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「1万時間」は平均だった——マスターまでの練習量は1対8に開く
ブエノスアイレスのチェス選手34人では、マスターに届くまでの練習量が3,016時間から23,608時間まで開いていた。1万時間の元の研究、その後のメタ分析、計画的な練習を唱えたエリクソンとの論争をたどり、練習量で説明できる範囲を確かめる。
平均値が基準値に変わるまで
1993年、心理学者のアンダース・エリクソンらは、西ベルリンの音楽アカデミーでバイオリンを学ぶ学生を三つの群に分けて調べた。教授たちが国際的なソリストになりうると推薦した「最も優れた」10人、同じ学科から性別と年齢をそろえて選んだ「良い」10人、そして入学基準の低い音楽教育の学科から選んだ10人である。最後の群は、将来いちばんありそうな職業にちなんで「音楽教師」と呼ばれた。学生たちは、バイオリンを始めた年から一年ごとに、一人で練習した時間が週に何時間だったかを振り返って答えた。それを足し上げると、18歳の時点で、最も優れた群は平均7,410時間、良い群は5,301時間、音楽教師の群は3,420時間になった。群の水準と練習の蓄積は、きれいに順番どおりに並んでいた。
よく知られた「1万時間」は、この18歳の値ではない。論文が群ごとの数値として本文に書いているのは18歳時点の累積で、20歳までの累積は図に描かれている。考察には「1万時間を超える計画的な練習」という言い回しも出てくるが、どの群の平均かは示されていない。のちの研究者たちは、最も優れたバイオリンの群が20歳までに平均で1万時間を超え、良い群よりおよそ2,500時間、音楽教師の群よりおよそ5,000時間多かったとし、二つ目の研究のエキスパートのピアニストも20歳までに1万時間を超えていたとしている。1万時間は、一部の群の、20歳時点の平均だった。
論文の結論は、穏やかなものではなかった。高い水準に達するには大量の計画的な練習が必要だ、というところまでなら、多くの人がうなずくだろう。著者たちはその先へ進み、自分たちの枠組みは卓越した技能の性質と希少さをめぐる「主要な事実」を十分に説明でき、しかもその説明は生まれつきの才能の希少さに頼らない、と書いた。同じ論文の結びには、熟達者と普通の大人の差が生まれつきの才能による不変のものだという見方を否定し、遺伝で決まっている例外は「ごく少数、とりわけ身長」にすぎない、という一文もある。
この論文を2008年の著書 Outliers(邦訳『天才!』)で取り上げ、「1万時間の法則」と名づけたのは、作家のマルコム・グラッドウェルだった。名前がついたところで、平均値は基準値に変わる。1万時間やれば一流になれる、あるいは1万時間やらなければ一流にはなれない、という読み方が広まった。ハンブリックらの総説の注によれば、エリクソン自身はのちに、この法則はグラッドウェルが作ったもので、自分の研究はその「きっかけ」にすぎないと断っている。もっとも、法則の名づけ親と距離を取ったところで、元の論文の主張が強かったことに変わりはない。以下で追うのは、その強い主張が、後の研究でどこまで持ちこたえたかである。
マスターに届くまで、3千時間の人も2万3千時間の人もいた
平均の陰にどれだけの幅があったかは、チェスの研究がよく見せてくれる。フェルナン・ゴベとギジェルモ・カンピテッリは2007年、ブエノスアイレスの有力なチェスクラブと複数の大会で質問票を配り、104人の選手から、一人での研究と、他の人との練習や対局に使った時間を、年ごとに答えてもらった。そのうち、レーティングの記録からマスター水準の2200点に達した年齢が分かった34人について、そこまでに積んだ時間を数えると、平均は11,053時間だった。ここだけを見れば、1万時間はそれほど外れた目安ではない。
幅のほうは、平均の印象をあっさり裏切る。最も少ない選手は3,016時間でマスターに届き、最も多い選手は23,608時間かかった。1対8の開きである。一人での研究時間だけに絞ると、728時間から16,120時間まで、22倍に広がる。そのうえ標本の中には、2万5千時間を超える練習を積みながら、まだマスター水準に届いていない選手もいた。いちばん遠回りしたマスターより長く練習して、なお届かない人がいるわけだ。著者たちは、これほどの開きは測定の誤差だけでは説明しにくいとしたうえで、領域に特化した練習は必要だが十分ではない、と結論している。
