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通勤をなくした働き方ほど、独りで過ごす時間が増えるという事実
通勤ゼロで戻ってくるのは時間と金だけではない。役割を切り替える境界、仕事に入る前の準備、誰にも属さない自分だけの帯。それらが静かに消えていたことを、複数の実測データから数え直す。
通勤をなくせば、それだけ得をする
在宅勤務に切り替えて最初に数えたのは、たいてい時間とお金だった。往復1時間半の通勤がなくなれば、年間で数百時間が戻ってくる。定期代も、着替えも、駅までの小走りも要らない。差し引きはどう見ても正の数だ、はずだった。
この直感を最初に裏づけたのは、経済学者ニコラス・ブルームらが2010年から2013年にかけて中国の旅行会社Ctripで行ったランダム化比較試験だった。在宅勤務を希望した社員の半数をくじで在宅に割り当て、残り半数をオフィス勤務のまま残す。9か月後、在宅群の生産性は13パーセント上がっていた。内訳は、休憩や欠勤が減って実働時間が伸びた分が9パーセント、静かな環境で通話の効率が上がった分が4パーセントだった。離職率はほぼ半減した。「在宅は生産性を落とす」という当時の経営陣の思い込みは、実測データの前でひっくり返った。
ただし、この結果を「在宅勤務は誰にとっても得だ」と読むのは早い。対象は在宅勤務を自分から希望した社員だけであり、通勤を苦にしない人や、オフィスでの雑談を仕事の一部だと感じる人は最初から母集団に入っていない。ブルーム自身も後年、この自己選抜の限界を繰り返し指摘している。得をしたのは、在宅の方が向いている人が在宅になった、という当たり前の結果だったのかもしれない。
通勤は、ただの移動時間ではなかったらしい
ここで一度、通勤そのものの機能を見直す理論がある。組織心理学者ブレイク・アシュフォースらが2000年に整理した「役割境界理論」だ。人は仕事の役割と家庭の役割を、完全に混ぜて生きる「統合型」と、はっきり分けて生きる「分離型」のあいだのどこかに位置している。どちらが優れているという話ではなく、どちらにもコストとリターンがある。分離型の人にとって、通勤はこの境界をまたぐための儀式として機能していた可能性がある。
儀式という言葉を使うと大げさに聞こえるが、機能自体は単純だ。電車に乗る、歩く、車を運転する。この物理的な移動が、頭の中で「家庭の役割」から「仕事の役割」への切り替えスイッチとして働いていた。通勤をゼロにするというのは、この切り替えの手続きを丸ごと取り除くことでもある。時間と金は減ったが、境界を引く手段も一緒に消えた。
通勤中に何を考えているかで、負担は変わる
とはいえ、通勤が持つ意味は一人ひとり同じではない。2021年に学術誌Organization Scienceに載った1,736人規模の調査では、通勤中に「これから始まる仕事の役割」をあらかじめ思い描く人ほど、長い通勤時間の悪影響を受けにくいことが示されている。研究者たちはこれを「役割明確化のプロスペクション」と呼んだ。単に電車に乗っている時間ではなく、頭の中でその時間に何をしているかが結果を左右する。
さらに興味深いのは、この対処法を自然に使えるかどうかが、自己統制の強さと結びついていたことだ。つまり通勤という時間は、多くの人にとって単なる空白ではなく、意識せずに使っていた準備時間だった。この時間を失うと、通勤で無自覚にこなしていた仕事だけが、いきなり在宅勤務の初日に押し寄せてくることになる。
「自分だけの時間」という、もう一つの役割
通勤にはもう一つ、見落とされやすい機能がある。2023年に心理学者パインデック、シェン、アンデルが提示した理論枠組みは、通勤を「仕事にも家庭にも属さない、自分だけの時間」として捉え直した。会社の役割を終えたが、まだ家庭の役割も始まっていない、という空白の帯だ。
この空白を惜しんで、在宅勤務者の一部は自主的に「疑似通勤」を作り出しているという話がよく紹介される。仕事を始める前に近所を15分歩く、といった具体的な行動だ。理屈としては境界理論やこの「自分だけの時間」論から筋が通っているが、正直に書いておくと、この疑似通勤そのものを対象にした査読済みの実証研究は、今回調べた範囲では見つからなかった。理論的には支持できても、まだ検証は薄い。広く語られている割に、土台はさほど厚くない。
独りで過ごす時間が、思ったより増えていた
ここまでは、通勤という儀式や準備時間を失うことの、いわば心理的な機会損失の話だった。もっと直接的な数字もある。2026年、学術誌Scienceに掲載された588,322人規模の調査は、リモート勤務が可能な職種の人々を対象に、実際に誰とどれだけ会っているかを追跡した。
結果は際立っていた。フルリモートで働く人の84パーセントが、一日中誰とも顔を合わせずに過ごす日を持っていた。オフィス勤務者では、この割合は23パーセントにとどまる。さらにリモート勤務の広がりは、精神科の受診や向精神薬の処方をおよそ50パーセント増加させていた。研究チームは、2011年から2024年にかけて社会全体で観測された精神的な不調の増加のうち、およそ3分の1がリモートワークの拡大で説明できると推計している。
