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庭の雑貨を、スタイルから選ぶのをやめてみる

庭の雑貨を、スタイルから選ぶのをやめてみる

園芸グッズを「北欧風」「アンティーク風」で選ぶ行為の裏には、見た目の一貫性が生む安心感と、実際の園芸継続や満足度との間の意外な断絶がある。環境心理学の選好理論、園芸と健康の効果量、IKEA効果までを手がかりに、見た目と実用の対立そのものを問う。

TOMOAKI··趣味

園芸用品店の棚の前で最初にやったのは、植物や土のことではなく、「この一角を北欧風にするか、アンティーク風にするか」を決めることだった。ジョウロもプランターも支柱も、まずスタイルのフォルダに仕分けてから選ぶ。雑誌やSNSで見かけるカテゴリーに自分のベランダを当てはめて、それに合うものを探す。効率のいいやり方のはずだった。カテゴリーに沿って選べば、少なくとも見た目の破綻は起きない。だが何度かベランダを作り直すうちに、居心地の悪さのようなものが残るようになった。選んだ理由を聞かれたら、「北欧風だから」としか答えられない自分に気づいたからだ。

これは考えてみると奇妙な話でもある。庭やベランダに置くものは、雨に打たれ、日に焼け、土に汚れる。室内のインテリア雑貨よりもずっと早く姿を変える対象を、なぜ人は完成された一枚の写真を基準に選びたがるのか。答えの一部は単純で、選択にかかるコストを下げたいという欲求だろう。似たような判断を何十回も繰り返す状況では、カテゴリーというショートカットは合理的でさえある。だがそれだけでは、なぜ「北欧」や「アンティーク」といった特定の型が繰り返し選ばれるのか、そしてなぜその型に沿って選んだはずのものに、後から居心地の悪さを覚えるのかは説明できない。見た目のカテゴリーが果たしている心理的な機能そのものを、もう少し丁寧に腑分けする必要がある。

好みは、思うより個人的なものではない

そもそも「自分の好み」だと信じている選択が、どこまで自分自身の判断なのかという疑いは根深い。社会学者ピエール・ブルデューは一九七九年の著作『ディスタンクシオン』で、家具や住まいの様式に対する好みが、階層や教育歴と強く相関することを大規模な調査データから示した。「上品だ」「洗練されている」と感じる感覚そのものが、育った環境の中で身につけた分類の型を反映しているにすぎないという議論である。北欧風という括りが持つ、木の質感を活かした簡素さへの支持や、アンティーク風という括りが持つ、経年変化への肯定的な評価も、階層的な文化資本と無縁ではいられない。もっとも、この議論を突き詰めすぎると、あらゆる美的判断は結局のところ社会的な立ち位置の表明にすぎない、という身も蓋もない話に着地してしまう。それでは元も子もないので、ここでは一つだけ留めておく。スタイルを選ぶという行為は、対象そのものへの反応である以前に、すでに社会的に用意された分類箱に自分を当てはめる行為でもある、という点だ。箱を選ぶこと自体は悪いことではない。ただ、箱を選んだことと、中身を理解したことを混同すると話がおかしくなる。

ブルデューの調査対象はフランスの家庭であり、日本の園芸雑貨市場にそのまま当てはめられる保証はない。国も時代も異なる社会での知見を、ベランダのプランター選びに直輸入するのは慎重であるべきだろう。それでも、「これは自分の趣味だ」と感じている選択の背後に、育った環境で刷り込まれた分類の型が働いているかもしれないという可能性そのものは、頭の片隅に置いておく価値がある。純粋に個人的な好みだと信じているものほど、実は最も型にはまっている、ということは案外よくある。

速く理解できる景色が好まれる、という理論の射程

環境心理学者のレイチェル・カプランとスティーブン・カプランは、人が風景をどう評価するかについて、複雑さ・一貫性・判読可能性・神秘性という四つの軸からなる選好モデルを提示した。一貫性と判読可能性は、その場所が何であるかを即座に理解し、迷わず動き回れるかどうかに関わる。複雑さと神秘性は逆に、まだ見えていない情報がどれだけ残っているか、探索する余地がどれだけあるかに関わる。人は理解したいという欲求と、探索したいという欲求を同時に満たす環境を好むというのが、この理論の骨格である。

