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グルメ巡りとは何か、趣味にすると食べ歩きと何が違うのか
グルメ巡りという言葉を辞書で確かめ、趣味として始める三つの型の得と損を並べる。そのうえで、味覚訓練と満腹感、ながら食べの研究から、食べ歩きと趣味の差を考える。
一日に三度、あるいはそれ以上、人は何かを食べている。それだけの回数を重ねながら、その一食一食を意識して味わっている人はそう多くない。食事は「空腹を満たすためのルーティン」か、「話題の店を記録として消費するイベント」のどちらかに寄りがちだ。この二つは正反対のようでいて、同じ弱点を共有している。皿の上で実際に何が起きているかに、注意が向いていないという弱点だ。話題の店を漫然と消費する行為は、ランキングに従っているという点で受け身に見えるが、空腹を機械的に満たすだけの食事とやっていることの中身はさほど変わらない。どちらも、口に入れているものそのものより先に、別の何か——数字、行列、評判——に注意が持っていかれている。「ただ食べる」と「趣味として食べる」を分けているのは、店の格でも知識の量でもなく、この注意の向け方だとしたら、話はだいぶ具体的になる。以下では、味覚そのものの訓練可能性から、満腹感を邪魔するもの、多様性を求める食欲の裏側まで、いくつかの研究を手がかりに、この違いの中身を分解してみる。
「グルメ巡り」は、辞書のどこにあるのか
「グルメ巡り」を調べに来た人には、先に言葉のほうを片づけておく。コトバンクで引いた範囲では、「グルメ巡り」も「食べ巡り」も「お店巡り」も、見出しとして見つからなかった。引けたのは部品のほうだ。「グルメ」はフランス語の gourmet に由来し、デジタル大辞泉は「食通。美食家。」と引く。補説には、おいしい料理や評判の高い料理を指して使うこともある、と添えてある。人にも料理にも使える言葉なので、「グルメ巡り」は、食通として巡るとも、評判の料理を巡るとも読める。
別の呼び方を探している人に、辞書で裏づけが取れるのは「食べ歩き」までだ。デジタル大辞泉は、これをその土地の名物料理や珍しい食べ物をあちこち食べて回ること、と説明している。補説には、近年は「歩きながらものを食べること」の意で用いられることがある、とも。同じ字面で、指しているものが二つに割れかけているわけだ。動詞の「食べ歩く」のほうは、おいしいものを求めて、いろいろな店や場所に足を運ぶこと、という説明だけがある。ここでは、店を回るほうの意味で使う。「店巡り」「食べ巡り」「ご飯屋さん巡り」には、確かめられる定義がなかったので、同じことを指す呼び名として扱うにとどめる。どれが正しい言い換えかを、辞書は決めてくれない。
もう一つ、気づくことがある。ここで引いた定義は、どこへ行くか(名物、評判、いろいろな店)は書いているが、どう食べるかには触れていない。名物を食べて回れば、定義の上では食べ歩きになる。では趣味にするとは何か、と問うと、この空白が残る。以下の節は、その空白に何が入りうるかを、研究から見ていくものだ。
始め方の型は、おおまかに三つに分けられる。順位はつけない。どれも辞書の定義は満たしていて、違いは、注意がどこへ向きやすいかに出る。
一つめは、近いものを比べる型だ。ナポリタンなら喫茶店とイタリアンと洋食屋、というように料理を一つ決めて、数軒回る。後の節で見る味覚訓練の研究に、構造がいちばん近い。違いは見えやすい。代わりに、同じ種類を続けるぶん、飽きが早く来るのではないかと、私は思う。
二つめは、背景をたどる型だ。街の歴史や、修業先と弟子の店のつながりで巡る。話の種は尽きにくい。ただ、これは味の識別を鍛える構造とは別の軸で成り立っているので、舌の解像度を上げたい人には、遠回りかもしれない。
三つめは、リストをなぞる型だ。評判の高い店の一覧を、上から順に。行き先を決める手間が要らない。その反面、注意が皿より先に、星の数や行列へ向かいやすくなる、というのが私の見立てだ。この点は後の節で触れる。
三つは排他的ではないし、途中で乗り換えてもいい。ただ、どの型で始めても、辞書の定義の外側にある問い、つまり、そのあいだ注意を皿に置けているかどうかは、型が代わりに答えてくれない。
「舌が肥えている」は生まれつきの才能ではない
