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「可能自己」――そのウエストは、誰の体のために保管されているのか
体形が変わって合わなくなったズボンを、直すか、手放すか、そのまま吊るしておくか。この判断の難しさの正体は生地の伸縮ではなく、自分がどの「自分」を信じているかという、もっと厄介な場所にあるらしい。
スラックスのホックが、以前より強く肌に食い込む。もう何か月もそうだ。ダイエットの計画を立てるでもなく、諦めて処分するでもなく、ただハンガーにかけたまま季節をやり過ごしている。この宙ぶらりんの状態を続けているのは、面倒くさがりだからだと自分では思っていた。だが縫い目をほどいてホックの位置をずらそうとしたとき、これは裁縫の問題ではなく、もっと別の種類の判断だという気がしてきた。生地に触れる前に、まず片づけなければならない問いがある。このズボンは、いったい誰の体のために保管されているのか。
今の自分の体のためなら、位置を直せばいい。数年前の自分の体のためなら、いつか戻る前提でそのまま待たせておけばいい。あるいは、まだ見ぬ将来の自分の体のためなら——痩せた後の自分、あるいは今より緩んだ後の自分——このズボンは、どちらの体にも合わせて調整できる余地を残しておくべきということになる。ホックを一つ外側につけ直すという、数分で終わる単純作業の手前に、こうした身も蓋もない選択が横たわっている。厄介なのは、この選択を先延ばしにできてしまう点だ。ハンガーにかけたままにしておけば、どの体のためのズボンかを決めずに済む。クローゼットの奥で止まっている衣類の大半は、たぶんこの判断の先延ばしそのものである。
もう少し正直に言うと、この先延ばしには方向性がある。ウエストがきつくなった服を前にしたときと、逆にぶかぶかになった服を前にしたときとでは、湧いてくる感情の色合いがまるで違う。前者にはどこか気まずさが伴い、後者には軽い誇らしさが伴うことが多い。だが、どちらも同じ「今の体と服が一致していない」という状態にすぎない。感情の非対称は体の変化そのものではなく、その変化がどちらの方向に向いているかについて、自分がすでに下している評価から来ている。ズボンを前にした逡巡を体の問題として片づける前に、まずこの評価の出どころを疑ってみたい。
そのズボンが待っているのは、過去の自分ではないかもしれない
「痩せたらまた着る」という言い訳は、過去への未練のように聞こえるが、よく考えるとおかしな話だ。過去に戻りたいのなら、その過去の自分に一番近いのは今の自分のはずで、時間はそこへ向かって進んでいない。ここで起きているのは回顧ではなく、まだ実現していない未来への投資に近い。心理学者ヘイゼル・マーカスとポーラ・ヌリウスが1986年の論文で提示した「可能自己(possible selves)」という概念が、この錯覚を説明してくれる。二人は、人が自分について抱く認識には、今の自分の姿だけでなく、なりたい自分、なるかもしれない自分、なることを恐れている自分という、いくつもの未実現の像が含まれると論じた。可能自己は単なる空想ではなく、現在の行動に方向性と意味を与える、動機づけの装置として機能するという。
この枠組みに照らせば、合わなくなったズボンは過去の記念品ではなく、「痩せた自分」という可能自己の物質的な担保として機能していることになる。ハンガーにかけたままのズボンは、その可能自己がまだ有効であることを、視界の隅で毎日確認させてくれる装置だ。捨てるという行為が単純な処分に留まらず、妙な喪失感を伴うのは、布切れ一枚を失うからではなく、その布が担保していた「なれたかもしれない自分」という選択肢ごと手放すことになるからだろう。ここで一度立ち止まっておきたいのは、この可能自己が指しているのが必ずしも「より痩せた自分」だけとは限らない、という点だ。体形の変化は増える方向にも減る方向にも起きる。ゆったりした服が窮屈になった人だけでなく、逆にぶかぶかになってしまった人にも、同じ理屈がそのまま当てはまる。担保されているのは特定の体型ではなく、あくまで「今とは違う体」という空白の座席にすぎない。
