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「手段が目的になる」を、1937年の心理学は職人気質の源として、1940年の社会学は官僚制の硬直として描いた

「手段が目的になる」を、1937年の心理学は職人気質の源として、1940年の社会学は官僚制の硬直として描いた

「手段と目的を取り違えるな」とよく言われる。だが1937年の心理学は、手段がそれ自体の目的に変わる過程を職人気質や生涯の関心が育つ道筋として描き、1940年の社会学は官僚制の硬直として描いた。クラッカーを食べると強くなる、という絵本を聞かされた幼児は平均3.1枚、何も聞かなかった子は9.07枚食べた。

TOMOAKI··仕事

若い頃、「手段と目的を取り違えるな」と言われるたびに、筆者は少し苛立っていた。口には出さなかったが、腹の中ではこう言い返していた。あなたにとっての目的は、別の誰かにとっての手段にすぎないではないか、と。

言い返したかったのは、こういうことだ。資料を作るのは会議のため、会議は意思決定のため、意思決定は事業のため。目的と手段は相対的で、ある段の目的は、一つ上の段から見れば手段になる。ここまでは誰もが認める。ところが「取り違えるな」という一言は、梯子のどこか一段を、黙って「本当の目的」に決めている。その一段がなぜそこなのかは、たいてい説明されない。

もう一つ、引っかかっていたことがある。会社から見れば、従業員の作業は利益のための手段だ。従業員から見れば、会社の経営は暮らしのための手段だ。どちらの梯子も、それぞれの視点の中では筋が通っている。重ねてみると、梯子は上に伸びるのではなく、輪を描いて元に戻ってくる。目的と手段は、階層というより循環なのではないか。

この疑問を、手がかりのある順にたどってみる。先に言っておくと、「手段が目的になる」という現象は、80年以上前に二つの側から論じられていた。一つは心理学の側から、もう一つは社会学の側から。しかも社会学の側の著者は、脚注で、二つが同じ現象を別の側から見たものだと書き残していた。

梯子は、どこで止まるのか

目的の梯子には終点が要る。この考えを倫理学の出発点に据えたのは、アリストテレスだった。『ニコマコス倫理学』の第1巻第2章の冒頭で、彼はこう論じている。私たちが何もかもを別の何かのために選ぶのだとしたら、その連鎖は果てしなく続き、欲求は空しく実りのないものになってしまう。だから、もしそれ自体のために望まれる目的があるなら、それこそが最高の善だろう、と。

原文は「もし〜なら」という条件の形をとっている。終点があることを証明したというより、終点がなければ困る、と言っているのに近い。

アリストテレスが最初というわけでもない。師の師にあたるソクラテスは、プラトンの対話篇『リュシス』の中で、すでに同じ遡り方をしている。何かを愛するのは別の何かのためで、それもまた別の何かのためで、と辿っていくと、どこかで「最初の友」に行き着かなければならない、と。梯子の終点を探す議論は、少なくとも二千数百年は続いている。

「取り違えるな」と言うときの頭の中の図は、だいたいこの形をしている。一番上の段を一つ決めないと、下の段すべての意味が宙に浮く、という図だ。

20世紀の哲学者ジョン・デューイは、1939年の小著『評価の理論』で、別の図を描いた。彼は「それ自体としての目的」という言い方を、自己矛盾した言葉だと退ける。目的は行動の外に固定された終点ではなく、行動しながら見通している「見通しとしての目的」であり、実際に達成された目的は、その先の目的の手段になる。目的と手段の区別は、物そのものの性質ではなく、時間の中での位置と関係で決まる。デューイはこれを「目的−手段の連続体」と呼んだ。

では、梯子は無限に続いてしまわないのか。デューイはこの反論を自分から取り上げ、こう答えている。目的の見積もりをどこで打ち切るかは、そのとき置かれている状況の必要が決める、と。筆者の例で言えば、雨漏りを直す人は、屋根を直すのは家を守るため、家を守るのは暮らしのため、と遡ってはいかない。天井の染みが広がらなくなれば、そこで考えるのをやめる。終点は梯子の上にあらかじめ置かれているのではなく、状況のほうから決まってくる。

アリストテレスの図が梯子なら、デューイの図は川に近い。ただ、ここで見た限りでは、どちらも、ある視点の中の、一人の行為者の話をしている。冒頭の疑問は、その視点を二つ以上並べたときに起きる。

会社の目的は、従業員の手段

会社の梯子では、作業が手段で、利益や経営が目的に置かれることが多い。従業員の梯子では、同じ作業の先に、別の目的が置かれることが多い。

内閣府の「国民生活に関する世論調査」は、働く目的を四つの選択肢から一つだけ選ばせる質問を置いている。2025年8月から9月の調査(郵送、有効回収2,938人)の確報値では、「お金を得るために働く」が63.5%で最も多かった。「生きがいをみつけるために働く」が13.1%、「社会の一員として、務めを果たすために働く」が10.7%、「自分の才能や能力を発揮するために働く」が7.1%と続く。

