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スマホで写真を撮ると、記憶はどう変わるか

スマホで写真を撮ると、記憶はどう変わるか

シャッターを切るという一瞬の動作が記憶をどう書き換えるのか。博物館実験からズームの例外、選んで撮ることの逆転まで、心理学の知見を辿る。

TOMOAKI··趣味

スマホに保存された写真の枚数を、正確に言える人はそう多くない。MMD研究所が2023年に行った調査によれば、スマートフォンで月に数回以上撮影するという人が端末内に保存している写真は平均1411.8枚にのぼる。同種の調査を遡ると、2021年は1032.9枚、2022年は1265.7枚だったというから、二年ほどのあいだに四割近く増えている計算になる。だが、増えた実感を持っている人はおそらく少数派だ。枚数を数えて撮る人はもういないし、増えたところで困る場面もほとんどない。ストレージが足りなくなれば古い写真を選んで消すか、クラウドに逃がすだけのことで、痛みを伴う判断ではなくなっている。

フィルムの時代、そこには数える理由があった。標準的な35mmフィルムは24枚撮りか36枚撮りで、一本を使い切れば現像に出すまで次のカットは撮れない。フィルム代と現像代を合わせれば一本あたり数百円から千円台の出費になり、失敗した一枚もそのまま料金に乗る。何を撮り、何を撮らないかは、残り枚数と財布の中身という具体的な制約のもとで決める判断だった。今のスマートフォンにその制約はない。理屈の上では容量が尽きることもあり得るが、撮影の瞬間にそれを気にする人はまずいないだろう。無制限に撮れるようになって消えたのは、上限そのものというより、「撮るかどうかを一回ごとに選ぶ」という判断の機会だったのではないか、というのがここでの出発点になる。

この変化を、単に便利になった、記録できる量が増えた、という話で片づけてしまうのは簡単だ。実際、そう語られることのほうが多い。だが判断を挟まずにシャッターを切るという行為は、心理学の研究の中では、ただの中立な記録動作としては扱われていない。撮るという一瞬の動作そのものが、その場で何にどれだけ注意を向けるかという配分に介入し、あとに残る記憶の形を変えてしまうことが、複数の実験で確かめられている。以下で追うのは、その介入の中身がどういうものか、そして介入の方向がいつも同じではないという、やや込み入った顛末である。

カメラがものを覚えてくれる、という思い込み

写真を撮る動機の少なくとも一部は、あとで思い出すためのはずだ。忘れたくないから撮る。ところが心理学の実験は、この前提そのものに、かなり早い段階で疑いを向けている。米フェアフィールド大学のリンダ・ヘンケルが2014年に学術誌『Psychological Science』で発表した研究は、大学の美術館で行われた実際のツアーを舞台にしている。実験の一つでは、46人の学部生が美術館のツアーに参加し、27点の展示物を順に見て回った。それぞれの展示物について、ただ観察するだけの条件、展示物の全体を撮影する条件、そして展示物の一部――彫像の頭部や足元など――にズームして撮影する条件のいずれかに、無作為に割り当てられている。翌日、それぞれの展示物についてどれだけ覚えているか、どこに展示されていたかという位置情報まで含めてテストが行われた。

結果は、全体を撮影した展示物のほうが、観察しただけの展示物よりもはっきりと正答率が低かった。個々の対象を思い出せる割合も、展示位置についての細部も、写真に撮ったものほど曖昧になっている。ヘンケルはこれを「フォトテイキング・インペアメント効果」と呼び、カメラという装置に記録を委ねることで、その場でその対象に注意を向ける度合い自体が下がってしまう、と説明した。研究にあたっての取材でヘンケル自身は、テクノロジーに記憶の代行を頼り、出来事をきちんと記録してくれるはずだと信じ込むことで、かえって出来事を十分に体験しないまま通り過ぎてしまう、という趣旨のことを述べている。覚えなくていいはずの装置が、覚える力そのものを弱めるという、なかなか皮肉な結果になったわけだ。

