・ミラーとシェイリン・ストラカンが2020年に発表した、143人の母親を対象とした研究では、自己への思いやり(セルフ・コンパッション)の水準が高い母親ほど、運動や食事、睡眠といった健康行動をよく実践する傾向が確認された。この関係には、「健康行動のために時間を取ることへの罪悪感」が間に挟まっていた。自己への思いやりが高い母親ほど、健康行動に時間を取ることへの罪悪感が低い傾向があり、罪悪感の低さが健康行動の多さと結びついていた。効果は小さく、横断調査なので因果の向きまでは言えない。ただ、罪悪感が行動の手前にある可能性は示唆される。
もう一段、意外な事実がここにある。同じ研究グループのケイリー・シンプソンらが2022年に発表した111人の母親を対象とした調査は、単に「自己への思いやりが足りない」ことを問題にしたのではない。「自己への思いやりそのものを恐れる」という心理特性を、独立に測定したのである。自分を思いやろうとする場面を想像すると不安になる、あるいは危険だと感じる――この「fear of self-compassion(自己への思いやりへの恐れ)」の得点が高い母親ほど、健康行動を優先する自分を想像したときに「恥ずかしい」「無責任だ」「不安だ」という形容詞を強く選んだ。相関は、有意だった形容詞でおおむね0.2〜0.35で、小さいものから中程度の関連にとどまる。仮想の場面を想像した自己評価ではあるが、一部の母親にとって、自分を大切にすることは単に後回しにしているのではなく、それ自体が「やってはいけないこと」と感じられている可能性を示す。0円の趣味を勧める善意の記事は、この感覚の存在をそもそも前提にしていない。
0円という条件は、何を免除しているつもりなのか
ここまでの材料を並べると、「0円だから気にしなくていい」という助言が免除しているのは、母親自身の家計への影響という、罪悪感の主因とは考えにくい部分だけではないか。引いた研究のどれも、母親自身の支出を調べてはいないので、これは材料からの推論である。免除されていないのは、時間を自分のために専有すること、それ自体への抵抗感だろう。この抵抗感は、内面化された母親規範につながっているらしい。手厚い育児支援政策の下でも罪悪感は消えず、仕事と家庭にまつわる罪悪感は母親のほうが強いと報告され、一部の母親には自己への配慮そのものへの恐れも見られた。自由時間の質の話は、疲れとストレスの説明にはなるが、罪悪感の説明としては間接的である。0円という条件は、いわば的外れな場所に置かれた安全弁のようなものである。安心はできるが、圧力そのものは別のところにかかり続けている。
安全弁は、別の場所についている。
ここでもう一つ、指摘しておきたい捻れがある。0円という条件の代わりに、持ち出されることがあるのが「先に家事を全部済ませてから」という条件だ。支出をゼロにする代わりに、労力という対価をあらかじめ払っておけば、そのあとの時間は後ろめたさなく使えるはずだという理屈である。だがこれもまた、同じ勘違いの変奏にすぎない。家事を先に片づけることは、支出をゼロにすることと同じく、交換可能な資源を操作しているだけで、自己利益を主張してよいのかという問い自体には触れていない。実際、洗濯も掃除も終えたはずの夜に、なお本を開く手が止まる母親もいる。対価はすでに払い終えているのに、罰金だけがまだ残っているような感覚である。交換で買えるのは免罪符ではなく、単なる時間の空白でしかない。
誤解のないように言っておくと、これは0円の工夫そのものを否定する話ではない。ストリートビューで知らない街を歩くことも、家事の合間に雨音を意識して聴くことも、図書館で普段選ばない棚から一冊借りることも、それ自体に問題はない。問題があるとすれば、それを「罪悪感の治療法」として売り込む語り口のほうだ。0円だから正当化される、という説明の仕方は、罪悪感の出どころを勘違いさせたまま、当面の不安だけを鎮めてしまう。鎮痛剤としては機能するが、原因には触れていないのである。
後ろめたさを消す方法を提示するつもりはない
ここまで読んで、罪悪感の正体がわかったのだから、それを解消する方法を教えてほしいと思う人もいるかもしれない。だが、それをやってしまうと、皮肉っている対象――根拠のない断定を配って回る態度――そのものになりかねない。ヘイズが指摘した規範は数十年かけて社会に根を張ったもので、記事を一本読んだところで書き換わるようなものではないし、コリンズが示したとおり、手厚い制度をもってしても完全には消えない。ボレッリらが観測した性差も、ミラーとストラカンが見つけた罪悪感の媒介効果も、個人の意志の弱さの証拠としてではなく、構造の証拠として読むべきものだろう。構造の問題を、個人の対処法にすり替えて解決したことにする。それこそが「0円趣味のすすめ」という語り口が、意図せずやってしまっていることに近い。
あえて言えることがあるとすれば、後ろめたさを感じている自分を、意志薄弱だとか自己中心的だとかいう物語に回収しないことくらいだろう。ただし、これも解決策の提示ではない。回収しないという構えを取ったところで、後ろめたさそのものが消えるわけではないし、この文章を読んだ翌日から何かが軽くなるという保証もない。せいぜい言えるのは、罪悪感の出どころを取り違えたままでは、対処のしようもないということだけだ。そして0円という条件は、その取り違えを正すことには、あまり寄与しないように思える。
支出の記録をつけることは簡単だ。今日いくら使わなかったかは、家計簿アプリが自動で計算してくれる。だが、頭の中でどれだけ「保育園から電話が来るかもしれない」と身構え続けていたか、趣味の規模をどれだけ自分で切り詰めていたか、家族への貢献として説明できない時間をどれだけ避けていたかは、どのアプリも記録してくれない。記録されないものは、なかったことにされやすい。0円趣味という語り口が居心地よく響くとすれば、それはこの記録されない部分を、記録できる部分の話にすり替えてくれるからだろう。すり替えに気づいたところで罪悪感が消えるわけではないが、少なくとも、間違った場所を掃除して満足するような無駄は避けられる。
出典
- ヘイズ(1996)『The Cultural Contradictions of Motherhood』Yale University Press
- コリンズ(2020)"Is Maternal Guilt a Cross-National Experience?" Qualitative Sociology
- バトラム=ツァントフォールトほか(2022)"Maternal Self-Conception and Mental Wellbeing during the First Wave of the COVID-19 Pandemic: A Qualitative Interview Study Through the Lens of 'Intensive Mothering' and 'Ideal Worker' Ideology" Frontiers in Global Women's Health
- マッティングリー、ビアンキ(2003)"Gender Differences in the Quantity and Quality of Free Time: The U.S. Experience" Social Forces, 81(3)
- ピュー・リサーチ・センター(2013)"The 'Leisure Gap' Between Mothers and Fathers"
- ダミンジャー(2019)"The Cognitive Dimension of Household Labor" American Sociological Review, 84(4)
- ボレッリほか(2016)"Gender Differences in Work-Family Guilt in Parents of Young Children" Sex Roles
- ミラー、ストラカン(2020)"Understanding the Role of Mother Guilt and Self-Compassion in Health Behaviors in Mothers with Young Children" Women & Health
- シンプソン、セメンチャク、ストラカン(2022)"Put MY Mask on First: Mothers' Reactions to Prioritizing Health Behaviours as a Function of Self-Compassion and Fear of Self-Compassion" Journal of Health Psychology
