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「おしゃれな趣味」は一万時間で育つのか、道具を疑う

「おしゃれな趣味」は一万時間で育つのか、道具を疑う

「おしゃれな趣味」の洗練は道具で買えるのか、それとも時間でしか育たないのか。脳科学と味覚研究、そして社会学の知見を借りながら、その言い方そのものを疑う。

TOMOAKI··趣味

コーヒーのハンドドリップと陶芸を、同じ棚に並べていいのか

「おしゃれな趣味は何ですか」と聞かれたときに思い浮かぶものは、たいてい似通っている。コーヒーのハンドドリップ、ワイン、陶芸、フィルムカメラ。挙げていくと、なぜかどれも道具屋で完結する趣味ばかりが並ぶ。器具を買い、教室に通い、それらしい写真を撮れば、その日から「おしゃれな趣味を持つ人」になれる——という前提が、この問いの裏には静かに置かれている。

その前提自体を、一度疑ってみたい。ある行為が「おしゃれに見える」ことと、その行為をやっている本人に何かが育っているかどうかは、別の話のはずだ。前者は見た目の話で、後者は時間の話だからだ。

もう一つ気になるのは、この種の問いに答えるとき、なぜかフィルムカメラや陶芸ばかりが挙がって、将棋や俳句や、あるいは古典的な意味での読書はほとんど挙がらないことだ。将棋盤や文庫本を美しく撮ることは、ドリップポットほど簡単ではない。つまり「おしゃれな趣味」という枠組みは、最初から写真映えという条件でふるいにかけられている。中身が何であるかより先に、被写体としての適性で選別が済んでしまっているとすれば、この問い自体がすでに歪んでいる。

ただし、この先を単純な「道具より時間、見た目より中身」という説教で終わらせるつもりはない。時間をかければ何かが育つという主張自体、疑ってかかる価値がある。もっと言えば、その主張を検証もせずに振りかざす態度こそが、このサイトが普段からからかっている「根拠のない断定」そのものになりかねない。だから今回は、感覚が本当に鍛えられるのかという問いを、実際の研究に照らして確かめるところから始めたい。

見た目が先に来る趣味と、見た目が後からついてくる趣味

試しに、世間で「おしゃれ」と呼ばれがちな趣味を、少し違う軸で分けてみる。道具を揃えた瞬間にそれらしい絵になるものと、道具だけ揃えても何も起きないものだ。この分類は完璧ではないが、少なくとも「なぜこの趣味は道具屋で完結しがちなのか」という疑問には答えてくれる。

前者の代表は、ドリップポットや万年筆のような、被写体として完成度が高い道具を使う趣味だろう。真鍮のドリップポットは、まだ一杯もコーヒーを淹れたことがなくても、棚に置いた瞬間から絵になる。買った日から見た目は完成している。後者は逆で、たとえば陶芸のろくろは、最初の数回はまず土を中心に据えることすらできず、いびつな塊にしかならない。サイクリングの自転車も、フォームができていない最初の数十キロは、傍目には単に苦しそうな人が写るだけだ。上達して初めて、はたから見て「様になる」瞬間が来る。

問題は、この二つが見た目の上ではほとんど区別できないことだ。SNSに流れてくる写真だけを見て「これが洗練された趣味らしい」と真似ると、たいてい前者を選んでしまう。道具を買った瞬間に完成する趣味を選べば、努力を挟まずに「おしゃれな趣味を持つ人」の外形だけを手に入れられるからだ。これは別に悪いことではない。ただ、それは審美眼が育った結果ではなく、道具の生産者が最初からそう設計した工業製品の恩恵にすぎない、という自覚は要る。真鍮やウォールナットの質感、丸みを帯びたフォルムといった要素は、長年の工業デザインの蓄積によって「趣味人らしく見える形」として磨き上げられてきたものであって、それを手に取った人間の内面を映しているわけではない。