ただし、ズームすると話が変わる

もっとも、この実験には見過ごされがちな続きがある。展示物の全体ではなく、一部にズームして撮影した参加者については、記憶の低下がほとんど起きなかった。それどころか、ズームした部分の記憶だけでなく、ズームしなかった残りの部分についての記憶までもが、観察だけの条件とほぼ同じ水準に保たれていたという。単にシャッターを押したかどうかではなく、フレームの中で何を選び取るかという判断を一段挟んだかどうかが、記憶の残り方を分けていたことになる。この段階ですでに、「カメラのせいで覚えなくなる」という単純な図式は崩れている。壊しているのはほかでもないヘンケル自身の実験データだ。撮影という行為が悪いのではなく、判断を経ずに反射的にレンズを向ける手つきのほうが問題らしい、という含みがここに生まれる。

注意はどこへ行くのか

だとすれば、写真を撮るという行為が本当に損なっているのは何なのか。この問いを引き継いだのが、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のジュリア・ソアレスとベンジャミン・ストームである。二人は一連の追試を通じて、「注意の離脱」という仮説を提示した。写真を撮る瞬間、人は対象の一部の情報だけをカメラに委ねているのではなく、体験そのものから注意を広く外している、という考え方だ。この仮説を検証した実験では、撮影から記憶テストまでの間隔を20分の短い遅延と48時間の長い遅延の両方で設定し、対象を見分ける知覚的な記憶テストと、意味や概念を問う記憶テストの両方で効果を確かめている。結果はどちらの遅延でも、どちらの種類のテストでも、写真を撮った対象のほうが成績が悪いというものだった。時間が経てば薄れる程度の弱い効果ではないということになる。

これを支持するもう一つの材料が、撮った写真をあとで見返せない、つまり保存すらされない条件でも記憶の低下が起きたという結果だ。カメラに記録を「外注」しているから覚えなくなる、という素朴な説明が正しいなら、写真がどうせ消えるとわかっている状況では記憶が守られてもよさそうなものだが、そうはならなかった。さらに、一枚だけでなく複数枚を撮影した場合についても『Psychonomic Bulletin & Review』誌に追試が発表されており、枚数を増やしても記憶の低下自体はほぼ同じ大きさで観察されている。委ねる先が実際にあるかどうかではなく、シャッターを切るという動作そのものが、体験への向き合い方をその場で一時的に切り替えてしまう、という見立てのほうが、積み上がったデータとの相性がいいということになる。もう一点、同じ研究グループは意図して覚えようとする条件と、特に指示せずただ見て回るだけの条件を比べてもいる。前者では効果がはっきり出た一方、後者――日常の撮影に近い、なんとなく見ているだけの状況――では効果が見られなかった実験もあり、この現象がいつでも一様に起きるわけではないことも示している。裏を返せば、旅先で「あとで見返すために」と意識しながら撮っているときのほうが、なんとなくシャッターを切っているときよりも、記憶を犠牲にしている度合いが大きい可能性がある。記録しようという意図の強さそのものが、記録される対象への注意を弱めるとしたら、これもまた小さな逆説だ。

選んで撮ると、結果は反転する

ここまでの実験には、共通する前提がある。参加者は「これを撮ってください」と指示されて撮っているのであって、自分の意思で撮る対象を選んでいるわけではない。日常のスマートフォン撮影とは、この点で条件が違う。ペンシルベニア大学、南カリフォルニア大学、イェール大学の研究者たち――アリクサンドラ・バラシュ、クリスティン・ディール、ジャッキー・シルバーマン、ガル・ザウバーマン――は2017年、この違いに着目した実験を『Psychological Science』誌に発表している。音声ガイド付きの展示ツアーを使った現場実験と、複数の実験室実験を組み合わせ、参加者が自分の判断で撮影対象を選べる、より現実に近い条件で調べたところ、単純な記憶の低下は見られなかった。かわりに見えてきたのは、記憶の中身の配分そのものが書き換わるという現象だった。カメラを持たされた参加者は、持たされなかった参加者に比べて、目で見た展示の記憶は良くなり、音声ガイドで聞いた内容の記憶は悪くなっていた。しかもカメラを持っていたグループの中でも、実際に撮影した対象についての視覚記憶は、撮影しなかった対象についての視覚記憶よりさらに良かったという。撮るか撮らないかという二択だけでなく、実際に何を撮ったかという一つひとつの選択までもが、あとに残る記憶の解像度を左右していたことになる。

