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スマホでできる趣味の選び方 写真を撮ると記憶はどう変わるか

スマホでできる趣味の選び方 写真を撮ると記憶はどう変わるか

スマホで写真を撮ると記憶はどう変わるのか。ある実験では、描いた単語は書いた単語の2倍以上思い出された。一方、撮る枚数に上限がなくなって消えたのは「撮るかどうか」を選ぶ判断ではないか。実験と日本の統計から、スマホでできる趣味の選び方を考える。

TOMOAKI··趣味

スマホに保存された写真の枚数を、正確に言える人はそう多くない。MMD研究所と日本フォトイメージング協会が2023年に行ったネット調査(月に2〜3回以上スマートフォンで撮る15〜69歳が対象)によれば、スマホ本体に保存している人の写真や動画は平均1411.8枚にのぼる。同種の調査を遡ると、2021年は1032.9枚、2022年は1265.7枚だったというから、二年ほどのあいだに四割近く増えている計算になる。だが、増えた実感を持っている人はおそらく少数派だ。枚数を数えて撮る人はもういないし、増えたところで困る場面もほとんどない。ストレージが足りなくなれば古い写真を選んで消すか、クラウドに逃がすだけのことで、痛みを伴う判断ではなくなっている。

フィルムの時代、そこには数える理由があった。標準的な35mmフィルムは24枚撮りか36枚撮りで、一本を使い切れば現像に出すまで次のカットは撮れない。総務省の小売物価統計調査によれば、2002年6月の東京都区部で、24枚撮りのフィルム(3本入りの1本あたり)は805円、24枚の同時プリントは1,179円で、合わせて約2,000円かかった(現像代が含まれるかは、表からは読み取れない)。失敗した一枚もそのまま料金に乗る。何を撮り、何を撮らないかは、残り枚数と財布の中身という具体的な制約のもとで決める判断だった。今のスマートフォンにその制約はない。理屈の上では容量が尽きることもあり得るが、撮影の瞬間にそれを気にする人はまずいないだろう。無制限に撮れるようになって消えたのは、上限そのものというより、「撮るかどうかを一回ごとに選ぶ」という判断の機会だったのではないか、というのがここでの出発点になる。

この変化を、単に便利になった、記録できる量が増えた、という話で片づけてしまうのは簡単だ。だが判断を挟まずにシャッターを切るという行為は、心理学の研究の中では、ただの中立な記録動作としては扱われていない。撮るという一瞬の動作そのものが、その場で何にどれだけ注意を向けるかという配分に介入し、あとに残る記憶の形を変えてしまうことが、複数の実験で確かめられている。以下で追うのは、その介入の中身がどういうものか、そして介入の方向がいつも同じではないという、やや込み入った顛末である。

スマホでできる趣味を、注意の行き先で選び分ける

「スマホでできる趣味」を探してここに来た人のために、先に答えらしきものを置いておく。ただ、その前に少し居心地の悪い断りが要る。スマホで始める趣味を勧めることは、手のひらの画面を眺める時間をもう一つ増やす提案にもなりかねない。この記事がこのあと追うのは、スマホが「撮る」「残す」をほとんどただ同然にしたぶん、その場で何に注意を向けるかが静かに変わってしまう、という話だからだ。そこで選び方の軸は一つに絞っておきたい。その趣味の中で、スマホは自分の代わりに見てくれる道具なのか、自分がもっとよく見るための道具なのか。同じ端末が、使い方しだいでどちらにも転ぶ。

