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趣味を「投資」と呼びたくなるとき、頭の中で起きている三つのこと
趣味の原稿を書きながら「投資対効果」という言葉に手が伸びた。罪悪感の相殺、生産性という物差し、そしてサンクコスト論法の誤用。その言葉一つが頭の中で担っている、三つの仕事について。
趣味について書こうとして、気づけば「投資対効果」という言葉を使いかけていた。写真を撮ることも、温泉に行くことも、香りを調合することも、それぞれが「人生のROIを高める」行為であるかのように整理し直していた自分に、途中で気づいて手を止めた。削除して、もっと素直な言葉で書き直した。だが削除したところで、なぜ最初にその言葉に手が伸びたのかという疑問は消えずに残った。
機会費用を考えすぎると腰が引けるとか、慣れてしまえば結局は元の幸福度に戻るとか、そういう話はすでに別のところで書いた。ここで気になっているのはもっと手前の、地味な問いだ。なぜ趣味の話をするときに限って、「楽しい」でも「気に入っている」でもなく、「投資」という金融の言葉をわざわざ選ぶ人間がいるのか。しかも選んだ本人が、選んだことにあまり自覚的でない場合が多い。言葉の選択そのものが、何かの作業をこっそり代行しているように見える。
その言葉が何をしてくれるか、を聞き直す
「投資」という言葉がここまで浸透した経緯を辿ることもできる。だが経緯を辿るより先に確かめたいことがある。この言葉を選んだ瞬間、頭の中で具体的に何が起きているのか、という点だ。看板の由来より、看板を掲げた本人が今まさに受け取っている効能のほうに関心がある。三つの効能を切り分けて見ていきたい。罪悪感の処理、生産性という物差しの持ち込み、そして撤退を難しくする仕掛けである。この三つは別々に働くこともあれば、同時に働くこともある。
楽しむことには、言い訳がいる
まず罪悪感の話から始める。ワシントン大学のエリカ・オカダが2005年に『ジャーナル・オブ・マーケティング・リサーチ』誌に発表した研究は、消費を「快楽材」と「実用材」に分けたうえで、人がそれぞれにどう向き合うかを検証している。単独で評価させると、快楽材のほうが実用材より高く評価される。ところが同じ二つを並べて選ばせると、今度は実用材のほうが選ばれやすくなるという逆転が起きる。オカダはこの逆転を、快楽材の消費には正当化が必要だという前提で説明した。実用材は「役に立つから」で押し通せるが、快楽材は「楽しいから」だけでは選びにくく、選ぶ理由をもう一段用意しないと後ろめたさが残る。
この単独評価と並列評価の逆転という現象は、趣味の語り方そのものにも当てはまる。趣味を一つだけ取り出して「楽しいからやっている」と語る分には、誰も文句を言わない。ところが、その趣味を「副業の勉強」や「資格の取得」といった、もっと実用的な選択肢と並べて語り出した瞬間、風向きが変わる。並べて考えるという行為自体が、快楽材を分の悪い位置に追いやる装置になっている。だから人は、比較の土俵に上げられる前に、自分から先回りしてその趣味を実用材の側の言葉で語り直しておく。「投資」という言葉は、比較されることを見越した、先制の言い換えだったのかもしれない。
この研究にはもう一つ興味深い結果がある。人は快楽材を手に入れるためなら金より時間を多く費やすことをいとわず、逆に実用材を手に入れるためなら時間より金を多く費やすことをいとわないという傾向が確認された。趣味は多くの場合、典型的な快楽材である。写真を撮ること自体に生活上の必要性はなく、香りを調合することも同様だ。だからこそ、時間を差し出すことには抵抗が薄いのに、それを「投資」という語で語り直そうとする動きが起きる。快楽材のままでは選びにくいものを、実用材の語彙で包み直しているということになる。ROIという言葉が呼び込む数字自体に意味があるのではない。数字を計算しようとする姿勢そのものが、快楽材を実用材の側に一時的に移し替える手続きとして機能している。
効果を先に言葉にしておけば、通行証になる
