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「0円で自分を取り戻す」と言う前に、罪悪感の話をしたほうがいい
母親が自分のために時間を使うことへの罪悪感は、支出を0円にしても消えない。インテンシブ・マザリング規範や汚染された時間、認知労働の研究を手がかりに、金額を操作することが実は何を解決していないのかを検討する。
「自分の時間を持ちたいけれど、家計を削ってまでやるのは気が引ける」という声を見かけることがある。それに対する定番の答えが「0円でできる趣味」という提案だ。お金がかからないなら誰にも迷惑をかけていない、だから気兼ねなく始めればいい、という理屈である。一見親切だが、この理屈には見落としがある。後ろめたさの原因を、金額だと決めてかかっている点だ。
試しに逆から考えてみよう。もし本当に金額が原因なら、0円の提案を渡された母親は罪悪感から解放されて当然のはずだ。ところが実際には、道具代がかからない散歩や読書ですら、気兼ねなく楽しめない人は珍しくない。子どもを預けてもいないのに、自室で15分本を開いただけで妙な気まずさを覚える、という話も聞く。財布は痛んでいないのに、何かを咎められているような感覚だけが残る。だとすれば、削るべきだったのは支出ではなく、もっと別の何かだったことになる。
「良い母親」の基準は、誰かが決めて渡したものだ
社会学者シャロン・ヘイズは1996年の著書で、現代の母親規範を「intensive mothering(インテンシブ・マザリング)」と名付けた。子ども中心で、専門家の助言に従い、感情的に献身し、労力も費用も惜しまない子育てこそが「良い母親」の条件だとする考え方である。ヘイズが強調したのは、これが自然な母性から自動的に生まれる態度ではなく、特定の時代に構築された規範だという点だ。育児書の分析と母親への聞き取りから、彼女はこの規範がとりわけ働く母親を板挟みにすることを示した。職場では競争的であれと求められながら、家庭では無私であれと求められる。両立できない二つの要求を同時に満たせと言われているようなものである。
この規範の厄介なところは、外側から押しつけられているにもかかわらず、内側の声のように感じられることだ。「趣味に時間を使うなんて」という囁きは、特定の誰かが発しているわけではない。夫でも姑でもなく、拡散した基準そのものが自己検閲として作動する。だからこの基準を満たす方法をいくら工夫しても、たとえば支出を0円に抑えても、検閲そのものは解除されない。基準の中身は費用ではなく、母親が自分自身に時間を割り当てているという事実だからである。
支出はここでは無関係だ。
お金を使わないことは、自己犠牲の証明にならない
ヘイズの議論には、もう一つ見逃せない補助線がある。彼女は、現代社会を貫く基本原理は自己利益の追求だと述べたうえで、母親という役割だけがその原理から除外され、自己を後回しにすること――自己犠牲――を求められ続けていると指摘した。市場では誰もが自分の利益を最大化してよいのに、母親には最大化どころか自分の利益を主張すること自体が禁じられる。この非対称をヘイズは、社会が自己利益中心の価値観に対して抱く居心地の悪さを、母親という役割に肩代わりさせているのだと読んだ。誰もが自分の得を追い求めてよいという前提の社会は、それだけでは落ち着かない。どこかに、損得抜きで自分を差し出す領域を確保しておきたい。その領域として選ばれたのが、母親業だったというわけである。
この枠組みに沿って考えると、「0円だから趣味を始めてもいい」という論法の奇妙さがはっきりする。この論法が取り除いているのは、お金という市場的な交換の要素だけである。ところが求められているのは、市場から距離を置くことではなく、自己利益そのものを主張しないことだ。趣味に使う時間は、たとえ1円もかからなくても、それを「自分のために」割り当てるという行為である以上、自己利益の表明であることに変わりはない。0円にすることで消せるのは価格というラベルだけで、自己犠牲を求める規範がその奥に構えていることには手が届かない。倹約は美徳として扱われやすいぶん、かえってこの取り違えを見えにくくしている。
手厚い政策の国でも、罪悪感は消えなかった
