ficus.life/趣味
目次▼
「私」の時間をどう使うか

「私」の時間をどう使うか

家事や育児を担う人にとって「自分の時間」がなぜ確保しにくく、確保できても罪悪感を伴うのか。メンタルロード研究や時間貧困論、余暇の質の男女差から考える。

TOMOAKI··趣味

「自分の時間を持とう」という助言は、家事や育児を担う人向けの記事で繰り返し目にする。趣味でも運動でも昼寝でもいい、とにかく自分のための時間を確保すべきだという主張は、一見すると穏当で、誰も反対しようがない。だが、この助言には奇妙な空白がある。なぜその時間が確保しにくいのか、確保できたとしてもなぜ心から楽しめないことが多いのか、その理由にはほとんど触れずに、ただ「確保しよう」とだけ言って終わるからだ。まるで、足りないのは意志の強さだけであるかのように語られる。

実際に足りないのは意志ではなく、時間の絶対量と、その時間の質の両方であることが、いくつかの研究から見えてくる。しかも、その不足は個人の性格や段取りの下手さに還元できるものではなく、家庭内での役割の分配そのものに根ざしている。この記事で扱いたいのは、「自分の時間」を持てないことの背後にある構造であって、それをどう捻出するかというハウツーではない。時間管理術の話は、たぶんこの記事のどこにも出てこない。

断っておくと、ここで扱う「家事労働の担い手」は専業主婦に限らない。共働きであっても、あるいはパートナーがいない一人親であっても、家事や育児、あるいは親の介護といった無償のケア労働を主に引き受けている人であれば、以下で紹介する研究の射程にほぼそのまま入る。むしろ、この問題を「主婦」という肩書きの話に矮小化してしまうと、フルタイムで働きながら家庭の運営もこなしている人たちの経験が、統計の外側に取りこぼされてしまう。役割の名前がどうであれ、頭の中で回り続けている工程表を持っているかどうかが、以下の話の分かれ目になる。

見えない労働という問題設定

家事や育児の負担を測るとき、真っ先に思い浮かぶのは皿洗いや洗濯といった物理的な作業だろう。だが社会学者アリソン・ダミンジャー(Daminger)が2019年にAmerican Sociological Review誌に発表した論文は、そこに別の層があることを指摘した。35組のカップル、70人への聞き取り調査から浮かび上がったのは、「次に何が必要になるかを予測する」「選択肢を洗い出す」「決定を下す」「進捗を監視する」という、四段階からなる認知的な労働だった。子どもの体調や園の申し込みの期限、冷蔵庫の中身の減り具合を頭の片隅で常に追跡し続けるような作業は、傍から見ても、本人にとってさえも「仕事をしている」とは認識されにくい。

皮肉なのは、この種の労働が可視化されにくいという性質そのものが、それを担う人の負担を軽くするどころか、かえって重くしている点だ。目に見える家事なら分担の交渉が可能だが、目に見えない予測と監視の作業は、そもそも交渉のテーブルに載らない。「今日の夕食は何にする」と尋ねられること自体が、すでに献立を考えるという認知労働が発生した後の産物であり、尋ねられた側は「一緒に決めている」つもりでも、決定の材料を集めて選択肢に絞り込むまでの工程はすでに終わっている。分担しているように見えて、実際には最後の一手だけを分けているにすぎない、という状況は珍しくない。

ダミンジャーの調査で興味深いのは、この認知労働が、パートナーとのいさかいの種になりやすいと報告されている点でもある。決定の段階はカップルの間でほぼ対等に分けられていたが、先を予測することと、進み具合を監視することは、女性に偏っていた。両者とも家事や育児に関わってはいるものの、片方は目に見える作業を担当し、もう片方はその作業がいつ・どのように発生するかを決める工程を担当している、という分業になっていても、当人たちがそれを仕事として数えにくい。見えない労働は、それを担う本人からも見えにくいという、二重の不可視性を抱えている。

母親71%、父親45%――これは、21項目の認知的家事タスクのうち、自分が主に担当していると答えた項目の割合の平均である。数字を示したのは、ダミンジャーと同じ問題意識を引き継いだバース大学のアナ・カタラノ・ウィークスと、メルボルン大学のリア・ルパナーの研究だ。2025年にJournal of Marriage and Family誌に発表した論文で、アメリカの親3000人を対象に尋ねた結果である。特に、毎日のように繰り返し発生する15項目に限ると、母親79%対父親37%まで差が開く。逆に、頻度が低く先送りできるタスク(設備の修理や家計の管理など)については、父親65%、母親53%と、父親のほうが高い。母親も、過半を自分の担当と答えている。