正当化の必要性についてさらに踏み込んだのが、コロンビア大学のラン・キベッツとスタンフォード大学のイタマー・サイモンソンが2002年に発表した研究である。二人はポイントプログラムの報酬選択を題材に、必要な労力の大きさが報酬の好みをどう変えるかを調べた。同じポイント数でも、それを貯めるまでにかかった労力が大きいと感じられる条件のほうが、参加者は必需品的な報酬より贅沢な報酬を選びやすくなった。労力という対価をすでに払ったという感覚が、贅沢を選ぶことへの罪悪感を先に相殺してしまうからだ、と二人は説明している。研究チームはこれを「贅沢を享受する権利を稼ぐ」現象と呼んだ。
趣味を語るときに効能を先取りして並べる行為は、この労力の役割を、まだ払っていない労力で代用しようとする試みに近い。「これは判断力を鍛える」「これは自己肯定感を高める」と始める前に言葉にしておけば、実際にはまだ何の労力も払っていないのに、贅沢を享受する権利をあらかじめ発行してしまえる。効能を語ることは、効能を得るための手段であると同時に、罪悪感を先払いで清算するための伝票でもある。伝票の中身が本当に正しいかどうかは、実のところそれほど重要ではない。伝票が発行されたという事実のほうが、心理的には効いている。
もっとも、キベッツとサイモンソンの研究が扱っていたのは、実際に貯めたポイントという、多少なりとも現実の裏づけを伴う労力だった。趣味を「投資」と語るときの効能の先取りには、その現実の裏づけがない。まだ一度も筆を執っていない段階で「判断力が鍛えられる」と書くのは、労力を先払いしているのではなく、労力を払ったことにして帳尻を合わせているだけである。元の研究が示したのは労力が正当化として機能するという事実であって、正当化の言葉さえ用意すれば労力抜きでも同じ効果が得られるという話ではない。この飛躍を自分でも見過ごしがちなところに、この種の言い換えの狡さがある。
楽しいだけでは足りない、という感覚の出どころ
ここでもう一段別の力学が加わる。ハーバード・ビジネス・スクールのアナト・ケイナンとキベッツが2011年に『ジャーナル・オブ・コンシューマー・リサーチ』誌に発表した研究は、人が「生産性志向」と呼ぶべき動機によって、必ずしも楽しくないとわかっている経験をあえて選ぶことを示した。氷点下近くまで冷やされた氷のホテルにわざわざ宿泊する。ベーコン味のアイスクリームを注文する。ニューヨークのタイムズスクエアでカウントダウンを待つ観衆や、退職後の暮らし方をテーマにした会議に集う高齢者団体の会員を対象にした調査でも、同じ傾向が繰り返し確認された。全米五十州をいつか制覇したいという目標を語る旅行者にも、これと同種の動機が見え隠れする。こうした選択に共通しているのは、味わうこと自体の快楽ではなく、時間を有効に使い、何かを達成したという実感を得ようとする姿勢だった。研究チームはこれを、経験を「チェックリスト」に沿って集め、自分だけの「経験の履歴書」を積み上げていく行為として描写した。
この生産性志向は、実験室の被験者に限った特殊な傾向ではない。趣味を「投資」と呼びたくなる場面でも、同じ動機がそのまま働いている。何かを楽しんだという事実だけでは足りず、その経験が自分の中で何らかの成長や進歩として積み上がったことを確認したくなる。SNSに趣味の進捗を記録する、資格や段位を取る、上達の記録をノートにつける。どれも悪いことではないが、これらの行為が「楽しかったかどうか」より「進歩したかどうか」を測る物差しとして機能し始めた瞬間、趣味は経験の履歴書に載せる項目の一つに変わる。ケイナンとキベッツの実験が示したように、この物差しに強く支配されている人ほど、実際の満足度が低いとわかっている選択肢のほうを選びやすい。生産性という言葉を持ち込むことは、皮肉なことに、楽しさそのものを目減りさせる方向に働くことがある。
「投資」という言葉が、そもそも借り物だという話
ここで一度、言葉そのものの中身に戻っておきたい。本来の投資という行為には、期待値の計算や、時間をかけて利益が積み上がっていく複利のような発想が伴う。今日の百円が来年の百二十円になる見込みがあるからこそ、待つことに意味が生まれる。ところが趣味において「投資」と呼ばれているものの多くは、この複利的な構造をまったく持っていない。写真を十年撮り続けても、写真そのものが資産として増えていくわけではない。技術は多少上がるかもしれないが、それは投資というより、単に慣れの蓄積と呼ぶほうが正確だ。
