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石鹸を彫る、鍵を集める——「非効率を楽しむ」記事が効率の語彙で書かれている件について

石鹸を彫る、鍵を集める——「非効率を楽しむ」記事が効率の語彙で書かれている件について

変わった趣味をIT用語で語ることをやめて書き直したら、今度は心理学と社会学の語彙で同じ矛盾を再演していないか、疑いながら書くことになった。

TOMOAKI··趣味

趣味の話を「人生のOS」「デバッグ」「デプロイ」といったIT用語で語る書き方を、以前ここでも使ったことがある。効率化に疲れた人に向けて、非効率な時間を勧める記事だったのに、勧め方そのものが最適化の語彙でできていた。「タイパの外側にある豊かさ」というような言い回しも書いた覚えがあるが、タイパという物差しを名指しで否定しながら、結局はその物差しの外側という位置取りでしか語れていない。書きながら、途中でその矛盾に気づいた。

だから今回は、同じ趣味をビジネス用語を使わずに書き直そうとした。ところが調べているうちに、その修正自体があやしくなってきた。IT用語を抜いて「プロセスを楽しめ」「目的地を決めるな」と書き換えたところで、それは語彙を変えただけで、構造は変わっていないのではないか。効率の言葉を使わずに効率主義的な発想をなぞっているだけだとしたら、直すべきは語彙ではなく、もっと下の層にある癖ということになる。ここでは、その疑いを一度も手放さずに、いくつかの変わった趣味について書いてみる。答えを出すための記事ではない。むしろ、書きながら自分の言い分を何度も疑い直すための記事だと思ってもらったほうがいい。

このサイトは「確かな選択、確かな趣味」というようなことを掲げているが、確かさというのは、正しい結論にたどり着くことではなく、自分の判断のクセにどれだけ気づけているかのことだと思っている。だとすれば、非効率を礼賛する記事が効率の語彙で書かれているという矛盾に気づくだけでは足りない。その矛盾を直したつもりの文章が、また別の形で同じクセを再演していないかを、もう一段疑う必要がある。以下の各節は、そのつもりで書いた。

石鹸を彫る——「無心になれる」という達成目標

市販の石鹸に彫刻刀を入れて形を作る。工程がはっきりしていて、無心になりやすい。「ストレスが削りカスと共に落ちていく」というような感想は、正直なところ話をきれいにまとめすぎだと思う。実際は単に手を使う単純作業で、その単純さが休めるだけだろう。

ただ、この「無心になる」という状態そのものを、もう少し疑ってみたい。心理学者チクセントミハイが提唱した「フロー」は、活動そのものが報酬になる状態——オートテリックな経験——として知られていて、外的な達成ではなく行為そのものの充実として語られることが多い。しかし彼の定義を丁寧に読むと、フローが起きる条件には「明確な目標」と「即座のフィードバック」が含まれている。石鹸を彫る作業でいえば、次にどこを削るかという目標が絶えず更新され、削った形がその場でフィードバックとして返ってくる。私たちが「目的から自由な没入」として称賛している状態は、実は極めて短いスパンで目標と達成が繰り返される、小刻みな達成システムだということになる。

チクセントミハイとルフェーブルが働く人を対象に行った経験抽出法の調査では、さらに厄介な事実が出ている。回答者にランダムなタイミングでポケベルを鳴らし、その瞬間の心理状態を記録させたところ、フローを報告した頻度は余暇よりも仕事のほうが高かった。それでいて、本人が「もっとこのままでいたい」と感じる動機づけの高さは、仕事より余暇のほうが上だった。没入できている時間と、そこにいたいと思える時間は、必ずしも一致しない。この結果を踏まえると、石鹸を彫っている間の没入感を「これこそ本物の充実だ」と信じ込むのは早計だということになる。没入しているという感覚は、そこが正しい居場所だという証明にはならない。