とりわけ興味深いのは、実際にはカメラを持たず「もし撮るとしたら」と想像するだけの条件、いわば頭の中でだけシャッターを切る条件でも、似た傾向が確認されたという点だ。物理的にレンズを構えなくても、撮影という発想を持ち込むだけで、注意は視覚優位に寄っていく。写真を撮るという行為は、記憶を単純に消すのでも、単純に保存するのでもない。何にどれだけ注意を配分するかという比率そのものを書き換える動作なのだ。ヘンケルの実験室的な条件と、バラシュらの現実に近い条件とで結果の向きが変わったこと自体が、この行為の複雑さを物語っている。撮る対象を自分で選べるかどうかという一点が、記憶への影響の正負を左右してしまうということになる。

自分が写り込むと、記憶の視点まで変わる

スマートフォンでの撮影が博物館実験と決定的に違うもう一つの点は、撮る対象にしばしば自分自身が含まれることだ。誰かに撮ってもらう、あるいは自撮りをする。カナダ・アルバータ大学のキング、パンジュワニ、セント・ジャックスは2024年、『Applied Cognitive Psychology』誌に発表した研究で、この点に注目している。378人を対象にした三つの調査を通じて、参加者に個人的な出来事の記憶を思い出してもらい、その出来事について自分が写った写真を持っているかどうか、そして記憶を思い出すときの視点――自分の目で見ていたときのままの一人称視点なのか、少し離れたところから自分を含めた光景を眺める観察者的な視点なのか――を尋ねている。

結果、自分が写り込んだ写真を持っている出来事の記憶は、観察者的な視点で思い出される傾向が強かった。当然といえば当然で、写真そのものが自分の姿を外側から捉えた画像である以上、その画像を繰り返し見ることで、記憶の視点自体が写真の視点に引きずられていくのだろう。もともと体験していたときの一人称の視覚情報とは別の視点が、あとから記憶の中に上書きされていくということになる。写真を撮るという行為が変えるのは、覚えているか忘れているかという量の問題だけではなく、何を思い出しているときにどこから眺めているかという、記憶の構造そのものにまで及ぶ。自撮りを日常的に繰り返すことが、自分自身の体験の記憶の持ち方をゆっくり書き換えている可能性がある、というのは、ここまでの実験群の中でもとりわけ地味だが、案外大きな話だと思う。

撮ることが体験を減らすとは限らない

記憶の話とは別に、そもそも撮影という動作は体験の質そのものにどう作用するのか、という問いもある。「カメラを構えている間は、目の前の出来事に没入できていない」という批判は、写真好きなら一度は言われたことがあるだろう。ディール、ザウバーマン、バラシュが2016年に『Journal of Personality and Social Psychology』に発表した研究は、この批判を正面から検証した九つの実験――三つの現場実験と六つの実験室実験――からなる。参加者は2000人を超え、実際の観光バスツアーに乗り込んで撮影の有無を割り振る現場実験から、市場での食事を再現した実験室実験まで、幅広い状況で写真を撮ることが体験そのものの満足度にどう影響するかを測定している。

結果は、多くの場面で写真を撮ったほうが体験の満足度が高かったというものだ。撮影という行為が対象への関与を高め、ただ通り過ぎるだけだったはずの瞬間に、いくらか立ち止まる理由を与えている、という説明になる。バスツアーの窓の外を漫然と流れていく景色も、写真に収めようとした瞬間に、輪郭のはっきりした一つの対象として意識に上る。何気なく通り過ぎていたはずのものが、レンズを向けるという動作を挟むことで、初めて注意の対象に格上げされる、というほうが実情に近いのかもしれない。

ただしこの効果には条件がある。体験そのものがすでに強く人を引き込んでいる場合、そこに撮影という作業が割り込むとかえって満足度は下がる方向に傾いた。注意の器には限りがあり、体験がその器をほぼ満たしているときに撮影という追加の作業を持ち込めば、あふれるのは当然のことだろう。撮ることは体験を薄めることもあれば、逆に体験に輪郭を与えることもある。良し悪しを一括りに決めつけられる話ではないというのが、九つの実験を重ねた末の結論だった。研究チームはこの分岐を左右する要因を「関与」という言葉で説明しているが、要するに、放っておいても十分に見入ってしまう対象と、放っておくと素通りしてしまう対象とでは、カメラの効き方がまるで違うということだ。たとえば夕暮れの空の色が刻一刻と変わっていくのをただ眺めているだけの時間は、たぶん撮らないほうがいい部類に入る。反対に、混雑した市場を早足で通り抜けるだけだったはずの数分は、一度立ち止まってレンズを構える動作を挟むことで、初めて記憶に値する時間に格上げされる。同じ「撮る」という動作が正反対の結果を生むのは、対象そのものの性質ではなく、その対象にすでにどれだけ注意を注ぎ込んでいたかという、撮る前の状態の違いに左右されているからだろう。