数字を読む前に、聞き方を確かめておく。答えたのは全国の18歳以上の日本国籍の人で、いま働いているかどうかは問われていない。一つしか選べないので、お金のためでもあり生きがいのためでもある人は、どちらか片方に数えられている。調査は2019年までの面接から、2021年に郵送へ切り替わっていて、内閣府自身が、面接の時代の数字と単純には比べないよう断っている。昔より増えた減った、という話はここからはできない。

四つの選択肢は、どれも「〜ために働く」の形をしている。働くことを何かの手段と見る点では、どれも同じだ。違うのは、その先に置かれた目的である。少なくとも、回答者の6割あまりが、お金という外の見返りを選んだ、とは言える。会社が事業の手段として数える働きを、答えた人の多くは、お金を得る手段として語っている。同じ働きが、二つの梯子に同時にかかっている。

社会学者のロバート・マートンは、のちに論文集に収めた版の官僚制論の、官僚制の構造を述べた最初の節で、この依存を短く書いている。働くには道具が要り、道具は組織の中にしかない。だから人は、生きるために働き、働くために道具を必要とし、道具を手にするために組織に雇われなければならない。物理学者がふつう自前のサイクロトロンを持たないのと同じだ、と。人が生産の道具との社会的な関係に左右されるというのは、もはやマルクス主義だけの考えではない、という文脈で書かれた段落だ。1957年の再録版にはあるが、1940年の原版にはない段落である。

マートン自身は、これを輪とは呼んでいない。彼が描いたのは、個人が組織に頼らざるをえない一方向の依存である。ただ、その依存を会社の側の梯子と重ねると、組織は人の作業を手段にし、人は組織を手段にして、手段の連鎖が両者のあいだを行き来する形になる。冒頭で感じた「輪」は、たぶんこの往復のことだった。ここは筆者の読みで、以下この記事で「輪」と言うときは、立場の違う者どうしが互いを手段にし合う、こうした往復を指す。あとで見る、帰化の申請を受け付けることで仕事を果たす役所と、市民権を求めて窓口へ来る申請者も、その一つだ。

輪があると言うだけでは、「取り違えるな」への答えにならない。輪の中にいる一人ひとりの内側で、手段が目的に変わることがあるからだ。それを正面から扱ったのは、マートンの1940年の論文より3年早い、心理学の論文だった。

船を降りても、海が恋しい

1937年、心理学者のゴードン・オルポートは、American Journal of Psychology誌に「動機の機能的自律」という論文を書いた。大人の動機は、子どものころの欲求から育ってくる。だが育ちきると、元の欲求から切り離され、それ自体で自分を支えるようになる。残るつながりは歴史の上のものであって、働きの上のものではない、というのが骨子だ。

証拠を並べる節の最初に、オルポートは何人かの人物を一息に挙げる。その先頭が元船乗りである。彼が海を好きになったのは、もともとは食べていくための仕事の一部としてだった。いまは、たとえば裕福な銀行家になっていて、元の動機はとうに消えている。それでも海への渇きは衰えず、むしろ強くなることさえある。

職人の例もある。腕のいい職人は、もう安定した暮らしも他人の称賛も、仕事の質にかかっていないのに、雑な仕事ができない。手抜きの建築がはびこる時代には、その几帳面さが損になることさえありうる。経済的にとうに安泰な実業家が、体を壊すほど働き、ときには貧乏に逆戻りする。かつては道具だった技術が、人を動かす主な動機になっている、とオルポートは書いた。

学生の例は、もっと身近だ。必修だから、親が喜ぶから、時間割の都合がいいから。そんな理由で取った科目に、しばしば気づけばのめり込み、ことによると生涯続けている。元の理由はすっかり失われ、手段だったものが目的になっている。

この考え方には先行者がいた。オルポートは、心理学者ウッドワースが1918年に書いた、仕組みがそれ自体の衝動になる、という言い方を引き継いでいる。そのうえで、同時代の心理学者マクドゥーガルの反論を受けて、一つ修正を加えた。完成して自動化した技能は、めったに自分では人を動かさない。歩くことも、話すことも、服を着ることも、たいていはそれ自体のためではなく、別の何かのためにする。一方で、車の運転を習いはじめた人には、腕を上げたいという衝動がはっきりある、とオルポートは書く。人を動かし続けるのは、まだ仕上がっていない技能、終わっていない課題のほうだという。芸術も、学問も、宗教も、愛も、完成することがない。だから続く。