いちばん手近なのは写真だろう。詳しくは後の節で見るが、美術館の展示物を全体ごと写真に撮ると、ただ眺めていたときより記憶が落ちた。一方で、一部にズームして撮った場合には細部の記憶が保たれた。別の研究では、撮る対象を自分で選べる条件で、カメラを持たない人より見たものの記憶が良かった。趣味としての写真が成り立つのは、おそらくズームや、自分で選んで撮る側だ(ズームは位置の記憶を落とし、ズームする部分も実験者の指定だった)。一日に撮る枚数を決めておく、一枚の画面に入れるものを一つに絞る、といった制約を自分に課すと、フィルムの36枚が黙って担っていた「選ぶ」手間に近いものが戻るかもしれない。もっとも、制約そのものの効果を直接測った研究を私は見つけられていないので、これは実験からの類推にとどまる。旅や散歩のついでにすでにカメラを向けている人、集めるより選ぶほうが好きな人には合うはずだ。弱点もはっきりしている。選んで撮ると、見た記憶が強まるかわりに、同じ場で耳にした話の記憶が薄れる場合もある。工作を自分の手で作っているときのように、すでに体験に深く入り込んでいる場面では、撮っても楽しさは上がらなかった。

撮ることと並べてみると面白いのが、描くことだ。カナダ・ウォータールー大学のジェフリー・ワメスらが2016年に発表した論文には、七つの実験が収められている。最初の実験では、大学生に「りんご」のような描きやすい単語を見せ、絵に描くか、文字で書くかを割り当てた。予告なしの記憶テストで、描いた単語は書いた単語の2倍以上思い出された。目を引くのは、そのあとに組まれた変形版のうちの二つである。一つは、描く代わりにその単語を表す画像を画面で眺めるだけの条件で、こちらは書き写した場合と有意な差(偶然のばらつきを超える差)がなく、描いた単語には届かなかった。もう一つは、一語あたりの時間を40秒から4秒に縮め、子ども向けの磁気お絵かきボードにスタイラスで描かせた条件で、それでも差ははっきり残った(この実験は記憶テストを予告する形に変わっていて、前の実験との比較は難しいと著者も書いている)。画像を見るだけでは足りず、手で形を作り出す過程が効いている、というのが著者たちの解釈だ。紙やボードで確かめられたことが、スマホの画面に描く場合にも当てはまるのかは、この論文は試していない。この実験が測ったのは単語のリストを2分から約10分後に思い出せるかどうかで、旅先のスケッチがその旅の記憶を長く残すかどうかまでは確かめていない。対象も一つの大学の学生に限られる。うまく描けないことが苦にならない人、仕上がりより手を動かしている時間そのものを楽しめる人には向く。出来ばえを他人と比べずにいられない人には、消耗する趣味になるかもしれない。

道端の草や鳥にカメラを向けて名前を調べるアプリもある。ベルリンで、植物の同定経験が異なる学部生と大学院生に乾燥草地の植物を調べさせた2023年の研究は、4月に同定アプリのPl@ntNetを、6月に授業で使われる検索表を使わせた。専門家が前年に同じ区画で記録した植物と突き合わせると、専門家が1区画あたり平均37種を記録したのに対し、学生は1回の調査で12〜14種、2回分を合わせても約20種だった。専門家が記録した種のうち、学生のリストに現れなかったのは77.5〜81.2%にのぼる。学生の記録の12.4〜22.6%は誤同定で、ベルリンに分布しない種や乾燥草地に生えない種の名前も挙がった(学部生の全記録の合計では、それぞれ34種と59種)。専門家との突き合わせでの誤り率は、アプリでも検索表でも同程度だった。ただし道具の違いは季節の違いと重なり、学部生は2回の調査のあいだに2週間の同定講習も受けているので、きれいな比較ではない。著者たちはアプリを、植物に関心を向けるきっかけにはなるが、大学が生物多様性の授業を軽んじてきたという根本の問題を解決するものではない、とまとめている。以下は私の推測だ。名前を即答してくれる道具は、カメラと同じく、見る手間を省く方向にも働きうる。答えを鵜呑みにせず、葉の付き方や花びらの数を自分で確かめる答え合わせに使えば、注意を細部へ向ける練習になるかもしれない。散歩の習慣がある人、集めて分類することに静かな喜びを感じる人には合うだろう。確かめる手間を面倒に感じる人にとっては、名前の一覧が増えていくだけで終わりやすい。