感覚の解像度は、本当に上がるのか

ここで「時間をかければ違いが見えてくる」と言い切る前に、その主張自体に根拠があるのかを確かめておきたい。都合よく直感を補強する比喩で終わらせたくないからだ。

幸い、これは検証された領域である。イェール大学のアイザベル・ゴティエらは2000年、鳥類研究者と自動車マニアを対象にした脳機能画像研究を発表した。顔の識別に強く反応するとされる紡錘状回の一部——いわゆる紡錘状顔領域——が、鳥の専門家には鳥の画像に対して、車の専門家には車の画像に対して、それぞれ通常より強く反応することを示した実験である。被写体は顔ではなく鳥や車なのに、顔認識に使われる脳の領域が反応する。つまり「見分けられるようになる」という変化は比喩ではなく、対象を繰り返し弁別する訓練を積んだ結果として、脳の特定の部位の反応そのものが変わるという、測定可能な現象だということになる。これは希少な才能の話ではなく、繰り返しの結果として起きる、ごく一般的な学習効果だと考えられている。

味覚の領域でも似た報告がある。ヒューソンとボークスは2002年、ワインの卸売業者やソムリエ、ワイン教育者といった専門家と、素人を集めて同じワインを描写・分類させる実験を行った。素人は「果実味」「渋み」「甘さ」といった感覚的な軸でワインを分けたのに対し、専門家はぶどう品種という、味そのものからは一段抽象化された軸で分類した。舌に乗っている感覚を直接評価するのではなく、まず「これはどの品種の典型か」という型に当てはめて味を読む、という順序になっているわけだ。さらに興味深いのは記憶の実験で、専門家の正確さは、描写がその品種として典型的なものだった場合にだけ素人を上回り、非典型的な——つまり型から外れた——描写では逆に素人より劣ることさえあった。専門家の「わかる」は、感覚そのものが鋭くなったというより、飲む前から持っている型に照らして情報を取捨選択する回路ができあがった、という言い方の方が近い。感覚の解像度が上がるというより、情報の圧縮の仕方が変わる、と言い換えてもいい。

専門家は「見えている」のではなく、まとめて憶えている

ここでもう一つ、専門家の能力の中身を誤解しやすい古典的な実験を挟んでおきたい。心理学者のウィリアム・チェイスとハーバート・サイモンは1973年、チェスの実戦から取った盤面を5秒だけ見せ、それを再現させる実験を行った。チェスの熟達者は、この短い一瞥だけでほぼ正確に盤面を再現できた。初心者にはとうてい真似できない芸当で、一見すると熟達者は驚異的な視覚記憶を持っているように見える。

ところが同じ実験で、駒をでたらめに——実戦では絶対に起こらない配置に——並べた盤面を見せると、熟達者の再現成績は初心者とほとんど変わらなくなった。つまり熟達者が優れていたのは視覚記憶そのものではなく、実戦で繰り返し目にしてきた駒の配置パターンを、意味のある大きな塊として一度に扱えることだった。これは道具の話に置き換えると示唆的だ。長く続けた趣味人が「見た瞬間にわかる」ように見えるのは、生まれつき鋭い目を持っているからではなく、過去に繰り返し触れてきた構造をひとまとめに認識できるようになっているからにすぎない。裏を返せば、その構造に一度も触れたことのない新しい局面では、熟達者もただの人に戻る。洗練とは万能の審美眼を手に入れることではなく、特定の反復に紐づいた、かなり限定的な能力だということになる。

時間をかければいい、という話でもない

ここまでの話をつなぐと「とにかく時間をかけて繰り返せばいい」という結論に流れそうになる。だが、この結論もまた、広く誤解された研究の上に乗っている可能性が高い。

心理学者アンダース・エリクソンらは1993年、ベルリンの音楽アカデミーでヴァイオリン専攻の学生を調べ、最も評価の高い学生たちは20歳までに平均で約一万時間の練習を積んでいたと報告した。この数字はのちに「一万時間の法則」として広まり、何であれ一万時間打ち込めば熟達できるという通説になった。ところがエリクソン自身は後年、この通説を「いくつもの点で誤りだ」と明確に否定している。元の研究が示したのは、単なる練習時間の合計ではなく、明確な課題設定とフィードバックを伴う「熟慮された練習」の質だった。実際、調査対象の最上位グループの中にも一万時間に達していない学生はおり、個人差はきわめて大きい。時計を見ながら趣味に費やした時間を積み上げても、それだけでは何も保証されない。上達を左右するのは時間の量ではなく、自分の出来の悪さに正面から向き合い、次はどこを直すかを具体的に言語化できる、その反復の質の方だ。