この「終わっていない課題」の話は、ただの思いつきではない。オルポートは日常の例のあとに、当時の実験と臨床の研究を並べている。そこには、中断された課題のほうが完了した課題より記憶に残る、というツァイガルニクらの実験も入っている。手を止めた仕事が頭から離れない、という感覚を、当時の心理学はすでに実験で確かめようとしていた。

見落とされがちだが、オルポートの例は、明るいものばかりではない。必要に迫られて身についた倹約が、必要がなくなっても年とともに強まっていく守銭奴。由来を突き止めても消えない恐怖症。手段が目的になる仕組みは、熱中も、執着も、同じように生む。

マートンが描いた、官僚制の硬直

3年後の1940年、マートンはSocial Forces誌に「官僚制の構造とパーソナリティ」を発表した。官僚制が回るには、規則にきちんと従う行動が欠かせない。そのために組織は、規律を重んじる気持ちを植えつけ、強める仕組みを持つ。その気持ちは、しばしば技術的に必要な分より強くなる。マートンはこれを、橋の支えを設計する技術者が見込む余裕のような、いわば安全率だと書いた。年功による昇進、年金、少しずつ上がる給料といった経歴の仕組みも、規律に従う行動への誘因として組み込まれている。そして、従う見込みを高めるその同じ仕組みが、規則を厳密に守ることへの過剰な関心も生む、とマートンは続ける。

ところが、その強めの気持ちは、組織の目的から、規則の細部へと移っていく。もともと手段として考えられた規則の遵守が、それ自体の目的に変わる。マートンはこれを、よく知られた「目標の転移」の過程と呼び、引用符つきで、道具としての価値が究極の価値になる過程だ、と添えた。引用符の句そのものの出典は示されていない。少なくとも、新しい名前をここで作ったという書き方ではない。彼が力を注いだのは、それが官僚制の中でどう起きるか、のほうだ。行き着く先が、自分を縛る規則を一つも忘れず、そのせいで多くの客を助けられない「官僚の名人芸」である。1957年の再録版では、この部分に「官僚制の逆機能」という見出しが付いている。組織を回すための仕組みが、組織の働きを損なう側に回る、という意味の言葉で、1940年の原版にこの語はまだない。

マートンが引いた実例が、ノルウェー出身の飛行士バーント・バルケンの件だ。バードの南極探検で、南極点の上空を飛んだ操縦士である。1931年6月のシカゴ・トリビューン紙の記事によれば(マートンは、法学者サーマン・アーノルドの1935年の著書から引いている。日付は版によって21日とも24日とも読める)、彼は米国の市民権を得られなかった。5年間続けて米国に住む、という条件を満たしていない、というのが当局の判断だった。

南極探検の期間、彼は米国旗を掲げた船に乗り、米国の探検隊の欠かせない一員として、リトル・アメリカにいた。米国人が探検し、そこに住んでいたことを理由に、米国の権利が主張されている土地である。それでも帰化を扱う役所は、そこを米国の土地とみなすことは国際問題に踏み込むことになり、自分たちにその権限はない、とした。規則は守られ、規則が守ろうとしたはずのものは守られなかった。バルケンはその後、議会の特別な立法で市民権を得たと伝えられる。ただ、その年を1930年とする資料もあり、そうだとすると1931年6月の記事と順序が合わない。この点は、筆者には確かめきれなかった。

ここで、原版にも再録版にもある脚注11が効いてくる。マートンは、この過程はさまざまな場所で観察されてきたと書き、ヴントの「目的の異質発生」、ウェーバーの「結果の逆説」、マッキーヴァーの議論を挙げ、人間は手段を目的に変える能力が無限にある、というラスウェルの見方にも触れる。そして、この過程の心理的な仕組みを最も詳しく分析したのは、オルポートの1937年の著書『パーソナリティ』にある機能的自律の議論だ、と名指しする。オルポートは個人の動機の側から、自分は社会構造の側から見ている。二つは補い合う議論で、心理学と社会学をつなぐ概念の橋になりうる、と。

マートンの見立てに沿えば、元船乗りの海への渇きと、帰化の窓口の規則へのこだわりは、同じ過程の二つの顔ということになる。

評価を分けているのは、押しのけられたもの

ここから先は、筆者の読みである。

仕組みが同じなら、片方が職人気質や生涯の関心として語られ、片方が官僚制の硬直として語られる違いは、どこから来るのか。並べてみると、違いは手段の側にはない。目的になった手段が、ほかの何かの目的を押しのけているかどうかにある。

元船乗りが海に焦がれても、押しのけられる目的は見当たらない。帰化の窓口が規則にこだわると、バルケンの目的が押しのけられ、申請を受けて新しい市民を迎えるという、役所の目的と筆者が読むものも損なわれる。手段が目的になったこと自体は、どちらも変わらない。変わるのは、目的になったその手段が、ほかの誰かの目的を押しのけたかどうかだ。学生がのめり込んだ科目も、元船乗りと同じく、押しのけられる目的の見当たらない側に入る。