三つを並べてみると、効いているのはスマホという道具そのものより、判断や手間をどこに残しておくかのほうに見える。撮る一枚を選ぶ、形を自分の手で作る、名前の答え合わせを自分でする。どれも画面を触る時間を減らす提案ではない。画面の向こうへ注意を手放してしまう時間を、少し減らす提案ではあるかもしれない。以下ではまず統計を確かめたうえで、出発点の写真に戻る。

「スマホでできる趣味」は、統計ではどう見えるか

まず数字の上で、スマホでの趣味がどう見えるかを確かめておく。令和3年の社会生活基本調査(過去1年間にその活動をした人の割合を聞く)で、10歳以上の「趣味・娯楽」の行動者率は86.3%だった。種類別に、2016年から2021年の変化を見ると、「写真の撮影・プリント」は24.9%から21.9%に下がった。上がったのは、スマートフォンや家庭用ゲーム機などによる「ゲーム」で、35.8%から42.9%。「音楽鑑賞」は49.0%から53.5%で、趣味・娯楽の中で最も高い。

この項目は、どれもスマホ以外の機器も含むので、「スマホでの趣味」の数字とは書けない。調査の時期はコロナ禍の最中でもあり、MMD研究所の調査とは母集団も違うので、二つの数字を一つの比にまとめることもできない。それでも、写真を趣味として楽しむ人の割合が下がっていることは、保存される枚数の増加と並べて眺めたくなる。期間も母集団も違うので比べたことにはならない。撮ることが、趣味として選ぶ行為から、いつでもできる動作に変わったと読めるが、これは私の読みで、統計が示しているわけではない。ゲームや音楽鑑賞をする人の割合が上がったことは、画面や耳に注意を預ける趣味の広がりと重ねて読めるが、これも私の解釈だ。この記事が追う「注意の行き先」という問いにつながる。ここからは、撮るという動作が、記憶と体験に何をしているのかを、実験の順に追っていく。

カメラがものを覚えてくれる、という思い込み

写真を撮る動機の少なくとも一部は、あとで思い出すためのはずだ。忘れたくないから撮る。ところが心理学の実験は、この前提そのものに、かなり早い段階で疑いを向けている。米フェアフィールド大学のリンダ・ヘンケルが2014年に学術誌『Psychological Science』で発表した研究は、大学の美術館で、実験者が参加者を一人ずつ案内するツアーの形をとっている。実験の一つでは、46人の学部生が美術館のツアーに参加し、27点の展示物を順に見て回った。それぞれの展示物について、ただ観察するだけの条件、展示物の全体を撮影する条件、そして展示物の一部――彫像の頭部や足元など――にズームして撮影する条件のいずれかに、展示物ごとに条件が割り振られている。翌日、それぞれの展示物についてどれだけ覚えているか、どこに展示されていたかという位置情報まで含めてテストが行われた。

結果は、全体を撮影した展示物のほうが、観察しただけの展示物よりもはっきりと正答率が低かった。見たかどうかを見分ける正答率も、展示位置の正答率も、観察しただけのものより低かった。ヘンケルはこれを「フォトテイキング・インペアメント効果」と呼び、カメラという装置に記録を委ねることで、その場でその対象に注意を向ける度合い自体が下がってしまう、と説明した。ヘンケルは公表時のプレスリリースで、カメラに記録を任せて自分では十分に注意を向けなくなると、その体験をどれだけ覚えているかに悪い影響が出うる、という趣旨の発言をしている。覚えなくていいはずの装置が、撮った対象の記憶を弱めるという、なかなか皮肉な結果になったわけだ。