この規範がどれほど頑丈かを測る、少し意地の悪い実験のような研究がある。社会学者ケイトリン・コリンズは、スウェーデン、ドイツ、イタリア、アメリカの働く母親109人への聞き取りをもとに、2020年に発表した論文でこう問うた。育児休業や保育の支援が手厚い国では、母親の罪悪感は軽くなるのか。答えは、軽くはなるが消えはしない、というものだった。スウェーデンのように育休制度も保育の受け皿も充実した国の母親たちでさえ、仕事のために子どもと過ごす時間を減らしていることへの罪悪感を語った。政策が変えられるのは負担の重さであって、罪悪感という感情の存在そのものではないらしい。
この結果は、0円趣味という発想の弱点をそのまま照らしている。制度によって家事育児の負担が実質的に軽くなっても罪悪感が残るのなら、支出をゼロにするという、はるかに小さな条件変更で罪悪感が消えると期待するのは無理がある。負担の軽減と罪悪感の解消は、別の回路で動いている。ドイツの母親を対象にしたバートラム=ザントフォートらの2022年の調査でも、似た構図が見える。17人への聞き取りのうち、働く母親たちは役割の対立に苦しみ、罪悪感と疲労、精神的な消耗を訴えたのに対し、専業主婦や休職中の女性たちは、母親としての自己像がむしろ安定していた。この差を分けたのは支出の多寡ではなく、「理想の労働者」であることと「理想の母親」であることを同時に満たせという要求に、その人がどれだけ強くさらされていたかだった。
「自由時間」の中身は、同じ量でも同じではない
母親の自由時間が父親より少ないという話は広く知られているが、問題は量の差だけではない。社会学者のメアリーベス・マッティングリーとスザンヌ・ビアンキが2003年に発表した研究は、自由時間の「質」を測ろうとした点で興味深い。彼らは家事や育児が自由時間にどれだけ混入しているか、その時間がどれだけ細切れになっているか、子どもの要求にどれだけ頻繁に対応しなければならないかを時間日誌から算出し、これを「contaminated time(汚染された時間)」という概念で表した。同じ1時間の「自由時間」でも、洗濯物を畳みながらの1時間と、誰にも呼ばれない1時間はまったく別物だという指摘である。
ピュー・リサーチ・センターがこの系統の時間日誌データをもとにまとめた分析では、18歳未満の子どもを持つ父親の週あたり自由時間は27.5時間、母親は24.5時間で、差はおよそ3時間にとどまる。数字だけ見れば、それほど大きな開きではない。ところが質の面では逆転が起きる。母親は自分の自由時間の63%を「非常に有意義だった」と評価したのに対し、父親は52%にとどまった。それにもかかわらず、母親のほうが自由時間中により疲労を感じ、ストレスレベルも高いと報告している。時間の使い方への満足度は高いのに、疲れとストレスも同時に高い。矛盾しているように見えるが、「汚染された時間」という説明とはよく符合する。中断される前提で過ごす時間は、意味を感じられても休息にはならないということだ。
この観点に立つと、0円趣味という発想の限界が見えてくる。0円の散歩やストリートビュー散策は、支出という意味では家計を汚染しない。しかし子どもがいつ呼ぶかわからない状態で歩く15分は、依然として「汚染された時間」でありうる。0円にしたところで、時間そのものの質、つまり中断されずに自分のためだけに使える時間かどうかという条件は変わらない。罪悪感の出どころが支出ではなく時間の専有だとすれば、これは当然の帰結にすぎない。
「オフの時間」でも、頭の中は稼働している
時間の汚染は、子どもに実際に呼ばれることだけで起きるわけではない。呼ばれるかもしれないと予期し続けること自体が、すでに時間を汚染している。社会学者アリソン・ダミンジャーが2019年に発表した研究は、ボストン近郊の35組のカップル、計70人への聞き取りから、家事育児には「認知労働」と呼べる領域があることを示した。何が必要になりそうかを予測し、選択肢を洗い出し、決定し、その後の進み具合を見届ける――この一連の思考作業は、目に見える家事とは別に発生し、しかも当事者にすら気づかれにくい。ダミンジャーの調査では、この認知労働、とりわけ「予期」と「見届け」の部分を担っていたのは、圧倒的に女性のほうだった。
この知見を趣味の話に重ねると、0円趣味がなぜ完全な休息にならないのかが、また別の角度から見えてくる。散歩中に足を止めているのは体だけで、頭のほうは「保育園からの電話が来るかもしれない」「夕飯の下ごしらえはあとどれくらい残っているか」といった予期と見届けを続けていることがある。この稼働を止めるスイッチは、支出の有無とは何の関係もない。0円の趣味であろうと1万円の趣味であろうと、認知労働の分担が変わらない限り、頭の中の稼働状態は同じままである。
罪悪感には、性差がある