二種類の後ろめたさを混同しない
マーカスとヌリウスの整理では、可能自己は「なりたい自分」だけでなく「なることを恐れている自分」も含む。ここが見落とされやすい。ウエストがきつくなったズボンが担保しているのは、必ずしも希望に満ちた未来ではなく、この「恐れている自分」の座席である場合も多い。かつて着られていたという事実そのものが、今の体はそこから外れてしまった、という比較の基準点として働いてしまうからだ。逆に、体が絞れて余ってしまったジャケットが担保しているのは、たいてい「なりたい自分」の側の座席になる。同じ「もう合わない」という状態でも、どちらの可能自己が働いているかによって、その服を手元に置いておくことの意味は正反対になる。恐れている自分の座席を担保し続けることに、積極的な意味はあまりない。だとすれば、手放す判断がしやすいのは、皮肉にも「痩せたら着たい」服より「もう少し緩ければよかった」服の方だということになる。
この空白の座席に対する感情は、一様ではない。心理学者エドワード・トリー・ヒギンズが1987年に発表した自己不一致理論は、人が抱く自己像を「現実の自己」「理想の自己」「義務としての自己」の三つに分け、現実とのずれがどちらの像との間で生じるかによって、湧いてくる感情の種類がまったく違うと論じた。理想の自己との間にギャップがあるときは、悲しみや落胆に近い感情が生まれ、義務としての自己との間にギャップがあるときは、不安や罪悪感に近い感情が生まれるという。
クローゼットの奥のズボンに当てはめると、この区別は意外なほどよく効く。「いつか着たい」という願望混じりの未練は理想の自己とのギャップであり、そこにあるのは軽い落胆だ。一方、「本当は今すぐ着られなければならないはずなのに」という焦りは義務としての自己とのギャップであり、そこにあるのは不安に近い緊張感になる。同じ一本のズボンを前にしても、この二つのどちらの声で自分に語りかけているかによって、そこから逃げたくなる気持ちの質感はまったく違う。手放せない理由を「もったいないから」の一言で片づけてしまうと、この区別は見えなくなる。自分がいま感じているのが落胆なのか不安なのかを一度切り分けてみるだけで、次にどちらの態度を選ぶか——直すのか、待つのか、手放すのか——の見え方は変わってくる。もっとも、この理論はあくまで感情の分類を与えてくれるだけで、どちらの感情を選ぶべきかまでは教えてくれない。処方箋はここにはない。
身体イメージは石ではなく、粘土に近い
ここまでは、クローゼットの中の布が担っている意味の話だった。次に疑ってみたいのは、その布と照らし合わせている「自分の体についての感覚」の方が、そもそもどれだけ確かなものかという点だ。多くの人は、自分の体のサイズを目や手で確かめれば正確にわかると思い込んでいる。だが視覚科学者サラ・ダムール、デボラ・アレクセ、ローレンス・ハリスらが2022年に発表した実験は、この前提そのものを揺さぶる。参加者に自分自身の全身写真を見せる際、実際の体より20パーセント太らせた画像、あるいは20パーセント細らせた画像を五分間見せ続けたところ、その後の体格の判断が、見せられた画像の方向にはっきりとずれたという。太らせた画像を見た人は自分の体を大きく見積もるようになり、細らせた画像を見た人は逆に小さく見積もるようになった。しかもこのずれは実験終了後も長く残り、18分間の追跡テストを終えてもなお、元の判断には完全には戻らなかった。
