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自分で作った物は、なぜ既製品より63%も高く見えるのか

自分で作った物は、なぜ既製品より63%も高く見えるのか

ハンドメイドの趣味を始めると、必ず下手な時期を通る。革を磨く、木を削る、時計を組む——そこで生まれる愛着の条件は「自分で作ったから」ではなく、もっと限定的で、しかも裏切りやすい。下手な時期を飛ばさずに始めるとはどういうことかを、いくつかの研究から考える。

TOMOAKI··趣味

革の断面を、飽きるほどヤスリで磨く。木を削って、思っていたのと違う形になる。時計の針を組み違えて、最初からやり直す。こうした作業には、ネットで同じものを買えば数分で終わる用事を、何時間もかけてやっているという奇妙さがある。しかも出来上がった物は、たいてい既製品より不格好で、実用性でも劣る。それでも、買った物では得られない何かがそこにはある気がする。

この「気がする」を、印象論のまま置いておきたくない。「手を動かすと愛着が湧く」も「下手な時期にも意味がある」も、聞けば誰でも頷く言い回しだが、頷きやすい話ほど、実際に何が起きているのかを確かめずに済ませてしまいがちだ。幸い、この種の実感がどこまで本当で、どこから錯覚なのかは、心理学や運動学習の研究がかなりの部分まで調べている。調べてみると、話は「手作りは愛着が湧く」という一行の格言よりも、ずっと条件つきで、ずっと危うい。

手が関わると、判断のループが生まれる

画面を見る、何かを注文する、届いた物を受け取る。この一連の行為で、自分の身体が関わる部分はほとんどない。判断はするが、判断の結果を自分の手で確かめる工程がない。

一方、革に針を通す、木にヤスリをかける、金属パーツをピンセットで扱う作業では、自分がやったことの結果が、その場で物理的に返ってくる。力を入れすぎれば革は裂けるし、削りすぎれば木は薄くなりすぎる。運動学習の研究では、視覚・聴覚・触覚といった複数の感覚経路からのフィードバックが、単独の経路よりも技能の習得を助けることが繰り返し報告されている。チューリッヒ工科大学のジグリストらが2013年にまとめたレビューでは、触覚フィードバック――つまり「自分の手にどう返ってくるか」という感覚そのものが、視覚だけの手本を見るのとは別の学習経路として機能することが整理されている。動画で完成品や正しい手順をいくら見ても、この経路は働かない。見ることと、自分の手で誤差を感じ取ることは、脳の中では別の回路だということになる。買い物にはこの回路を使う機会そのものがない。だから「作る」という体験は、単に物を得る手段としては非効率でも、判断と結果を自分の感覚で結びつける機会としては、消費にはない密度を持つ。

「自分で作ったから好き」は、半分しか合っていない

ここまでは比較的素直な話だ。だが「自分で作った物には愛着が湧く」という通説そのものは、もう少し疑ってかかった方がいい。この現象には名前がついている。行動経済学者のノートン、モション、アリエリーが2012年に発表した研究で示された「イケア効果」だ。彼らの実験では、被験者に組み立て式の収納ボックスを自分で組み立ててもらい、その評価額を、同じ箱を完成品のまま渡された人の評価額と比べた。結果、自分で組み立てた側は平均78セント、完成品を渡された側は平均48セントと評価した。労働そのものは箱の機能を何一つ変えていないのに、評価額には63%もの差がついた。

面白いのはここからだ。被験者は自分の不格好な作品を、専門家が作ったものとほぼ同じ価値があると評価し、他人も同じように評価するはずだと思い込んでいた。つまり「作った」という事実だけで、出来の良し悪しとは切り離された過大評価が起きる。ここに、この趣味を長く続けるうえでの落とし穴がある。下手な時期の自分の作品を、実際よりずっと高く評価してしまうのは、成長の実感ではなく、この効果そのものかもしれないということだ。「前より上手くなった」という感覚の一部は、単に「自分で作った物は良く見える」という認知の癖が、毎回律儀に働いているだけの可能性がある。