「北欧風」や「アンティーク風」といったスタイルのラベルがしていることは、要するに一貫性と判読可能性を極端に高める作業だ。色調も素材も質感も統一されているから、見た瞬間に「何の庭か」が判読できる。判断が速く済むぶん、認知的な負荷は下がる。問題は、その速さと引き換えに複雑さと神秘性が犠牲になりやすいという点で、カプランらの枠組みに従うなら、一貫性だけを追求した景観は理解しやすい代わりに、長く眺めていて飽きない景観にはなりにくいということになる。植栽が重なり合って奥が見通せない状態や、鉢の配置が完全には揃っていない状態は、判読可能性の点では減点対象になるが、神秘性の点では加点対象になる。統一感を優先するほど、この二つ目の得点源を自分で削ることになる。

もっとも、この選好マトリクスをめぐっては、後年の研究から手厳しい指摘も出ている。四つの軸は理論上は独立しているはずなのに、実際に景観写真を使って測定すると統計的にきれいに分離できず、複雑さと神秘性がほぼ同じものを測ってしまっているのではないか、という批判である。つまり「北欧風は複雑さが足りないから飽きる」という言い方は、理論を字義通りに信じすぎている可能性がある。それでも、見た目のカテゴリーが理解のしやすさを優先し、時間をかけて発見する余地を後回しにしているという構図自体は、直感に反しない。理論の細部が揺らいでも、この構図だけは残る。

手をかけたものを、人は過大評価する

スタイルで選ぶという行為のもう一つの弱点は、それが基本的に「買う」という行為に閉じている点だ。行動経済学者のダン・アリエリーらは二〇一二年の実験で、被験者にイケアの収納ボックスを組み立てさせたり、折り紙を折らせたり、レゴのセットを作らせたりしたうえで、自分で作ったものと他人が作った同等の完成品のどちらに高い価値を感じるかを尋ねた。結果、参加者は自分の不格好な作品を、専門家が作った作品とほぼ同等に評価し、他人も同じように評価するはずだと予想した。いわゆるIKEA効果と呼ばれる現象である。

興味深いのは、この効果が無条件に働くわけではないという境界条件だ。組み立てを完成させられなかった被験者や、せっかく組み立てたものをその場で分解された被験者では、効果はきれいに消えてしまう。労力が愛着に変わるのは、労力が何かの完成に結びついたときに限られる。中途半端な状態で放置された作りかけの棚は、労力を注いだにもかかわらず、その労力から愛着を得られない。

この実験結果を庭仕事に当てはめると、少し居心地の悪い結論が出てくる。空き缶に穴を開けてプランターにする、ガラス瓶にライトを仕込んで吊るす。こうした作業は、完成度で言えば量販店の完成品には及ばない。しかし労力を投じて完成させたという事実そのものが、対象への評価を押し上げる。逆に言えば、スタイルに合わせて選び抜かれた既製品への愛着は、労力の裏付けを欠いたまま「見た目が正しい」ことだけに支えられている場合がある。それは弱い土台ではないが、時間の経過に強い土台でもない。同時に、この理屈をそのままDIY礼賛に反転させるのも早計だろう。完成しなかったDIYは、むしろ何も生まない。庭の隅に転がる作りかけのプランターは、既製品より愛着があるどころか、ただの未処理物として存在感を放つだけになる。

効果量が語る、思ったより地味な話

庭仕事そのものが心身に良い影響を与えるという主張は、SNSでもよく見かける。この主張を検証した数少ない定量研究の一つが、生態学者の曽我らが二〇一七年に発表したメタ分析である。二〇〇一年以降に発表された査読論文のうち条件を満たす二十二件、七十六の比較を統合した結果、園芸活動と健康指標の間には統計的に有意な正の効果が確認された。効果量はHedgesのdで〇・四二、九五パーセント信頼区間は〇・三六から〇・四八。中程度の効果とされる水準である。分析対象になった研究の参加者数は十四人から五百十四人までばらつきがあり、平均年齢は八・五歳から八十四・七歳まで幅広い。出版バイアスの存在を示す統計的な兆候も見つかったが、埋没していると推定される研究を補って再計算しても、効果量は〇・三五とやや下がるだけで、有意な正の効果自体は消えなかった。