二人が共著者に加わった2014年の再分析(ハンブリックら)も、別の切り口から同じ景色を描いている。この論文の本文は手元で読めておらず、以下は本文を引用した二次情報で確かめた数字だ。選手をレーティングでマスター、エキスパート、中級に分けると、マスター16人のうち5人(31.3パーセント)はエキスパートの平均より練習が少なく、うち2人(12.5パーセント)は中級の平均にも届いていなかった。逆に、中級31人のうち8人(25.8パーセント)はエキスパートの平均より多く練習しており、4人(12.9パーセント)はマスターの平均すら上回っていた。マスターの練習量は、832時間から24,284時間まで開いていたと報告されている。ただ、832時間は前の段落の3,016時間より少ない。標本か、数えている練習の種類か、集計の仕方が違う可能性がある。原文で確かめられていないので、二つの数字はそのまま比べられない。
階級という一本の物差しで並べると、練習量の順位は何か所もねじれる。称号は同じでも、そこへ至る道のりの長さは人によってまるで違う。1万時間は、その違いを一つの平均に畳み込んだものだった。
長く練習した姉妹のほうが、レーティングは低かった
個人差の大きさを、もっと極端な形で見せる事例もある。ポルガー家のスーザン、ソフィア、ユディットの三姉妹は、幼いころから父親の監督のもとで、ほぼ毎日チェスの指導を受けて育った。チェスの英才教育の実例として、しばしば名前の挙がる家族である。心理学者のR・W・ハワードは2011年、伝記や自伝、公開されているレーティングの記録をもとに、姉妹それぞれが最高レーティングに達するまでの練習量を見積もった。
原論文は入手できておらず、ハンブリックらの総説の要約に拠るが、結果はこうだ。姉妹の一人は、推定59,904時間の練習でレーティング2735に達した。別の一人は推定79,248時間を積みながら、最高は2577で、1標準偏差以上低いところにとどまった。さらに、グランドマスターになった二人が最高レーティングに達するまでに積んだ練習量は、ハワードの標本で世界のトップ10に入った8人のグランドマスターの平均(14,021時間)を、大きく上回っていた。
同じ父親のもとで、同じ方針で育てられ、長く練習した側のほうが低い位置で止まった。条件をそろえた比較に近いぶん、練習量だけでは差を説明しきれないことが、かえってくっきり見える。とはいえ、これは三人の家族の事例研究で、練習量は伝記などからの推定にすぎない。この一例から「才能が差を分けた」と言い切ることはできない。言えるのは、練習量が多いほど上へ行く、という単純な右上がりの線が、ここでは引けないということである。
どの水準にも、平均の2割に満たない練習の生徒がいた
音楽の世界にも、似た逆転がある。スロボダらは1996年、選抜制の音楽学校に通う生徒と、一般の学校で楽器を習う生徒の練習を比べた。エリクソンが計画的な練習の重要さを支える証拠として引いてきた研究でもある。音楽学校の生徒のほうが、正式な練習を多く積んでいた。ここまでは予想どおりだ。
ところが、どの水準にも、平均の20パーセントに満たない練習しかしていない生徒と、平均の4倍を超える練習をしている生徒がいた。著者たちは、どの群にも、ごくわずかな練習で演奏の級の試験に受かってしまう生徒が少数いるようだ、と書き添えている。この原論文も未入手で、ハンブリックらの総説にある直接の引用で確かめた。
平均との比で書かれた数字なので、同じ二人を並べた比較ではない。それでも、平均の5分の1と4倍を単純に割れば、20倍の開きになる。同じ距離を、歩いて行く人と車で行く人くらいの差だ。そう考えると、「何時間やったか」より「その1時間がどれだけ効いたか」のほうが、本当は知りたい問いに思えてくる。困ったことに、その効き方の差がどこから来るのかには、練習時間を数える研究だけでは答えが出ない。
説明できたのは、平均して12パーセントだった
