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結婚すると男は仕事ができるようになるのか——彼らは結婚の1年前に、すでに8.5%多く稼いでいた
結婚して責任感が出た、という趣旨のことを取引先に言われた。自分では、何も変わっていないつもりだった。米国の男性4,287人を追った研究では、既婚男性の17.7%の賃金の上乗せは、伸び方の違いまで取り除くと0.5%まで縮んだ。その違いから計算すると、彼らは結婚の1年前に、すでに8.5%多く稼いでいた。それでも双子で比べると、差は消えない。
20代の後半、システム開発の仕事をしていた。取引先は保険会社で、相手はその会社のシステム部の担当者だった。結婚したあと、その人に言われた。結婚して責任感が出た、仕事への取り組み方も態度も変わった、という趣旨のことを。
勤務時間は、結婚の前と変わっていない。通勤時間も同じだった。家事は夫婦で半々に分けていて、二人の収入もほぼ同じだった。配偶者が家のことを引き受け、私が仕事に打ち込む、という形でもない。それなのに、仕事への取り組み方は変わったと言われた。
今あらためて振り返っても、自分が変わったとは思えない。ただ、本人の「変わっていない」が、相手の「変わった」より信用できる理由も、あまりない。自分を毎日見ている者ほど、ゆっくりした変化には気づきにくいからだ。伸びていく子どもの背丈に、親より久しぶりに会った親戚のほうが先に気づくのと同じである。
だから、どちらの証言が正しいかは脇に置いて、外から確かめられることを確かめてみたい。結婚した男性は、本当に仕事ができるようになるのか。この問いには、経済学と社会学が長く取り組んできた。そして答えは、比べ方を変えるたびに、少しずつ違う顔を見せる。
既婚の男性は、たしかに多く稼いでいる
出発点の事実から始める。米国のデータを開くと、既婚の男性は未婚の男性より賃金が高い。研究者はこれを「男性の結婚プレミアム」と呼ぶ。2000年に出た結婚を擁護する本は、これを社会科学で最もよく確かめられた現象の一つ、とまで書いた(社会学者のフォルカー・ルートヴィヒとヨーゼフ・ブリューデルが、2018年の論文の冒頭でこの一文を引いている)。
大きさも小さくない。米国で1979年から30年以上、同じ人たちを追い続けている全国縦断調査(NLSY79)を使い、学歴や職歴、子どもの数などをそろえて比べると、既婚男性の時給は未婚男性より17.7%高い。ルートヴィヒとブリューデルが、4,287人、延べ49,801年分のデータから出した数字である。
しかも、差は給与明細の上だけにとどまらない。1988年、経済学者のサンダース・コレンマンとデヴィッド・ニューマークは、米国の大手製造業1社の人事記録を調べた(論文は1991年に専門誌に載った。以下の数字は1988年の作業論文版で確かめ、一部は公刊版でも同じだった)。対象は、1976年時点で管理職や専門職として働く白人男性である。既婚者の年俸は独身者より約12%高かった。入社2年以内の新人280人に絞ると、既婚者のほうが、上位2段階の評価をもらう確率が19.3ポイント高かった。新人全体の平均と比べて、46%増にあたる。
同じ人事記録には、もう一つ目を引く数字がある。職級をそろえて比べると、年俸の差は約12%から約2.5%に縮んだ。既婚者は、同じ仕事で多くもらっていたのではなく、高い職級にいたのである。
上司の評価が高い。言い換えれば、周りの人から「よく働いている」と見られている。半世紀前の、1社の記録ではある。評価したのも上司であって、取引先ではない。それでも、私が言われたのと似た向きの差が、記録として残っていたことにはなる。
なお、ここから先で比べるのは、ほとんどが賃金だ。賃金は仕事ぶりの粗い代理にすぎないが、何十年も同じ人を追えるのは、たいていこの数字しかない。
問題は、この差がどこから来るかだ。説明の候補は昔から三つに分かれている。一つは、結婚が本人を変えるという説明。責任感が生まれる、家庭の支えで仕事に集中できる、といった話である。二つ目は、もともと稼ぐ力のある男性ほど結婚しやすいという説明。結婚は差の原因ではなく、すでにあった差の目印にすぎない、という見方だ。三つ目は、本人は変わらず、周りの見る目だけが変わるという説明である。