グルメを名乗る人には、生まれつき舌が鋭敏な人種がいるという思い込みがある。これは半分は都市伝説に近い。東北大学の研究チームが2025年にChemical Senses誌で発表した研究では、40人の健康な成人を訓練群と対照群に分け、訓練群にはグルコース、フルクトース、スクロース、マルトース、ラクトースという5種類の糖を、それぞれの検出閾値付近のごく薄い濃度で繰り返し提示し、それを言い当てて記憶する「テイスト・リコール訓練」をわずか3日間行わせた。結果、訓練群は5種類すべての糖について検出閾値が有意に下がり、似た甘さを持つ複数の糖を識別する力も上がった可能性がある、と著者らは述べている。舌の感度は、たった3日間の反復練習で変わる程度のものだということになる。
ただしこの結果を鵜呑みにして「訓練すれば誰でも美食家になれる」と読み替えるのは早計だ。この研究が測ったのは検出閾値という知覚の解像度であって、その食べ物をどれだけ楽しめるかという快楽の量ではない。閾値が下がることと、食事が豊かに感じられることは、隣り合ってはいても同じ軸の上にはない。解像度が上がった先に何を見るかは、また別の問題として残る。むしろここで確認できるのは、才能という言葉で片づけられがちな領域の一部が、実際には短期間の反復で書き換え可能な、ごく地味な学習の産物だという点に限られる。
経験が変えているのは、舌ではなく脳の働き方かもしれない
その「解像度の先に何を見るか」の手がかりになるのが、熟練したテイスターの脳を撮った研究だ。Castriota-Scanderbegらが2005年にNeuroImage誌で発表したfMRI研究では、ソムリエ7人と、年齢・性別を揃えた非専門家7人にワインを味わわせ、脳活動を比較している。ソムリエ群では左の島皮質と眼窩前頭皮質という、味覚と嗅覚の情報を統合し、それを過去の記憶と結びつける領域が強く活性化した一方、非専門家群では一次味覚野と情動処理に関わる領域が主に働いていた。同じ液体を口に含んでいても、脳の中で進行している作業がそもそも違うということになる。
2014年にPazartらがFrontiers in Behavioral Neuroscience誌で発表した研究は、Castriota-Scanderbegらの手法を踏まえ、基準刺激を水に替えて条件を整えた再検討である。多くが受賞歴を持つソムリエ10人と、年齢・性別を揃えた非専門家10人を調べると、非専門家では前部島皮質が飲み込んだ後の余韻の時間帯になって働いたのに対し、専門家では感覚の統合に関わる領域の活動がその時間帯には見られず、より早く、的を絞った反応をしているように見えた。熟練は、扱える情報量が増えることだけでなく、感覚の統合が働く時間帯の違いとしても現れうる、ということになる。
もっとも、これらの研究はいずれも被験者が7人から10人ずつの小規模な研究であり、経験が脳の働き方を変えたのか、もともと統合が得意な人がソムリエという職業を選んだのかを、この設計から切り分けることはできない。因果の向きを断定するには材料が足りないという留保つきで受け取るべき結果ではある。それでも、経験を積むという行為が単なる知識の蓄積にとどまらず、知覚そのものの働き方を変えうるという方向性は、この二つの研究から示唆される。ただ両者では、どの時間帯にどの領域が働いたかが一致しない部分があり、結論というより手がかりにとどまる。この方向性に沿って考えれば、趣味として食に向き合うことは、同じ一口に対する脳の働き方が経験とともに変わっていく過程に、自分から付き合うことだと言えるかもしれない。しかもそのためには、高価な食材や特別な訓練施設が要らない。必要なのは、比較の対象を意図的に近づけ、そのつど注意をそこに置き直す時間だけであり、その点で他の多くの趣味よりも入り口の敷居は低いはずだ。高価な器具を揃えなくても、遠方まで足を伸ばさなくても、近所に何軒か候補さえあれば、その日のうちに比較を始められる。趣味としての厚みは、対象の値段ではなく、比較にかけた回数のほうに宿る。それは、高額な機材や希少な食材を追いかける方向とは違う、もう一つの深め方があるということでもある。
訓練が求めているのは、多様性ではなく近さ
ここで見落としやすいのが、東北大学の訓練プログラムが実際にやっていたことの中身である。参加者に提示されたのは、まるで違う五つの味ではなく、いずれも本人の検出閾値のすぐ近くに設定された、ごく薄い濃度の甘味だった。つまり知覚の解像度を上げる訓練とは、遠く離れた選択肢をいくつも経験することではなく、ほとんど区別のつかない近い選択肢を繰り返し比べ続けることだったということになる。理想のナポリタンを求めて、喫茶店の極太麺、イタリアンのアルデンテ、洋食屋の鉄板焼きを食べ比べるという行為は、この訓練の構造とよく似ている。店ごとの違いが大きすぎる比較では、識別する力は伸びにくいだろう、というのが私の推測である。むしろ塩おにぎりのような単純な料理のほうが、店ごとの技術の差が浮き彫りになりやすいのは、比較の対象が近いところに集まっているからだ。