この結果が示しているのは、身体イメージが体そのものの正確な写し絵ではなく、直近に与えられた視覚情報によって割と簡単に書き換えられてしまう、可塑性を持った表象だという事実である。わずか五分間、歪んだ写真を眺めただけで、自分の体格の感覚がその後十数分も引きずられる。だとすれば、日々の生活の中で目にする鏡、写真、あるいは合わなくなった服との無数の接触が、実際の体の変化とは別に、体についての感覚そのものを絶えず作り替えている可能性がある。合わなくなったズボンを前にして感じる「太った」という判定は、体そのものの測定結果というより、直近にどんな視覚情報にさらされてきたかを反映した、揺れ動く推定値にすぎないのかもしれない。
ただし、この実験結果を過大に一般化するのは慎みたい。参加者を実験室に集めて画像を見せるという性質上、こうした身体知覚の研究はどれも大規模なものではなく、日常のあらゆる場面にそのまま当てはまると決めつけるには材料が足りない。ここで確かなのは、身体イメージが少なくとも短期的には外部からの視覚情報に影響されるという事実だけであり、その影響が何日、何か月という単位でどこまで持続するのかは、まだよくわかっていない。わかっていないことをわかったことにして話を進めるのは、結局のところ「痩せたら幸せになれる」式の断定と同じ穴に落ちることになる。
なぜ、体は変わったのに感覚が追いついてこないのか
身体イメージが可塑的だと知ると、体が変われば感覚もすぐに追いつくだろうと期待したくなる。ところが実際には、その追いつきが驚くほど遅れることがある。ブラジルの研究者アンドレ・ルイス・L・ソウザらが2023年に発表した調査は、肥満外科手術を受けた31人の女性を対象に、手術前と、術後30日・60日・90日・120日の時点で、身体イメージの評価を繰り返し測定した。この間、参加者の体重は平均で21.09パーセント減少している。数字の上では、体は確かに軽くなっている。それにもかかわらず、多くの参加者の身体イメージは、この急激な変化に見合うだけの更新がされないまま取り残されていた。研究チームはこの現象を「ゴースト・ファット(幽霊の脂肪)」と呼び、感覚のずれを解消するには、追加の感覚刺激を伴う介入か、もっと長い期間の経過観察が必要だろうと結論づけている。
この「ゴースト・ファット」という言葉が示しているのは、体の変化と自己認識の変化が、同じ速度で進む一枚岩の現象ではないという事実だ。体重計の数字は日々更新されるのに、頭の中の体の地図は、以前の重い体のまま止まっている。実際、痩せた後も無意識に大きめの服のサイズに手を伸ばしたり、狭い通路で体を斜めにして通ろうとしたりする振る舞いが報告されている。これは意志の弱さではなく、更新に時間のかかる内部モデルが、まだ古いままの数値で計算し続けているという、ごく機械的な事情に近い。ズボンのウエストが窮屈になったと感じたとき、それが実際の体の変化を正確に映しているとは限らないのと同じ理屈で、痩せた後にまだ太っていると感じる場合も、それは体の実態というより、頭の中の地図の更新の遅れを映している可能性がある。体との照合がずれる方向は、太る方にも痩せる方にも、両方向に開かれている。
追いついた実感も、居座り続けるとは限らない
話をさらにひねっておきたい。感覚が体の変化に追いつくのに時間がかかるとして、では十分な時間さえ与えれば、いずれ二つはぴたりと一致するのだろうか。フランスの研究者ローレンヌ・ボスクらが2022年に発表した追跡調査は、この楽観にも留保をつける。肥満外科手術を受けた61人を対象に、術前から術後五年まで身体イメージを繰り返し測定したところ、身体イメージは手術後の早い時期には確かに改善していた。ところがその改善は五年間を通じて維持されたわけではなかった。体重も完全には戻っていないものの、平均で二割ほどのリバウンドは記録されており、その分を差し引いてなお、身体イメージの満足度は年月とともに下がっていく傾向が見られたという。