仕事と家庭の両立に伴う罪悪感の感じ方に、性差があることを示した研究もある。心理学者ジェシカ・ボレッリらが2016年に発表した研究は、幼児を育てる南カリフォルニアの親255人を対象に、仕事と家庭に関する自由記述を分析した。その結果、母親は父親に比べて有意に高い水準の「ワーク・ファミリー・ギルト」を報告した。さらに興味深いのは、「仕事が家庭に悪影響を及ぼしている」という特定の罪悪感――研究では「ワーク・インターフィアリング・ウィズ・ファミリー・ギルト」と呼ばれる――を強く訴えたのは母親だけで、父親にはほとんど見られなかったという点である。同じ働き方、同じ子育て環境に置かれても、罪悪感の配分は均等にはならない。
この非対称性は、趣味の話にそのまま応用できる。父親が週末に一人でゴルフに出かけることへの後ろめたさと、母親が週末に一人で図書館に行くことへの後ろめたさは、統計的には同じ強度で経験されていない。だとすれば「0円だから気兼ねなく」という助言は、この非対称性そのものには一切触れないまま、金額という表層だけを操作していることになる。罪悪感の総量を左右しているのは支出ではなく、家庭の中で誰が「時間を使う権利」をデフォルトで持っているかという配分の問題だ。
配分の問題は、金額では解けない。
「家族のため」と言い換えられる趣味は、免除されやすい
同じ趣味でも、説明の仕方次第で罪悪感の重さが変わることがある。料理教室に通うことは、それが「家族に美味しいものを作るため」だと説明できる限り、比較的すんなり受け入れられやすい。ヨガも「イライラしなくなるから、子どもに優しくなれる」という理由づけがつけば通りがよくなる。逆に、絵を描くこと、一人で映画館に行くこと、意味のない街歩きをすることは、家族の利益に接続する説明が作りにくいぶん、同じ時間・同じ金額でも重く感じられやすい。ヘイズが描いた自己犠牲の規範に照らせば、これは筋が通っている。趣味が家族への貢献として翻訳できるなら、それは自己利益の主張ではなく献身の一形態として処理できるからだ。
この構造は、0円趣味という発想の裏にもう一つの罠を仕掛けている。0円で始めやすい趣味として挙げられる散歩や片付けは、しばしば「気分転換すれば家族にも優しくできる」という家族貢献の物語に回収されやすい。だが、その回収のされやすさこそが、選ばれた本当の理由かもしれない。純粋に自分のためだけの、家族の利益に一切接続しない時間の使い方――それこそが本来問われているはずなのに、家族貢献の物語に乗せやすい活動だけが「実際に続いている0円趣味」として紹介される。これでは、自己利益を主張してよいかという問いに向き合わないまま、また別の形で自己犠牲の物語をなぞっているにすぎない。
0円が説明できるのは、罪悪感のごく一部にすぎない
ここで少し立ち止まって、0円という条件がなぜこれほど説得力を持つように見えるのかを考えてみたい。支出は数字で示せる。レシートを見せれば、家計にどれだけ影響したかを誰にでも証明できる。時間の専有はそうはいかない。「今日は自分のために30分使った」という事実には、それを裏づける明細書がない。だから罪悪感を鎮めようとするとき、人は測れるもの、つまり金額のほうに手を伸ばしやすい。0円趣味という発想が繰り返し提案されるのは、それが効くからというより、それが検証しやすいからではないか。支出をゼロにしたという事実は目に見えて確認できるが、時間を専有したことへのわだかまりが晴れたかどうかは、本人にしかわからず、しかも本人にすらはっきりしないことが多い。見えるものを操作して、見えないものが解決したことにする。これは家計管理としては合理的でも、心理の説明としては筋違いである。
趣味を小さく保つこと自体が、罪悪感の作用かもしれない
もう一つ、あまり指摘されない点がある。0円で続けられる趣味として挙げられるものは、たいてい規模が小さい。散歩、読書、片付け、耳を澄ませること。どれも数分から十数分で切り上げられ、途中で誰かに呼ばれてもさほど惜しくない。これは単に「お金がかからないものを選んだ結果」ではなく、「中断されても壊れない程度の規模に、あらかじめ趣味を縮めておいた結果」だと見ることもできる。マッティングリーとビアンキが描いた「汚染された時間」の中で生きている限り、大がかりな趣味――長時間の没入を要する創作や、遠出を伴う活動――は選びにくい。中断される可能性を織り込んで、最初から小さくしておくほうが安全だからだ。