押しのけられる目的は、他人のものとは限らない。体を壊すまで働く実業家では、本人の健康が押しのけられている。必要がなくなっても強まる守銭奴の倹約は、筆者の読みでは、倹約で守るはずだった暮らしのゆとりそのものを押しのけている。職人の几帳面さも、本人の経済的な損になることがありうる、とオルポートは書いていた。手抜きの建築がはびこる時代、というオルポートの書き方からすると、安さと早さを求める頼み手とは、ぶつかることもあったはずだ。それでも職人気質が美点として語られやすいのは、押しのけられるのが主に本人の稼ぎで、住む人がしっかりした家を求めるという目的とは、ぶつからないからだろう。稼ぎにとどまらず健康まで押しのける実業家になると、美点とは言いにくくなる。押しのけられたのが誰の、どんな目的か。評価は、そこで分かれているように見える。

こう見ると、「手段と目的を取り違えるな」という言葉の中身が少し見えてくる。この言葉は、手段が目的になったこと一般を責めているのではない。何かの目的が押しのけられていることを責めている。それでいて、誰の目的が押しのけられたのかを言わずに、「取り違え」という、言われた側の勘違いの形で言う。

指摘が当たる場面は、二つあると思う。一つは、言われた側自身が、いま大事にしている目的を、自分の手段が押しのけているときだ。顧客のためと言いながら、資料の体裁を整えること自体が目的になっている。顧客という自分で置いた目的を、自分の手段が押しのけている。このときの「取り違えるな」には、言い返す言葉がない。もう一つは、言う側の目的が、実際に押しのけられているときだ。会社の目的が、働く人の中で目的になった手段に押しのけられることは、もちろんある。そのときに言うべきなのは「取り違えるな」ではなく、「その手段が、こちらの目的を押しのけている」のほうだろう。若い頃の苛立ちは、たぶん、後者を前者の言葉で言われることに向いていた。

では、手段と目的が一人の中で重なっているとき、振る舞いはどう変わるのか。ここで筆者の読みを離れ、測った研究と、それを束ねる理論のほうを見る。

「役に立つ」と言われたクラッカー

心理学者のクルグランスキやフィッシュバックらは、2018年の論文で、内発的動機づけを「手段と目的の融合」として捉え直した。ある活動がそれ自体の目的に見えている度合いを、内発性の度合いと呼ぶ考え方である。注意したいのは、著者たちがこの度合いを、動機の強さとは別の軸だとしている点だ。内発的だから強い、とは言っていない。

融合を強める条件として、著者たちは四つを挙げている。活動と目的が何度も一緒に現れること。活動と目的の結びつきが少なく、ほかと共有されていないこと。両者が似ていると感じられること。活動のすぐ後に目的が達成されること。オルポートの議論に、80年後、構造の言葉が与えられたように見える。

ところが、著者たちはオルポートの機能的自律を、自分たちの理論と両立しないものとして退けている。融合した活動の動機は、目的から借りているものにすぎない。目的とのつながりが断たれれば、動機はやがて消えていく。この「消去」を示す数多くの証拠と、機能的自律の考えは合わない、というのだ。著者たちが元船乗りを論じているわけではないが、この理屈を当てはめれば、海への渇きが続くのは、海がいまも彼の何かの目的とつながっているからで、自律しているように見えるだけ、ということになるだろう。同じ現象を扱いながら、手段が本当に目的から独り立ちするのかという点で、オルポートとクルグランスキらの見方は正面からぶつかっている。

二つ目の条件の裏側にあたるのが、同じ研究グループの「希釈効果」だ。チャン、フィッシュバック、クルグランスキの2007年の論文によるもので(筆者は本文を読めておらず、クルグランスキらとマイマランらの紹介による)、一つの手段に結びつく目的が増えると、それぞれの目的に対する手段の効き目が、弱く見えるようになる。クルグランスキらの紹介によれば、2007年の最初の実験では、有酸素運動が心臓病を防ぐうえに骨も丈夫にする、と書かれた文章を読ませ、一つ目の目的への効き目を評価させている。マイマランとフィッシュバックも、筋肉をつけるのと痩せるのに役立つ運動、という例えで、同じ効果を説明している。一本で何でもこなす道具は、どれにも中途半端に見える、という感覚に近い。