完成しなかった労力は、愛着にならない

同じ研究にはもう一つ、見落とされがちな条件がある。組み立てた後にわざと壊された場合や、途中で完成させられなかった場合、この愛着はきれいに消える。労働が価値を生むのは、それが成功裏に完成に至ったときに限られる。裏を返せば、下手な時期に一番怖いのは「下手なこと」自体ではなく、完成させられないまま放り出すことだ。技術が拙くても、最後まで形にすれば脳はそれを「自分の成果」として処理する。途中で投げ出せば、そこにかけた時間は本当にただの損失として記憶される。最初の一個を、失敗しても惜しくない小ささにしておく理由は、単に材料費の節約という以上に、この「完成させて初めて効く」という条件を満たすためでもある。

難しかったことは、それだけで好きになる

イケア効果とよく混同されるが、別の現象もある。1959年、心理学者のアロンソンとミルズが行った実験で、グループへの加入儀式が厳しいほど、そのグループへの好意度が上がることが示された。恥ずかしい思いをするほど不快な儀式を課された参加者ほど、その後に体験した退屈な議論を高く評価した。難易度そのものが、対象への評価を引き上げてしまう。これは効果正当化と呼ばれる、認知的不協和の一種だ。

なお効果正当化はイケア効果とは別物であることに注意がいる。イケア効果が問題にしているのは労働の有無と完成の有無であり、難易度そのものはあまり関係がない。効果正当化が問題にしているのは、その労働がどれだけ不快で困難だったかという度合いの方だ。簡単に組み立てられた家具にも一応イケア効果は働くが、恥ずかしい思いをしたり痛い目にあったりした経験ほど、効果正当化はより強く働く。似た結論に見えて、動いている歯車は別だということになる。この二つの効果を重ねると、厄介な仮説が立つ。時計のカスタムで0.1ミリの部品を何度も落として苛立つ体験も、木材のサンディングでオイルの塗り重ねに何時間も悩む体験も、それ自体が「この趣味が好きだ」という感覚を、技術の向上とは無関係に底上げしている可能性がある。下手な時期の苦労が、後から振り返って「あの経験のおかげで今の自分がある」という物語に化けやすいのは、成長の実感が正確だからというより、苦労した対象を好きになるよう心が勝手に帳尻を合わせているからかもしれない。これは趣味を続ける動機としては悪くないが、「苦労したのだから自分の腕は上がっているはずだ」という思い込みとは、切り離して考えた方がいい。

下手な時期がしていることの正体

それでも、下手な時期そのものに意味がないとは言えない。技能習得を五段階に整理したドレイファス兄弟の1980年のモデルでは、学習者は初心者から段階的に、抽象的なルールへの依存を減らし、具体的な経験の蓄積に頼るようになっていくとされる。初心者の段階では、教科書的な規則に従うことしかできない。だが規則をいくら正確に暗唱できても、それだけでは次の段階には進めない。規則が通用しない例外――革の断面をどこまで磨けば十分かというような、状況によって正解が変わる判断――に実際に何度もぶつかり、その都度自分の手で調整する経験を積んで初めて、次の段階に移行する。

レザークラフトで革の断面(コバ)を磨く工程を思い浮かべるとわかりやすい。最初はどれくらい磨けば十分なのか、力加減も時間の感覚もまったくわからない。粗く磨いて満足してしまうこともあれば、逆に磨きすぎて革を薄くしてしまうこともある。この「わからなさ」を実際に何度も経験して初めて、「このくらいで十分」という基準が自分の中にできる。動画で正解の手順を見ているだけでは、この基準は身につかない。見て理解した規則と、失敗して身についた基準は、同じ言葉で説明できても中身が違う。前者は他人の言葉を借りて再現しているだけであり、後者は自分の失敗の記憶と結びついているぶん、応用が利く。DIYで棚や机を作る場合の木材のサンディングやオイル塗りも同様で、木の状態や湿度によって最適な加減は変わり、説明書には正確には書けない。この「書けない部分」を自分の手で埋める経験こそが、次に別の素材や別の作業に向き合ったときに使える判断力になる。

