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「痩せるために運動する」人ほど運動から離れていく逆説
体重や外見を動機に運動する人ほど参加が減り、通えたとしても満足感が目減りするという逆説がある。動機づけの「向き」を扱った実験群を辿りながら、結果志向とプロセス志向のどちらを土台にし、どちらをいつ重ねるかを考える。
「痩せるために運動する」という順序を、以前この場所でNEATという切り口から疑ったことがある。意志力は使うたびに消耗する有限な資源だから、運動をコストとして支払い減量をリターンとして得るという等価交換の発想自体が、続かない原因になっているのではないか、という話だった。今回はその隣にある、もう少し具体的な問いを立ててみたい。同じジョギングでも、同じ筋トレでも、それを何のためにやっているかという「目的の置き場所」が変わるだけで、体はまったく別の行動として扱うのではないか、という疑いである。
体重を減らすという目的そのものが悪いという話をしたいわけではない。数字は具体的で、達成の有無がはっきりしていて、動き出すきっかけとしては悪くない。問題はその先、目的が「結果」の側にずっと居座り続けたときに、行動そのものと、行動から得られる満足感の両方に何が起きるかである。運動心理学の一部は、この「目的の向き」を実験と観察の両方で測ってきた。結論を先に言ってしまうと、向きは細部として無視できるものではなく、続くか続かないか、そして続けたところで満たされるかどうかまで左右するほど太い変数として扱われている。しかも厄介なことに、その向きは一種類の物差しでは測りきれない。動機の種類そのもの、動機を渡す言葉、動機と環境の噛み合わせ、それぞれ別の研究がそれぞれ別の角度から手をつけていて、単純にひとつの結論へと収斂してはくれない。
「外見のため」という動機は、なぜ参加を減らすのか
2008年にイングルデューとマークランドが発表した研究がある。イギリスのオフィスワーカー252人、平均年齢40歳を対象にした横断調査で、運動の動機を「外見・体重」「健康・体力」「社会的つながり」の三系統に分け、それぞれが実際の運動参加にどうつながるかを構造方程式モデリングで追跡している。この手法の利点は、動機が参加に直接効くのではなく、どの種類の「自己調整」を経由して効くのかまで分解して見られる点にある。自己決定理論では、行動を続けさせる調整の質を、報酬や罰など外部の力に従う「外的調整」、義務感や体裁を気にする「取り入れ的調整」、自分にとって意味があると納得している「同一化的調整」、行為そのものが目的になっている「内発的調整」という具合に区別する。同じ「運動する」という一語の下に、性質のまるで違う仕組みが同居しているという考え方だ。
この研究が示した経路は、素朴な期待を裏切るものだった。外見・体重を動機に挙げた人ほど外的調整が強まり、その外的調整を経由して実際の運動参加はむしろ減少するという経路が確認された。一方、健康・体力を動機に挙げた人は同一化的調整を経由して参加が増加し、社会的つながりを動機に挙げた人は内発的調整を経由していた。動機が強いことと、それが行動を後押しすることは、別の話だという点がここでの肝である。体重や外見を気にしている人が運動に無関心なのではない。むしろ強く気にしているからこそ、その気がかりが「やらされている」に近い外的調整として処理され、結果として足が遠のく方向に働いてしまう。真面目に痩せたいと思っている人ほど続かない、という構図が、意志の弱さの話ではなく調整の種類の話として立ち上がってくる。
なぜ体重や外見という動機だけが外的調整に流れやすいのか、という点は、この論文自体が明言しているわけではないが、指標そのものの性質を考えると腑に落ちるところがある。体重や外見は、運動という行為の外側にある結果指標であり、しかも食事や睡眠、遺伝的な体質など、運動以外の要因からも強く影響を受ける。今日どれだけ丁寧に走っても、体重計の数字は思ったようには動かない日の方が多い。一方、健康・体力という動機は、その日の運動そのものの中に達成の手応えがある程度含まれている――前より長く走れた、前より軽く感じた、という具合に。行為の外に結果を置くか、行為の中に結果を織り込むかという違いが、外的調整と同一化的調整という別々の回路を呼び込んでいるのかもしれない。
通ったところで満たされない、という逆説その二
