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測れないものに価値がない、のではない
「計測できないものは管理できない」はデミングの逆の主張として広まった誤引用である。SMART目標やKPI崇拝の実害と、それが覆い隠しているものについて。
「測れないものは管理できない」という一文を、経営書やスライド資料で見かけたことのない人は少ないだろう。多くの場合、この言葉にはW・エドワーズ・デミングの名前が添えられている。品質管理の父であり、戦後日本の製造業に統計的手法を持ち込んだ人物の権威を借りて、この標語は数値目標の絶対性を裏付ける根拠として機能してきた。KPIを設定せよ、SMART目標を立てよ、達成度を可視化せよ——こうした助言の背後には、たいてい暗黙のうちにこの一文が控えている。測れるものだけが管理の対象になり、管理の対象になったものだけが価値を認められる。この三段論法は、あまりに自然に流通しているため、誰もその出どころを疑わない。
ところが当のデミングは、著書『Out of the Crisis』(1986年)の中で、これとほぼ正反対のことを書いている。「組織の経営に最も重要な数字は、不明であり、知り得ない」(19ページ)。同書はさらに、経営の「七つの致命的な病」の一つとして、目に見える数字だけに頼る経営を挙げている。可視化された数字だけで組織を動かすことそのものを、デミングは病理として名指ししていたのである。後年の著書『The New Economics』(1993年)では、この誤引用に対する反論がさらに直接的な形で残されている。測れなければ管理できないという考え方は「高くつく神話にすぎない」という一節がそれだ。デミングは終始一貫して、数値化への懐疑を手放していない。
この誤帰属がどう生まれたのかは、はっきりとは辿れない。おそらくは、統計的品質管理という手法自体が「測る」ことに関わるものだったため、その提唱者の名前と「測ることが正義である」という命題が、いつの間にか一体化してしまったのだろう。皮肉なのは、この誤引用自体が、計測崇拝という考え方がどれほど検証抜きで流通してきたかを、そのまま体現している点である。誰も原典に当たらないまま、権威の名前だけを借りて数値目標を正当化する——それこそが、この記事で扱う現象の縮図になっている。
もっとも、この標語が張り付けられる権威はデミング一人ではない。ビジネス書や講演では、同じ文言がピーター・ドラッカーの名で語られることも珍しくなく、いくつかのビジネス誌の記事すらこの誤帰属をそのまま踏襲してきた。だがドラッカーの思想を専門に検証するドラッカー・インスティテュートは、この定式化がドラッカー自身の著作のどこにも見当たらないと明言している。ドラッカーが『The Effective Executive』(1966年)で論じていたのは、知識労働の成果は単純な数量には還元できないという、むしろ逆方向の懸念だった。数値化への懐疑を説いた人物の名前が、数値化を正当化する標語の看板として使い回される——これはデミングの場合とまったく同じ倒錯である。
出どころをさらに遡ると、もう一段込み入った経緯が見えてくる。この標語の直接の起源とされるのは、経営学者V・F・リッジウェイが1956年に『Administrative Science Quarterly』誌に発表した論文「Dysfunctional Consequences of Performance Measurements」である。だがリッジウェイ自身がこの言葉遣いで語ったわけではない。コラムニストのサイモン・コーキンが2008年、英ガーディアン紙のコラムでリッジウェイの論旨を要約した一文がその実質的な初出とされる。「測るものは管理される――たとえそれを測り管理することが無意味であっても、組織の目的を損なうものであっても」。皮肉として書かれたこの一文のうち、後半の留保節だけが時とともに削ぎ落とされ、前半の「測るものは管理される」だけが独り歩きして広まったというのが、現在流通している標語の実態に近い。批判として生まれた一文から留保が失われ、断定の部分だけが生き延びて測定崇拝の標語に転じる――デミングの名を借りた誤引用とまったく同じ構造の伝言ゲームが、この言葉自体の成立過程にも重ねて起きていたことになる。
デミングが名指しした「七つの致命的な病」のうち、可視化された数字だけに頼る経営は一項目にすぎない。残りには、短期利益への過度なこだわりや、目標管理そのものへの批判も含まれている。数字だけを見て経営することが病だとされたのは、数字が嘘をつくからではない。数字は、それが切り取った範囲については正確でありうる。問題は、切り取られなかった範囲——顧客が製品をどう体験しているか、従業員が明日も働き続けたいと思えるかどうか——が、報告書のどこにも現れないまま、意思決定から静かに脱落していくことにある。デミングの懐疑は、統計そのものへの不信ではなく、統計が覆いきれる範囲についての見立ての甘さへの不信だったと読むほうが正確だろう。