付け加えるなら、「無心になれる趣味」を謳うキットや動画講座は、いまや一つの市場になっている。彫刻刀と石鹸のセットが「マインドフルネス体験」という触れ込みで販売されているのを見たことがある人も多いはずだ。無心という状態そのものが商品として整備されるとき、そこにはあらかじめ想定された所要時間があり、完成形の見本写真があり、うまくいかなかった場合のフォローアップ動画まで用意されている。これは目標もフィードバックもない活動どころか、目標と評価基準が事前に外部から与えられている活動に近い。石鹸を彫ることを勧める記事が「これは効率とは無縁の趣味だ」と胸を張るとき、実際に無縁なのは大きな目標であって、目標という発想そのものではない。

それでも、この違いは書き分ける価値があると思う。大きな目標——年収や役職や資格のような、達成までに何年もかかり、達成できなければ人生の評価に響くもの——から降りることと、目標という発想そのものから完全に自由になることは、混同されがちだが同じではない。石鹸を彫ることの効用は、後者を実現したからではなく、前者の重さを一時的に忘れられるくらい、目標の粒度を小さくできたことにある。この違いを「無心」の一言で片付けてしまうと、粒度を変える技術としての面白さが見えなくなる。

古い鍵を集める——「答えのなさ」を陳列する

使われなくなった錠前や鍵を蚤の市で探す趣味がある。何に使うわけでもない。ただ、どの家のどの扉を開けていたのかを知る術がないまま手元に残るという状態自体が、他の収集とは少し違う手触りを持っている。集めても答えが出ない、という点が飽きない理由かもしれない。

ここで疑わしいのは、「答えが出ない」ことを美点として語る態度のほうだ。フリーマーケットで手に入れた古い鍵をテーブルに並べて撮影し、由来不明であることを添えて発信する人を見かける。由来がわからないという情報の欠落そのものが、投稿の中では一種の価値として機能している。経済学者ヴェブレンが19世紀末に書いた『有閑階級の理論』では、当時の上流階級が示していたのは「何もしていない時間の長さ」そのものであり、暇であることが誇示的な地位の証だった。働かなくても生きていけるということを、周囲に見せつけるための暇である。ところが消費者研究者ベレッツァらの調査が示したのは、その逆転である。現代のアメリカでは、忙しく余暇のない生活のほうが有能さや希少性のシグナルとして評価され、暇そうな人より高い社会的地位を連想される。誇示する対象が暇から忙しさへ入れ替わっただけで、何かを他人に見せて評価を得るという構えそのものは、百年以上前からほとんど変わっていない。

由来不明の物を集めるという、一見して価値づけを拒んでいる行為も、この構えの外にあるとは言い切れない。「意味の空白を所有できるだけの審美眼を持つ人間」という別の価値づけを、暇や忙しさの誇示と入れ替えに呼び込んでいるだけかもしれないからだ。実際、古道具や骨董の売買では、来歴が不明であることが「掘り出し物」としての物語性を高め、値付けにさえ影響することがある。ここでの由来不明は欠落ではなく、それ自体が語りの素材として扱われている。「測れないものを愛でる」という語り自体が、測定の一種にすり替わっているというのは、こういう意味である。

面白いのは、ヴェブレンが見ていた誇示的な暇と、ベレッツァらが見ている誇示的な忙しさが、正反対の見た目をしていながら、同じ問いに答えていることだ。どちらも「自分にはこれだけの余裕、あるいはこれだけの需要がある」ということを、他人に分かる形で示そうとしている。答えの中身が逆転しても、問い自体は変わっていない。由来不明の鍵をめぐる語りも、暇の誇示でも忙しさの誇示でもない第三の答え方をしているように見えて、実際には同じ問いに対する、また別の返答の仕方をしているだけかもしれない。