運動に通えるかどうかという入り口の話だけをしていると見落とすことがある。ここでいったん、参加の量そのものから離れて、参加できた日に何が起きているのかを見ておきたい。2014年にホーマンとタイルカが発表した調査では、アメリカの女子大学生321人を対象に、運動頻度と、体を肯定的に捉える感覚――自分の体をありのまま受け入れる「身体評価」、体の見た目より機能や感覚に注意を向ける「内的な身体志向」、自分の体が実際にできることへの満足感である「機能的満足感」――の三つとの関係を調べ、そこに「外見・体型を変えるために運動しているか」という一問の質問紙で測った外見動機を、影響の強さを調整する変数として組み込んだ。
結果は階層的重回帰分析で示された。運動頻度が高い人ほど身体評価も内的身体志向も高い、という素直な関係はまず確認された。だが外見動機を交互作用項として加えると、身体評価への交互作用は統計的に有意(β=−.241、p<.001)、内的身体志向への交互作用も有意(β=−.166、p=.004)で、外見のために運動している度合いが強い人ほど、運動頻度が上がってもその恩恵が目減りしていくという構図が浮かび上がった。しかも外見動機は身体評価に対して単独でも負の効果を持っていた(β=−.192、p=.002)。同じ回数だけ体を動かしても、何のためにそれをしているかによって、動いたあとに残る満足感の量そのものが違う。これはイングルデューとマークランドの研究が測っていた「参加量」の話ではなく、その一歩手前、「参加できたとしても何が得られるか」という話であり、二つの研究を重ねると、外見・体重志向の運動は入口でつまずきやすいだけでなく、たとえ入口を越えても出口で目減りしやすいという、二段構えの不利を負っていることになる。
だとしても、結果志向を最初から捨てるべきではない
ここで「体重や外見を動機にするのはやめて、健康やつながりを動機にすべきだ」という処方箋に飛びつきたくなるが、これは急ぎすぎている。2007年にバックワースらが行った研究は、この飛躍にブレーキをかける材料を持っている。大学生184人と220人を対象にした二つの調査で、運動行動の変化ステージ――無関心期、関心期、準備期、実行期、維持期――ごとに、内発的動機と外発的動機の相対的な重みがどう変わるかを追跡したものだ。結果、外発的動機、その中でも身体的な見た目に関わるものが高く出るのは主に初期のステージであり、維持期に至るまで運動を続けられている人ほど、内発的動機が外発的動機に対して相対的に強くなっていくことが示された。継続的に活動的なままでいたグループは内発的動機が外発的動機を上回る傾向を学期を通して保ち続け、継続的に不活発なままだったグループは内発的動機そのものが時間とともに下がっていった。
つまり、外発的な結果志向そのものが問題なのではなく、それがいつまでも唯一の駆動源であり続けることの方が問題らしい。重い腰を持ち上げる最初の一押しとして、体重や見た目という具体的な数字はよく機能する。抽象的な「楽しいから」という理由だけで、運動未経験の人がある日突然ジムに向かうことは考えにくい。目標が具体的で、達成の有無が誰の目にも明らかで、他人に説明しやすいという点では、体重や見た目に勝る初動の動機は少ない。「なぜジムに通っているのか」と聞かれて「三キロ痩せたいから」と答えるのと、「運動が楽しいから」と答えるのとでは、前者の方がはるかに説明として成立しやすく、自分自身への説明としても納得しやすい。走り出す前の段階では、この説明のしやすさそのものが背中を押す力になる。
イングルデューとマークランド、ホーマンとタイルカの二つの研究と、バックワースらの研究は、一見矛盾しているように見えて、実は時間軸を分けて見ればそれぞれの持ち場を持っている。前者二つが測っていたのは、ある一時点における動機の構成と、参加量あるいは満足感との関係であり、後者が測っていたのは、時間の経過とともにその構成がどちらの方向に動くべきかという軌道の話だ。結果志向は入口として悪くない。問題は、入口に立ったまま動かないことである。
この移行を、自己決定理論はもう少し精密な言葉で説明している。冒頭で触れた外的調整・取り入れ的調整・同一化的調整・内発的調整という四段階は、対立する二つの陣営に分かれているのではなく、外から来た動機がどれだけ「自分のものとして飲み込まれているか」という一本の連続体として並んでいる。バックワースらが観察した維持期の運動者は、外発的動機そのものを捨てたわけではなく、それが取り入れ的調整という「義務感」の水準から、同一化的調整という「自分にとって意味がある」という水準へと、じわじわ飲み込まれ方を変えていった、と読む方が実情に近いのかもしれない。動機の種類を入れ替えるのではなく、同じ動機の消化のされ方が変わっていく、という捉え方である。