この推論を幼児で確かめたのが、マイマランとフィッシュバックの2014年の論文である。舞台は米国イリノイ州エバンストンの、YMCAの保育施設。実験者が一人ずつ、タラという女の子が、遊びに行く前のおやつにクラッカーを食べる絵本を読み聞かせた。「健康」の条件では、タラはクラッカーを食べると強くなり、外で遊ぶ力がわく。「おいしい」の条件では、タラはクラッカーをおいしいと思い、うれしくなる。対照の条件では、話を読まなかった。そのあと、15枚のクラッカーが入った器を前にして、子どもが何枚食べるかを数えた。

4歳半から5歳半の66人のうち、食べたがらなかった子と気が散ってしまった子を除いた57人で、平均は次のとおりだった。

  • 「健康」の話:3.1枚
  • 「おいしい」の話:7.2枚
  • 話なし:9.07枚

「健康」は、ほかの二つより有意に少なかった。「おいしい」と話なしの差は、有意でなかった。タラが強くなる話を聞いた子は、話を聞かなかった子の3分の1ほどしか食べなかった。

2つめの実験では、3〜4歳の子どもたち(分析できたのは44人)に、クラッカーを手段として語る話と、手段として語らない話を聞かせて比べた。食べた量は4.67枚と10.00枚。手を開く幅で「どれくらいおいしかったか」を示してもらうと、手段として語られた子のほうが、小さく開いた。この「おいしさ」の差が、食べた量の差をつないでいた。ただし、顔の表情の絵を選ぶ聞き方など、ほかの二つの聞き方では差が出ていない。

役に立つ中身を変えても、向きは同じだった。ここから先の実験の比較相手は、話なしではなく、食べ物を手段として語らない版の話である。ニンジンを「読めるようになる」ための手段として語った実験では、木のおもちゃのニンジンで「何本食べたいか」を選ばせると、3.58本で、手段として語らない話の7.11本の半分ほどだった。「100まで数えられるようになる」と語った実験では、本物のニンジンを食べた量が7.58グラムで、比較相手の17.09グラムを大きく下回った。おやつのあとに学校へ行く話と寝る話の二通りで試した別のクラッカーの実験でも、二つを合わせて、手段として語った話で5.32枚、語らない話で10.78枚だった。

著者たちの解釈はこうだ。子どもは、何かの目的に役立つ食べ物は、そのぶん別の目的、つまりおいしさには役立たないはずだ、と推論する。希釈効果と同じ形の推論を、3歳から5歳半の子どもがしている。

面白いのは、2週間後である。1つめの実験で「健康」か「おいしい」の話を聞いた子のうち、教室にいた35人に、今度は話なしで同じ手順を繰り返した。「健康」の話を聞いていた子は、この子たちだけで計算した2週間前の3.18枚から、7.31枚に増えていた。「おいしい」の話を聞いていた子(7.86枚)と、差はなくなった。話を正しく覚えていたかどうかとも、関係がなかった。

食べる量を減らしたのは、知識として残ったものではなく、食べるその場で、目の前の食べ物が「何かのための手段」として語られていたことのほうだったらしい。ただ、著者たちはここに留保をつけている。今回の操作は、さりげない話を一度聞かせただけの弱いものだった。繰り返し聞かされれば、長く残る影響もありうる、と。家で毎晩「野菜を食べると大きくなるよ」と言われ続けた子どもについては、この実験は何も言っていない。

二つの動機は、掛け算にならなかった

クラッカーは数分の話だ。人生を左右する長さで、同じことは起きるのか。それを米陸軍士官学校、ウェストポイントの記録で調べたのが、組織行動学者のエイミー・レズネスキーと、心理学者のバリー・シュワルツらによる2014年の論文である(米国科学アカデミー紀要)。

出発点は、1997年から2006年に卒業する学年の入学者の記録で、論文は九つの学年、11,320人と数えている。入学時の調査には、ウェストポイントを選んだ理由を尋ねる項目が並んでいる。2003年卒は分析から外され(理由は、本文と補足資料とで書き方が違う)、全年度にそろっていた理由の項目から、著者たちは因子分析で六つのまとまりを取り出し、そのうち二つに注目した。陸軍の将校になりたい、指導者としての訓練を受けたい、その過程で自分を高めたい、という、活動そのものと切り離せない「内的な動機」。学校の評判、将来のよい仕事、高い収入、という、活動とは本来関係のない「道具的な動機」。そのうえで、4年から14年後の進路と照らし合わせた。

分析は、性別、年齢、人種、高校の成績、SATの点数、親の収入、宗教、卒業年度、ほかの種類の動機をそろえて行われている。結果は三つの進路で出ている。

  • 卒業して任官したか(10,239人を分析):内的な動機が強いほど任官しやすかった。そして、内的な動機が強い人ほど、道具的な動機が重なると任官しにくくなっていた。
  • 5年の義務服務のあとも軍に残ったか(7,663人):道具的な動機が強いほど、辞めやすかった。内的な動機が強い人では、この傾向が和らいでいた。
  • 早期昇進の候補に選ばれたか(6,162人):内的な動機が強いほど選ばれやすく、道具的な動機が強いほど選ばれにくかった。ここでも、内的な動機が強い人では、道具的な動機の害が小さかった。