もちろん、すべての鍵集めがそうだと言うつもりはない。誰にも見せず、ただ引き出しにしまっておくだけの人も多いはずで、その場合はこの疑いは当てはまらない。ただ、この趣味を紹介する記事や投稿の多くが「答えのなさ」を語る時点で、それはもう他者に向けた説明であり、説明である以上そこには伝わりやすさという評価軸がすでに忍び込んでいる。黙って引き出しにしまう人の趣味について、私はこの記事を書くことができない。書かれた時点で、それはもう黙っていない趣味になっているからだ。

理由もなく路線バスに乗る——暇であることの苦手さ

目的地を決めずに、知らない路線のバスに乗って終点まで行く。地図アプリで先回りしてほとんどのことが分かる時代に、車窓から知らない景色が流れてくるという体験は、意外と希少になっている。ただし単に時間がかかるだけの日もあり、毎回発見があるわけではない。

この趣味を持ち出すとき、私はいつも「目的地を決めない」ことを自由の証のように書いてしまう。だが行動科学の実験は、その自由をあまり信用していない。シーらが行った実験の一つでは、学生に近い場所と遠い場所のどちらかでキャンディをもらう選択をさせた。もらえるキャンディが同じ種類なら、わざわざ遠くまで歩く「忙しい」選択肢を選んだのは32パーセントにとどまり、大半は近場で済ませる方を選んだ。ところが、遠い場所でだけ違う種類のキャンディがもらえるという、ごくささやかな理由をつけ加えただけで、その割合は59パーセントまで跳ね上がった。理由さえあれば、人は喜んで遠回りをする。重要なのは、その理由がキャンディの違いという程度のものでもかまわなかったという点だ。同じ研究者たちは、何もせず座っているだけの被験者よりも、意味のない用事で歩き回った被験者のほうが、あとで気分がよかったと報告したことも示している。

路線バスに理由もなく乗る、という行為も、同じ機能を果たしている可能性がある。本当に何もしないことに耐えられないから、車窓という材料だけは与えられている移動を選んでいるのだとすれば、これは非効率の実践というより、暇への恐怖から一番手軽に逃げる方法を見つけただけということになる。鉄道や路線バスの愛好者の間では、乗ったことのない路線を一つずつ潰していく「乗り潰し」という遊び方が古くから存在するが、これは目的地のない移動という体裁の趣味が、放っておくと自然にチェックリスト化していくことの証拠でもある。理由のない移動を続けていれば、いずれ「まだ乗っていない路線」という達成対象が自動的に生成される。目的地を決めないという条件だけでは、達成という発想の侵入を防げない。

もう一つ気になるのは、車窓の景色が「意外と希少になっている」という言い方そのものだ。位置情報アプリが到着時刻まで教えてくれる時代だからこそ、知らない景色に価値が出るという理屈は、裏を返せば、情報が足りないことそのものを稀少資源として扱っているにすぎない。情報を先取りできる便利さを普段は歓迎しておきながら、たまにそれを手放すことに希少価値を見出すのは、便利さの体制そのものを疑っているわけではなく、その体制の内側で「あえて外す」という選択肢を消費しているだけとも言える。

だとしても、それが悪いとは思わない。ただ、この趣味を「目的から自由になる練習」だと書くのは、実態よりだいぶ格好をつけた説明だろう。暇に耐える力のなさを、達成の言葉を使わずに埋め合わせる方法を見つけた、というくらいが実際のところではないか。それを、格好の悪い言葉のまま放っておけないのは、たぶん私の側の癖である。

誰にも見せない日記をつける——それでも記録は記録を欲しがる

効率化と縁遠く見える趣味の代表格に、日記がある。誰かに読ませるためではなく、書くこと自体を目的にした日記は、たしかにアルゴリズムの評価軸から一番遠い場所にあるようにみえる。ページはスクロールされないし、いいねもつかない。