この点は、後で触れる「多様性を求める食欲」の話と裏表の関係にある。知覚を鍛えるのは近い対象への反復比較であり、満腹感を鈍らせて食べ過ぎに向かわせるのは遠く離れた選択肢の多さである。同じ「いろいろな店を回る」という行為でも、対象の選び方一つで、鍛錬にも消費にもなる。
味そのものより背景を味わうという巡り方も、この構造とは別の軸で成立する。中央線沿線の古い喫茶店や大衆酒場を巡って、街が歩んできた歴史とセットで食事を楽しむ、あるいはシェフが修行した店とその弟子の店を辿って、技術がどう受け継がれ、どう変わっていったかを確かめる。こうした巡り方は味覚そのものの識別訓練ではないが、店という単位を比較の対象に選び、そこに注意を向け続けるという構造は共通している。どの切り口を選ぶにせよ、Googleマップに保存したピンの集まりが、少しずつ自分なりの地図に変わっていくという感覚は、比較の軸を自分で設計したことの副産物なのだろう。
「ながら食べ」が奪っているもの
ここまでは「食べ方を磨くと何が起きるか」という上振れの話だった。下振れの話もしておく必要がある。BraudeとStevensonが2014年に学術誌Appetiteで発表した実験では、女性の参加者に、テレビをつけた状態と消した状態でそれぞれスナックを食べさせ、摂取量と満腹感の発達を比較した。参加者は、一種類のスナックだけを出される群と、四種類を出される群に分けられていた。結果は、どちらの群でもテレビをつけた条件のほうがよく食べた。しかも、一種類の群では、「同じ食べ物を食べ続けると、その食べ物に対する満足度だけが下がっていく」という感覚——専門的には感覚特異的満腹感と呼ばれる——が、テレビをつけた条件では育たなかった。どちらの群でも、空腹感や満腹感が同じだけ動くまでに、より多くの量が必要だった。著者らは、テレビが、食べる量を普段は調整している過程の、いくつかに影響しうると述べている。
この結果を裏づけるように、RobinsonとAveyardらが2013年にAmerican Journal of Clinical Nutrition誌に発表した、24件の研究を対象にした系統的レビューとメタ分析でも、似た構図が確認されている。食事中に注意をそらされると、その場での摂取量は中程度に増え(標準化平均差0.39)、その後の食事での摂取量は、それより大きく増えた(同0.76)。一方で、食べたものの記憶を強めると、後の食事量が減った(同0.40)。つまり「ながら食べ」の害は食べているその瞬間だけにとどまらず、何をどれだけ食べたかという記憶が薄くなることを通じて、次の食事にまで尾を引く。
ここで、グルメ巡りをする人がよくやっている、訪れた店をGoogleマップに保存したり写真を撮って記録したりする習慣が、案外理にかなって見えてくる。それは単なる収集欲やSNS向けの見栄えのためだけの行為ではなく、食べた内容を記憶に残す行為そのものが、次の食欲を適切な位置に戻す働きを持っているということでもある。ながら食べが記憶を薄れさせて過食に向かわせるのなら、記録することは逆方向に働く可能性がある。もっとも、この推論には注意も必要だ。Robinsonらのレビューが扱った「記憶の強化」は、食べたものの記憶を強める操作であって、訪れた店の外観や盛り付けを写真に撮る行為とは厳密には別物である。とはいえ、食べた出来事を後から思い出しやすい形にしておくという方向性が同じである以上、記録という習慣を単なる収集癖として片づけてしまうのは、いささか早計に見える。
多様性を求める食欲の、もう一つの顔
グルメ巡りを趣味にする人の多くは、同じ店に通い詰めるより、次々と違う店・違う料理を試すことに喜びを感じる。この欲求にも、古くからの裏づけがある。Rollsらが1980年代初頭に行った一連の研究は、同じ食べ物を食べ続けるとその食べ物への評価だけが下がり、まだ手をつけていない別の食べ物への評価は下がらないことを示した。これが感覚特異的満腹感という現象の元になった発見である。さらにRolls、van Duijvenvoorde、Rollsが1984年に行った実験では、48人に四品のコース形式の昼食を出し、毎回同じ料理の条件と、毎回違う料理の条件を比べた。後者ではエネルギー摂取量が60パーセント多く、増えたのは主に三品目と四品目だった。