私の経験に照らすと、一つ目の説明のうち、少なくとも一部は当てはめにくい。
家事が半々の家で
一つ目の説明の中でも、長く主役を務めてきたのは分業の話だった。妻が家事や育児を引き受けるので、夫は仕事に時間と気力を注げる。その結果、生産性が上がり、賃金も上がる。経済学者のゲーリー・ベッカーが体系化した、家庭内の専業化の考え方である。
この説明には、確かめやすい弱点がある。分業で夫が得をするなら、そのぶん家事を引き受けた妻のほうは、結婚で賃金が下がるはずだ。社会学者のアレクサンドラ・キルウォルドとマーガレット・ガフは2013年、同じNLSY79の男女について、これを確かめた。子どものいない人に限って同じ人の結婚前後を比べると、結婚による賃金の上乗せは、男性で7.3%、女性でも3.7%だった。女性の側も、下がるどころか上がっていたのである。
男性の上乗せの一部は、たしかに働き方の変化で説明できた。本人と配偶者の労働時間を統制すると7.3%は5.4%に、さらに職の特性や勤続年数を加えると3.9%に縮む。結婚した男性は少し長く、少し条件のよい職で働くようになる、ということだ。ただし著者たちは、その裏で妻が賃金を犠牲にしているようには見えない、と書いている。同じ論文は、子どものいる人も調べている。子どもが2人以上いる場合、既婚の父親は、未婚の父親より賃金の上乗せが大きかった。一方で、母親の賃金の下がり方は、結婚しているかどうかでほとんど変わらなかった。分業が原因なら、既婚の母親ほど大きく下がるはずである。著者たちは、母親の賃金の低下を家庭内の分業で説明する証拠は見つからなかった、と書いている。賃金で見るかぎり、分業の物語だけでは説明がつかない。
もう一つ、この論文には小さな注記がある。同棲していなかった男女では、結婚の前の年にも、賃金が他の未婚の年より高く出ていた。著者たちはこれについて、結婚そのものではなく、交際している状態の利点かもしれないし、賃金が上がった人があとから結婚しているのかもしれない、と書き、自分たちの推定は因果を過大に見積もっている可能性がある、と断っている。この「あとから結婚している」という読みは、次の節で主役になる。
そして私の家は、分業の物語が描く形ではなかった。家事は半々で、収入もほぼ同じ。勤務時間も通勤も変わっていない。配偶者が家のことを引き受けて自分が仕事に打ち込む、という典型の形ではなかった。残る候補は、責任感のような内面の変化か、もともとの差か、見る側の目か、ということになる。
では、二つ目の候補を確かめてみる。
結婚の前から、差は開いていた
「もともと稼ぐ力のある男性ほど結婚する」という説明を確かめる、いちばん素直な方法は、同じ人の結婚前と結婚後を比べることだ。他人と比べるから、生まれ持った差が混ざる。本人どうしで比べれば、その差は消える。
ルートヴィヒとブリューデルの推定では、こうして本人の前後を比べると、17.7%の上乗せは8.3%まで半減した。半分は、結婚とは関係のない、本人がもともと持っていた差だったことになる。それでも8%は残る。ここまでは、1980年代から多くの研究が同じような結果を出してきた。残った8%こそ、結婚が男性にもたらす何かだ、と考えられてきたのである。
先に挙げたコレンマンとニューマークも、この立場に近かった。同じ人の前後で比べると、結婚した直後の上乗せは小さい。だが二人は、結婚の恩恵が「誓います」と言った瞬間に手に入ると考える理由はない、と書いた。効果は結婚生活の中で少しずつ現れるはずで、年数を追えばそれが見える、という読みである。この読み方は、のちに問い直されることになる。
2018年の論文が新しかったのは、この先に進んだ点にある。同じ人の前後を比べても、消えないものが一つある。賃金の「水準」の差は消えるが、賃金が伸びていく「速さ」の差は残るのだ。