個々の事例を離れると、全体はどう見えるのか。2014年、マクナマラ、ハンブリック、オズワルドの3人は、計画的な練習と成績の関係を調べた研究を集め、著者たち自身の言葉で言えば初めての正式なメタ分析を行った。88本の研究、157個の効果量、参加者は合わせて11,135人。157個の相関のうち負の向きだったのは10個だけで、練習が多いほど成績も高いという向きは、ほぼ一貫していた。そのうえで、相関の平均はr=.35、練習量が説明する成績の分散は12パーセントだった。
分散を説明する、という言い方は分かりにくいので、一度クラスのテストに置き換えてみる。点数が人によってばらつくとき、そのばらつきのうち何割を、勉強時間の違いで言い当てられるか。12パーセントなら、残りの88パーセントは勉強時間以外の何かで散らばっている。勉強が効かないという意味ではない。勉強時間だけを手がかりにしても、人の差の大半は読めない、という意味だ。練習の話に戻せば、練習量は効いているが、それだけで人の差を説明するには足りない。
分野ごとに分けると、開きはさらに大きくなる。ゲームでは26パーセント、音楽では21パーセント、スポーツでは18パーセント、教育では4パーセント、そして専門職では1パーセント未満だった。ゲームの代表はチェスである。ただし専門職の数字は、効果量7件、参加者321人の薄い土台の上にあり、統計的にもゼロと区別がつかない(p=.62)。ゲームは11件で1,291人、音楽は28件で1,259人。専門職では練習が効かない、と言い切れるだけの材料はそろっていない。効くと示す証拠もまだ見当たらない。言えるのはそこまでだろう。
測定の誤差を補正すると、数字は上がる。メタ分析の著者たちは、信頼性を報告している研究がほとんどなかったため個々の値を補正しなかったが、練習量と成績の両方の信頼性を.80と仮定した場合の値も添えている。全体で19パーセント、ゲーム41パーセント、音楽33パーセント、スポーツ28パーセント、教育7パーセント、専門職は1パーセント未満のまま。メタ分析の著者たちによれば、信頼性の仮定をかなり広く動かしても、練習量が説明する部分は、説明しない部分より小さいままだった。チェスと音楽の研究を補正して並べ直したハンブリックらの2014年の再分析でも、チェスで34パーセント、音楽で29.9パーセントだった。
環境が読めるかどうかで、練習量が言い当てる割合が変わる
なぜ分野でこれほど違うのか。メタ分析の著者たちは、課題の環境がどれだけ予測しやすいかを、研究ごとに三段階で評定していた。例として挙げられているのは、予測しやすい活動がランニング、中くらいがフェンシング、予測しにくい活動が航空機の緊急事態への対処である。結果は仮説どおりに並んだ。練習量が説明する分散は、予測しやすい活動で24パーセント、中くらいで12パーセント、予測しにくい活動では4パーセントだった。
ランニングのコースは、昨日と今日で形を変えない。同じ動作を繰り返せば、繰り返した分だけ体がそれを覚える。フェンシングには相手がいて、相手は毎回違う手を打ってくる。航空機の緊急事態となると、同じ形で二度起こること自体がまれだ。ここから先は筆者の読みになるが、バイオリンの譜面も、昨日と今日で形を変えない点では、読みやすい側に近い。チェスには毎回違う手を打つ相手がいるが、ルールと盤は変わらない。どちらに寄るかは、論文の評定からは分からない。1万時間の話がバイオリンとピアノの研究から広まったのは、練習量で差を言い当てやすい場所から出発したからではないか。それを、条件が日々入れ替わる仕事の現場へそのまま持ち出せば、言い当てられる割合の見込みは小さくなっていく。
測り方の違う研究のあいだで、数字は4倍開く
もう一つ、地味だが見過ごせない違いがある。練習時間をどうやって測ったかだ。過去の練習を振り返って面接で答えてもらった研究では、練習量が分散の20パーセントを説明した。同じ振り返りを質問紙に書いてもらった研究では12パーセント、その日その日の練習を記録してもらうログの方法では5パーセントだった。三つの数字は別々の研究の集まりから出たもので、同じ人を測り方を変えて測り直したわけではない。分野の顔ぶれがそろっているとも限らない。著者たちは、記憶に頼らないログのほうがおそらく妥当な見積もりになると考え、そうだとすれば練習と成績の本当の関係は、メタ分析の平均よりも弱いのかもしれない、と書いている。