目標を具体的にするほど、視野は狭くなる
数値目標そのものに実害があるのか、という問いに正面から答えた研究がある。オルドニェス、シュワイツァー、ガリンスキー、バザーマンによる2009年の論文「Goals Gone Wild」(Academy of Management Perspectives誌)である。この論文は、目標設定研究の分野で長らく前提とされてきた「具体的で挑戦的な目標ほど成果を高める」という定説に対し、その裏側で見過ごされてきた副作用を並べて見せた。狭い範囲への視野狭窄、リスク選好の歪み、非倫理的行動の増加、学習の阻害、組織文化の腐食、内発的動機の低下——これらすべてが、目標を数値化し、それを厳格に追わせることの帰結として整理されている。
論文が挙げる実例の一つが、シアーズの自動車修理部門である。同社は整備アドバイザーに対し、時間あたり147ドルという具体的な売上目標を課した。結果として起きたのは、不要な修理の水増しと過剰請求だった。当時のシアーズ会長エドワード・ブレナンは、この目標設定の仕組みが従業員に顧客を欺かせる環境を作ってしまったと後に認めている。目標が曖昧であれば起きなかったはずの不正が、目標を具体的にしたことによって、むしろ組織的に発生した。もう一つの例がエンロンである。同社の経営陣は、収益目標をほぼ完璧に達成し続けた——ただしそれは、間違った目標をほぼ完璧に追い続けた結果でもあった。バウシュ・アンド・ロムの従業員が収益目標を達成するために財務諸表を偽った事例も、同論文で扱われている。
これらの事例に共通するのは、目標そのものが不正を命じたわけではないという点だ。目標は達成された。問題は、目標の達成が、それが本来代表していたはずのもの——顧客の信頼、事業の健全性——から切り離れて独り歩きしたことにある。
もっとも、この論文が発表と同時に無風で受け入れられたわけではない。同じ号の同じ雑誌に、目標設定理論を長年主導してきたロックとレイサムが反論を寄せている。彼らの主張は、オルドニェスらが挙げた事例は「悪い目標の選び方」の失敗であって「目標設定理論そのもの」の失敗ではない、というものだった。引用の代表性や結果の報告の仕方についても異議が申し立てられている。この応酬をどちらが制したかを断定するのは、この記事の役割ではない。ただ、数値目標の効用を測る研究そのものが、当の学問領域の内部でさえ一枚岩ではないという事実は覚えておいてよい。目標設定を推奨する側にも、それを疑う側にも、それぞれの立場を支える相応の論拠がある。単純にどちらか一方を「科学的に証明された結論」として持ち出すことのほうが、両者の議論の厚みを裏切っている。
測定が目標になった瞬間に起きること
この切り離れを法則として定式化したのが、経済学者チャールズ・グッドハートである。1975年、イングランド銀行での経験をもとにした論文の脚注で、彼はある観察を残した。政府が特定の統計的規則性を制御の道具として使おうとした瞬間、その規則性自体が崩れるというものだ。後に「測定が目標になった瞬間、それは良い測定指標であることをやめる」という簡潔な形に整理され、グッドハートの法則として広まった。社会学者ドナルド・キャンベルも、1976年の論文「Assessing the Impact of Planned Social Change」の中で、独立に似た指摘をしている。ある定量的な社会指標が意思決定に使われれば使われるほど、それは腐敗圧力にさらされ、本来監視すべきだった社会的過程そのものを歪めていく、という主張だ。どちらの法則が先んじていたかについては議論があるが、両者が別々の分野から同じ現象に行き着いたこと自体が、この現象の普遍性を物語っている。金融政策の分析から出てきた法則と、社会実験の評価から出てきた法則が、業種も国も専門分野も異にしながら同じ結論に収斂したという事実は、この歪みが特定の組織や特定の産業の欠陥ではなく、測定という行為そのものに内在する性質であることを示唆している。
この法則が抽象論でないことは、イギリスの救急外来における事例が示している。2000年代初頭、当時の政権は救急外来の待ち時間を4時間以内に抑えるという目標を掲げ、達成できない病院には予算上のペナルティを課した。目標そのものは称賛に値するものだった。しかし現場で起きたのは、待ち時間の「時計」を止めるための工夫だった。患者を救急車の中に留め置いて受付前の状態にする、軽症患者を先に処理して統計上の達成率を稼ぐ、廊下のベッドに移した時点で「待機」の定義から外す——後の調査は、こうした操作が広く行われていたことを明らかにしている。数字の上では目標は達成されているように見えても、その裏で救急車の外待機は長期化し、重症患者の転帰は悪化していた。目標が測定を導いていたはずが、いつの間にか測定が目標を作り替えていた。