データを見ると、その速さは確かに違っていた。結婚した男性の賃金は、働いた1年あたり平均5%ずつ伸びていた。結婚しなかった男性は3%である。この5%には結婚後の伸びも含まれているので、二人は、結婚の効果を含めずに、二つの集団の伸び方の違いだけを推定し、賃金の軌跡を描いた。すると、将来結婚する男性は、結婚の前の年の時点で、すでに結婚しなかった男性より8.5%多く稼いでいた。結婚そのものの効果は、まだ一切入っていない計算である。比べた「結婚しなかった男性」には、観察が終わったあとで結婚する人も含まれうるので、著者たちはこの差を、実際より小さめの見積もりだと断っている。
エスカレーターで考えるとわかりやすい。上りの速いエスカレーターに乗った人と、遅いエスカレーターに乗った人がいる。速いほうの人が、途中の階で結婚する。結婚の前後で、遅いほうの人と上がった階数を比べると、結婚した人のほうが多く上がっている。けれど、それは結婚が押し上げたからとは限らない。もともと速いエスカレーターに乗っていただけかもしれない。前後の比較は、乗り始めた階の違いは消せても、上る速さの違いまでは消せない。結婚した階からエスカレーターが速くなった、という可能性も、もちろんある。それをどう見分けるかが、この先の問題になる。
そこで二人は、一人ひとりの伸びる速さまで個別に取り除く手法(個人別の傾きを許す固定効果モデル)を使った。結果、上乗せは0.5%になった。統計的には、ゼロと区別がつかない。17.7%、8.3%、0.5%と、取り除くものを増やすたびに、結婚の効果は小さくなり、最後にはほとんど消えた。著者たちは、結婚プレミアムという考えは捨てるべきだ、とまで書いている。
消えたのは、数字の大きさだけではない。前後を比べる普通の方法では、上乗せは結婚1年目の5.6%から、5年目に11.4%、11〜15年目には14.8%と、結婚生活が長くなるほど増えていく。結婚の効果が年を追って積み上がっていく形は、妻の支えが少しずつ効いてくる、という分業の物語にちょうど合うので、その証拠として扱われてきた。ところが伸びる速さまで取り除くと、結婚初期の上乗せはほぼゼロになり、5年目以降はむしろマイナスの側に振れた(ほとんどの時点で、統計的に意味のある差ではない)。年を追って積み上がって見えたものは、エスカレーターの速さそのものだった、という読みが成り立つ。もっとも、このマイナスは、結婚のあとに速くなった伸びを、モデルが本人の元からの速さとして吸い込んだときにも現れる形だ。著者たち自身は、勤続や職歴などの変数を統制したために、結婚がそれらを通じて及ぼす間接の効果まで差し引いてしまった可能性を挙げている。どの読みが当たっているかは、この数字だけでは決まらない。
日本のデータでは、同じ人の前後で比べた段階で、差が見えなくなっている。経済学者の佐藤一磨は2013年、慶應義塾家計パネル調査(2004〜2011年)を使って、パネルの期間中に初めて結婚し、そのまま結婚を続けた59歳以下の男性と、未婚のままの男性を比べた。単純に比べると、既婚男性の時給はやや高く出る(統計的には弱い差で、雇われて働く人に限ると、はっきりしない)。同じ人の前後で比べると、その差は消えた。対数時給の係数で言えば、0.075がマイナス0.020になり、統計的に意味のある差ではなくなった。結婚した人と、よく似た条件の未婚の人を組み合わせて伸びを比べる方法でも、上乗せは見つからなかった。ただ、使えた観測は2,000件に届かない。マイナス0.020という推定には、その値よりずっと大きな誤差(標準誤差0.064)があり、米国で残った8%ほどの差とも区別がつかない。「日本には結婚プレミアムがない」と証明されたのではなく、「同じ人の前後で比べたら、見つからなかった」と読むのが正確だろう。
ここまで来ると、取引先の担当者の観察には、別の読み方ができる。その人が見ていたのは、結婚によって起きた変化ではなく、20代後半の頃に、結婚とは別に進んでいた変化だったのかもしれない。たまたま結婚という目に見える出来事が重なったので、変化の理由がそこに結びつけられたのかもしれない。研究が追っているのは賃金の伸びで、担当者が口にした取り組み方や態度とは別のものだが、仮にそう考えると、担当者が見た変化と、結婚が私を変えたかどうかは、別の問いになる。変化そのものはあって、私が気づいていなかっただけ、ということもありうる。