ここで見過ごされがちなのが、下位グループ間の差だ。園芸療法として構造化された介入では効果量が〇・六一だったのに対し、日常的な家庭園芸のような非治療的な文脈では〇・三一にとどまった。この二つの差は統計的に有意である。さらに、同一人物の「園芸を始める前後」を比較した研究群では効果量が〇・六〇だったのに対し、単に「園芸をする人」と「しない人」を横断的に比べた研究群では〇・三二しかなかった。つまり、庭を持っていること自体が幸福度の高さと強く結びついているわけではない。効果が大きく出るのは、指導のもとで一定期間取り組み、変化そのものを測定できたときだ。スタイルの整った庭を所有している人が、そうでない人より明確に幸せだと示す証拠は、この分析からは出てこない。園芸が体にいいという話と、庭が美しく整っていることが体にいいという話は、別の話なのである。

もう一つ、測定している指標の種類による差もある。体格指数や血圧、コルチゾール値といった健康変数に対する効果量は〇・三一にとどまったのに対し、気分や生活満足度といった幸福感変数に対する効果量は〇・四七とかなり高い。著者らはこの差について、健康変数の改善には比較的長い時間が必要になるのに対し、幸福感変数の多くは主観的な尺度で測定されており、園芸を始めてすぐに反応が現れやすいからではないか、という慎重な留保をつけている。裏を返せば、「園芸をすると気分が良くなる」という報告のしやすさと、「園芸をすると体が丈夫になる」という報告のしやすさは、同じ土俵で比べられるものではないということでもある。因果の向きも一筋縄ではいかない。もともと活動的で社会的なつながりの多い人が園芸を選びやすいという逆方向の説明を、この分析だけで完全に排除することはできない。数字が示しているのは、庭仕事に効用があるという確信ではなく、その効用の大きさが文脈と測定対象によって大きく揺れるという、もう少し慎重な事実の方だ。

統合された二十二件の研究のうち、九件は米国発、七件は欧州発、五件はアジア発、一件は中東発であり、地理的な偏りも小さくない。対象者に占める女性の割合は平均で六七・八パーセント、研究によっては二九・二パーセントから一〇〇パーセントまでばらついており、全体としては三人に二人強が女性という構成である。こうした偏りを踏まえると、「園芸は誰にとってもこれだけの効果がある」と断言できる段階には、まだ届いていないというのが実態に近いだろう。

効いているのはスタイルではなく、窓の外に緑があるかどうか

庭の効用に関するもう一つの古典的な研究は、様式とはほぼ無関係なところで成立している。建築心理学者のロジャー・ウルリッヒは一九八四年、胆嚢の手術を受けた患者の記録をペンシルベニア州の郊外病院で調べ、病室の窓から自然の景色が見える二十三人と、レンガの壁しか見えない二十三人の術後経過を比較した。前者は入院日数が短く、看護記録に残されたネガティブな評価も少なく、強い鎮痛剤の使用量も少なかった。この研究が示しているのは、緑がどんなスタイルで配置されているかではなく、緑がそこにあるかどうかという、身も蓋もない事実である。北欧風の植栽であろうと雑然としたジャンクガーデンであろうと、窓の外に葉が揺れているという一点において、効果に差がつくという証拠はどこにもない。

この研究をそのまま園芸雑貨の話に敷衍するのは飛躍がすぎるかもしれない。ウルリッヒが扱ったのは景色の受動的な鑑賞であって、庭仕事という能動的な関与ではないからだ。それでも、庭という空間から得られる恩恵の少なくとも一部が、様式的な洗練度とは独立に発生しているらしいという事実は、スタイルに投じる労力の位置づけを考え直させる材料にはなる。窓の外の患者にとって、レンガの壁がどれほど上品にデザインされていたところで、結果は変わらなかっただろう。

物に意味が宿るのは、使われた痕跡があるときだ

心理学者ミハイ・チクセントミハイと社会学者ユージン・ロックバーグ=ハルトンは一九八一年、シカゴの八十世帯を対象に、家庭にある日用品にどんな意味を見出しているかを聞き取る調査を行った。その著書『モノの意味』で描かれているのは、人が最も愛着を示すのは必ずしも見た目が優れた品ではなく、記憶や行為、家族との関係と結びついた品だという構図である。飾るために置かれただけの装飾品は、しばしば語られる言葉が少なく、日常的に使われ、手を加えられ、変化を経てきた品ほど、多くの言葉を引き出した。