お金では解決しない、という報告

ここで一つ、「では稼げばいい」という発想を検証しておく必要がある。この疑問に取り組んだのが、同じウィークスらの研究チームが2025年にSocius誌に発表した別の論文だ。母親の就労状況や、母親自身の収入が、物理的な家事の負担や、認知的な家事の負担とどう関係するかを分析している。年収10万ドルを超える母親は、それより低い年収の母親に比べて、育児が30%、家事が17%少なかった(大学の発表による)。掃除や皿洗いのような目に見える作業は、お金で外部化できる面がある。だが認知的な負担、つまりメンタルロードに対しては、母親の就労や収入は、ほぼ何の効果も持たなかったと報告されている。論文はこの傾向を「ジェンダー化された認知的粘着性」と名づけた。稼ぐようになっても、外注するようになっても、「覚えておく係」「気にかけ続ける係」からは降りられない。

これは考えてみれば筋の通った話でもある。ハウスキーパーに頼めるのは掃除という作業そのものであって、「いつ頼むべきか」「どこまで頼むべきか」「今回の出来栄えは十分か」を判断し続ける仕事までは委託できない。ベビーシッターに預けている間も、子どもが今何をしているかを気にかけるのをやめられる親は多くない。お金は物理的な労働時間を買い戻すことはできても、頭の中で走り続ける監視プロセスまでは買い戻せない、ということになる。だとすれば、「稼げる趣味」や「自分への投資」といった発想で、まず経済的な余裕を作ってから自分の時間を取り戻そうとする戦略は、半分は正しく、半分は的を外していることになる。

大学の発表によれば、年収10万ドル超の父親は、そうでない父親より、習い事の手配のような、日々繰り返し発生するタスクへの関与が17%ほど多かった。収入が増えると父親は認知労働から遠ざかる、という図ではない。ただ著者たちは、その増え方は母親の負担を相殺するほどではない、とも書いている。稼ぐことは、父親を家の中の考える仕事に少し近づけるが、母親をそこから降ろしはしない。先に見た、母親の収入が認知的な負担を軽くしないという報告と、同じ方向を指す材料だろう。

お金について見たのと同じロジックは、育児短時間勤務やリモートワークといった、企業が提供する両立支援策にも、おそらく延長できる。時短勤務は、迎えに行く物理的な時間を確保する。リモートワークは、子どもの発熱時にすぐ対応できる体制を作る。だが、どちらの制度も、次に何が起こりうるかを予測し続ける作業そのものを免除してはくれない。むしろ、在宅勤務が可能になったことで「呼べば来られるはず」という期待値が生まれ、監視の解除どころか強化に働く場合すらあるだろう。もっとも、これは筆者の推測で、この種の制度が認知労働の負担をどう変えるかを直接測った研究を、ここで確認できたわけではない。制度が想定しているのは物理的な不在の解消であって、頭の中で走り続ける監視プロセスの解消ではない、という食い違いが、ここでも繰り返されているかもしれない。

時間そのものが足りないという話

認知労働の偏りとは別に、単純な時間の総量の話もある。女性は男性よりも週あたり約15時間多く働いている――社会学者アーリー・ホックシールド(Hochschild)が1989年の著書『セカンド・シフト』で示した、よく知られた試算だ。1960〜70年代の主要な生活時間調査の推定を平均した値で、有償労働・家事・育児の時間をすべて合算すると、そういう差が出る。これを1年分に積み上げると、24時間換算でまるまる1か月分の「余分な労働日」に相当する。ホックシールド自身は、共働きの50組への聞き取りも行っていて、出勤前と退勤後に、もう一つの職場——家庭——での勤務が待っているという意味で、これを「第二の勤務」と呼んだ。発表から30年以上が経ち、家事分担の意識は当時よりも変化しているはずだが、この非対称の骨格そのものが消えたと言い切れる根拠は、今のところ乏しい。