似た現象は、犯罪統計の世界でも報告されている。イギリスの警察活動をめぐる議会証言では、目標達成のために強盗を「その他の窃盗」に、住居侵入を「器物損壊」に分類し直す手口が、現場の文化として根づいていたことが指摘された。証言の中では、こうした操作が「カフィング」「ノディング」「スキューイング」「スティッチング」といった隠語で呼ばれていたことも語られている。犯罪が減ったのではなく、犯罪の数え方が変わっただけだったという疑いは、統計を疑う理由として十分に具体的である。標準化テストの点数を上げるために授業がテスト対策そのものに置き換わる現象も、教育の分野で繰り返し報告されている構図であり、根は同じところにある。
この種の歪みが最も血なまぐさい形で現れた例が、ベトナム戦争における「敵の死体数」だろう。当時の国防長官マクナマラは、企業経営で培った定量的な意思決定の手法を戦況把握にも持ち込んだ。戦争は消耗戦の関数であり、米軍側の戦死者数より敵側の死体数が多ければ、数学的には勝っている——この論理のもとで、現地部隊の評価は死体数の報告と直結させられた。数字の上では優勢が続いているように見えたにもかかわらず、戦局は好転しなかった。1991年のロサンゼルス・タイムズ紙が報じたところによれば、1977年に行われたベトナム従軍経験を持つ元陸軍幹部173人への調査で、61パーセントが死体数の報告は「著しく誇張されていた」と回答している。指標が実態を映す鏡である限りにおいて指標は有用だが、指標を上げること自体が任務の目的にすり替わった瞬間、鏡は割れる。これはグッドハートとキャンベルが別々の文脈で警告していたのと、まったく同じ構造の失敗である。
目標が理解の代わりを務め始める
ここまでの事例は、いずれも組織の外側、あるいは組織と社会との接点で起きる歪みである。目標が現場の行動を歪める話であり、統計を扱う担当者が上からの圧力に応じて数字を作り替える話でもある。だがもう一段深いところ、管理者本人の認知の内側で起きている現象がある。管理者自身が、指標を目標の「代理」として使っているうちに、指標の達成そのものを本来の目標だと思い込んでしまう現象だ。会計学ではこれをサロゲーション(surrogation)と呼ぶ。チョイ、ヘクト、テイラーによる一連の実証研究——2012年の『The Accounting Review』誌掲載論文「Lost in Translation」と、2013年の『Journal of Accounting Research』誌掲載論文「Strategy Selection, Surrogation, and Strategic Performance Measurement Systems」――が、この現象を実験的に確認している。
これらの研究が特定したメカニズムは、属性代替(attribute substitution)と呼ばれる認知の仕組みである。人は、複雑で捉えにくい対象——たとえば「この事業戦略はどれだけうまくいっているか」という問い——に直接答えることが難しいとき、無意識のうちにもっと手に入れやすい代替の指標——たとえば四半期の顧客満足度スコア——に答えをすり替えてしまう。しかも、この代替が起きたこと自体に本人が気づかない場合が多い。
チョイらは実験によってこの仮説を検証している。単一の指標だけに報酬を連動させた条件では、参加者はその指標の数値を最大化する方向に判断を寄せていき、指標が本来代表していたはずの戦略上の目的からは離れていった。複数の指標を組み合わせて報酬を設計した条件では、この乖離は明確に小さくなった。ただし、この結果を「指標を増やせば解決する」という処方箋として読むのは早計だろう。指標が複数になれば、今度はそれらの間でどうトレードオフを捌くかという、また別の判断が発生する。先述のリッジウェイが1956年の論文で、複数の測定指標を組み合わせること自体が、指標同士の対立や役割・価値観の衝突という、単一指標の場合とは別種の歪みを生みうると指摘していたことを思い出せば、複数指標はある一つの実験条件下で乖離を小さくしたというだけであって、それ自体が万能の対策として一般化できるわけではないと分かる。2013年の続く研究では、報酬設計とは別の変数——参加者自身が戦略の選定そのものに関わっていたかどうか——を操作し、関与していた条件では代理指標への依存が独立して弱まることを確認している。指標が判断を乗っ取るかどうかは、指標の数の多寡だけでなく、評価する側がその戦略の成り立ちにどれだけ手を触れているかにも左右される、ということになる。