話をここで終えられれば、きれいだった。
双子で比べると、差は消えなかった
生まれ持った差を消す方法は、ほかにもある。遺伝的にほぼ同じ一卵性双生児の片方が結婚し、もう片方がしていない組を探して、二人の賃金を比べればいい。育った家庭も同じだ。二人が共有している生まれつきや家庭の差が、結婚と賃金の両方を決めているのなら、双子の間では差が縮むはずである。
経済学者のケイト・アントノヴィクスとロバート・タウンは2004年、米国ミネソタ州の双子の登録を使ってこれを試した。結果は予想と逆だった。双子を区別せずに比べると、既婚男性の賃金は19%高い。それが双子の間で比べると、26%と出た。縮むどころか、数字の上ではむしろ大きい。二つの推定にはどちらも10%前後の誤差があるので、差が広がったとまでは言えない。少なくとも、消えてはいない。論文の題は「良い男は、みんな結婚しているのか」。著者たちの答えは否で、選抜ではほとんど説明できず、結婚の効果が残ると結論した。
ただ、この数字を支えている双子は多くない。条件に合う一卵性の男性の双子136組のうち、結婚の状況が二人で違っていたのは31組だけだった。この論文が紹介している、別の双子データを使った先行研究では、双子の間の差は6%で、誤差(標準誤差7.7%)のほうが大きかった(この数字は、アントノヴィクスとタウンの論文での紹介による)。26%と6%は離れて見えるが、どちらも誤差が大きく、矛盾するとまでは言えない。強い設計を使っても、数字はこれほど揺れる。
結論が揺れるのは、双子研究だけではない。結婚してまもなく子どもが生まれた、いわゆる「授かり婚」に目をつけた研究がある(作業論文版では、結婚後7か月以内の出産と定義している)。経済学者のドナ・ギンサーとマデリン・ザヴォドニーは、こうした結婚は、本人の稼ぐ力とあまり関係なく起きると考えた。授かり婚の男性にも、他の既婚男性と同じだけの上乗せがあるなら、上乗せは選抜では説明できないことになる。その1998年の作業論文版は、上乗せのかなりの部分は選抜による、と結論していた。ところが2001年に専門誌に載った版の要旨では、選抜で説明できるのは多くても10%だ、となっている。同じ題名の研究が、版を重ねるうちに逆の結論にたどり着いた。
どの設計にも死角がある。双子の比較は生まれつきの差を消すが、同じ双子のどちらが先に伸び始めたか、という差は消さない。個人ごとの伸び方を取り除くモデルは、その差まで消せる。代わりに、結婚が賃金の伸びる速さそのものを変える、という効果があった場合、それも一緒に差し引いてしまうおそれがある。どこかを消せば、どこかが残る。「全部が選抜だ」と言い切るのも、まだ早い。
評価をつけるのは、見る側だ
三つ目の候補、見る側の目に移る。
先ほどの製造業の人事記録には、続きがある。入社2年以内の新人280人では、既婚者の昇進の確率が、独身者より10.5ポイント高く出た。この差は、統計的に有意とは言えない。上司の評価をそろえると、1.0ポイントまで縮む。既婚者ほど評価が高く、評価が高いほど昇進しやすかった、という二つの結びつきが重なっていた、というところまでが読める範囲だ。
では、その評価は何を映していたのか。仕事ぶりそのものか、「既婚」という情報か。コレンマンとニューマークの結論は、評価が生産性を映している、という仮定の上に立っている。二人は、上司が既婚者をひいきしている可能性は排除できない、と自ら書いている。評価の数字だけでは、本人の変化と見る側の目は区別できないのである。
区別するには、本人を変えずに、見る側に渡す情報だけを変えればいい。そうした実験がいくつかある。
よく引かれるのは、社会学者のシェリー・コレルらが2007年に発表した実験である。参加した学生に、同じ資格を持つ二人の応募者の書類を見せ、採用の評価をつけてもらう。違いは、親であることを示す記述だけだ。履歴書の「その他の活動」の欄が、片方はPTAの世話役、もう片方は近隣団体の募金係になっていて、人事担当者のメモには片方にだけ子どもの名前が書かれている。男性の応募者では、父親のほうが、同じ職の社員の何%より献身的に見えるか、という問いで平均78.5%(子どものいない男性は74.2%)、推奨される初任給で15万ドル(同14万4千ドル)と、高く評価された。能力の評価に差はなかったのに、数か所の書き込みで評価が動いたのである。