「撮ることは所有すること」という古い批判

写真を撮るという行為への疑いは、心理学の実験室よりずっと前から言葉にされてきた。批評家スーザン・ソンタグは1977年の著書『写真論』の中で、写真を撮ることを一種の獲得のかたちだと論じている。もっとも単純な水準では、人は写真という代用物を通じて、大切な人やものを所有している気になる、という趣旨の議論だ。観光地でシャッターを切る行為は、そこを訪れたという体験そのものよりも、訪れたという証拠を持ち帰ることに重心が移っている、という見立てである。この議論が半世紀近く読み継がれてきたのは、撮ることが体験からの後退であり、参加の代わりに証拠集めをしているという直感に、多くの人が心当たりを持つからだろう。

ここまで見てきた実験群は、この直感を丸ごと肯定するわけでも、丸ごと否定するわけでもない。ディールらの実験が示したように、撮影は多くの場面でむしろ関与を高め、体験に輪郭を与える。ソンタグが疑っていた「証拠集めとしての撮影」は、体験の一部でしかない。だが、証拠として集めた画像の大半が二度と見返されないという現実は、ソンタグの議論のもう一つの筋――所有した気になることと、実際に手元で扱い続けることは別問題だという指摘――のほうを裏づけているようにも見える。半世紀前の批評と、この十年の実験心理学が、まったく違う道具立てを使いながら、似た場所に着地しているのは興味深い。ソンタグの時代のカメラはまだフィルム式で、所有欲を満たすにも枚数の限りがあった。今のスマートフォンは、その限りを取り払ったぶん、所有した気になる対象の数だけを際限なく増やし、実際に手元で扱い続ける対象の数はほとんど増やしていない。獲得の身振りだけが肥大して、獲得したはずのものを味わう時間はそのままだった、という言い方もできる。

36枚という制約が消えたあとに残ったもの

ここまでの知見を、冒頭の「1411.8枚」という数字に戻して考えてみる。フィルム一本が36枚だった時代、一本を撮り終えれば現像に出し、できあがった写真を手に取って見返す機会が必ずあった。撮影の枚数は少なかったが、一枚一枚が見返される確率はおそらく高かった。今は逆で、撮影の枚数は桁違いに増えたのに、MMD研究所と日本フォトイメージング協会が共同で続けている調査によれば、撮った写真を紙に印刷したりフォトブックにまとめたりした経験のある人の割合は、2018年の51.3%から2021年48.6%、2022年48.5%、2023年46.9%へと、緩やかにではあるが下がり続けている。撮影する枚数と、そのうち一枚でも手に取れる形に残す枚数とが、年を追うごとに開いていく形になる。スマートフォンの中には、撮った瞬間から一度も開かれることのない画像が、静かに積み上がっている計算になる。MMD研究所の調査でも、保存された大量の写真をどう整理するかという問いに、明確な習慣を答えられる人はごく限られていた。

ここに、これまで見てきた研究をつなぎ合わせると、多少皮肉な構図が見えてくる。写真を撮るという行為が注意の配分を変え、視覚的な記憶を強めるのだとしても、その写真自体があとで見返されないなら、強化された視覚記憶を裏づけに使う機会も同時に失われる。フィルム時代の36枚という制約は不自由だったが、その不自由さは、撮った写真を最後まで扱い切るという一連の行為――現像に出し、受け取り、めくって見る――までをひとまとめに保証してもいた。今の無制約は、撮る瞬間の判断を軽くした代わりに、撮ったあとの扱いまで軽くしてしまったのかもしれない。撮影の枚数だけを見て「記録が豊かになった」と言うのは、この後半部分を数に入れ忘れている。