課題を的確に指摘してくれる指導者、練習の質を高めるための個人レッスンやコーチ——こうした「熟慮された練習」を可能にする環境そのものが、時間的余裕と同じように、万人に均等には配られていない。同じ一年間趣味を続けても、良質なフィードバックを得られる環境にいた人とそうでない人とでは、育つ解像度に差が出て当然だということになる。独学で黙々と繰り返すだけでは、自分の淹れ方のどこが本当にまずいのか、気づけないまま何年も過ぎることがある。

好きになることと、見分けられるようになることは、同じ回路ではない

ただし、ここで一つ留保を入れておく必要がある。「繰り返せば解像度が上がる」という話と、「繰り返せば好きになる」という話を、無意識に混同していないか、という点だ。

心理学者ロバート・ザイアンスが1968年に定式化した単純接触効果によれば、ある対象への好意は、それをただ繰り返し見聞きするだけでも上がる。識別できるようになったかどうかとは関係がない。しかも2017年に発表された大規模なメタ分析では、この関係は単調な右肩上がりではなく、ある回数を境に好意がむしろ下がる山型——逆U字——を描くことが確認されている。最初の数回の接触がもっとも効き、そこから先は増加が鈍り、やがて飽きに転じる。

これは何を意味するか。同じ豆で同じ淹れ方のコーヒーを毎朝繰り返しても、それだけで「好きになる」ことは十分に起こり得る——味の違いを一つも識別できるようになっていなくても、である。逆に言えば、「毎朝同じ趣味に向き合っていれば、いずれ審美眼が育つ」という先ほどの私自身の主張も、実際には識別能力ではなく単なる馴染みの好意を、洗練と取り違えている可能性を常に含んでいる。長く続けている人ほど自分の目が肥えたと信じたくなるが、その確信の一部は、ただ見慣れたものを好ましく感じているだけかもしれない、という疑いを持っておいていい。両者を分けるものがあるとすれば、対象の違いに注意を向け続けたかどうか、という一点だけだ。ただ繰り返すのと、繰り返しながら違いを探すのとは、外形がまったく同じであるだけに、たちが悪い。

「問いを持ち続けられるか」を、美談にしない

ここまでの議論を素直に受け取ると、「安い道具で始めて、問いが続くかどうかを確かめてから道具を足せばいい」という結論になりそうだ。これは一見、公平で誰にでも当てはまる助言に見える。だが、この助言そのものが、ある種の恵まれた前提の上に立っていることも認めておくべきだろう。

社会学者ピエール・ブルデューは1979年の著作『ディスタンクシオン』で、趣味や好みという一見個人の自由な選択に見えるものが、実際にはその人が育った階層のハビトゥス——身についた知覚と評価の様式——によってあらかじめ枠づけられていると論じた。何かを「わからないまま繰り返す」ことに耐えられる時間的・精神的な余裕、失敗の多い初期段階を「まだ道半ばだ」と前向きに解釈できる自己効力感、そもそも即座の満足を先送りにしてよいという価値観——これらは万人に均等に配られているわけではない。仕事に疲れて帰ってきた日に、うまく淹れられないコーヒーと向き合い続ける気力を持てるかどうかは、その日の労働時間や睡眠の余裕に大きく左右される。「問いを持ち続けろ」という助言は、その余裕をすでに持っている人には正しく響き、持っていない人には単に酷な要求として響く。