これは皮肉な事実でもある。グルメ巡りの原動力である「いろいろ試したい」という欲求は、ビュッフェで人がつい食べ過ぎてしまう欲求と、同じ現象から来ている。趣味として食を楽しむことと、目の前の変化に釣られて無自覚に食べ過ぎることは、根っこの部分で区別がつかない。両者を分けているのは欲求の種類ではなく、そこに払われている注意の量と、食べた内容がどれだけ記憶に残っているかでしかない、というのがここまでの話の一つの帰結になる。一皿ごとの違いに意識を向けて味わうのと、目の前に並んだ選択肢の多さに押し流されて口に運ぶのとでは、欲求の出どころは同じでも、体験としてはまるで別のものになる。街を歩いて偶然目についた店に次々入るような巡り方は、この意味ではビュッフェの構造をそのまま屋外に広げただけのものになりかねない。逆に、一つの料理をテーマに決めて店を絞り込んでいく巡り方は、選択肢の数を意図的に絞ることで、変化に押し流される力を弱め、比較のための注意を確保しているとも言える。
「マインドフル・イーティング」はライフスタイルの美学ではない
注意を食べ物の側に取り戻す方法として、近年よく名前が挙がるのがマインドフル・イーティングと呼ばれる一連の手法だ。この分野の初期の研究として知られるのが、KristellerとHallettが1999年にJournal of Health Psychology誌で発表した、肥満のある過食性障害の女性18人を対象にした6週間の瞑想介入の、探索的な研究である。標準的なマインドフルネス瞑想に加えて、食事そのものに注意を向ける瞑想を組み合わせた結果、過食の頻度は週4.02回から週1.57回まで減少し、食行動に対する自己コントロール感も高まった。ただし対照群のない小さな研究で、減った分が介入によるものかを切り分ける設計ではない。この介入は、のちにMB-EAT(Mindfulness-Based Eating Awareness Training)という名前で体系化された、とされる。
ここで注意しておきたいのは、これはもともと過食性障害という臨床的な問題への介入として設計されたプログラムであり、生活に彩りを添えるための穏やかな習慣として生まれたものではないという点だ。Warrenらが2017年にNutrition Research Reviews誌に発表した、68件を対象にした構造化文献レビューは、マインドフルネスに基づく手法がむちゃ食いや情動的摂食、外的な手がかりに引きずられる食べ方に最も効果的に見えるとする一方、体重管理への有効性を示す説得力のある根拠はないとし、直感的摂食については根拠がまだ限られていると評価している。効く仕組みについては、外的な手がかりよりも内的な手がかりへの気づきが増すことによるらしい、としている。このレビューが挙げる見方——空腹感や満腹感といった体の内側からの信号に、テレビや会話といった外側の刺激より重みを置く——は、臨床の文脈を離れても成立する考え方だ。趣味として食を楽しむ人が自然にやっていることの多くは、突き詰めればこの発想の延長線上にある。それを癒やしめいた作法として輸入するのではなく、注意の配分をめぐる、ごく機械的な問題として捉え直すと、話はだいぶ地に足がつく。
DuffyとAttuquayefioが2025年にまとめた系統的レビューは、マインドフルネスに基づく介入が、高カロリーで魅力的に見える食品への視覚的な注意の偏り——目にした瞬間、他のものより長くそこに視線が吸い寄せられてしまう傾向——を弱める方向に働くことを示した研究を含む、6件の研究を整理している。結果は混合で、注意を直接変えなかった介入もあった。これは、食べ物そのものを味わう注意力の話というより、食べ物の「見え方」に反応してしまう手前の段階を扱ったものだが、注意という一つの資源を、外側の刺激ではなく自分の知覚や体感のほうへ向け直すという意味では、ここまで見てきた話とつながっている。ただしこのレビュー自身が、対象は6件にとどまり、サンプルも小さく、注意の偏りの測り方や介入の形式もまちまちだったと述べていて、確立した結論として扱うにはまだ早い段階にある。過食性障害の治療として組み立てられた技法の断片を、健康な人間が食事をより深く楽しむための道具として転用することには、そもそも無理があるという見方も成り立つ。それでも、注意の向け先を自分でコントロールできるという発想そのものは、臨床であろうと趣味であろうと共通の土台になっている。
ひとりで食べることが、たまたま理にかなっている理由
一人で店に入るのが怖いという相談はよく聞くが、ここまでの話を踏まえると、ひとりで食べることには社会的な壁を越える以上の意味が出てくる。会話をしながら食べるとき、注意は皿の上と話し相手の間で分割される。テレビをつけながら食べたときに満腹のサインが鈍ったのと同じ理屈で、会話に注意を割いている間は、味や食感を統合的に処理するために回せる余力が減っている可能性がある。ひとりでカウンター席に座り、会話のペースに合わせる必要もなく、自分の速さで一皿ずつ確かめる。この状態は、単に気楽だからではなく、注意という限られた資源のほとんどを食事だけに割り当てられるという意味で、皿の上の出来事により多くの処理能力を回せる状態になっていると言える。