言葉の与え方だけで、数か月後の入会率まで変わる
ここまでは動機の分類と、参加量あるいは満足感との相関、あるいは経時変化の観察だった。相関である以上、「もともと運動が続く性格の人が健康志向を選び、続かない性格の人が外見志向を選んでいるだけではないか」という疑いが残る。この疑いに実験で答えたのが、2004年にヴァンステーンキステ、シモンズ、スーネンス、レンスが発表した研究である。参加者に同じ運動プログラムを課したうえで、その目的を三通りの説明文で提示した。一つは「健康と体力の向上」という内発的な将来目標として枠づけたグループ、一つは「体型と見た目の魅力」という外発的な将来目標として枠づけたグループ、もう一つは特に将来目標を示さない統制グループである。動機は本人がもともと持っていたものではなく、実験者が渡した一枚の説明文によって外から与えられている。
結果は、内発的な枠づけを与えられたグループが、努力量、自律的な動機づけの度合い、パフォーマンス、そして数か月後の継続率のいずれにおいても、外発的な枠づけのグループと統制グループの両方を上回った。外発的な枠づけのグループは、多くの指標で統制グループとほぼ同水準か、それを下回る結果に沈んだ。目的を示さない方が、見た目のためだと明言するよりもましだったことになる。さらに興味深いのは、この効果が実験の場に留まらず、後日調査したスポーツクラブへの加入行動という、参加者の日常の選択にまで及んでいた点だ。運動の中身も回数も同じまま、渡された説明文の一枚だけが違う。それだけで、数か月先の生活における行動の選択が動いたということは、動機の質が生まれつきの性格や意志の強さではなく、外からいくらでも書き換え可能な変数であることを示している。
外からの言葉は、内側の動機を上書きしきれない
ただし、外からの枠づけが本人の動機をいつでも一方的に塗り替えるかのように読むのも、また単純化が過ぎる。2014年にオハラ、コックス、アモローズが行った実験がある。大学生の女性48人を、内容は同一の30分間の集団エクササイズクラスに無作為に割り当てるのだが、インストラクターの声かけだけを二通り用意した。一方は腹筋運動の効果を引き締まった見た目の変化として説明する台本、もう一方は同じ腹筋運動の効果を体幹の強化や可動域の広がりという機能面から説明する台本で、動きも音楽も服装も同じにそろえてある。測定したのは、運動中にどれだけ自分の体を観察者の視点から眺めてしまうかという状態、そのクラスをどれだけ楽しめたかという評定だった。
結果は、単純な「外見を強調されると誰でも辛くなる」という予想を裏切るものだった。もともと健康・体力を目的として運動している度合いが強い参加者は、外見重視のクラスに入れられても、そうでない参加者に比べて有意に観察者視点での自己注視が弱かった(交互作用 p=.02)。つまり、外から見た目を強調する言葉を浴びせられても、自分の中に健康志向という土台がすでにあれば、その言葉にあまり乗っ取られずに済んでいた。逆に、健康志向が薄い参加者だけが、外見重視のクラスで強く見た目を意識させられていた。楽しさについても興味深いねじれがあった。健康重視のクラスでは、もともと健康志向が強い参加者ほど楽しめていたが、外見重視のクラスでは、参加者自身の健康志向の強弱による楽しさの評定の差がほぼ消えていた。もっとも、この楽しさをめぐる交互作用そのものは統計的に有意ではなく(p=.10)、有意だった自己注視の効果(p=.02)ほど確かな知見ではない。傾向として面白いが、言い切れる強さの結果ではないという留保はつけておきたい。外からの言葉と内側の動機がかみ合っているときには相乗効果が出るが、かみ合っていないときの落ち込み方は、外見重視の場では起きるようで起きていない。ヴァンステーンキステらの実験が示した「渡された説明文一枚で行動が変わる」という結果は本物だが、それは白紙の状態に言葉を書き込んだ場合の話であって、すでに何かが書き込まれている紙に上から別の言葉を重ねる場合には、元の文字がどれだけ濃いかによって効き方が変わる。参加者48人、一回きりの30分間クラスという実験の規模も割り引いて読む必要がある。日常的に何年も通うジムで同じ声かけが毎回繰り返された場合に、同じ非対称性がそのまま保たれるのか、それとも繰り返しのうちにどちらの参加者も声かけの方に慣らされていくのかは、この一回きりの実験だけでは分からない。