だとすれば、道具を先に完成させて見た目だけ整えるという選択も、必ずしも浅はかさの証拠とは言い切れない。それは、じっくり型を破っていく時間を持てない生活の中で、それでも趣味という体裁を保つための、合理的な近道かもしれないからだ。休日出勤明けの朝に、失敗を重ねながらろくろに向き合う余力がある人と、良いドリップポットで一杯のコーヒーを淹れて満足する人とでは、どちらが趣味に対して不誠実というわけでもない。持っている時間の量が違うだけだ。批判すべきはその選択をする個人ではなく、その選択しか取れない条件の方だろう。皮肉を向けるべき先を間違えると、単なる嫌味な人になる。

「おしゃれな趣味」という言葉自体が送っている合図

もう一つ、疑っておくべき層がある。「おしゃれな趣味は何か」という問いの立て方自体が、すでに何かを目的としている、という点だ。

経済学者ソースティン・ヴェブレンは1899年の『有閑階級の理論』で、人が財を消費する目的の一部は、実用ではなく、他人に自分の余裕を見せつけることにあると指摘した。誇示的消費という、いまや広く知られる概念である。ヴェブレンが観察した19世紀末の有閑階級は、労働から距離を置いていること自体を誇示するために、実用性の乏しい装飾や、習得に無駄な時間のかかる作法を好んで身につけた。無用に見えるものにあえて時間や金をかけられること自体が、階層の証だったわけだ。「おしゃれな趣味」という言葉が指しているものの少なくとも一部は、対象そのものへの関心ではなく、その趣味を持っていると表明することの社会的効果だと考えると、道具だけ立派に揃える人々の行動は急に筋が通る。彼らは審美眼の獲得に失敗しているのではなく、そもそも審美眼の獲得を目的にしていない。目的が違うものを、同じ物差しで測って「浅い」と評するのは、こちらの読み違いだったということになる。

ブルデューの議論はここでもう一段階、話をねじる。彼によれば、こうした誇示は必ずしも露骨なブランド顕示だけを指すのではない。むしろ、あからさまな金銭的誇示を嫌い、「わかっている人にだけわかる」渋い趣味を選ぶこと自体が、より高度な文化資本を持つ層による、もう一段静かな誇示の様式だという。ブランドロゴの入った派手な道具を避け、無地の道具や、手に入れにくい少量生産の器を選ぶこと自体が、実は別の階層の記号になっている。露骨な見せびらかしを軽蔑してみせる態度そのものが、実は最も洗練された見せびらかしだった、というのがブルデューの議論の意地の悪いところだ。

だとすれば、この記事のようにドリップポットを買っただけの人を静かに見下し、「本当の洗練は時間でしか育たない」と言いたがる態度もまた、ヴェブレンの誇示的消費のもう一つの変種——文化資本による誇示——である疑いから逃れられない。道具を疑う記事は、道具を疑うという振る舞いそのものを、疑われる側に回さなければ片手落ちになる。

それでも、道具が入り口になることはある

ここまで何重にも留保を重ねてきたが、道具を全否定したいわけではない。道具がきっかけで対象に向き合う時間が生まれるなら、それは十分に意味がある。最初の一歩が見た目から入ることを、恥じる必要はない。

ワイン経済学の分野では、オックスフォード大学ブラインドテイスティング・ソサエティを対象にした訓練研究がある。ワンとプレシェルンが2019年に発表した報告は、5週間・18回の訓練セッションに参加した15人の回答用紙を分析したものだ。その期間に出されたぶどう品種のうち、単純にいちばん頻繁に登場した品種を機械的に答え続けた場合の正答率は16%にとどまる。それに対して、参加者全員の回答を突き合わせ、いちばん票を集めた品種を「その回の集団としての合議」と見なした場合の正答率は44%に達した。個人の一回きりの勘ではなく、集団の合意にまで持ち上げると、無視できない精度が姿を現すということになる。ただし、この差をそのまま「訓練の効果」と呼ぶのは急ぎすぎだろう。同じ研究では、品種についての個々人の正答率も訓練期間を通じてわずかに上昇したことが確認されている一方で、産地の国や地域についての正答率は訓練期間中まったく改善せず、ヴィンテージの正答率にいたってはむしろ悪化したと報告されている。つまり訓練が解像度を上げたと言えるのは、品種という一つの軸について、しかも集団の合議という形をとったときに限られる。「訓練を積めば何もかも見分けられるようになる」という物語は、この研究一つを見ても支持されない。