ただし、ここに小さな落とし穴がある。この実験では、比べた相手の子どものいない応募者も、書類には「既婚」と書かれていた。比べていたのは父親かどうかであって、結婚しているかどうかではない。この実験から、結婚の効果までは言えない。結婚だけを取り出して測るのは、それほど難しい。
結婚の有無そのものを操作した研究もある。ローザンヌ大学のパトリック・マクドナルドは2016年、スイスの人事の専門家500人あまりに、架空の履歴書を見せて賃金を見積もってもらう調査実験を行い、2020年に論文にまとめた。婚姻状況を含むいくつかの項目を、無作為に入れ替えてある。要旨には、既婚の男性に約2%高い賃金がついた、とある。本文の表に当たると、2%は会計担当という一つの職種での値で、職種をならすと約1%、人事アシスタントや建物管理人の求人では、はっきりした差は出ていなかった。
賃金ではなく、書類の段階を見た研究もある。2026年には、中国の大手求人サイトが2020年に婚姻状況の記入欄を削除した前後の、86万件を超える応募を分析した研究が出ている。まだ査読を経ていない段階の論文だが、欄を「非公開」にしていた応募者と比べると、欄がなくなったあと、「既婚」と書いていた応募者を採用担当者が候補者に挙げる、または履歴書を保存する率は8.6%下がり、「独身」と書いていた応募者では7.7%上がった(どちらも元の率に対する割合で、率そのものの差にすると2ポイント余り)。効果は男性で大きく、とくに35歳以上の独身男性で大きかった。学歴が高い、あるいは安定して雇われている応募者では、独身であることの不利は小さかった。
見る側の目は、あると考えてよさそうな結果がいくつかある。既婚というだけで、少し高く見積もられる。けれど賃金の見積もりで言えば、その大きさは1〜2%で、職種によっては差が見えなかった。入口の見積もりの差としては、小さい。それが評価や昇進を通じて積み上がるかどうかは、この実験からは分からない。中国の求人サイトの数字は、賃金ではなく書類選考での扱いの話なので、同じ物差しには載せられない。
長い目で見た賃金にも、見る側の目の跡ははっきりとは残っていない。ルートヴィヒとブリューデルは、雇い主が既婚者をひいきしているのなら、賃金は結婚の直後に一段上がるはずだ、と考えた。札が貼り替わった瞬間に、評価が切り替わるはずだからだ。伸びる速さを取り除いた推定では、目立った段差は見られなかった。この推定の誤差を考えると、1〜2%ほどの小さな段差なら見逃しうる。伸び方を個別に差し引く方法なので、先に書いた死角も同じように抱えている。言えるのは、見る側の目が、1割、2割といった大きな差を給与明細に刻んだ形跡はない、というところまでだ。
取引先の担当者のことを考える。その人は、私の上司ではなかった。担当者に私の仕事がどこまで見えていたのかは、決められない。もし見えていたものが限られていたなら、手持ちの情報、つまり「この人は結婚した」という知らせが、評価に入り込む余地は大きくなるだろう。これは推測にすぎない。先の求人サイトの研究で、学歴が高いか雇用の安定した応募者ほど独身であることの不利が小さかったことは、この見立てと矛盾しない。同じ研究では、30歳以下の応募者は、既婚と書いていた人でも独身と書いていた人でも、欄がなくなってほとんど差が出なかった。若い応募者には、婚姻状況は決め手になる信号ではなかったらしい。20代後半の私に、この種の札がどこまで効いたのかは、ここからは分からない。
責任感は、結婚のあとに増えたのか
最後に、一つ目の説明の残り、内面の変化を確かめる。担当者が使った言葉は「責任感」だった。心理学には、これにいちばん近い性格の物差しがある。几帳面さ、勤勉さ、責任を果たそうとする傾向をまとめた「誠実性」である。結婚で人が変わるなら、まずここに出るはずだ。