ただし、ズームすると話が変わる

もっとも、この実験には続きがある。展示物の一部にズームして撮影した場合は、記憶の低下がほとんど起きなかった。ズームした部分の記憶だけでなく、ズームしなかった残りの部分の記憶も、観察だけの条件とほぼ同じ水準に保たれていた。ただし展示の位置の記憶は、ズーム条件がいちばん悪かった。どの部分にズームするかは実験者が指定していて、参加者が判断して選んだわけではない。ヘンケル自身は、ズームという操作に要る集中した注意が効いたのではないか、と考えている。この段階ですでに、「カメラのせいで覚えなくなる」という単純な図式は崩れている。撮影という行為そのものが悪いのではなく、撮り方によって注意の向き方が変わるらしい、という含みがここに生まれる。

注意はどこへ行くのか

だとすれば、写真を撮るという行為が本当に損なっているのは何なのか。この問いを引き継いだのが、ジュリア・ソアレスとベンジャミン・ストーム(2018年の論文の所属はカリフォルニア大学サンタクルーズ校)である。二人は「注意の離脱」という仮説に名前を付け、検証を重ねた。写真を撮る瞬間、人は対象の一部の情報だけをカメラに委ねているのではなく、体験そのものから注意を広く外している、という考え方だ。

ソアレスとストームの2018年の実験は、この仮説を支える材料の一つになる。撮った写真をあとで見返せない、つまり保存すらされない条件でも、記憶の低下が起きたのだ。カメラに記録を「外注」しているから覚えなくなる、という素朴な説明が正しいなら、写真がどうせ消えるとわかっている状況では記憶が守られてもよさそうなものだが、そうはならなかった。ソアレスとストームの2022年の別の研究(Psychonomic Bulletin & Review)では、撮る枚数を5枚に増やしても低下は小さくならず、3実験をまとめた分析では、5枚撮ったときの低下(効果の大きさd=0.62)のほうが、1枚のとき(d=0.35)より大きかった。5枚のほうが低い向きは3実験とも揃っていたが、1枚との差が有意だったのは実験2と、3実験をまとめた分析だけだった。枚数を増やしても救われないというのは、上限のない今のスマホに近い話だ。ただ、この結果は「外注」の説明でも「注意の離脱」の説明でも成り立つので、二つを分けるのは2018年の保存されない条件のほうだ。それを踏まえると、少なくとも意識して委ねているかどうかではなく、撮るという行為が、体験への向き合い方をその場で一時的に切り替えてしまう、という見立てのほうが、ここまでのデータとの相性がいいということになる。これはヘンケルのズームの例外とも、つなげて読める。ズームのために対象をじっくり見続けていれば、その対象からは注意を外さずに済んだのかもしれない。その代わり、展示の位置の記憶は三条件でいちばん低かったので、注意は対象そのものに集まり、周囲の配置へは回らなかったのかもしれない。周囲の配置への注意が削られたという解釈は、ヘンケル自身のものだ。ソアレスとストームも2022年の論文で、ズームが注意の離脱を断ち切る可能性に触れている。

自分の意思で撮ると、記憶の配分が変わる

ここまでの実験には、共通する前提がある。参加者は「これを撮ってください」と指示されて撮っているのであって、自分の意思で撮る対象を選んでいるわけではない。日常のスマートフォン撮影とは、この点で条件が違う。ニューヨーク大学、南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学、イェール大学の研究者たち――アリクサンドラ・バラシュ、クリスティン・ディール、ジャッキー・シルバーマン、ガル・ザウバーマン――は2017年、この違いに着目した実験を『Psychological Science』誌に発表している。音声ガイド付きの展示ツアーの現場実験と、動画を見るオンライン実験などを組み合わせ、参加者が自分の判断で撮影対象を選べる、より現実に近い条件で調べたところ、見た物の記憶が下がることはなかった。かわりに見えてきたのは、記憶の中身の配分そのものが書き換わるという現象だった。撮影する条件の参加者は、撮影しない条件の参加者に比べて、目で見た展示の記憶は良くなり、音声ガイドで聞いた内容の記憶は悪くなっていた(聞いた内容の低下が有意に出たのは、オンライン実験とそれらを統合した分析で、現場実験では有意差がなかった)。しかも撮影したグループの中でも、実際に撮影した対象についての視覚記憶は、撮影しなかった対象についての視覚記憶よりさらに良かったという。撮るか撮らないかという二択だけでなく、実際に何を撮ったかという一つひとつの選択までもが、あとに残る記憶の解像度と結びついていたことになる(関心の強いものを選んで撮った、という偏りも残る)。