それでも「投資」という語を借りてくるのは、この語が持つ響きの都合の良さのためだろう。消費という語には後ろめたさが、浪費という語には非難がまとわりつくが、投資という語には将来への布石という肯定的な含みがある。中身が伴っていなくても、語感だけを輸入することはできる。経済的な実体を伴わない場面に、経済用語の持つ肯定的な響きだけを移植する。これは会計上の不正というより、感情の会計における一種の粉飾に近い。数字を偽っているのではなく、勘定科目の名前だけを偽っているという点が、この種の言い換えの見つけにくさでもある。
本物の投資であれば、複数の対象に分散させてリスクを抑えるとか、期待できる利回りに応じて配分を変えるとか、実際に数字で検討できる判断がいくつも付随する。趣味を「投資」と呼ぶとき、こうした判断の中身まで一緒に持ち込んでいる人はほとんどいない。分散も、利回りの比較も、撤退基準の事前設定もないまま、投資という語の持つ肯定的な響きだけを都合よく借りている。本来ならセットで運ばれてくるはずの計算の道具立てを置き去りにして、看板の輝きだけを持ち帰っているようなものだ。
「投資」と呼ぶと、なぜ撤退が難しくなるのか
ここまでは、なぜその言葉に手が伸びるのかという話だった。ここからは、その言葉を一度選んでしまった後に何が起きるかという話に移る。オハイオ大学のハル・アーキスとキャサリン・ブルーマーが1985年に『組織行動と人間の意思決定プロセス』誌に発表した研究は、人が一度何かに資源を投じると、その資源がもう戻ってこないとわかっていても、投じ続けることをやめにくくなるという現象を確認した。研究チームが行った実験の一つでは、参加者に、すでに50ドル払ったが実はあまり楽しめないとわかったスキー旅行と、すでに100ドル払ったが、それよりさらに楽しめないとわかったスキー旅行のどちらに行くかを尋ねた。合理的に考えれば、すでに払った金額はどちらの選択にも影響しないはずだ。ところが多数派は100ドルのほうを選んだ。より多く払ったほうを無駄にしたくないという理由からだった。
もう一つ、同じ研究チームが行った現場実験も興味深い。オハイオ大学の劇場で、定価15ドル、割引後13ドル、さらに割引した8ドルという三種類の値段で年間観劇券を売り、その後半年間の来場回数を追跡した。すると、定価で買った客のほうが、割引価格で買った客より多く劇場に足を運んでいた。安く手に入れたものより、高く払ったものを無駄にしたくないという心理が、実際の行動として表れていたことになる。アーキスとブルーマーは、この背景に、子供の頃から教え込まれる「無駄にしてはいけない」という素朴な規範があるのではないかと説明している。
ただし、この現象の測り方そのものに、近年疑問符がついていることも記しておきたい。ヴロツワフ大学のミハウ・ビャウェクとエミリア・ビェシャダが2025年に『ブレイン・サイエンシズ』誌に発表した検証では、これまで研究の現場で使われてきたサンクコスト効果を測る典型的な設問群を集め、395人を対象に改めてその一貫性を調べている。結果、似た内容のはずの設問同士でも、回答の相関はかなり弱く、内部一貫性の指標も低い水準にとどまった。つまり、サンクコスト効果という現象自体が消えたわけではないが、それを測るために使われてきた個々の設問は、必ずしも同じ心理を測っているとは言い切れない、というのがこの検証の結論である。アーキスとブルーマーが見出した傾向の骨格――無駄にしたくないという規範が判断を歪めること――が崩れたわけではない。ただ、その歪みがどんな場面でどれくらいの強さで出るかについては、思われていたほど一枚岩ではないらしい。
それでも、趣味を「投資」と呼ぶことは、この無駄にしたくないという規範を、わざわざ呼び覚ます行為であるという構図自体は揺るがない。ただ楽しんでいるだけなら、飽きたらやめればいい。だが「投資した時間」「投資した道具代」という言い方をした瞬間、やめることは損失を確定させる行為に変わる。実際にはその時間も金も、すでに使ってしまって戻ってこないという一点では、楽しんでいた時間と何も変わらない。変わるのは、それをどう呼ぶかという、ただそれだけのことだ。だが、その呼び方の違いだけで、続けるべきか、やめるべきかという判断の重さがまるで違って感じられてしまう。投資という言葉は、始めるときには贅沢を許す通行証として働き、やめようとするときには足かせとして働く。同じ一つの言葉が、入口と出口で正反対の役割を果たしているというのは、なかなか厄介な仕組みだと思う。