成績の測り方にも、同じ揺れがある。プロかアマチュアかといった所属で成績を分けた研究では26パーセントだったのに対し、チェスのレーティングのような標準化された客観的な尺度を使った研究では、8パーセントにとどまった。所属の違いには、選抜の段階で起きたことなど、練習量以外の差も混ざりうる、と考えることはできる。
では、振り返りの数字はどのくらい当てになるのか。手がかりは1993年の論文そのものにある。バイオリンの学生たちは、1週間の日誌をつける前に、ふだんの1週間にどれだけ一人で練習しているかを見積もっていた。見積もりと日誌の記録を突き合わせると、見積もりのほうが平均で5.2時間多かった。両者の相関はr=0.74と高く、多めに見積もる傾向は三つの群で違わなかった。聞き取りからは、見積もりが実際にできている練習量ではなく、こうありたいと思っている練習量を映しているらしいことがうかがえたそうだ。ピアニストを調べた二つ目の研究でも、熟達者とアマチュアはそろって、日誌の週の練習を平均5.2時間多く見積もっていた。
見積もりは高めに出るが、順番はおおむね保たれる。体重計にたとえれば、誰が乗っても同じくらい重く出る、目盛りのずれた体重計に近い。誰が重いかは分かるが、何キロかは信用できない。著者たちはこの性質から、何年も前の練習を振り返った見積もりも、誤差は大きくなるにせよ、群によって偏り方が変わることはないはずだと考えた。一流のオーケストラに所属する中年のバイオリニストたちが振り返った18歳時点の累積(平均7,336時間)が、最も優れた学生たちの7,410時間とほとんど同じだったことも、その裏づけとして挙げている。
ただ、目盛りのずれ方が全員に同じとは限らない。ハンブリックらは総説の中で、振り返って練習量を答えるとき、人は過去の正確な記憶より、いまの自分の腕前を手がかりにしてしまうのではないか、という可能性を挙げている。上手な人ほど「これだけ上手いのだから、これだけ練習したはずだ」と多めに答えるなら、練習と成績の相関は実際より膨らむ。振り返りの面接で20パーセント、ログで5パーセントの差は、この見方と矛盾しない。総説が引くところでは、エリクソン自身も、記者に宛てたメールの中で、発達の全期間にわたって日誌を使うよりよい研究があれば、練習量では説明しきれない差が見つかるかもしれないが、今のデータでそう言えるわけではない、と書いていた。どちらの読みが正しいのかは、練習の記録を何年も続けて取る研究がなければ決まらない。
練習に向かう傾向にも、遺伝が関わっていた
「才能ではなく練習だ」という言い方には、もう一つ見落とされやすい穴がある。どれだけ練習するか自体が、環境だけで決まっているとは限らない。ハンブリックとタッカー=ドロブは、800組を超える双子のデータで、音楽の練習と音楽での実績を調べた(2014年にオンラインで公開、掲載は2015年)。すると、練習そのものに遺伝の影響が見つかった。ただし、音楽の実績に対する遺伝の影響のうち、練習への遺伝の影響を通じて説明できたのは、およそ4分の1にとどまった。著者たちは、練習以外の、遺伝の影響を受けた要因も、実績の個人差に関わっていると解釈している。
もう一つの発見は、さらに直感に反する。遺伝の影響が音楽の実績に最もはっきり表れていたのは、練習に取り組んでいる人たちのあいだだった。練習が素質の差をならすのではなく、素質が表に出てくる場になっている、と読める。総説が引くところでは、エリクソンは2007年の論文で、練習は「健康な子どもなら誰のDNAにも含まれている眠った遺伝子」を選んで目覚めさせる、と書いていた。ハンブリックらの総説は、この結果をその主張とは逆向きだとし、練習が目覚めさせる遺伝子には人による違いがある、と読むほうが合っていると述べている。
だからといって、遺伝の影響が大きければ練習は無駄だ、ということにはならない。素質がいちばんよく表れたのは、練習している人たちのあいだだった。練習しなければ、素質の差はそもそも見えてこない。二つは綱引きの両端というより、撚り合わされた一本の縄に近い。
作業記憶の差は、練習量では埋まらなかった
作業記憶、つまり情報を頭の中に一時的に置いたまま操作する力の容量も、練習量とは別に効いていた。マインツとハンブリックは2010年、初心者からプロまで57人のピアノ奏者に、練習量の質問紙と作業記憶の課題、そして楽譜を初見で弾く課題に取り組んでもらった。計画的な練習は、初見演奏の成績の分散のほぼ半分(45パーセント)を説明した。作業記憶の容量は、それに上乗せして7パーセントを説明した。