数値目標と体感目標を、実際に競わせた実験
ここまでの研究はいずれも、動機が「何に向いているか」という自己報告や説明文といった言葉の水準の話だった。もう一段具体的に、実際の運動指示そのものを結果志向とプロセス志向に分けて競わせた実験もある。2024年にテイシェイラ、バストス、アンドラーデ、パルメイラ、エッケカキスが発表したランダム化比較試験で、日常的な運動習慣を持たない成人47人を二群に分けた。両群とも頻度・強度・時間・種目という数値目標に基づく同一のFITT方式の運動処方を三回受ける点は共通している。違いは、実験群には加えて、事前に測定した自分の快・不快の感じ方に基づいて運動強度を自己調整するよう指示された点にある。決められた数値目標をどれだけ達成したかではなく、その瞬間の体感がどうだったかを基準に強度を決めてよい、という指示である。
主要な指標は、介入終了後8週間のジム出席回数という、意見でも自己申告でもない、入退場記録による客観的な行動データだった。結果、対照群の平均出席回数が8.13回だったのに対し、実験群は14.35回で、77%多く出席していた(p=0.018、効果量η²p=0.120)。しかもこの差は時間の経過とともに縮小するどころか、介入が終わったあとの8週間を通じて維持されていた。運動セッションそのものへの快感評定や、あとから振り返ったときの記憶、次はどう感じるだろうという予期のいずれにおいても、体感を基準にしたグループの評価が一貫して高かった。数値目標を渡されて「これをこなす」という結果志向の処方は、同じ運動量であっても、体感を基準にした処方に長期的な行動量で負けたことになる。この論文には後日、表の数値転記に誤りがあったとする訂正が出ているが、著者らはその訂正が結論そのものには影響しないとしている。参加者47人という規模は小さく、対象もある地域のヘルスクラブの利用者に限られるため一般化には慎重であるべきだが、それでも「同じ運動を、結果の言葉で渡すかプロセスの言葉で渡すかで、あとの行動量が変わる」ということを、無作為割り付けの実験として示した意味は小さくない。
それでも、結果志向を手放せない理由
ここまでを並べると、結果志向は分が悪い側に見える。だが、この結論を額面通りに受け取って「体重の数字は見るな、体感だけを頼りにしろ」と言い切るのも、また別の乱暴さを持ち込むことになる。バックワースらの研究が示していたのは、外発的な動機が悪者なのではなく、それが唯一の燃料であり続けることの脆さだった。体重計の数字は、多くの人にとって、動き出すための最初の摩擦を減らす具体的な取っ手であり続けている。抽象的な「体感を大事にしよう」という言葉だけで、運動経験のない人がその日のうちに靴を履くとは考えにくい。テイシェイラらの実験にしても、体感重視のグループが最初から何の数値目標も持っていなかったわけではない。同じFITT方式の処方を土台にしたうえで、そこに体感による自己調整という層を重ねただけである。結果志向を土台から取り除いたわけではなく、その上に別のレイヤーを足している。
ホーマンとタイルカの研究についても、一枚岩の結論として読むのは早いが、読み方には注意がいる。外見動機は、身体評価・内的身体志向・機能的満足感という三つの指標すべてで、運動頻度がもたらす恩恵を目減りさせる方向の交互作用を持っていた(身体評価 β=−.241、p<.001、内的身体志向 β=−.166、p=.004、機能的満足感 β=−.142、p=.013)。外見のために運動している度合いが強い人ほど、運動すればするほど得られるはずの満足感の伸びが鈍る、という構図自体は三つの指標に共通している。ただし目減りの深さには差があった。単純傾斜分析を見ると、外見動機がもっとも強い層では、身体評価も内的身体志向も運動頻度との関係そのものが統計的に有意ではない水準まで落ち込んでいた(それぞれ β=−.086、β=.098、いずれも非有意)。一方、機能的満足感は外見動機が強い層でも運動頻度との正の関係が有意なまま残っていた(β=.216、p=.012)――目減りはするが、消えはしない。動機の向きが与える影響は、体験のどの側面を見ているかによって濃淡があるのであって、外見動機に触れた瞬間にすべてが同じ深さで台無しになるという単純な話ではない。「今日は前より長い距離を走れた」という機能面の手応えは、体重や外見という目的の陰に置かれても、他の側面ほど簡単には摩耗しない、という程度の頑丈さは持っているらしい。なぜ機能的満足感だけがこの摩耗に強いのかは論文自体が答えを出しているわけではないが、体が実際に動いた感覚は、鏡に映る見た目や体重計の数字と違って、その場で本人がじかに感じ取れる一次情報だという点は関係していそうだ。伸びた可動域や軽くなった足取りは、外見という目的を挟んでも上書きしにくい体験なのかもしれない。