ただ、紙の日記帳を使っている人でさえ、書き終えたページを見返して「今月はちゃんと書けている」と数えてしまう瞬間があるはずだ。ジャーナリストのウルフたちが2007年に提唱した「クオンティファイド・セルフ」という考え方は、体重や睡眠、気分といった日常のあらゆる側面を記録し数値化しようとする動きを指していたが、その発想は専用のアプリが登場するよりずっと前から、紙の日記にも影を落としていたのだろう。近年の社会学研究は、自己を絶えず記録し最適化しようとする構えを、外部から強制された規範としてではなく、当人が自発的に選び取る「実践」として捉え直そうとしている。ネアリングとロッケによる整理では、この自己最適化という営みは健康や仕事にとどまらず、感情や人間関係の管理にまで広がっており、しかもそれを行う本人にとっては抑圧というより自己実現の手段として経験されている点が指摘されている。日記をつけるという行為も、この枠組みの中に置けば、綴られた日々を後から数え、密度を確かめ、途切れていないことを確認する作業になりやすい。手帳アプリが「連続記録日数」を表示する前から、人は自分の記録の続き具合を気にしていたということになる。

だからといって日記をやめる理由にはならない。ただ、「これは自己啓発ではない、ただの記録だ」と言い切ってしまうと、記録という行為自体に付きまとう自己点検の性質を見落とすことになる。効率化の語彙を使わなくても、自分を見張る視線は残り続ける。語彙の問題ではなく、記録するという行為そのものに内蔵された性質なのだと思う。

クオンティファイド・セルフという運動が2007年に始まったとき、その主眼は体重や睡眠のような身体データだった。感情や生活の質感まで対象が広がったのは、その後のことだ。日記が長らく人間の内省の道具として扱われてきたことを考えると、記録という行為が数値化の運動に先立って、すでに自己点検の仕組みを内側に持っていたと考えるほうが筋が通る。アプリが後から便乗しただけで、日記のほうが先に自己最適化の練習をしていたのかもしれない。そう考えると、スマートフォンのアプリを憎んで紙の手帳に戻るという選択も、対策としては的を外している可能性がある。問題は道具の新旧ではなく、記録という行為そのものの側にあるからだ。

変わった趣味と自己啓発の距離

ここに挙げたものに共通点があるとすれば、上達や達成度を数値化しにくいということくらいだと思う。難易度や孤独度をバッジのように付けて紹介する記事もよく見かけるが、それをやった時点で結局は評価軸を持ち込んでいることになり、「非効率を楽しむ」という趣旨からは遠ざかる。

ただ、ここまで書いてきて突き当たる問題がある。哲学者ハンは、現代の主体を「規律に従わされる主体」ではなく、自分で自分を追い立てる「業績主体」として描いた。外から強制されなくても、自分自身を絶えず最適化しようとする構えのことで、彼はこれを自己搾取と呼んだ。強制する上司がいなくても、自分自身が上司の役を引き受けてしまうという指摘は、ここに挙げた趣味のどれにも当てはまる。この視点に立つと、「変わった趣味で効率主義から降りる」という物語そのものが、業績主体の別バージョンに見えてくる。何を達成したかではなく、何から自由になれたかを競うという形に評価軸をずらしただけで、絶えず自分の生き方を点検し、報告し、改善しようとする構えは温存されたままだ。この記事を含めて、である。

だからといって、それに気づいた瞬間にすべてが無効になる、という話にもしたくない。評価から完全に自由な活動が本当に存在するのかどうかは分からないし、存在しないからといって石鹸を彫ることや鍵を集めることに意味がなくなるわけでもない。ただ、それを紹介する言葉づかいには、もう少し慎重であっていいはずだ。「これは効率の外側にある」と言い切る記事のほとんどは、単に効率という言葉を使わずに効率の構えを続けているだけであることが多い。言葉を変えることは、時にその構えを見えにくくしてしまうという意味で、かえって厄介でもある。