二つの理由がそろえば、やる気は足し算か掛け算で強くなりそうなものだが、データの上ではそうならなかった。論文の題名は、この結果をそのまま言葉にしている。

細部を見ると、話はもう一段ねじれている。三つの結果の形は、同じではない。任官では、道具的な動機が内的な動機の効き目を削っていた。残留と昇進では向きが逆で、内的な動機のほうが、道具的な動機の害を食い止めていた。論文の要旨は、三つとも、内的な動機と良い結果との結びつきが、道具的な動機が重なると損なわれた、とまとめている。だが、表の交互作用の数字をそのまま読むと、残留と昇進では、道具的な動機が強い人ほど、内的な動機と良い結果との結びつきはむしろ強まっている。要旨のまとめがそのまま当てはまるのは、任官だけである。

さらに、任官の図を見ると、内的な動機が弱い人の線では、道具的な動機が強いほど任官の見込みがわずかに上がって見える。著者たちはこの部分を別に検定しておらず、補足資料では、内的な動機がどの水準でも道具的な動機は任官に負に働く形だと読んでいる。図の線どおりなら、軍人になりたいという気持ちの薄い若者にとって、評判や将来の収入が4年間を走りきる支えになっていた、という読みもできる。けれども、検定されていない線一本に、それ以上の重みは載せられない。調整する前の素朴な比較で、任官した人のほうが道具的な動機の点数をわずかに高く持っていた(差は標準偏差の1割に満たない)ことも、この読みの裏づけにはならない。全員の平均の話で、気持ちの薄い人に限った話ではないからだ。

確かに言えるのは、「損得で動くな」という一言で片づけるには、三つの結果の形がそろっていない、ということくらいである。

もう一つ、意外な結果がある。学費がかからない、経済的な援助がある、という「いまの経済的な必要」をまとめた理由は、軍に残ることとも、早期昇進の候補になることとも、良い方向に結びついていた。任官とは関係が見られなかった。損得そのものがいけない、という単純な話ではないらしい。悪い方向に結びついていたのは、評判や将来の収入のほうだった。著者たちはこの因子も道具的な動機の一種に数えたうえで、将来の見返りではなく、いまの経済的な必要に根ざしたものだと説明している。この結果は本文の一文で報告されるだけで、深くは論じられていない。

著者たちは、結果と動機を区別するよう求めている。勤勉な学生は学び、成績もよい。医師は苦しみを和らげ、収入も得る。道具的な結果は、人間のほとんどの営みについて回る。だからといって、その活動をする人が道具的な動機も抱えているとは限らない。結果は消せないが、一部の結果が動機にならないように、活動を組み立てることはできる、と。そのために、組織の目的を小さく繰り返し思い出させること、報酬を誘い水として前面に出さないこと、働く人が仕事の中身を自分で形づくれる余地を残すことを挙げている。ただし、これは推測だと、著者たち自身が断っている。

誰を測った数字か

ここまでの材料は、確かさの程度がまちまちだ。

オルポートとマートンの論文は、どちらも、手段が目的になる過程を何かの尺度で測ったものではない。オルポートは日常の例に、当時の実験や臨床の知見を重ねて論じ、マートンの実例は新聞記事の孫引きだった。二人が同じ現象を見ていたというのは、マートン自身の脚注による見立てであって、何かを測って確かめた結論ではない。脚注11、安全率の比喩、目標の転移、バルケンの件は、1940年の原版と1957年の再録版の両方で確かめた。道具と雇用の段落と「逆機能」の見出しは、再録版にしかない。アリストテレスとデューイは、哲学の議論である。

クラッカーの実験は、一つの保育施設の、3歳から5歳半の子どもたちで行われた。一つの実験の人数は40〜60人ほどで、食べた枚数のばらつきも大きい(「健康」の条件の標準偏差は3.25枚、話なしでは5.6枚)。食べ物が「役に立つ」と子どもがどう受け取ったか自体は測られておらず、おいしさも、手の幅のような子ども向けの聞き方で測られている。著者たち自身、年長の子どもでは違う結果になるかもしれない、と書いている。大人なら、おいしさが劣ると思っても、頭のためになるなら食べるかもしれない、とも。

ウェストポイントの研究は、人数も期間も大きいが、実験ではない。入学時の動機と、のちの進路の関連を見たもので、動機が進路を変えたとまで言い切れるものではない、と筆者は読む。データはもともと研究のために作られた調査ではなく、著者たち自身、「純粋に内的な動機」を測る項目はなかったと認めている。入学後に動機がどう変わったかも、測られていない。そして対象は、米国の士官学校という、かなり特殊な組織の人たちである。