もちろん、これは会話をしながらの食事に価値がないという意味ではない。誰かと食卓を囲むことには、それとして独立した価値がある。ただ、「趣味として食べる」ことを目的にひとりの外食を選ぶ行為は、しばしば誤解されるような孤独の埋め合わせではなく、注意の使い道についてのごく合理的な選択だという見方もできる。開店直後の空いた時間を狙う、まずランチで下見をするといった工夫の効能も、心理的な壁を下げるという以上に、周囲を気にする分の注意を節約して、その分を皿のほうへ回す仕組みだと考えれば、腑に落ちやすい。相席になった隣の客の会話が耳に入ってくる、店員に何かを尋ねられる、そうした小さな割り込みの一つひとつが、テレビの音量や画面の動きと同じ働きをして、味覚の統合作業を後回しにさせている可能性がある。静かな店を好む、混んでいる時間帯を避けるといった、一見ただの気配りにも見える選び方も、この観点からは注意を守るための実務的な判断だということになる。
星の数より、具体的な言葉を探す理由
店選びの段階でも、この「注意の配分」という視点は効いてくる。食べログやGoogleマップの評点は、無数の利用者の評価をならした平均値であり、そこには自分の好みと合わない他人の基準も等しく混ざり込んでいる。星の数だけを見て店を選ぶのは、他人が代わりに払った注意の残り滓を受け取っているようなものだ。それよりも、食感や温度、香りの立ち方といった具体的な言葉でその店を語っているレビューのほうが、実際には参考になることが多い。「提供が遅い」という低評価が、見方を変えれば手をかけて調理している証拠だったりもする。評価の数字ではなく、その数字の裏にある具体的な描写を拾いに行くこと自体が、すでに注意の使い方の訓練の一種になっている。星の数を眺めているだけの時間と、誰かが書いた「麺の表面がざらついていて、たれの絡みが良い」といった一文を読み解いている時間とでは、こちらの脳が動員している注意の種類がそもそも違う。店を選ぶ段階からすでに、味わうための準備は始まっているとも言える。
皿の外に答えを探さない
ランキングサイトの上位を機械的に巡ることと、味覚の解像度を上げてビュッフェ的な過食を避けながら一皿に向き合うことは、外から見ればどちらも「外食を趣味にしている人」に映る。だが起きていることはまるで違う。前者は注意が食べ物の外——星の数、行列の長さ、SNSでの見え方——に向いたままの状態であり、後者は注意が食べ物そのものに向いている状態だ。味覚は3日間の練習でも変わり、満腹感は画面一つで鈍り、多様性への欲求は放っておけば大食いの燃料にもなる。皿の上で起きていることは、思っているよりずっと訓練可能で、思っているよりずっと壊れやすい。
それでも、ここまで挙げてきた研究が、趣味として食べる人に「こう食べれば正解だ」と言っているわけではない。先のWarrenらのレビューは、体重管理への効果の根拠は弱いとしながら、マインドフルに食べることを一般向けの体重管理の助言に加えるのは前向きなメッセージになりそうだ、と結んでいるが、それは体重管理という文脈での話であり、MB-EATも過食の治療として作られたものだ。テレビを消せば必ず満足度が上がるわけでも、記録さえつければ食べ過ぎが消えるわけでもない。示されているのは、注意という資源の使い先によって知覚も満腹感も揺れ動くという、ただの事実の連なりにすぎない。その事実をどう自分の食卓に持ち帰るかは、店選びのセンスや知識量とは別の、もっと地味な実験の積み重ねに任されている。画面を消したときと点けたままのとき、同じ料理を一軒だけで食べたときと三軒で食べ比べたときとで、味の残り方がどう違って感じられるか。そうした小さな違いに気づけるかどうかは、結局のところ本人が何度もその場に立ち会ってみるまでわからない。答えを他人から受け取れる領域ではない、というだけのことだ。誰かのおすすめリストをなぞって終わる限り、この違いに触れる機会そのものが訪れない。
食に「趣味」という言葉を当てはめることの意味は、この壊れやすい注意を意識的に食べ物の側に置き続けることに尽きるのかもしれない。次にどの店に行くかを決める前に、今日の一口に何秒間注意を向けていられるかを試してみるほうが、案外この趣味の核心に近いところにある。