誤解のないように言っておくと、ハンの議論を持ち出したのは、変わった趣味に意味がないと言うためではない。むしろ逆で、自己搾取という構造から完全に外れた活動を探すこと自体が、次の目標にすり替わってしまう危うさを指摘するためだ。石鹸を彫ることも、鍵を集めることも、理由もなくバスに乗ることも、それ自体は害のない時間の使い方だと思う。危ういのは、それを「これぞ本物の脱・効率だ」と看板を掲げて紹介する語り口のほうであって、活動そのものではない。看板を外した後に何が残るかは、活動ごとに違うはずで、そこから先はもう一般論では語れない。

見出しを立てて整理すること自体、もう一つの効率化ではないか

ここまでの書き方についても、一つ告白しておきたいことがある。この記事は、趣味ごとに見出しを立て、それぞれに一行で言い表せる要点を与え、最後に出典をまとめるという形式を取っている。これは、この記事が名指しで距離を置いてきた「ランキング記事」や「ライフハック記事」と、骨格のところで驚くほど似ている。見出しを立てるという行為は、読者が読み飛ばせるように本文を分割することであり、分割された各部分に一言でまとめられる結論を持たせることであり、結局は読みやすさという評価軸に本文を従わせることである。

石鹸彫りの節には「達成目標」という気の利いた言い換えを、鍵集めの節には「陳列」という皮肉のきいた言葉を、それぞれ見出しに仕込んだ。これは、内容を正確に要約するためだけでなく、読み進めてもらうための工夫でもある。効率という言葉を使わずに書いても、読みやすさを設計するという意味では、この記事自体が最適化から自由ではない。もっと言えば、こうして構成上の欠陥を自分から指摘してみせる身振りにも、既視感がある。反省を語ることで説得力を補うという、よくある手つきだ。ここに気づいたところで、この記事の見出しを外すつもりはない。読みにくい文章をわざと書くことは、読みやすさへの抵抗にはならず、単に不親切なだけだと思うからだ。ただ、整理して読みやすくするという行為自体が中立ではないということは、書いている側の負い目として残しておきたい。

語彙を変えることと、構えを変えることは別の作業だ

変わった趣味を勧める記事の多くは、最後に「だからあなたも始めるべきだ」で締めくくる。ここではそれをしない。効率の外側にあるものを、また別の言葉で急かすのは、単に形を変えた矛盾でしかないからだ。

この文章自体も、その疑いから完全に逃れられているわけではないだろう。IT用語を捨てて、代わりに心理学や社会学の研究を引いて語ることは、権威を管理職向けの語彙から学術的な語彙に乗り換えただけかもしれない。研究を引用したのは、自分の直感——「無心になれる」「答えが出ない」「目的から自由になる」といった言い方——を疑うためであって、変わった趣味の正しい語り方を新しく確立するためではない。次にまた同じような趣味について書くときも、たぶん同じ落とし穴を踏むだろう。IT用語を使わなくなった代わりに、今度は研究者の名前を並べることで賢さを演出してしまうかもしれない。そのときにまた立ち止まれるかどうかのほうが、今回どれだけうまく書けたかより重要だと思う。

石鹸を彫ること、鍵を集めること、理由もなくバスに乗ること、誰にも見せない日記をつけること。どれも、続ける理由を人に説明しようとした瞬間に、少しずつ格好がついてしまう趣味だ。説明しないほうが誠実なのだとしたら、この記事はすでに矛盾している。それでも書いたのは、説明することの気まずさごと書き残しておいたほうが、格好よく仕上げた説明を残すよりはましだと思ったからだ。読んだ人がここに書かれた見立てをそのまま信じるのではなく、自分の趣味について同じように一度疑ってみる、そのきっかけになれば十分だと思っている。疑った結果、やっぱり「無心になれる」でいいと結論づけるのだとしても、それは一度も疑わずに同じ言葉を使うのとは、たぶん少し違う場所に立っている。

出典

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