呼び方を変えただけで、頭の中の帳簿は動く
ここまで見てきた三つの効能――罪悪感の相殺、生産性という物差し、撤退のしにくさ――に共通しているのは、どれも現実の数字が一切動いていないという点だ。趣味に使った時間も金も、呼び方をどう変えようと寸分たりとも変わらない。変わっているのは、頭の中でその出費がどの引き出しに分類されるかという、それだけのことである。行動経済学者リチャード・セイラーが1999年に発表した「メンタル・アカウンティング」と呼ばれる理論の骨子は、まさにこの点にある。人は金を一つの資源としてではなく、目的ごとに分けられた複数の口座のように扱っており、同じ額の金でも、どの口座から出たと感じるかによって、使うことへの心理的な抵抗の大きさが変わる。
趣味に使う時間や金を「消費」の口座から「投資」の口座に付け替えることは、まさにこの分類の書き換えにあたる。銀行の帳簿であれば、口座名を変えたところで残高そのものは動かない。ところが頭の中の帳簿では、口座名を変えるだけで、そこから引き出すことへの心理的な抵抗が変わり、しかも一度その口座に入れた分を引き揚げることへの抵抗までもが変わってしまう。現実の会計であれば奇妙な話だが、頭の中の会計はこの奇妙さを日常的に許してしまう。しかもこの書き換えは、たいてい本人が意識しないまま起きている。原稿を書いていて「投資対効果」という言葉が手癖のように出てきたのも、この帳簿の書き換えが、すでに何度も繰り返されてきた作業だったからだろう。
三つの効能が、互いに手を貸し合うとき
ここまで罪悪感の処理、生産性という物差し、撤退のしにくさを、それぞれ別の研究に基づいて切り分けてきた。だが実際の頭の中では、この三つはきれいに独立しているわけではなく、むしろ手を組んで一つの流れを作っていることが多い。まず罪悪感を処理するために「投資」という言葉を借りる。次に、その投資が正しかったことを確認するために、生産性という物差しで進捗を測り始める。そして進捗が思うように出なくても、すでに投じた分を無駄にしたくないという規範が働き、やめるという選択肢が視界から消えていく。三つの機能は、それぞれ単独でも十分に強いが、この順番で連鎖すると、後戻りの難しさはさらに増す。
厄介なのは、この連鎖の入口である罪悪感の処理そのものは、悪いものではないという点だ。罪悪感を丸ごと無視して快楽材を享受できる人ばかりではない。むしろ罪悪感を多少なりとも処理できるからこそ、新しい趣味に手を伸ばせるという側面もある。問題は、その処理のために選んだ語彙が、生産性志向と無駄回避という別の二つの力学まで一緒に呼び込んでしまう点にある。罪悪感だけを処理して、あとの二つは呼び込まないという都合の良い借り方は、少なくともここまで見てきた研究群からは、そう簡単には見つからない。
言い換えれば、「投資」という言葉は単品売りをしていない。罪悪感の処理という一つの機能だけを買いたくても、パッケージには生産性志向と撤退のしにくさが同梱されている。セット販売である以上、都合の良い部分だけをつまみ食いすることは、少なくとも語彙のレベルでは難しい。だとすれば、選ぶべきなのは言葉ではなく、どのパッケージをどこまで受け入れるかという線引きのほうになる。
言葉を選び直しても、機能そのものはなくならない
ここまでの話を読むと、「投資」という言葉さえ使わなければ問題は解決するように思えるかもしれない。だが、それは急ぎすぎた結論だ。オカダの研究が示した罪悪感も、ケイナンとキベッツが示した生産性志向も、アーキスとブルーマーが示した無駄にしたくないという規範も、どれも「投資」という単語が生み出しているのではなく、その単語がたまたま便利な容れ物として使われているだけだ。単語を別のものに差し替えても、罪悪感を処理したい欲求も、進歩を確認したい欲求も、無駄を避けたい欲求も、そのまま残る。「投資」をやめて「自己成長のための時間」と言い換えたところで、同じ三つの機能がそっくりそのまま新しい容れ物に移し替えられるだけで、中身は何も変わらない。