とりわけ興味深いのは、実際にはカメラを持たず「もし撮るとしたら」と想像するだけの条件、いわば頭の中でだけシャッターを切る条件でも、見た物の記憶が良くなったという点だ(聞いた内容の記憶も、有意には下がらなかった)。物理的にレンズを構えなくても、撮影という発想を持ち込むだけで、注意は視覚に寄っていくらしい。写真を撮るという行為は、記憶を単純に消すのでも、単純に保存するのでもない。何にどれだけ注意を配分するかという比率そのものを書き換える動作らしい。ヘンケルの、撮る対象を指示された条件と、バラシュらの、自分で選べる条件とで結果の向きが変わったこと自体が、この行為の複雑さを物語っている。撮る対象を自分で選べるかどうかが、記憶への影響の正負を左右している可能性がある。

自分が写った写真があると、記憶の視点も違う

スマートフォンでの撮影が博物館実験と決定的に違うもう一つの点は、撮る対象にしばしば自分自身が含まれることだ。誰かに撮ってもらう、あるいは自撮りをする。カナダ・アルバータ大学のキング、パンジュワニ、セント・ジャックスは2024年、『Applied Cognitive Psychology』誌に発表した研究で、この点に注目している。378人を対象にした三つの調査を通じて、参加者に個人的な出来事の記憶を思い出してもらい、その出来事について自分が写った写真を持っているかどうか、そして記憶を思い出すときの視点――自分の目で見ていたときのままの一人称視点なのか、少し離れたところから自分を含めた光景を眺める観察者的な視点なのか――を尋ねている。

結果、自分が写った写真がある出来事の記憶は、自分が写っていない写真がある出来事に比べて、観察者的な視点で思い出される傾向が強かった。写真そのものが自分の姿を外側から捉えた画像である以上、その画像を見返すことで、記憶の視点が写真の視点に引きずられるのかもしれない。ただしこれは回顧的な調査で、視点の偏りが撮影のときに生じたのか、見返すうちに生じたのかは切り分けられないと、著者は書いている。写真が変えるのは、覚えているか忘れているかという量の問題だけではなく、何を思い出しているときにどこから眺めているかにも及ぶのかもしれない。自撮りを日常的に繰り返すことが、自分自身の体験の記憶の持ち方に影響している可能性は、ここまでの研究の中でもとりわけ地味だが、案外大きな話だと思う。

撮ることが体験を減らすとは限らない

記憶の話とは別に、そもそも撮影という動作は体験の質そのものにどう作用するのか、という問いもある。「カメラを構えている間は、目の前の出来事に没入できていない」という批判は、写真好きなら一度は言われたことがあるだろう。ディール、ザウバーマン、バラシュが2016年に『Journal of Personality and Social Psychology』に発表した研究は、この批判を正面から検証した九つの実験――三つの現場実験と六つの実験室実験――からなる。参加者は約2000人で、実際の観光バスツアーに乗り込んで撮影の有無を割り振る現場実験や、フードコートで昼食をとる客を対象にした現場実験から、実験室での実験まで、幅広い状況で写真を撮ることが体験そのものの満足度にどう影響するかを測定している。

結果は、多くの場面で写真を撮ったほうが体験の満足度が高かったというものだ。撮影という行為が対象への関与を高め、ただ通り過ぎるだけだったはずの瞬間に、いくらか立ち止まる理由を与えている、という説明になる。バスツアーの窓の外を漫然と流れていく景色も、写真に収めようとした瞬間に、輪郭のはっきりした一つの対象として意識に上る。何気なく通り過ぎていたはずのものが、レンズを向けるという動作を挟むことで、初めて注意の対象に格上げされる、というほうが実情に近いのかもしれない。