経済学者クレア・ヴィッカリー(Vickery)は、これより10年以上前の1977年の論文で、すでに「時間貧困」という概念を提示していた。彼女の論点は、貧困を所得だけで測ることの限界にある。生活を維持するには金銭的な資源だけでなく、家事や育児をこなすための時間という資源も必要であり、いくら世帯収入があっても、その時間が絶対的に不足していれば、その世帯は別の意味で貧しいという発想だ。この考え方はその後、政治学者ロバート・グッディン(Goodin)らが2008年の著書『Discretionary Time』で精緻化し、貧困線を超えるのに厳密に必要な分の有償労働・家事・身の回りの時間だけを差し引いた残余、つまり「自由に使える時間」を国際比較データから定量化する試みへとつながった。

その分析によれば、自由に使える時間の平均は国によって幅があり、国全体の平均で、フランスが週76時間あまり、スウェーデンが週85時間あまりという数字が示されている。世帯の種類による差も大きく、子どものいない共働き夫婦に比べて、一人親の世帯は週25〜42時間ほど少ない。分析した6か国のすべてで、女性は男性よりも自由に使える時間が少なかった。税と給付を考慮したあとの差は、フランスで週5.5時間、フィンランドで週3.26時間と、特に大きかったという。裏を返せば、家事や育児を担う人にとっての「趣味の時間がない」という実感は、単なる主観の問題ではなく、可処分時間という観点から見ても客観的に成立する現象だということになる。同書は、税と給付の仕組みによってこの数字が動くことも示しており、個人の工夫だけではどうにもならない部分が、そこにははっきりと存在する。

時間があっても、質が違うという話

余暇時間の「量」だけを見ると、実は男女差はそれほど大きくない――ここでもう一段、話をややこしくする、やや意外な結果がある。社会学者マイケル・ビットマン(Bittman)とジュディ・ワイチマン(Wajcman)が2000年にSocial Forces誌に発表した論文の報告だ。生活時間調査を並べると、総量としての自由時間は、性別によって劇的に違うわけではない。問題はその内実だという。二人が「汚染された余暇(contaminated leisure)」と呼んだのは、余暇の最中に家事や育児が同時に入り込んでいる時間だ。テレビを見ながら子どもの相手をする、というように、日誌に「同時にしていたこと」として記録されたものを数えている。その典型は育児だった。オーストラリアの1992年の調査では、こうした時間は、女性の余暇に多く見られた(週あたりの差は1.5時間ほど)。

同じ1時間の「自由時間」であっても、細切れで中断されやすく、他の役割の監視から完全には切り離されない時間と、まとまって連続し、何にも邪魔されない時間とでは、体験としての価値がまったく異なる。「時間はあるはずなのに、休んだ気がしない」という感覚の正体は、たぶんここにある。二人は質を三つの物差しで測った。余暇に家事や育児が同時に入り込んでいないか。余暇が何回に分かれ、途切れずに続いた最長の時間はどれだけか。子どものいない場で過ごせた余暇がどれだけあるか。オーストラリアの同じ調査では、女性の余暇は1日あたり平均7.4回に分かれ(男性6.3回)、途切れない純粋な余暇の最長は1.4時間(男性1.7時間)だった。ただし著者たち自身、親かどうかの差は男女差と同じくらい重要だ、とも書いている。単に「何をしていたか」を聞くだけの調査では、この違いは浮かび上がらない。時間の使い道が同じ「読書」であっても、集中して読めた読書と、10分おきに呼びかけに応じながらの読書とでは、まったく別の経験として記録されるべきだ、というのが二人の主張の核にある。

二人が数えたのは日誌に書かれた同時活動だが、筆者には、日誌に書かれない種類の汚染もあるように思える。それは、時間の使い方を工夫すれば解消できる種類のものではない、という点が厄介だ。スケジュール帳の空白を確保することはできても、その空白の間、頭の中で鳴り続ける「監視」のスイッチを自分の意志で切ることは難しい。皿洗いを交代しても、「洗い終わったかどうかを気にかけ続ける係」までは交代していない、というのが実態に近いのかもしれない。趣味の時間を確保する工夫として、家族に「この2時間は話しかけないでほしい」と宣言することはできる。だが、その2時間のあいだ、誰かが宣言を守ってくれているかどうかを気にかけている限り、監視は形を変えて続いている。宣言そのものが、また新しい認知労働の項目になってしまう、という入れ子構造がここにはある。