それでも、この研究が示しているのは、訓練を積んだ人と積んでいない人のあいだに、偶然では説明できない差が生まれるという事実そのものだ。差が生まれる保証はないが、差が生まれる余地は確かにある。道具はその余地に足を踏み入れるための、ただのきっかけにすぎない。良いドリップポットを買っても、豆の違いに関心が向かなければ、それは見た目の良い調理器具を持っているだけで終わる。逆に、安い道具のままでも「なぜこの豆はこう淹れるとこの味になるのか」という問いを持ち続ければ、そこに解像度が育つ余地は開かれ続ける。道具の値段は、この問いの有無をまったく保証しない。

フィルムカメラも似た構造を持つ。最初の数本のフィルムは、露出も構図も外れてばかりで、現像から戻ってきた写真の大半は見るに耐えない。それでも失敗の原因を一枚ずつ確認し、次はどこを直すかを具体的に言葉にできる人だけが、数十本目あたりから急に光の読み方が変わってくる。カメラそのものがどれだけ古く趣のある機種であっても、失敗を検証する手間を省いた人には、この変化は訪れない。道具の年代物らしさと、撮り手の解像度が育っているかどうかは、まったく別の軸にある。

見た目と中身の順番、それでも残る疑問

長く続けた趣味は、たいてい結果として見た目も良くなる。手入れの行き届いた道具、無駄のない所作、必要なものだけが残った作業台——これらは審美眼が育った副産物であって、最初から狙って作れるものではない。使い込まれた道具の傷や汚れは、装おうとして作れるものではなく、実際にその時間を費やした痕跡としてしか現れない。見た目を先に完成させてから中身がついてくることはない、というのは、ここまでの議論からもおおむね支持できる。

ただし、その中身が育つかどうかを分けるものが、本人の意志だけではなく、時間的余裕や自己効力感、良質なフィードバックを得られる環境、あるいは単なる選抜の結果でもあるという点を踏まえると、「中身のない道具趣味を続ける人」を安易に見下す資格は、こちらにもない。むしろ問うべきは他人の道具棚ではなく、自分がいまその趣味に向けている注意が、単純接触による馴染みなのか、それとも違いを探す注意なのか、その一点だけかもしれない。この二つは、外から見ても、下手をすると本人にすら見分けがつかない。見分けがつかないからこそ、時々立ち止まって、自分に問い直す価値がある。

問いは道具より地味で、地味であることに価値がある

「おしゃれな趣味は何か」という問いに、リストで答えることはできない。答えられるとすれば、それは「同じ対象に繰り返し向き合ったときに、違いを探す注意を向け続けられるかどうか」という、もっと地味な問いに置き換えたときだけだ。そしてその地味さこそが、この問いがリスト記事に馴染まない理由でもある。地味な問いは、写真映えもしないし、誰かに見せて誇示することもできない。それを承知の上でなお向き合い続けるかどうかが、結局のところ唯一の分かれ目になる。

これから何か趣味を選ぼうとしている人に、道具より先に問いを用意しておけ、と勧めるつもりはない。そう言い切った瞬間、この記事自体が自分がからかってきた処方箋の仲間入りをしてしまう。言えるとすれば、せいぜいこの程度のことだ——道具を買い足す手をふと止めて、今日その道具に向かって自分は何を知りたいと思っているのか、具体的な言葉が出てくるかどうかを確かめてみることはできる。出てこなかったとして、それが趣味としての失格を意味するのかどうかは、実のところまだよくわからない。

買い物のままで終わったとして、それを恥じる理由が本当にどこにもないのかは、正直まだ言い切れない。ただ、自分がいまどちらの状態にいるのかを知らないまま道具だけを積み増していくことには、たしかに静かな居心地の悪さが残る。その居心地の悪さの正体が、育ちそこねた審美眼への焦りなのか、それとも審美眼という物差しそのものへの苛立ちなのか。棚に並んだ道具を眺めるたびに、答えの出ない問いがまた一つ増えている。

出典

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