ここで一つ、慎重に区別しておく必要がある。管理者が事業の本質を理解する自信の乏しさそのものが直接サロゲーションを引き起こすという因果関係を明示的に検証した研究は、今回確認できた範囲では見当たらなかった。確認できたのはあくまで、対象への直接的な理解が「アクセスしにくい」属性であるほど、より手近な代替指標への置き換えが起きやすいという、認知プロセスの一般的な傾向である。事業を深く理解していれば理解しているほど、指標がその代わりを務める必要は薄れる——この推論は成り立つとしても、それを裏づける直接の実証データを断定的に紹介することは避けたい。確認できた事実の範囲でとどめておくべき論点である。過剰な一般化は、ここで扱っている問題そのものと同じ失敗——手に入れやすい説明を、検証済みの結論であるかのように扱う失敗——を繰り返すことになる。
測れない資源は本当に存在するか
ここまでの議論に対しては、「では計測できない価値とは具体的に何なのか」という反問が当然に成り立つ。精神論に逃げずにこの問いに答えるとすれば、手がかりの一つは、哲学者マイケル・ポランニーが1966年の著書『The Tacit Dimension』で示した暗黙知の概念である。ポランニーは「われわれは語れるより多くを知っている」という一節で、人が明示的に言語化できない形で持っている理解のあり方を指し示した。顔を見分ける能力や、自転車の乗り方といった身体的な技能がその典型例として引かれるが、同じ構造は組織の中の専門性や判断力にも当てはまる。ベテランの技術者が「なんとなくおかしい」と感じる勘、長年の付き合いから生まれる取引先との信頼、危機の際に誰が誰を頼るかという組織内の暗黙の序列——これらは定義上、数値の列に落とし込むことが難しい。落とし込めないからといって、それらが経営資源として機能していないわけではない。
むしろ厄介なのは、これらの資源が失われるときの現れ方である。信頼や専門性は、失われつつある最中には数字にほとんど現れない。売上も、顧客満足度のアンケートも、しばらくの間は前年並みの水準を保ち続けることが珍しくない。ベテランが去り、暗黙の知見の継承が途切れ、現場の判断の精度が静かに落ちていく過程は、たいていの場合、四半期の指標が急落するよりずっと前から進行している。指標に異変として現れる頃には、失われた資源はすでに取り返しのつかない距離まで遠ざかっている。測れないものを軽んじる経営が痛い目を見るのは、たいてい指標が悪化してからではなく、指標がまだ健全に見えているうちに手を打ち損ねたあとである。
ただし、この論点を安易な精神論に流してしまうと、今度は逆方向の粗雑さに陥る。「数字より人の気持ちが大事だ」という主張は、それ自体もまた検証を経ていない標語であり、このサイトが警戒してきた根拠なき断定と同じ構造を持つ。暗黙知が実在するという主張と、暗黙知を理由にあらゆる説明責任から逃れてよいという主張との間には、埋めがたい距離がある。信頼や士気が定量化しにくいことは、それらについて何も語れないことを意味しない——語り方が、四半期のダッシュボードとは違う形式を要求するというだけの話である。
実際、暗黙知という概念自体が、計測不能性を免罪符として使うための道具ではないことは、ポランニー自身の議論の力点からも読み取れる。彼が問題にしていたのは「言葉にできないから存在しない」という科学的認識論の側の傲慢さであって、「言葉にできないから何をしても許される」という経営側の甘えではない。専門家の判断力や現場の勘は、外部から検証不可能なブラックボックスとして温存されるべきものではなく、むしろ徒弟的な訓練や長い観察を通じて他者に伝達され、緩やかに検証されていくべき性質のものだとポランニーは考えていた。計測できないことと、検証できないことは、同じではない。
測れないものではなく、測る力がないだけかもしれない
ここまでの糸をたぐり寄せると、一つの仮説が浮かび上がる。「計測できないものには価値がない」という言い切りは、実のところ「この価値を評価する能力が自分たちにはない」という別の事実の言い換えになっているのではないか、という仮説である。事業の本質的な価値を見極める判断力——それが技術の将来性なのか、顧客との関係の深さなのか、組織の暗黙知の厚みなのか——を自前で持っている管理者は、指標をあくまで参考情報として扱う余地を持つ。持たない管理者にとって、指標は判断の代わりを務める唯一の足場になる。目標が理解の代替物として機能し始めるという先述のメカニズムは、この構図とよく符合する。難しいのは、この仮説を個々の管理者の資質の問題として片づけてしまうと、話がまた別の単純化に転じてしまう点である。SMART目標もKPIダッシュボードも、単体では中立な道具にすぎない。それが判断の代替物として使われるか、判断を支える補助として使われるかは、道具そのものではなく、道具を扱う手の側の話である。
数値目標を疑うことは、数値目標を全廃せよという主張ではない。グッドハートもキャンベルも、測定そのものを否定してはいない。彼らが指摘したのは、測定が支配的な目標へと格上げされた瞬間に、測定と現実の間の対応関係が壊れ始めるという、もっと限定された現象である。デミングが「不明であり知り得ない数字」と呼んだものも、数字を放棄せよという意味ではなかった。むしろ彼は、知り得ない数字を勘定に入れながら経営することの難しさを、正面から引き受けようとしていた。