チクセントミハイは後の研究で、人が没頭している間に時間の感覚を忘れるような没入状態を「フロー」と呼び、その発生条件として、課題の難易度と本人の技量がほどよく釣り合っていることを挙げている。庭仕事は、水やりのタイミングや剪定の加減を体で覚えていく過程で、この釣り合いが自然に生まれやすい活動の一つだろう。一方、完成されたスタイルに合う既製品を選ぶという行為は、判断の難易度をあらかじめ下げてしまっている分だけ、没入を生む余地が小さい。スタイルへのこだわりが悪いのではない。ただ、それは庭仕事が本来持っている没入の回路とは、別の回路を使っているということだ。

庭の雑貨に置き換えて考えると、これは冒頭の違和感の正体に近い。錆びたブリキのジョウロを見直したとき気づいたのは、水を注ぐたびに姿を変えていくのを見るのが面白いという、スタイルの外側にある関心だった。木製のプランターについても同じで、雨に濡れて色が濃くなり、乾いて戻るという変化そのものに気を取られていた。北欧ともアンティークとも関係のない話だ。スタイルという枠組みは、対象を選ぶ最初のフィルターとしては機能する。しかし対象への関心が育っていく過程では、むしろ邪魔になる場面すらある。関心の育ち方は多くの場合、あらかじめ決めた型からはみ出す方向に進むからだ。型を先に決めてしまうと、はみ出した部分を「型に合わない失敗」として処理してしまい、そこにあった発見をなかったことにしてしまう。

もう一つ付け加えるなら、チクセントミハイらの調査対象になった八十世帯の中にも、当然ながらスタイルにこだわって家具を選んだ人はいたはずだ。調査が示したのはスタイルを気にする人が愛着を持てないという話ではなく、愛着の深さを決めているのがスタイルの一貫性ではなく、その物とともに過ごした時間や行為の蓄積だったという話である。

見栄えの良さは、続けることの保証にはならない

SNSに投稿するために整えられた庭の写真と、実際にその庭にどれだけ手が入っているかは、必ずしも一致しない。米家具ブランドのArticleが世論調査会社OnePollに委託した二〇二〇年の消費者調査――学術研究ではなく市場調査であることは断っておく――では、回答者は平均して七鉢の観葉植物を枯らした経験があると答えている。この種の数字を過信するのは危険だが、少なくとも「見た目にこだわって植物や道具を選ぶこと」と「それを長く維持できること」の間に、単純な比例関係は見当たらない。むしろ購入時の高揚感と、数か月後の管理の手間との落差こそが、この種の調査で繰り返し観測されている現象なのだろう。むしろスタイルを整えることに使ったエネルギーの分だけ、実際の世話に回すエネルギーが目減りするという逆の力学すら想像できる。写真を撮る瞬間の完成度と、その後数か月の世話は、まったく別の資源を消費している。

金属は錆びるし、木は色が変わるし、テラコッタは凍って割れることもある。これを「維持管理の手間」として引き算するか、「変化そのものが庭の一部」として足し算するかで、庭との付き合い方はずいぶん違って見えてくる。スタイルという発想は、変化を管理すべき誤差として扱う。時間とともに変わっていくものへの関心という発想は、その誤差自体を庭の内容物として扱う。どちらが正しいという話ではない。ただ、両者は同じ雑貨を前にしながら、まったく別のことに気を取られているということだけは言える。

「経年変化を愛でる」も、また一つのスタイルになりうる

ここで一つ、自分自身への疑いも書いておく必要がある。「錆びたブリキが好きだ」「変化そのものが庭の一部だ」という語り口は、すでに市場の中で十分に商品化されている。ジャンクガーデンという呼び名がついた瞬間、それは北欧風やアンティーク風と並ぶ、もう一つの選択カテゴリーに回収される。錆びた質感をあらかじめ加工して売る商品まで存在することを思えば、「経年変化への愛着」を売り文句にした新品を買うという、ねじれた行為すら成立してしまう。これはブルデューの議論が示した力学そのものでもある。ある美意識が広まり、名前がつき、市場で流通し始めた時点で、それはもう個人の発見ではなく、選べる分類の一つに変わる。スタイルから逃れたつもりで選んだ「反スタイル」が、実のところ最も新しいスタイルだった、という状況は珍しくない。