日本の働く人で、動機の種類とその後の職業経路を長く追った研究は、今回は見つけられなかった。内閣府の「働く目的」は、一つしか選べない意識調査で、動機の強さや組み合わせは分からない。この記事の数字が、読み手の職場にそのまま当てはまると考える理由は、いまのところない。

輪が閉じるとき

話を並べ直してみる。

目的と手段は、一人の視点の中では梯子に見える。立場の違う者を並べると、互いが互いの手段になって、輪ができる、と筆者は読んだ。輪の中の一人ひとりの内側では、手段が目的に変わることが起きる。オルポートはそれを職人気質や生涯の関心の源として、ときに執着の源として描き、マートンは、オルポートと同じ過程と見たものを、窓口の硬直として描いた。そしてマートンは、二つが同じ過程だと書き残した。

マートンがこの見立ての支えにしたオルポートの機能的自律は、80年後、クルグランスキらに、消去の証拠と合わないとして退けられた。手段は本当に目的から独り立ちするのか、それとも目的とのつながりが見えにくくなっただけなのか。この争いに、この記事は決着をつけられない。ここからは筆者の読みになる。目的に見えている手段が何を押しのけているか、という問いは、それが本当に自律しているかどうかとは別に立てられる。窓口の側については、マートン自身が、経歴の仕組みが規則に従う行動の誘因になり、その同じ仕組みが規則へのこだわりの行き過ぎも生む、と書いていたから、もともと別の目的とのつながりを残した形で描かれていたとも読める。クルグランスキらは組織を論じていないが、彼らの理屈が正しければ、元船乗りの渇きも、どこかの目的と見えにくい形でつながったままのものになる。そのとき二つを同じ過程として並べる根拠は、マートンが脚注で名指しした「自律」から、つながりの見えにくさへと移る。マートンの見立てが、そのまま残るわけではない。

測った研究と理論が主に照らしているのは、輪の全体ではなく、その中の一つの結び目、つまり一人の中で手段と目的がどう結びつくかである。手段と目的が溶け合っている度合いが、内発性の度合いとして定義し直された。食べ物を「何かのため」と語ると、幼児はその場で食べる量を減らした(2週間後には戻っていた)。将校になりたくて入学した人のうち、評判や将来の収入も動機にしていた人は、任官しにくかった。もっとも、その結びつきの形は、任官と、残留や昇進とで同じではなかった。手段と目的の結びつき方と、人の振る舞いとのあいだに関係がある、という点では足並みがそろう。確かさの程度はそれぞれ違い、因果まで言えるものは実験の、それも短い時間の話に限られる。損得の動機の中でも、いまの経済的な必要のように、結びつく向きが逆のものもあった。

ここから先は、ふたたび筆者の読みである。輪そのものは、悪いものではないと思う。人が互いを手段として支え合うから、仕事は回る。危ういのは、輪の中のどこかで目的になった手段が、輪の相手の目的を押しのけはじめるときだ。窓口の規則が、窓口へ来た申請者の目的を押しのけたように。そうなると往復は、相手の目的に届くためではなく、往復の決まりを守るために回りはじめる。筆者はこれを、輪が閉じる、と呼びたい。

マルクスは『資本論』で、貨幣で商品を買い、それを売ってより多くの貨幣を得る、という循環を描き、そこでは貨幣が増えること自体が目的になり、その運動には限りがないと論じた。これは立場の違う者どうしの往復ではなく、一つの資本の運動である。とはいえ、手段だったはずの貨幣が目的になり、商品を使う人の目的とは関係なく、際限なく回り続けるという点で、閉じた輪とよく似た形をしている。

興味深いのは、その箇所の脚注でマルクスが引いているのが、アリストテレスだということだ。マルクスが引くところでは、アリストテレスは『政治学』で、暮らしに必要なものをまかなう家政の術と、貨幣を殖やす術とを分け、後者には目的の限りがない、と書いていた。『ニコマコス倫理学』で、果てしない連鎖を空しいものとして退けたのと同じ人である。二つの果てしなさは、厳密には形が違う。倫理学のほうは、手段の連鎖がどこまでも続くこと。政治学のほうは、目的そのものに上限がないこと。それでも筆者には、倫理学で退けられた果てしなさが、まっすぐ上に伸びる梯子ではなく、同じ場所を回り続ける循環の形で、政治学の中に戻ってきているように見える。

だとすれば、「取り違えていないか」と並べて、もう一つ問いを置ける。目的になったその手段は、輪の相手の目的を押しのけていないか。自分がいま大事にしている、ほかの目的はどうか。この問いは、言う側の梯子だけを前提にしない。押しのけられたのが誰の目的かを、言う側も言われる側も、同じ形で問えるからだ。