その難しさを引き受ける代わりに、測れるものだけを実在として扱い、測れないものを「価値がない」と切り捨てる方が、はるかに楽である。楽なやり方には、副産物として説明責任からの離脱という利点までついてくる。数字が悪化すれば数字のせいにできるし、数字に表れない部分の劣化については、そもそも管理の対象外だったのだから責任の問いようがない。楽さの側に流れた結果を、科学的な装いで正当化する言葉として、「計測できないものは管理できない」という誤引用ほど都合の良いものはなかったのかもしれない。この言葉を持ち出すとき、話者は自分がデミングという権威を引き継いでいると感じているだろう。だが実際に引き継がれているのは、デミングの見識ではなく、判断を先送りにするための便利な口実のほうである。判断を先送りにできる限り、その先送りが自分の理解の限界に由来するのか、対象そのものが本当に測れないのかを、誰も問わずに済む。冒頭で見た誤引用が半世紀近く生き延びてきたのも、おそらくこの便利さゆえだろう。
数値化できない事業の側面に向き合うには、それを扱えるだけの経験と語彙が要る。技術の将来性を見立てるには技術そのものへの理解が要り、顧客との関係の厚みを見立てるには顧客の現場に立ち会った時間が要る。そうした経験も語彙も持たないまま管理の立場に置かれた者にとって、ダッシュボードの数字は唯一頼れる足場になる。数字にすがること自体を責めるのは酷かもしれない。誰しも、自分の理解が届かない領域については、何か手近な足場が欲しくなる。だが、その足場のなさを「これが唯一科学的なやり方だ」という顔で語ることと、「自分にはこれしか読み取れない」と認めることの間には、はっきりとした差がある。前者を選び続ける限り、測れないものは永遠に「価値のないもの」の棚に置かれたままになる。棚に置かれたものが本当に無価値だったのか、それとも棚に並べる目を持たなかっただけなのか。その問いへの答えは、少なくとも指標のダッシュボードには出てこない。
出典
- Deming, W. Edwards (1986) “Out of the Crisis”
- Deming, W. Edwards (1993) “The New Economics”
- Drucker, Peter (1966) “The Effective Executive”
- Ridgway, V. F. (1956) “Dysfunctional Consequences of Performance Measurements”, Administrative Science Quarterly
- Caulkin, Simon (2008) コラム, The Guardian(リッジウェイ論文の要約として「測るものは管理される」の文言を広めたとされる)
- Ordóñez, Schweitzer, Galinsky, Bazerman (2009) “Goals Gone Wild: The Systematic Side Effects of Overprescribing Goal Setting”, Academy of Management Perspectives
- Locke, Latham (2009) “Has Goal Setting Gone Wild, or Have Its Attackers Abandoned Good Scholarship?”, Academy of Management Perspectives
- Goodhart, Charles (1975) “Problems of Monetary Management: The U.K. Experience”
- Campbell, Donald (1976) “Assessing the Impact of Planned Social Change”
- Choi, Hecht, Tayler (2012) “Lost in Translation: The Effects of Incentive Compensation on Strategy Surrogation”, The Accounting Review
- Choi, Hecht, Tayler (2013) “Strategy Selection, Surrogation, and Strategic Performance Measurement Systems”, Journal of Accounting Research
- Polanyi, Michael (1966) “The Tacit Dimension”
- Kempster, Norman (1991) “In This War, Body Count Is Ruled Out”, Los Angeles Times(1977年の元陸軍幹部調査の報道)