だとすれば、0円という条件と規模の小ささは、別々の選択ではなく同じ根から生えている可能性がある。金額を切り詰めることと、野心を切り詰めることは、どちらも「これくらいなら許されるはずだ」という自己交渉の産物だ。数分で終わる0円の趣味を勧める記事は、その自己交渉の結果をそのまま追認しているにすぎず、なぜ最初から交渉が必要だったのかには触れない。趣味の規模を小さく保つことそのものが、罪悪感がすでに機能してしまった痕跡だとしたら、規模の小ささを称賛する語り口は、痕跡を指して「これでいい」と言っているようなものである。
罪悪感は、行動を減らす方向にしか働かない
罪悪感が自己改善のきっかけになる、という理解は一部では正しい。何か悪いことをしたと感じ、それを埋め合わせようとする。これは罪悪感の建設的な側面だとされる。だが、この理屈がそのまま母親のセルフケアに当てはまるとは限らない。心理学者シンディ・ミラーとシェイリン・ストラカンが2020年に発表した、143人の母親を対象とした研究では、自己への思いやり(セルフ・コンパッション)の水準が高い母親ほど、運動や食事、睡眠といった健康行動をよく実践する傾向が確認された。しかしこの関係は直接つながっているわけではなく、「健康行動のために時間を取ることへの罪悪感」が間に挟まっていた。自己への思いやりが罪悪感を弱め、弱まった罪悪感がようやく行動の実践を後押しする、という間接的な経路である。逆に言えば、罪悪感が強いままだと、自分を大切にしたいという気持ちがあっても行動には至らない。
もう一段、意外な事実がここにある。同じ研究グループのケイリー・シンプソンらが2022年に発表した111人の母親を対象とした調査は、単に「自己への思いやりが足りない」ことを問題にしたのではない。「自己への思いやりそのものを恐れる」という心理特性を、独立に測定したのである。自分を思いやろうとする場面を想像すると不安になる、あるいは危険だと感じる――この「fear of self-compassion(自己への思いやりへの恐れ)」の得点が高い母親ほど、健康行動を優先する自分を想像したときに「恥ずかしい」「無責任だ」「不安だ」という形容詞を強く選んだ。相関係数はおよそ0.29から0.35で、決して弱い関連ではない。つまり一部の母親にとって、自分を大切にすることは単に後回しにしているのではなく、それ自体が「やってはいけないこと」として警報を鳴らす対象になっている。0円の趣味を勧める善意の記事は、この警報装置の存在をそもそも前提にしていない。
0円という条件は、何を免除しているつもりなのか
ここまでの材料を並べると、「0円だから気にしなくていい」という助言が実際に免除しているのは、家計への影響という、そもそも罪悪感の主因ではなかった部分だけだとわかる。免除されていないのは、時間を自分のために専有すること、それ自体への抵抗感だ。この抵抗感は内面化された母親規範から生まれ、手厚い育児支援政策の下でも消えず、実際の自由時間の質によって裏づけられ、罪悪感の性差によって強化され、場合によっては自己への配慮そのものへの恐れにまで育っている。金額は、この構造のどこにも登場しない。0円という条件は、いわば的外れな場所に置かれた安全弁のようなものである。安心はできるが、圧力そのものは別のところにかかり続けている。
安全弁は、別の場所についている。
ここでもう一つ、指摘しておきたい捻れがある。0円という条件の代わりに、しばしば持ち出されるのが「先に家事を全部済ませてから」という条件だ。支出をゼロにする代わりに、労力という対価をあらかじめ払っておけば、そのあとの時間は後ろめたさなく使えるはずだという理屈である。だがこれもまた、同じ勘違いの変奏にすぎない。家事を先に片づけることは、支出をゼロにすることと同じく、交換可能な資源を操作しているだけで、自己利益を主張してよいのかという問い自体には触れていない。実際、洗濯も掃除も終えたはずの夜に、なお本を開く手が止まる母親は珍しくない。対価はすでに払い終えているのに、罰金だけがまだ残っているような感覚である。交換で買えるのは免罪符ではなく、単なる時間の空白でしかない。
誤解のないように言っておくと、これは0円の工夫そのものを否定する話ではない。ストリートビューで知らない街を歩くことも、家事の合間に雨音を意識して聴くことも、図書館で普段選ばない棚から一冊借りることも、それ自体に問題はない。問題があるとすれば、それを「罪悪感の治療法」として売り込む語り口のほうだ。0円だから正当化される、という説明の仕方は、罪悪感の出どころを勘違いさせたまま、当面の不安だけを鎮めてしまう。鎮痛剤としては機能するが、原因には触れていないのである。