「趣味」が入口に選ばれる理由

この種の議論をするとき、なぜいつも「趣味」が入口に選ばれるのか、少し考えてみる価値がある。仕事のように成果を求められず、家事のように誰かに義務として課されているわけでもなく、しかも比較的小さく始められる——趣味は、構造の話を持ち出さなくても着手できる、数少ない領域に見える。だからこそ啓発記事は「まず趣味から」と勧める。だが、それはこの記事がここまで見てきた汚染や罪悪感の問題を回避できるという意味ではない。趣味が構造の外側にあるように見えるのは、単に趣味という営みの規模が小さいために、監視のコストも罪悪感も見えにくくなっているだけの話であって、実際には家事や育児の時間から予算を切り出しているという点で、趣味は構造のど真ん中に置かれている。

言い換えると、趣味は「自分の時間」の問題を解決する装置ではなく、その問題が最も先鋭化して現れる場面の一つにすぎない。仕事であれば、成果や締め切りという外部からの正当化が与えられているぶん、時間を使うことへの罪悪感は相対的に薄い。家事はそもそも義務だから、罪悪感の対象にすらならない。だが趣味には、そのどちらの外部的な正当化もない。純粋に自分のためだけに時間を使っているという事実だけが残る。だからこそ、趣味に費やす時間は、構造的な不均衡がもっとも露骨に自覚される場所になりやすい。趣味を持てない、あるいは持っても楽しめないという悩みの根が、趣味そのものの選び方にはなく、その手前にある時間の分配と認知負荷の分配にあるというのは、こうした事情による。

罪悪感という、もう一つのコスト

時間の量と質の問題に加えて、心理的なコストもあるのかもしれない。ウィークスら自身、母親に偏った認知労働が、ストレスや燃え尽きと結びついている可能性に触れている。ただし、休むことへの罪悪感や燃え尽きを測った研究を、ここで確認できたわけではない。ウィークスらの研究は、誰が主に担っているかを尋ねたもので、消耗や罪悪感は測っておらず、燃え尽きは今後の課題として挙げているにとどまる。以下は、研究が示したことではなく、筆者の推論である。

休むことへの後ろめたさは、個人の打たれ弱さの問題として片づけられがちだが、むしろ「その役割を担っているのは自分であるべきだ」という規範がどれだけ内面化されているかによって決まる、と考えることもできる。規範が内面化されていればいるほど、役割から離れる行為——趣味に没頭する、昼寝をする、一人で出かける——は、単なる休息ではなく、暗黙の義務からの逸脱として体験される。逸脱には罪悪感が付随する。休むたびに罰金を払っているようなものだと考えれば、「せっかくの休みなのに気が休まらない」という声にも説明がつく。

この理屈が正しいなら、罪悪感の強さは、外出や離脱の物理的な長さそのものよりも、規範をどれだけ内面化しているかという変数に強く連動しているはずだ。1時間の外出でも半日の外出でも同程度の後ろめたさを訴える人がいるとすれば、それは時間の長さの問題ではなく、規範の強さの問題だということになる。だとすれば、「短時間だけ席を外す」という妥協策では、罪悪感そのものはさほど軽減されない可能性がある。時間を削ることは、規範を変えることの代わりにはならない。

そう考えると、「罪悪感を持たずに自分の時間を取ろう」という助言は、狙いは正しくても、それだけで足りるかは疑わしい。罪悪感は、その人の心の持ちようだけから生まれているのではなく、認知労働の分配という構造と結びついているのかもしれない。構造を変えずに心の持ちようだけを変えようとするのは、水漏れしている蛇口を締めずに、床の雑巾がけだけを丁寧にするようなものだ。個人の努力でどうにかできる範囲には、もともと限界がある。

置き換えるべきは時間の使い方ではない

こう並べてみると、「自分の時間をどう使うか」という問い自体が、実はあまり良い問いの立て方ではないのかもしれない。使い方を工夫しても、使える時間の総量が構造的に少なく、しかもその時間の質が「汚染」されているなら、時間管理術は根本的な解決にならない。趣味を効率化するアプリも、朝活のすすめも、隙間時間活用術も、この構造そのものには触れない。せいぜい、狭い牢の中でどう身動きを取るかを工夫しているにすぎない。