これは前段の「ゴースト・ファット」とは逆方向の齟齬だ。追いつくのが遅れるだけでなく、いったん追いついた実感が、体の状態が変わらないうちに、また離れていくことがある。体という実態と、それについての感覚という表象は、一本のゴムひもでつながれた二点のようなもので、ぴんと張ることもあれば、たるむこともある。合わなくなったズボンをきっかけに湧き上がる「太ってしまった」という感覚を、体の測定結果として鵜呑みにするのは早計だが、かといって「気のせいだから気にしなくていい」と片づけるのも同じくらい乱暴だということになる。感覚と実態のずれは、どちらの方向にも、どちらの理由からも起こりうる。
タグの数字が、感覚の方を作っている
ここまでは、体の変化が感覚にどう伝わるか、あるいは伝わらないかという話だった。ここで向きを逆にしてみたい。感覚を作っているのは体の実態だけではなく、服のタグに印字された数字そのものである場合もある。消費者行動を研究するニルフェル・アイドゥノールとアラドナ・クリシュナが2012年に発表した実験は、同じ寸法の衣類であっても、タグの数字が小さいほど、それを着た自分をより好意的に、より細く思い描く傾向があることを示した。いわゆる「バニティ・サイジング」——衣料品各社が実際の寸法より小さいサイズ表記を割り当てる慣行——が消費者に支持される理由は、単なる見栄ではなく、数字がその場で頭の中に呼び起こす自己像そのものが変わるからだという。しかもこの効果は、外見への自己評価がもともと低い人ほど強く働くことも確認されている。
この結果を裏返すと、少し不穏な含みが出てくる。合わなくなったズボンのウエストに触れたとき、そこで動いているのは体の測定値だけではなく、タグに刻まれた数字という、いわば外部から与えられた記号でもある。同じホックの位置でも、そこに表示されている数字が変われば、着る前から抱く自己像自体が変わってしまう。ズボンが「合わない」という判定は、布の物理的な張力だけでなく、その布に縫い付けられた記号との照合作業でもあるということになる。
サイズが期待より大きいとき、人は服を買い足す
この記号としてのサイズ表示は、逆方向に振れたときにも人を動かす。消費者研究者ジャネット・ヘッグ、マギー・スコット、アンドレア・モラレス、ダレン・ダールが2014年に発表した研究は、期待していたよりサイズ表記が大きい服に遭遇したとき、消費者がしばしば「埋め合わせの消費」に走ることを報告している。自分に合うと思っていたサイズより大きい表記の服を着ることになった人は、自尊心への軽い打撃を受け、それを埋め合わせるために、別の買い物でその不快感を打ち消そうとする傾向があるという。
この構図は、クローゼットの奥で止まっているズボンをめぐる行動とも、驚くほど重なる。合わなくなった一本と正面から向き合う代わりに、「今の自分に似合う新しい一枚」を買いに走ることは、実は同じ回避のパターンをなぞっているにすぎない。古いズボンのウエストという不快な数値と向き合うのを避け、代わりに新しい買い物という別の経路で自尊心の帳尻を合わせようとする。これは悪いことだと決めつけたいわけではない。ただ、この行動が「賢い解決」ではなく、不快感を迂回する一つの手段にすぎないという事実は、覚えておいた方がいい。迂回そのものは責められるようなことではないが、迂回していることに気づかずにいると、クローゼットには合わなくなった服と、それを避けるために買い足した服が、両方とも積み重なっていくことになる。
緩めるほうが、いつも簡単とは限らない
理屈を離れて、実際にホックの位置をずらす作業に戻る。ウエストを緩める方向の直しと、逆に詰める方向の直しとでは、布の上で起きていることが対称ではない。詰める場合は、内側に折り込んだ余分な生地がそのまま残るので、後で気が変わればいつでも元に戻せる。ところが緩める場合は、もともと縫い代として畳み込まれていた数センチの生地を出し切ってしまえば、それ以上は物理的にどうしようもなくなる。縫い目の跡がわずかに筋として残ることもあり、完全な原状回復は望めない。つまり布の側にも、感情の側と同じ非対称が仕込まれている。「痩せたら戻す」という前提の直しは、たいてい後戻りが利く方の作業で、「今より緩む前提」の直しは、後戻りが利かない方の作業になりやすい。どちらの方向へ針を入れるかを決める前に、この生地に残された余白がどれだけあるかを一度確かめておく方がいい。余白がなければ、ホックの位置をずらすという選択自体が、最初から片方向にしか開かれていないことになる。