だとすれば、スタイルという発想そのものから完全に自由になる方法はおそらくない。人は常に何らかの分類を通してしか物を選べないし、分類を経由すること自体は認知の仕組みとして自然である。分類なしに世界を眺めようとする試みは、たいてい別の分類を発明して終わる。変わるべきなのは分類の有無ではなく、分類にたどり着いた後の態度だろう。「北欧風だから選んだ」で思考を止めるのと、「経年変化が好きだから選んだ」で思考を止めるのとでは、実は構造上の違いがない。どちらも、選んだ理由の説明を、あらかじめ用意された物語に委ねている点で同じである。

選び方を変えても、庭仕事の中身が変わるとは限らない

もう一つ留保しておきたいのは、選ぶ基準を変えることと、実際に庭仕事へ費やす時間や労力が増えることは、別の問題だという点だ。曽我らのメタ分析が示した、園芸をする人としない人を単純に比べた場合の効果量の小ささ――〇・三二という、構造化された介入の〇・六一に遠く及ばない数字――を思い出すなら、そこにあるのはこういう話になる。庭に置く雑貨の選び方を北欧風からジャンクガーデン風に変えたところで、その人が実際に土に触れる頻度や、水やりの丁寧さが自動的に変わるわけではない。選択基準の入れ替えは、多くの場合、庭仕事そのものの量ではなく、庭仕事についてどう語るかという物語の水準にとどまる。もちろん、物語が変わることで実際の行動が後からついてくる場合もあるだろう。ただそれは検証済みの因果関係ではなく、希望的な観測に近い。

見た目と実用は、本当に対立しているのか

ここまでの議論を、「見た目を気にするのは浅はかで、実用や変化を愛でる方が高尚だ」という結論に落とし込みたくなる誘惑はある。だが、それもまた一つの型にすぎない。カプランらの理論が示すように、判読可能性への欲求そのものは人間の認知にとって自然な働きであり、一貫したスタイルを求める心の動きを退けるべき悪癖として扱う必要はない。問題があるとすれば、スタイルというラベルが選ぶ手間を省くのと同じ勢いで、なぜそれを好きなのかを考える手間まで肩代わりしてしまう点にある。ラベルに頼ること自体ではなく、ラベルに頼りきることが、対象への理解を薄くする。

庭の雑貨を選ぶという小さな行為の中に、社会的な分類への従属と、認知的な省エネと、労力による愛着の形成と、変化への態度という、互いに独立した複数の力学が同時に働いている。どれか一つだけを取り出して「これが正解」とする態度こそが、皮肉にも冒頭で問題視した「スタイルで選ぶ」態度と同じ構造をしている。名前を付けて分類し、そこに落ち着いてしまう構造だ。

名付けを一旦手放し、手元にある一つひとつの雑貨がなぜ気になるのかを、その都度考え直す作業は、正直なところ面倒だ。北欧風という一言で片づけられていたはずの判断を、いちいち分解して確かめ直すのだから、選ぶ速度は明らかに落ちる。効率だけを基準にするなら、これは退化ですらある。それでも、遠回りをした分だけ、対象との関係は長続きしているように感じる。理由は説明しづらいが、たぶん、選んだ後にも「なぜこれを選んだか」という問いが残り続けるからだろう。答えが一度で確定してしまわない対象の方が、飽きるまでに時間がかかる。

少なくとも今のところ、完成されたスタイルよりも、少しずつ姿を変えていく雑貨の方に興味が向いている。ただし、この文章自体が数年後には「経年変化を愛でる系エッセイ」という別の分類箱に収まっている可能性は、十分に残しておきたい。

出典

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  • Csikszentmihalyi, M.(1990)Flow: The Psychology of Optimal Experience. Harper & Row.
  • Article, OnePoll(2020)観葉植物の飼育経験に関する消費者調査(学術研究ではなく市場調査)