かといって、この記事は「パートナーと家事を51対49で分担すべきだ」というような具体的な配分ルールを提案するつもりはない。目に見える家事の時間を機械的に折半しても、認知労働という見えない層まで含めて公平になるとは限らないことは、ここまで見てきた研究群が示唆している。誰が何をどれだけ「気にかけているか」までは、時間割では管理できない。この記事にできるのは、その見えなさそのものに名前を与えることまでだろう。名前がついた途端に問題が解決するわけではないが、少なくとも「自分の要領が悪いせいだ」という誤った説明に、これ以上付き合わなくて済むようにはなる。

もちろん、すべての家庭がこの通りの偏りを再現しているわけではない。ウィークスらの調査でも、項目によっては、「自分とパートナーで同じくらい」と答えた親がいる。ただし、父親のほうがそう答えやすい、というずれも報告されている。とはいえ、そう答える親がいることは、多数派に起きていることを打ち消す根拠にはならない。「うちは違う」という声が上がるたびに、統計上の偏りそのものがなかったことになるわけではないのと同じ理屈だ。個別の例外を積み上げて全体の傾向を否定するのは、議論としては手軽だが、手軽さの分だけ雑になる。ここで紹介した研究群は、あくまで平均的な傾向を扱っているのであって、特定の家庭の実態を予言するものではない。統計は個人を裁く道具ではなく、個人の経験がどれだけ孤立した特殊事情なのか、それとも社会に広く共有された構造の一断面なのかを見極めるための道具である。その線引きを間違えると、構造の問題を自分一人の能力不足として抱え込んでしまうことになる。

それでも、と言いたくなる話

それでも、と言いたくなる場面はある。構造がどうであれ、目の前の1時間をどう過ごすかは、依然として本人の裁量に委ねられている部分がある。ただし、その裁量を「自分の時間を持てているかどうか」の自己採点の道具にしてしまうと、また同じ罠に戻る。1時間趣味に使えたかどうかではなく、その1時間が、日誌には残らない形で汚染されていたかどうか——頭の片隅で何かを監視し続けていなかったかどうか——の方が、たぶん本質に近い指標なのだろう。

もっとも、その指標を測る簡単な方法を、この記事は持ち合わせていない。汚染の度合いを自分で正確に測定できるなら、その時点でもう半分は解決している。実際には、多くの人がその汚染に気づかないまま、あるいは気づいていても言語化する機会のないまま、「趣味の時間はあるはずなのに、なぜか楽しめない」という漠然とした違和感だけを抱え続けている。この記事にできたのは、その違和感に、もう少し正確な輪郭を与えることくらいだろう。持ち合わせていないことを、持ち合わせているふりで書き終えるのが、一番やってはいけないことだと思う。

出典

Daminger, A.(2019)"The Cognitive Dimension of Household Labor," American Sociological Review, 84(4), 609-633.(Crossref の抄録で確認。ASR の本文は未確認)
Weeks, A. C. & Ruppanner, L.(2025)"A Typology of US Parents' Mental Loads: Core and Episodic Cognitive Labor," Journal of Marriage and Family, 87(3), 966-989.(オープンアクセス版の全文で照合)
Weeks, A. C., Kowalewska, H. & Ruppanner, L.(2025)"Take a Load Off? Not for Mothers: Gender, Cognitive Labor, and the Limits of Time and Money," Socius: Sociological Research for a Dynamic World, 11.(抄録、著者らの一般向け解説、大学の発表で確認。本文は未確認)
Hochschild, A. with Machung, A.(1989)『セカンド・シフト』(原題:The Second Shift: Working Parents and the Revolution at Home)(全文検索で該当箇所を確認し、通読はしていない)
Vickery, C.(1977)"The Time-Poor: A New Look at Poverty," Journal of Human Resources, 12(1), 27-48.(書誌と概念は Crossref と JSTOR の冒頭で確認)
Goodin, R. E., Rice, J. M., Parpo, A. & Eriksson, L.(2008)Discretionary Time: A New Measure of Freedom, Cambridge University Press.(全文検索で該当箇所を確認。図の数値は未確認)
Bittman, M. & Wajcman, J.(2000)"The Rush Hour: The Character of Leisure Time and Gender Equity," Social Forces, 79(1), 165-189.(抄録と、1999年の前身の草稿(SPRC Discussion Paper No. 97)の全文で照合)

XはてなブックマークLINEFacebook