クローゼットの前で、本当に決めていること
ホックを外側にずらすかどうかという、たった数分の裁縫の判断が、これほど重くのしかかっていた理由は、一つに絞れない。そのズボンが担保している「可能自己」は過去の実績なのか、まだ見ぬ願望なのか。そこから漏れ出る後ろめたさは、落胆に近いのか、不安に近いのか。判断の元になっている身体イメージ自体、体の実態を正確に映しているのか、それとも直近の視覚情報や年月の経過によってすでにずれてしまっているのか。そのズレを測る物差しであるはずのサイズ表示自体、体の測定値ではなく単なる記号として自己像を作り替えているのではないか。裁縫の手前には、こうした問いがいくつも積み重なっていた。しかも厄介なことに、これらは布のように一度縫えば固定されるものではなく、それぞれ別々の速度で動き続けている。可能自己は状況が変われば入れ替わるし、後ろめたさの種類はその日の気分次第で反転することもある。身体イメージは数分の視覚経験でも数年の歳月でも揺れ、サイズ表示という記号はブランドが変わるたびに違う数字を差し出してくる。すべてが同時に静止する瞬間は、たぶん一度も訪れない。だからこそ、ホックの位置を今この瞬間にどちらへずらすかという判断は、永続する結論ではなく、あくまで今日時点での仮の答えとして扱っておく方が、実情に近い。
だとすれば、「痩せたらまた着る」という言い訳を、意志薄弱の証拠として恥じる必要はない。それは可能自己という、人間の認知にもとから組み込まれている装置が働いているだけの話であり、体重を落とすべきだという話とも、落とさなくていいという話とも、本来は無関係だ。このサイトが扱いたいのは、どちらの体型が正しいかという処方箋ではなく、その手前にある、もう少し地味な事実の方である。合わなくなった服の前で人が本当に決めているのは、体をどうするかではなく、いくつも並んだ可能自己のうち、どれに今この瞬間の自分の代表を任せるか、という一点にすぎない。ホックを外側に付け替えれば、今の体を代表にすると決めたことになる。そのまま吊るしておけば、まだどちらとも決めていないと宣言したことになる。手放せば、その可能自己の座席そのものを畳んだことになる。どれが正解ということはなく、ただ、自分が今どの決定を下しているのかを、はっきり自覚しておく方がいいというだけの話だ。
保留の中身が、静かに入れ替わった
結局、あのスラックスのホックはまだ元の位置のままだ。針は入れていない。ただ、以前とは違って、これを「いつか着る」ための保留ではなく、「今どの自分を代表に立てるかを、まだ決めていない」という保留として扱うようになった。この言い換えは、布の状態には何の影響も及ぼさない。ホックの位置も、生地の伸縮率も、何も変わっていない。変わったのは、迷っている自分に対する説明の仕方だけだ。それでも、次にこのズボンをハンガーから取り出すとき、少なくとも自分が何を先延ばしにしているのかは、以前よりはっきり見えている。答えを急いで出す義理は、たぶんどこにもない。
もう一つ、はっきりさせておきたいことがある。これは体をどう変えるべきかという話ではないし、変えなくていいという話でもない。どちらの立場を取るにせよ、その決意を支えているのはたいてい、目の前の一本のズボンではなく、頭の中で更新され続けている、いくつもの自分の像の方だ。布はただそこにあり、伸びも縮みもせず、変わらない寸法で吊るされているだけである。動いているのは、いつもこちら側だった。
出典
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