皮肉なのは、この後半部分の軽さのほうが、実は前半で見てきた効果の恩恵を打ち消しかねないという点だ。バラシュらの実験で確かめられた視覚記憶の強化も、キングらの実験で確かめられた記憶する視点の変化も、写真という物証があって初めて成り立つ話ではなく、撮影という行為そのものが引き起こす効果として観察されている。とはいえ、記憶に刻まれた視覚的な手がかりを、あとから確かめたり味わったりする段階が丸ごと省略されているのだとしたら、それはそれで一つの機会損失には違いない。フィルムの時代に写真がアルバムに収まっていたのは、単なる保管ではなく、見返すという行為の置き場所として機能していたからだろう。

レンズを向ける前に、もう一拍

ヘンケルの実験が示したズームの例外は、この一連の研究の中でいちばん実用に近い手がかりだと思う。対象の全体を漫然と収めるのではなく、どこを画面に入れるかを一度判断してから撮ることが、記憶の低下を防いでいた。逆にいえば、記憶を損なうのはカメラという道具ではなく、判断を経ずに反射的に構える手つきのほうだということになる。無制限に撮れる環境で失われたのは上限ではなく判断の機会だった、という冒頭の見立ては、ここでようやく裏づけを得る。

だからといって、意識してフレーミングすれば万事解決する、という話に落とすのも、この分野の研究が積み重ねてきた留保の多さを裏切ることになるだろう。バラシュらの実験が示したように、自分で選んで撮ること自体が視覚と聴覚の記憶の配分を変えてしまう以上、何をどう撮っても代償はどこかに生じる。撮れば聞いた記憶が薄れ、撮らなければ見た記憶の解像度が下がる。どちらか一方を完全に守る撮り方は、今のところ見つかっていない。それに、ディールらの実験が示すとおり、体験がすでに濃密なときに限っては、撮らないほうが満足度は高い。キングらの研究が付け加えたように、自分が写った一枚は、記憶する視点そのものを一人称から観察者視点へとじわじわ動かしてもいる。万能の正解を一つに絞れないという、この分野の結論のなさそのものが、案外いちばん誠実な着地点なのかもしれない。

スマートフォンを構える一瞬に起きているのは、記憶と満足度と、記憶する視点までを巻き込んだ小さな取引の連続であって、性能の良いカメラを持てば片付く問題ではない。むしろレンズの解像度が上がれば上がるほど、シャッターを切る判断そのものは軽くなり、一枚ごとに払っている注意の代償には気づきにくくなる。冒頭で「上限が消えたのではなく、判断の機会が消えた」と書いたのは、そういう意味だった。判断の機会を取り戻す方法として提案できることは、実はそう多くない。ズームして画角を選ぶという、ヘンケルの実験がたまたま示した一つの手がかりを別にすれば、この一連の研究が教えてくれるのは、撮る前に立ち止まるべき正しい型ではなく、立ち止まらなかったときに何を失っているかという、もう少し地味な事実のほうだ。

出典

  • Henkel, L. A. (2014). Point-and-Shoot Memories: The Influence of Taking Photos on Memory for a Museum Tour. Psychological Science, 25(2), 396-402.
  • Soares, J. S., & Storm, B. C. (2018). Forget in a Flash: A Further Investigation of the Photo-Taking-Impairment Effect. Journal of Applied Research in Memory and Cognition, 7(1), 154-160.
  • Soares, J. S., & Storm, B. C. (2022). Does taking multiple photos lead to a photo-taking-impairment effect? Psychonomic Bulletin & Review, 29(6), 2211-2218.
  • Barasch, A., Diehl, K., Silverman, J., & Zauberman, G. (2017). Photographic Memory: The Effects of Volitional Photo Taking on Memory for Visual and Auditory Aspects of an Experience. Psychological Science, 28(8), 1056-1066.
  • Diehl, K., Zauberman, G., & Barasch, A. (2016). How Taking Photos Increases Enjoyment of Experiences. Journal of Personality and Social Psychology, 111(2), 119-140.
  • King, D. R., Panjwani, A., & St. Jacques, P. L. (2024). When having photographs of events influences the visual perspective of autobiographical memories. Applied Cognitive Psychology, 38(1), e4150.
  • スーザン・ソンタグ『写真論』(原著1977年)
  • MMD研究所「スマートフォンでの写真撮影、プリントに関するユーザー調査」(2021年・2022年・2023年)
  • MMD研究所・日本フォトイメージング協会「スマートフォンでの写真撮影、プリントに関するユーザー調査」(2018年・2021年・2022年・2023年)