この研究は観察データにもとづくものであり、ランダム化比較試験ではない。リモートを選ぶ人にもともと孤独を感じやすい傾向があった、という逆の因果を完全には排除できない。それでも、この規模のサンプルでここまで一貫した数字が出たことは、軽く扱えるものではない。
つながりの形そのものも、変わっていた
孤独というのは、あくまで個人の内側で感じる話だ。組織の側から見ると、少し違う景色が見える。2021年、マイクロソフト社内の6万人規模のデータを分析した研究がNature Human Behaviourに発表された。全社的にリモートワークへ移行した前後を比較したところ、社内のコミュニケーションはリアルタイムのやり取りから非同期のメッセージへと重心を移し、部門をまたいだ人間関係の結びつきが弱くなっていた。
皮肉なのは、チーム内部のつながりはむしろ保たれていたことだ。失われたのは、廊下や給湯室で偶然すれ違うことで維持されていた、部門の外側との弱い結びつきの方だった。この種のつながりは、新しい発想や異分野の知見が流れ込む経路として働くことが多いとされている。会議の予定表には載らない接触が、実は組織の柔軟性を支えていた、ということになる。
通勤という移動そのものが、この偶発的な接触を生んでいたわけではない。だが、通勤して同じ建物に集まるという前提があったからこそ、廊下ですれ違う機会自体が存在していた。前提が消えれば、そこにぶら下がっていた副産物も一緒に消える。誰も狙って壊したわけではない構造が、静かに縮んでいた。
ハイブリッドという例外、そしてその例外
ここで一つ、都合のいい結論に飛びつきたくなる。「だから週に何日かはオフィスに行けばいい」という折衷案だ。実際、ブルームが2022年から2024年にかけて発表した追跡調査では、週2日程度のハイブリッド勤務は生産性や昇進率を落とさず、離職率を33パーセント減らすという、フルリモートともフル出社とも違う結果を示している。完全在宅では生産性が10から20パーセント下がったという同じ研究グループの別の報告と並べると、この非対称性は無視できない。
だが、ここでもう一段の反転がある。複数の調査で、ハイブリッド勤務者の方がフルリモート勤務者よりも孤独感が強いという結果が報告されている。出社日には同僚の多くが在宅で、在宅日には一人。中途半端に両方の役割の間を往復するこの働き方は、良いところ取りのようでいて、実際には最も社会的に断片化しやすい形なのかもしれない。折衷案は、折衷した分だけ両方のコストを引き継ぐこともある。
数え方を、もう一度置き直す
通勤をなくすことで確かに戻ってくるものがある。時間、お金、身体的な疲労。これは実測データが支持する事実であり、疑う理由はない。同時に、通勤という時間がひそかに担っていた役割の切り替え、仕事に入る前の心の準備、そして誰にも属さない自分だけの帯という機能も、同じ移動と一緒に消えていた。
この二つの勘定を、どちらも見ないまま「通勤ゼロ」を単純な得点として数えるのは、片方の帳簿だけを見て決算を組むようなものだ。自分の一日から通勤という項目を消したとき、実際に何を得て、何を手放したのか。それを確かめる作業は、まだ多くの人にとって済んでいない。
出典
Bloom, N., Liang, J., Roberts, J., & Ying, Z. J. (2015). "Does Working from Home Work? Evidence from a Chinese Experiment." The Quarterly Journal of Economics.
Ashforth, B. E., Kreiner, G. E., & Fugate, M. (2000). "All in a Day's Work: Boundaries and Micro Role Transitions." Academy of Management Review.
McAlpine, K. L., & Piszczek, M. M. (2023). "The Commute as a Liminal Space." (理論的レビュー、独自の実証データは含まない)
役割明確化プロスペクションに関する調査(2021). Organization Science.(N=1,736)
Pindek, S., Shen, W., & Andel, S. (2023). 通勤を「me time」として捉える理論枠組みに関する報告.
孤独時間とリモートワークの関係に関する大規模調査(2026). Science.(N=588,322)
Yang, L., et al. (2021). "The effects of remote work on collaboration among information workers." Nature Human Behaviour.
Bloom, N. (2022, 2024). ハイブリッド勤務の生産性・離職率への影響に関する追跡調査(NBER, Stanford SIEPR).