問題は語彙の選び方ではなく、その語彙を必要としている感覚のほうにある。楽しいというだけでは、自分に対してその時間を使う許可を出しきれない。進歩したという実感がなければ、時間を使ったことの意味を確認できない。やめることが、これまで注いだものを無駄にする行為だと感じられてしまう。この三つの感覚のどれか一つでも根強く残っている限り、それを処理するための語彙は、形を変えて何度でも呼び出されることになる。皮肉なのは、この記事のようにその仕組みを解き明かしたところで、感覚そのものが消えるわけではないという点だ。仕組みを知っていることと、その仕組みから自由でいられることは、まったく別の話である。
削除した文章の跡地に残ったもの
冒頭で削除した「投資対効果」という一文は、書き直した後の原稿のどこにも残らなかった。だが、その言葉を使いたくなった理由のほうは、削除しても消えなかった。写真を撮ることに、香りを調合することに、ただ楽しいという以上の意味を持たせたい気持ちは、今もどこかに残っている。おそらくこれからも、何かのきっかけで別の言葉を借りて姿を現すのだろう。次にそれが起きたとき、少なくとも、それが罪悪感の処理なのか、進歩の確認なのか、それとも撤退を防ぐための予防線なのか、三つのうちどれが動いているのかを見分けるくらいのことはできるかもしれない。
言葉を差し替えることは対策にならない。それでも、どの機能が今、自分の中で作動しているかを見分けることは、対策と呼べるかどうかはともかく、少なくとも把握と呼べる程度のことにはなる。伝票の中身を疑うことと、伝票そのものを破り捨てることは、似ているようでいて別の作業だ。破り捨てたところで、また新しい伝票が発行されるだけだとしたら、せめて発行された伝票の中身くらいは、一度読んでおきたい。
写真も、香りの調合も、この文章を書くという作業そのものも、明日には何の数字も生まないかもしれない。それでもやめずに続けているのは、リターンを見込んでいるからではなく、ただ手を動かしている間だけ得られる何かがあるからだ。その何かに名前をつけようとするたびに、投資だの資産だのという借り物の語彙が顔を出す。名前をつけずに済ませられる場面がどれだけ残っているか。この先、その残量を数える機会のほうが増えていく気がしている。
出典
- Okada, E. M. (2005). Justification Effects on Consumer Choice of Hedonic and Utilitarian Goods. Journal of Marketing Research, 42(1), 43–53.
- Kivetz, R., & Simonson, I. (2002). Earning the Right to Indulge: Effort as a Determinant of Customer Preferences toward Frequency Program Rewards. Journal of Marketing Research, 39(2), 155–170.
- Keinan, A., & Kivetz, R. (2011). Productivity Orientation and the Consumption of Collectable Experiences. Journal of Consumer Research, 37(6), 935–950.
- Arkes, H. R., & Blumer, C. (1985). The Psychology of Sunk Cost. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 35(1), 124–140.
- Białek, M., & Biesiada, E. (2025). On the Low Reliability of Sunk Cost Vignettes. Brain Sciences, 15(8), 808.
- Thaler, R. H. (1999). Mental Accounting Matters. Journal of Behavioral Decision Making, 12(3), 183–206.