後ろめたさを消す方法を提示するつもりはない
ここまで読んで、罪悪感の正体がわかったのだから、それを解消する方法を教えてほしいと思う人もいるかもしれない。だが、それをやってしまうと、皮肉っている対象――根拠のない断定を配って回る態度――そのものになりかねない。ヘイズが指摘した規範は数十年かけて社会に根を張ったもので、記事を一本読んだところで書き換わるようなものではないし、コリンズが示したとおり、手厚い制度をもってしても完全には消えない。ボレッリらが観測した性差も、ミラーとストラカンが見つけた罪悪感の媒介効果も、個人の意志の弱さの証拠としてではなく、構造の証拠として読むべきものだろう。構造の問題を、個人の対処法にすり替えて解決したことにする。それこそが「0円趣味のすすめ」という語り口が、意図せずやってしまっていることに近い。
あえて言えることがあるとすれば、後ろめたさを感じている自分を、意志薄弱だとか自己中心的だとかいう物語に回収しないことくらいだろう。ただし、これも解決策の提示ではない。回収しないという構えを取ったところで、後ろめたさそのものが消えるわけではないし、この文章を読んだ翌日から何かが軽くなるという保証もない。せいぜい言えるのは、罪悪感の出どころを取り違えたままでは、対処のしようもないということだけだ。そして0円という条件は、その取り違えを正すことには、まったく寄与しない。
支出の記録をつけることは簡単だ。今日いくら使わなかったかは、家計簿アプリが自動で計算してくれる。だが、頭の中でどれだけ「保育園から電話が来るかもしれない」と身構え続けていたか、趣味の規模をどれだけ自分で切り詰めていたか、家族への貢献として説明できない時間をどれだけ避けていたかは、どのアプリも記録してくれない。記録されないものは、なかったことにされやすい。0円趣味という語り口が居心地よく響くとすれば、それはこの記録されない部分を、記録できる部分の話にすり替えてくれるからだろう。すり替えに気づいたところで罪悪感が消えるわけではないが、少なくとも、間違った場所を掃除して満足するような無駄は避けられる。
出典
- ヘイズ(1996)『The Cultural Contradictions of Motherhood』Yale University Press
- コリンズ(2020)"Is Maternal Guilt a Cross-National Experience?" Qualitative Sociology
- バートラム=ザントフォートほか(2022)"Maternal Self-Conception and Mental Wellbeing during the First Wave of the COVID-19 Pandemic" Frontiers in Global Women's Health
- マッティングリー、ビアンキ(2003)"Gender Differences in the Quantity and Quality of Free Time: The U.S. Experience" Social Forces, 81(3)
- ピュー・リサーチ・センター(2013)"The 'Leisure Gap' Between Mothers and Fathers"
- ダミンジャー(2019)"The Cognitive Dimension of Household Labor" American Sociological Review, 84(4)
- ボレッリほか(2016)"Gender Differences in Work-Family Guilt in Parents of Young Children" Sex Roles
- ミラー、ストラカン(2020)"Understanding the Role of Mother Guilt and Self-Compassion in Health Behaviors in Mothers with Young Children" Women & Health
- シンプソン、セメンチャク、ストラカン(2022)"Put MY Mask on First: Mothers' Reactions to Prioritizing Health Behaviours as a Function of Self-Compassion and Fear of Self-Compassion" Journal of Health Psychology