若い頃の苛立ちに、いまなら少し言葉を足せる。あなたが目的と呼ぶ一段も、誰かにとっては手段だ。それはそれとして、この仕事は、誰かの目的を押しのけていないか。

手段のつもりで始めたことが、いつの間にか目的になっていた経験は、誰にでも一つはあるだろう。それは誰かの目的を、あるいは自分がいま大事にしている目的を、押しのけていただろうか。それとも、何も押しのけずに、ただ続いていただろうか。

出典

  • Allport, G. W. (1937). "The Functional Autonomy of Motives." American Journal of Psychology, 50, 141–156.(元船乗り、職人、実業家、学生、守銭奴、恐怖症の例、ウッドワースへの修正、未完了の課題の実験)
  • Allport, G. W. (1937). Personality: A Psychological Interpretation. Henry Holt.(第7章。マートンの脚注11が参照している機能的自律の議論。本書そのものは未見)
  • Merton, R. K. (1957). Social Theory and Social Structure (revised ed.). Free Press.(「官僚制の構造とパーソナリティ」の再録版)
  • Merton, R. K. (1940). "Bureaucratic Structure and Personality." Social Forces, 18(4), 560–568.(1940年の原版と、Social Theory and Social Structure(1957)に再録された版の両方で読んだ。脚注11、バルケンの件、安全率の比喩、目標の転移は両方にある。道具と雇用の段落、「逆機能」の見出しは再録版にしかない)
  • Arnold, T. (1935). The Symbols of Government. Yale University Press.(バルケンの件を報じた Chicago Tribune 1931年6月の記事(日付は1957年版の脚注で21日、1940年版で24日と読める)は、マートンがこの本から引いたもの。本書と新聞の原記事は未見)
  • バルケンがのちに特別な立法で市民権を得た点は二次情報による(Canada's Aviation Hall of Fame の人物紹介、1999年の米上院議事録の追悼)。
  • Wundt, W. (1897). Outlines of Psychology(Judd 訳。原著 Grundriss der Psychologie, 1896)第24節(目的の異質発生。Judd 訳で確認)。ウェーバーの「結果の逆説」、マッキーヴァーの議論、ラスウェルの言葉は、マートンの脚注11による紹介で、原典は確認していない。
  • Woodworth, R. S. (1918). Dynamic Psychology. Columbia University Press.(オルポートが引く「仕組みが衝動になる」の出どころ。本書そのものは未見)
  • マクドゥーガル(McDougall, W.)の反論、ツァイガルニク(Zeigarnik, B., 1927)らの未完了課題の実験は、Allport (1937) の本文と脚注による紹介で、原典は確認していない。
  • Kruglanski, A. W., Fishbach, A., Woolley, K., Bélanger, J. J., Chernikova, M., Molinario, E., & Pierro, A. (2018). "A Structural Model of Intrinsic Motivation: On the Psychology of Means-Ends Fusion." Psychological Review, 125(2), 165–182.(掲載前の原稿で読んだ。オルポートの機能的自律を退ける議論も、この原稿による)
  • Zhang, Y., Fishbach, A., & Kruglanski, A. W. (2007). "The Dilution Model: How Additional Goals Undermine the Perceived Instrumentality of a Shared Path." Journal of Personality and Social Psychology, 92(3), 389–401.(本文は未取得。最初の実験の刺激は Kruglanski et al. (2018) の紹介、筋肉と減量の例えは Maimaran & Fishbach (2014) による)
  • Maimaran, M., & Fishbach, A. (2014). "If It's Useful and You Know It, Do You Eat? Preschoolers Refrain from Instrumental Food." Journal of Consumer Research, 41(3), 642–655.
  • Wrzesniewski, A., Schwartz, B., Cong, X., Kane, M., Omar, A., & Kolditz, T. (2014). "Multiple Types of Motives Don't Multiply the Motivation of West Point Cadets." Proceedings of the National Academy of Sciences, 111(30), 10990–10995.(本文と補足資料)
  • プラトン『リュシス』219c–d
  • アリストテレス『ニコマコス倫理学』第1巻第2章(1094a18–22)
  • アリストテレス『政治学』第1巻第8–9章(家政術と貨殖術。マルクスの脚注での引用で確認した)
  • Dewey, J. (1939). Theory of Valuation. International Encyclopedia of Unified Science, Vol. II, No. 4. University of Chicago Press.(第VI節 "The Continuum of Ends-Means")
  • マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章第1節「資本の一般的定式」
  • 内閣府「国民生活に関する世論調査」(令和7年8〜9月調査、確報)問17「あなたが働く目的は何ですか」。調査方法の変更についての注記も同調査の概要による。
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