オハラ、コックス、アモローズの実験が加えているのは、もう一枚のひねりだ。移行は本人の内側だけで起きるとは限らず、外からの言葉によって手助けされることもあれば、逆に妨げられることもある。健康志向がすでにいくらか育っている人に対して、健康を強調する環境を用意すれば、その育ちかけの志向はさらに伸びる。しかし志向がまだ育っていない人に、健康を強調する言葉だけを浴びせても、育っていない土台に水をやるようなもので、目立った効果は出にくい。逆に外見を強調する環境は、すでに健康志向を持っている人への悪影響は限定的だが、まだ何も育っていない人にとっては外的調整を強める方向にしか働かない。つまり、どちらの方向に育てたいかという意図と、今どのあたりまで育っているかという現在地の両方を見ないと、外からの働きかけは空振りに終わる。
そう考えると、問われているのは「結果志向かプロセス志向か」という二択ではなく、「どちらを土台にし、どちらを上に重ねるか、そしてその配分をいつ組み替えるか」という設計の問題に近い。体重や見た目という具体的な数字で最初の一歩を踏み出し、踏み出したあとのどこかの時点で、その日の運動がどう感じられたかという体感の側に比重を移していく――という順序を、自分の中の暫定的な仮説として置いてみている。この移行がうまくいかないと、イングルデューとマークランドやホーマンとタイルカが観察したような、外的調整に縛られたまま参加が先細り、通えたとしても満足感が目減りしていく経路に乗ってしまう。移行がうまくいけば、バックワースらが維持期の運動者に見出した、内発的動機が相対的に優位になっていく軌道に乗る。同じ「痩せたいから運動する」という出発点から、まったく違う二つの行き先が伸びている。
体重計の数字が、目的地から出発点に変わるとき
この一連の研究をつなげてみて意外だったのは、動機の質が本人の性格の反映ではなく、外からの働きかけでかなりの部分まで動くという点だった。運動を続けられるかどうかという、いかにも個人の資質に還元されがちな問題の相当な部分が、実は本人の外側、渡された言葉や環境の設計の側に委ねられている。ヴァンステーンキステらの実験が渡していたのは、たった一枚の説明文である。テイシェイラらの実験が変えていたのは、同じ運動処方に添えられた一言の指示だけである。どちらも運動の中身そのものには手を加えていない。変えたのは、その運動を本人がどう位置づけるかという、言葉の水準の設計だけだ。だとすれば、続けられるかどうか、そして続けた先で何を受け取れるかを決めているのは、根性でも生まれつきの意志の強さでもなく、目的をどの順番でどこに置くかという、もっと操作可能な変数だということになる。
自分の場合で言えば、体重や見た目という結果を、行動の目的地としてではなく、単なる出発点として扱い直せないか、という程度の距離感で見ている。動き出すためのきっかけとしては使い切ってしまい、動き出したあとは、その日の運動がどう感じられたかという方に注意を移していきたい、という願望に近い。そうした切り替えのタイミングを自分の中に意識的に持てるかどうかで、続くか続かないか、続けたところで何が残るかが変わってくるのかもしれない――今のところは、そう仮説を立てているだけである。
もっとも、この切り替えは一度きりの決断として起きるわけではないだろう。体重計に乗って落胆する日は、健康志向がどれだけ育っていても消えない。むしろ、結果の指標と体感の指標が同時に頭の中に共存していて、その日どちらの声が大きいかが日替わりで入れ替わっている、というくらいの解像度で捉えた方が実情に近い気がする。ある日は体重計の数字に引きずられて重い足を引きずり、別の日は次の一歩の感触だけを頼りに気づけば一時間が過ぎている。どちらの日があってもよく、比率が少しずつ後者に傾いていけば、それで十分だという程度の緩さで見ておきたい。体重計の数字を見て運動靴を履いた日と、次のホールドやその日の空気の匂いに気を取られて時間を忘れた日とでは、体にとっての意味がすでに違っている。その違いに早めに気づけるかどうかが、結局のところ一番実務的な問いなのだと思う。
出典
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