見逃せないのは、練習と作業記憶のあいだに交互作用がなかったことだ。作業記憶の効き方は、練習の少ない人でも多い人でも同じ大きさだった。十分に練習を積んだ熟達者は、記憶の限界を回り道する仕組みを身につけるので、もとの能力の差は意味を失うはずだ、という見立てがある。少なくともこの課題では、そうはならなかった。論文の抄録は、作業記憶の容量を、一般的で安定しており、遺伝の影響を受けやすい特性だと位置づけている。練習で埋め合わせのきかない差が、ここに一つ見つかったことになる。
最初のレッスンから最初のヒットまで、0年の人も48年の人もいた
練習時間を直接測った研究ではないが、作曲家の経歴からも似た景色が見える。ディーン・キース・サイモントンは1991年、ルネサンスから20世紀までのクラシックの作曲家120人について、初めて音楽のレッスンを受けた年齢、初めて作曲した年齢、今も演奏され続ける曲を初めて書いた年齢(最初のヒット)などを集めた。そして、最初のレッスンから最初のヒットまでを「音楽の準備期間」、最初の作曲から最初のヒットまでを「作曲の準備期間」と呼んだ。
音楽の準備期間は、数え方によって平均17年から22年、短い人では0年、長い人では48年あった。作曲の準備期間は平均10年から14年で、こちらも0年から43年まで開いていた。そのうえで、準備期間の短い作曲家ほど、最も多作だった年の作品数も、生涯の作品数も、死後の評価も高い傾向があった。評価との相関はr=-.13から-.22と控えめで、統計的に有意に届かないものも混ざっている。生まれた年の影響を取り除くと、すべての相関が有意になったと、サイモントンは報告している。
注意したいのは、ここで比べられているのが準備期間の長さと後の実績であって、練習時間ではないことだ。レッスンを始めた年から数えた年数には、その間どれだけ熱心に練習したかは含まれていない。だからこの研究は、練習の量より芽が出る早さのほうが大事だ、と言っているわけではない。言っているのは、同じ「一流の作曲家」に数えられる人たちのあいだでも、最初の成功までの道のりは何十年も違い、その違いがその後の実績と、かすかに結びついているということだ。早く芽が出た人ほど、その後も演奏され、評価される機会に恵まれやすかった、という別の巡り合わせが働いていた可能性も残る。
「それは計画的な練習ではない」という反論
こうした数字に、エリクソンは黙っていなかった。ハンブリックらの総説によれば、2014年のメタ分析に対する未刊行の論評で、彼は88本の研究のうち、練習量と成績の関係を正しく見積もるための自分の基準を満たすのは1本だけだとした。その1本とは、1993年の論文の二つ目の研究、つまりピアニストの研究である。退けられた研究の中には、エリクソンが以前、計画的な練習の重要さを示す証拠として自ら引いていたものや、彼自身が共著者に入ったダーツの研究も含まれていた。
2016年、マクナマラ、モロー、ハンブリックの3人は、スポーツの研究だけを集めた続編のメタ分析を発表した。練習量が説明した分散は全体で18パーセント。著者らの紹介によれば、オリンピック選手と国内レベルの選手のような、トップどうしを比べた研究に限ると、わずか1パーセントだった。これに対してエリクソンは、このメタ分析が「計画的な練習」という言葉を、グループでの活動、テレビでの試合観戦、遊びや試合まで含む、ほとんどあらゆる競技関連の活動を指すものとして使っていると批判した。彼の言う計画的な練習は、指導する教師が選んだ課題に、はっきりした目標と、すぐに返ってくる的確なフィードバックのもとで、一人ひとりが取り組むものである。どんな練習でも1時間は1時間として足し上げるのは、すべての練習が同じ効き目を持つと仮定するのに等しい、というのが彼の言い分だった。
マクナマラらの再反論は、数字で応じている。客観的な成績の尺度を使った研究に絞っても20パーセント、グループでの練習を含まない個人の練習だけを測った研究に絞っても22パーセントで、全体の18パーセントとほとんど変わらなかった。遊びや試合を含む合成の指標を除いても、18パーセントが17パーセントになるだけだった。教師が設計した練習に限るべきだ、という点についても、エリクソン自身が1998年に、計画的な練習とは教師か本人が設計した訓練活動だと書いていたことを引いている。