ただしこの効果には条件がある。体験がすでに強く人を引き込んでいる場合には、撮影しても満足度は上がらなかった(下げた証拠はない、と著者は書いている)。撮影の操作が邪魔になる場合には満足度は上がらず(写真なしと同程度だった)、体験がネガティブな場合には下がる傾向があった(p=.058で、有意水準すれすれだった)。注意の器には限りがあり、体験がその器をほぼ満たしているときに撮影という追加の作業を持ち込んでも、得るものは少ない、ということだろう。九つの実験を重ねて見えたのは、撮ることは多くの場面で体験の満足度を上げ、例外は関与の深さなどしだいで現れる、という骨格だった。「撮れば減る」「撮れば増える」のどちらかに一括りにはできない、というのは私のまとめだ。研究チームはこの分岐を左右する要因を「関与」という言葉で説明している。研究8では、工作を自分で作っている人は、すでに体験に入り込んでいるため、撮っても楽しさは上がらなかった。一方、他人が作るのを眺めているだけの人は、撮ると楽しさが上がった。同じ「撮る」という動作が違う結果を生むのは、その対象にすでにどれだけ注意を注ぎ込んでいたかという、撮る前の状態の違いに左右されているからだろう。

「撮ることは所有すること」という古い批判

写真を撮るという行為への疑いは、心理学の実験室よりずっと前から言葉にされてきた。批評家スーザン・ソンタグは1977年の著書『写真論』の中で、写真を撮ることを一種の獲得のかたちだと論じている。もっとも単純な水準では、人は写真という代用物を通じて、大切な人やものを所有している気になる、という趣旨の議論だ。観光客の撮影を、訪れた証拠を持ち帰る行為として論じる、という紹介もある。この議論が半世紀近く読み継がれてきたのは、撮ることが体験からの後退であり、参加の代わりに証拠集めをしているという直感に、多くの人が心当たりを持つからだろう。

ここまで見てきた実験群は、この直感を丸ごと肯定するわけでも、丸ごと否定するわけでもない。ディールらの実験が示したように、撮影は多くの場面でむしろ関与を高め、体験に輪郭を与える。ソンタグの議論として紹介される「証拠集めとしての撮影」は、体験の一部でしかない。だが、近年はプリントした経験のある人が半数に満たない(数字はあとで挙げる)現実は、ソンタグが論じた獲得の身振りと響き合うように見える。ソンタグ自身が論じたのは、プリントされるかどうかではないので、これは私の連想だ。半世紀前の批評と、この十年の実験心理学が、まったく違う道具立てで、部分的に重なる場所を指しているのは興味深い。ソンタグの時代のカメラはまだフィルム式で、所有欲を満たすにも枚数の限りがあった。今のスマートフォンは、その限りを取り払ったぶん、所有した気になる対象の数だけを際限なく増やし、実際に手元で扱い続ける対象の数は、それほど増えていないのではないか。データはないので、これも想像にとどまる。

36枚という制約が消えたあとに残ったもの

ここまでの知見を、冒頭の「1411.8枚」という数字に戻して考えてみる。フィルム一本が36枚だった時代、一本を撮り終えれば現像に出し、できあがった写真を手に取って見返す機会が必ずあった。撮影の枚数は少なかったが、一枚一枚が見返される確率はおそらく高かった。今は逆で、保存されている枚数は桁違いに増えたのに、MMD研究所と日本フォトイメージング協会が共同で続けている調査によれば、撮った写真をプリントした経験のある人の割合は、2018年の51.3%、2019年の47.6%、2021年の48.6%、2022年の48.5%、2023年の46.9%と、大きくは動いていない(MMD研究所は2019年以降について「横ばい」と書いている。フォトブックは別の設問で、2023年は16.1%。2018年は調査の取り方が2019年以降と異なる)。保存されている枚数は増えたのに、手に取れる形に残す人の割合は増えていない。プリントしないことは見返さないことと同じではないが、スマートフォンの中には、一度も開かれない画像が静かに積み上がっているのではないか、と私は想像している。