自分がふだんどちらの傾向に寄っているか気になった人のために、ficusには6つの質問を3つの型に振り分けるだけの趣味診断を置いてある。AIも何も介さない、ただの集計だ。もっとも、これも結局は皿の外に答えを探す行為の一つには違いない。診断の型に自分を当てはめて満足するより、次の一皿でその型をあえて裏切ってみるほうが、たぶん面白い。
出典
- Park, U., Miyagi, M., Ebihara, S. (2025)「Effect of taste recall training using 5 sweet substances on sweet taste sensitivities」Chemical Senses, 50, bjaf057(東北大学)
- Castriota-Scanderbeg, A. et al. (2005)「The appreciation of wine by sommeliers: a functional magnetic resonance study of sensory integration」NeuroImage, 25(2), 570-578
- Pazart, L., Comte, A., Magnin, E., Millot, J.-L., Moulin, T. (2014)「An fMRI study on the influence of sommeliers' expertise on the integration of flavor」Frontiers in Behavioral Neuroscience, 8:358
- Braude, L., Stevenson, R. J. (2014)「Watching television while eating increases energy intake. Examining the mechanisms in female participants」Appetite, 76, 9-16
- Robinson, E., Aveyard, P., Daley, A., Jolly, K., Lewis, A., Lycett, D. et al. (2013)「Eating attentively: a systematic review and meta-analysis of the effect of food intake memory and awareness on eating」American Journal of Clinical Nutrition, 97(4), 728-742
- Rolls, B. J., Rolls, E. T., Rowe, E. A., Sweeney, K. (1981)「Sensory specific satiety in man」Physiology & Behavior, 27(1), 137-142
- Rolls, B. J., van Duijvenvoorde, P. M., Rolls, E. T. (1984)「Pleasantness changes and food intake in a varied four-course meal」Appetite, 5(4), 337-348
- Kristeller, J. L., Hallett, C. B. (1999)「An exploratory study of a meditation-based intervention for binge eating disorder」Journal of Health Psychology, 4(3), 357-363
- Warren, J. M., Smith, N., Ashwell, M. (2017)「A structured literature review on the role of mindfulness, mindful eating and intuitive eating in changing eating behaviours: effectiveness and associated potential mechanisms」Nutrition Research Reviews, 30(2), 272-283
- Duffy, R., Attuquayefio, T. (2025)「The Impact of Mindfulness Interventions upon Visual Attention and Attentional Bias Towards Food Cues: A Systematic Review」Nutrients, 17(24), 3885
- 小学館『デジタル大辞泉』「グルメ」「食べ歩き」「食べ歩く」(コトバンク掲載の本文で確認)