2018年、ハンブリックらはこの応酬を一歩引いた位置から整理した。エリクソンの書いたものの中で、計画的な練習の定義は、教師が必ず関わるもの、たいてい関わるもの、関わらなくてもよいもの、の三通りに揺れている。相関が予想より弱く出たときには、練習が十分に計画的でなかった、教師のやり方がまずかった、と言える余地が残る。その余地があるかぎり、計画的な練習の重要さをめぐる主張は反証しにくい、と彼らは指摘する。
この論争で問われているのは、もはや練習が効くかどうかではない。どちらの側も、練習が重要であること自体は認めている。食い違っているのは、何を練習と呼ぶかという線と、その線を誰がいつ引くかだ。線を細く引けば理論は守りやすくなる。そのぶん、私たちがふだん「練習」と呼んでいる時間の多くは、理論の外へ出ていく。ジムに通う時間も、資格試験の過去問を解く時間も、指導者による課題の設計や即座のフィードバックという条件を、厳密には満たしていないことが多いだろう。
効かないわけではないが、一本の物差しでもない
ここまでの数字を並べても、「練習は無意味だ」という結論には飛びつけない。157個の相関はほとんどが正の向きで、総説の著者たち自身も、練習量が説明する分散は小さくない量だと認めている。ゲームや音楽では、練習量は今も有力な手がかりの一つである。おかしいのは、練習量で言い当てられる割合が分野によってこれほど違うこと、同じ階級の中にこれほどの開きがあることを素通りしたまま、一つの数字があらゆる分野の目安として持ち出されてきたことのほうだ。
並べ直してみる。マスターに届くまでの練習量は、同じ街のチェス選手のあいだでも1対8に開いていた。同じ家で育った姉妹では、伝記から推定した練習量で見ると、長く練習した側が低いところで止まった。日々の記録で練習を測った研究に限ると、練習が説明する割合は5パーセントだった。練習に向かう傾向にも遺伝が関わり、素質の差は、練習している人のあいだでむしろ大きく表れていた。何を練習と数えるかという線は、提唱者自身の書いたものの中でも揺れている。
音楽学生の練習室で生まれた平均値は、そこから遠い場所へ持ち出されるほど、少しずつ当てはまりを失う。それでも、問いは残る。自分が積んできた時間のうち、どれだけが本当に効いていたのか。その時間の数え方を、誰が決めているのか。1万時間という数字は、その問いに答えてはくれない。問いのありかを、ずいぶん遠回りに指さしているだけである。
出典
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Gobet, F., & Campitelli, G. (2007). "The Role of Domain-Specific Practice, Handedness, and Starting Age in Chess." Developmental Psychology, 43(1), 159–172.(著者の最終稿で確認)
Hambrick, D. Z., Oswald, F. L., Altmann, E. M., Meinz, E. J., Gobet, F., & Campitelli, G. (2014). "Deliberate Practice: Is That All It Takes to Become an Expert?" Intelligence, 45, 34–45.(本文は未入手。チェスの群別の人数と割合、マスターの練習量の幅は、本文を引用した二次情報で確認。補正後の34%・29.9%は Hambrick et al. 2016 の章で確認)
Howard, R. W. (2011). "Does High-Level Intellectual Performance Depend on Practice Alone? Debunking the Polgar Sisters Case." Cognitive Development, 26(3), 196–202.(未入手。Hambrick et al. 2016 の章の要約による二次情報)
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