ここに、これまで見てきた研究をつなぎ合わせると、多少皮肉な構図が浮かぶ。ただしこれは、見返されない写真が多いという私の想像を前提にしている。写真を撮るという行為が注意の配分を変え、視覚的な記憶を強めるのだとしても、その写真自体があとで見返されないなら、強化された視覚記憶を裏づけに使う機会も同時に失われる。フィルム時代の36枚という制約は不自由だったが、その不自由さは、撮った写真を最後まで扱い切るという一連の行為――現像に出し、受け取り、めくって見る――までをひとまとめに保証してもいた。今の無制約は、撮る瞬間の判断を軽くした代わりに、撮ったあとの扱いまで軽くしてしまったのかもしれない。保存枚数は増えたが、この後半部分は数に入ってこない。

ここで押さえておきたいのは、前半の効果が撮影の瞬間に起きる、という点だ。バラシュらの実験で確かめられた視覚記憶の強化は、写真という物証があって初めて成り立つ話ではなく、撮ろうとする構えそのものが引き起こす効果として観察されている。だから、見返されない写真が積み上がっても、その効果が消えるわけではない。失われるのは、撮った一枚をあとから確かめたり味わったりする機会のほうだ。フィルムの時代に写真がアルバムに収まっていたのは、単なる保管ではなく、見返すという行為の置き場所として機能していたからだろう。

撮ることで得るもの、失うもの

ヘンケルの実験が示したズームの例外は、この一連の研究の中で実用に近そうに見える手がかりだ。ただし代償がないわけではない。ズームした展示物は、細部の記憶が保たれた一方で、展示の位置の記憶は三条件でいちばん低かった。ズームする部分も実験者が決めたものだ。何を撮るかを自分で選ぶ、という意味の判断なら、むしろバラシュらの結果のほうが近い。自分で選んで撮った対象は、視覚の記憶がよく残っていた。ただ、今のスマートフォンにも「何を撮るか」を選ぶ余地はある。バラシュらが測っていないのは、枚数の制約のもとで「撮るかどうか」を一枚ごとに量る判断のほうだ。バラシュらの参加者にも枚数の上限はなく、それでも何を撮るかは自分で選んでいた。無制限に撮れる環境で失われたのは上限ではなく判断の機会だった、という冒頭の見立ては、したがってこの研究から直接の裏づけを得ているわけではない。得られたのは、何を撮るかの選択が記憶の配分と結びついている、というところまでの手がかりだ。

だからといって、意識してフレーミングすれば万事解決する、という話に落とすのも、この分野の研究が積み重ねてきた留保の多さを裏切ることになるだろう。バラシュらの実験が示したように、自分で選んで撮ること自体が視覚と聴覚の記憶の配分を変えてしまう以上、何をどう撮っても代償がどこかに生じうる。バラシュらの条件では、撮れば聞いた記憶が(現場実験では有意でなかったものの)薄れる傾向があり、撮らなければ見た記憶の解像度が下がった。どちらも完全に守る撮り方は、今のところ見つかっていない。それに、ディールらの実験が示すとおり、体験がすでに濃密なときには、撮っても満足度は上がらない。キングらの研究が付け加えたように、自分が写った一枚は、記憶する視点そのものを一人称から観察者視点へ動かしているのかもしれない。

冒頭の問いに戻ると、撮る、描く、名前を調べる、のどれを選んでも、スマホが自分の代わりに見てくれる道具になるか、自分がよく見るための道具になるかは、使い方の側にある、というところまでしか言えない。描く過程が記憶を支えるというワメスらの結果は、自分の手を動かす側を支える。名前を調べるアプリのほうは、ベルリンの研究が測ったのは同定の正確さで、答え合わせという使い方の効果までは試されていない。そこは私の推測にとどまる。どの趣味が正解かを、研究は決めてくれない。