心理学者のユーレ・シュペヒトらは、ドイツの大規模な家計パネル調査で、2005年と2009年に同じ人が答えた性格の質問紙の結果を比べた。その間に結婚したのは、男女あわせて664人。平均年齢は34歳ほどだ。比べる相手は、同じ年齢でその間に結婚しなかった人たちだ。結婚した人の誠実性の変化は、その人たちの変化を上回っていなかった。差の推定値は、最初の測定のばらつき(標準偏差)を1としてマイナス0.102。通常の5%の境目を、わずかに外れる(p=.051。著者たち自身は、より厳しい1%を基準にしている)。向きで言えば、上回るどころか下回る方向だった(数値は、2011年に専門誌に載る前の版による)。なお、同じ分析では、結婚した人の外向性と開放性も、同じ年齢の人より下がっていた。外向性については、結婚のあと、同じ年齢の人並みの水準になった形だと著者たちは書いている。誠実性の他にも、動いた特性はある。
同じ年齢の人よりも誠実性がはっきり上がった出来事も、同じ分析の中にある。一つは、初めて仕事に就いたこと。もう一つは、離婚だった。結婚ではなく、離婚を経験した人のほうで、誠実性が上がっていた。逆に、子どもが生まれた人では、同じ年齢の人より誠実性が下がっていた(マイナス0.130)。親になれば責任感が増す、という通念とは反対の向きである。
この結果は「結婚に責任感を育てる力はない」という意味ではない。数年に一度の質問紙で測れる変化には限りがあるし、平均で変化がないことは、変わった人が一人もいないことを意味しない。人生の出来事と性格の関係をまとめた2024年のメタ分析は、要旨で、変化は確かにあるが小さい、とまとめ、効果が大きい側の出来事に結婚も挙げている。どの特性がどれだけ動いたのかは、要旨からは読み取れない。この記事で数値まで確かめられた大規模な調査は、この一件だけだ。その一件は、結婚して責任感が出るという物語を後押ししていない。
こうして並べると、賃金と誠実性に限れば、私の「何も変わっていない」という感覚に、データがはっきり反対しているわけではない。私の家は分業の典型の形ではなかった。米国の一つの推定では、伸び方まで揃えると、賃金の差はほとんど消えた。責任感に近い誠実性が、この調査で、結婚のあとに上がった形跡は見当たらない。その誠実性も、本人が答える質問紙で測ったものではある。冒頭で、本人の「変わっていない」が相手の「変わった」より信用できるとは限らないと書いた。同じ留保は、この物差しにもかかる。
それでも、担当者の言葉が間違っていたとは言い切れない。研究が示したのは、平均の話である。双子で比べた一つの研究は別の答えを出していて、決着はついていない。この記事が見てきたどの設計も、何かを消すと何かが残った。私一人の20代後半に何が起きていたのかを、外から判定する方法はない。本人の記憶にある「以前の自分」も、それほど確かな比較の相手ではない。
ラベルが変わった日
一つだけ、確実に変わったものがある。私についている「既婚」という札だ。
結婚した日を境に、私の仕事の中身は何も変わらなかったかもしれない。けれど、私を見る人の手元にある情報は変わった。その情報は、初めて書類を見る採用担当者の見積もりを、条件によってはわずかに動かしたという報告がある。すでに仕事で付き合いのある取引先の場面に、その数字がそのまま当てはまるわけではない。取引先の担当者は、結婚が生んだ私の変化を見たのかもしれない。結婚とは別に進んでいた変化を、結婚に結びつけたのかもしれない。結婚という知らせを通して、同じ私を見直したのかもしれない。そのどれだったのかは、当の本人にも区別がつかない。
似た言葉は、身の回りにいくらでもある。子どもが生まれて落ち着いたね。役職がついて顔つきが変わったね。言った側が見ていたのは、相手の変化だったのか、相手について新しく知った情報だったのか。人が「変わったね」と言うとき、変わったのは目の前の人なのか、それとも、その人に貼られた札なのか。
出典
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