スマートフォンを構える一瞬に起きているのは、記憶と満足度、ことによると記憶する視点までを巻き込んだ小さな取引の連続であって、性能の良いカメラを持てば片付く問題ではない。むしろ撮れる枚数の制約が薄れれば薄れるほど、シャッターを切る判断そのものは軽くなり、撮ることで何が得られ、何が失われているのかには気づきにくくなるのではないか。冒頭で、消えたのは上限というより判断の機会ではないかと書いたのは、そういう想像からだった。研究が確かめた結論ではない。判断の機会を取り戻す方法として提案できることは、実はほとんどない。何を撮るかを自分で選べる条件で視覚の記憶が良かったという、今も残っている判断を使う手がかりを別にすれば、この一連の研究が教えてくれるのは、撮る前に立ち止まるべき正しい型ではなく、撮り方しだいで、得るものも失うものも変わるという、もう少し地味な事実のほうだ。

出典

  • Henkel, L. A. (2014). Point-and-Shoot Memories: The Influence of Taking Photos on Memory for a Museum Tour. Psychological Science, 25(2), 396-402.(全文で確認。本人の発言は、公表時の APS プレスリリース(2013年12月9日)による)
  • Soares, J. S., & Storm, B. C. (2018). Forget in a Flash: A Further Investigation of the Photo-Taking-Impairment Effect. Journal of Applied Research in Memory and Cognition, 7(1), 154-160.(全文で確認)
  • Soares, J. S., & Storm, B. C. (2022). Does taking multiple photos lead to a photo-taking-impairment effect? Psychonomic Bulletin & Review, 29(6), 2211-2218.(本文で確認)
  • Barasch, A., Diehl, K., Silverman, J., & Zauberman, G. (2017). Photographic Memory: The Effects of Volitional Photo Taking on Memory for Visual and Auditory Aspects of an Experience. Psychological Science, 28(8), 1056-1066.(全文で確認)
  • Diehl, K., Zauberman, G., & Barasch, A. (2016). How Taking Photos Increases Enjoyment of Experiences. Journal of Personality and Social Psychology, 111(2), 119-140.(全文で確認)
  • King, C. I., Panjwani, A., & St. Jacques, P. L. (2024). When having photographs of events influences the visual perspective of autobiographical memories. Applied Cognitive Psychology, 38(1), e4150.(プレプリントの全文と、公刊版の要旨で確認)
  • スーザン・ソンタグ『写真論』(原著1977年。邦訳:近藤耕人訳、晶文社、1979年)(該当章の原文で確認。観光客の撮影の議論は二次情報による)
  • MMD研究所・日本フォトイメージング協会「スマートフォンでの写真撮影、プリントに関するユーザー調査」(2018年・2019年・2021年・2022年・2023年)(各年の調査ページで確認。2019年の値は2022年版ページの言及による)
  • 総務省統計局 (2022). 令和3年社会生活基本調査 生活時間及び生活行動に関する結果 結果の概要.(概要PDFで確認)
  • 総務省統計局「小売物価統計調査」東京都区部の価格(2002年6月).(東京都が公開する表で確認。35mm・24枚撮り・3本入りの1本あたり805円、24枚の同時プリント1,179円)
  • Wammes, J. D., Meade, M. E., & Fernandes, M. A. (2016). The drawing effect: Evidence for reliable and robust memory benefits in free recall. Quarterly Journal of Experimental Psychology, 69(9), 1752-1776.(著者版の全文で確認)
  • Pernat, N., Gathof, A. K., Herrmann, J., Seitz, B., & Buchholz, S. (2023). Citizen Science Apps in a Higher Education Botany Course: Data Quality and Learning Effects. Sustainability, 15(17), 12984.(全文で確認)
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