時間をかければ上手くなる、というのも単純化しすぎている

下手な時期を語るとき、もう一つよく持ち出されるのが「とにかく時間をかけろ」という話だ。いわゆる一万時間の法則だが、これは提唱者本人が後に「誤解の積み重ねから生まれた数字だ」と否定している。2014年にマクナマラらが発表した88の研究にまたがるメタ分析では、意図的な練習の蓄積時間が技能のばらつきを説明する割合は、チェスで26%、音楽で21%、スポーツで18%にとどまった。残りの大部分は、練習時間以外の何かで決まっているということになる。しかも上級者どうしを比べた場合には、練習量の差はほとんど差を説明しなくなる。革を何時間磨いたかを数えること自体には、思っているほどの意味がない。時間の量ではなく、その時間の中で「わからない」にぶつかり、規則が通用しない場面を自分の手で処理した回数の方が、ドレイファスの言う段階の移行には効いているはずだ。同じ一時間でも、迷いなく手を動かせた一時間と、判断に詰まって試行錯誤した一時間とでは、中身がまったく違う。

「苦労が学習を強める」という理論には、注釈がいる

学習心理学には「望ましい困難」という考え方もある。心理学者のビョークが提唱したもので、学習の直後の出来栄えを下げるような負荷――間隔を空けた復習や、答えを見る前に自分で思い出そうとする練習――が、長期的な記憶の定着をかえって強めるという理論だ。2017年に発表されたアデソープらによる大規模なメタ分析では、こうした想起練習の効果量はg=0.61とされている。ただし、この理論の実証の大半は、単語や事実を覚えるような言語的・宣言的記憶の実験に基づいている。革を磨く、木を削るといった身体を使う技能の習得に、そのままの強さで当てはまるとは限らない。先に触れた運動学習の研究が示しているのは、苦労そのものではなく、自分の動作の結果が返ってくるフィードバックの質と経路の多さだ。つまり「難しければ難しいほど身につく」という単純化は、少なくとも手仕事の文脈では言い過ぎになる。効いているのは苦労の量ではなく、自分の失敗を自分の感覚で検出できる機会があるかどうかの方だろう。

それでも挫折しやすいのはなぜか

この手の趣味が長続きしにくい理由は、たいてい難易度そのものではない。最初に思い描いた完成度と、実際に自分の手が出せる結果との落差が大きすぎることにある。SNSで見る仕上がりのきれいな作品と、自分の最初の一個を並べてしまえば、誰でもがっかりする。他人の完成品は、その人の下手な時期をすでに終えた結果であって、自分がこれから通る過程とは別のものを見ているにすぎない。

加えて、SNSで見えている作品そのものが偏った標本だという事情もある。下手な時期に心が折れて趣味をやめた人は、その途中経過を投稿せずに離脱していく。タイムラインに残るのは、下手な時期を乗り越えた人の作品だけであり、乗り越えられなかった人の存在は最初から見えない設計になっている。つまり比較の対象自体が、生存者だけを集めた偏った集団であり、自分の初回作品と比べる相手として適切ではない。

2025年に発表された創造的自己効力感に関する研究では、自分の創造性への信念が、生活満足度や人生の意味の実感と結びつくことが示されている。ただしこの研究が言っているのは、「創造的な活動をすれば幸福になる」という単純な話ではなく、自分の創造性を信じられるかどうかがその効果を仲介している、という点だ。つまり同じ失敗を経験しても、それを「まだ基準ができていないだけ」と捉えるか、「自分には向いていない証拠」と捉えるかで、同じ下手な時期がその後の継続を左右する分かれ道になる。SNSの完成品との比較が有害なのは、単に気分が落ち込むからではなく、この分かれ道を悪い方に押しやりやすいからだ。

心理学者のチクセントミハイがフロー理論として整理したのは、課題の難易度と自分の技量が釣り合ったときにだけ、深い没入が生まれるという構図だ。技量に対して課題が易しすぎれば退屈になり、難しすぎれば不安になる。フローが生まれるのは、その中間の細い帯の中だけになる。最初の作品として複雑な家具や精密なムーブメントを選んでしまうと、この帯を外れて不安の側に落ちる。編み物であれば複雑な模様のセーターから、陶芸であれば実用に耐える食器から始めてしまうのがこれにあたる。技術がまだ追いついていない課題を選べば、没入どころか、常に自分の下手さを直視させられ続けるだけの時間になる。逆に技量に対して課題が単純すぎれば、今度は退屈の帯に落ちて、続ける理由そのものが失われる。ちょうどいい難易度は、他人が決めた基準ではなく、自分の今の技量に合わせてその都度選び直す必要がある。最初の一個を小さく安くしておくべき理由は、単に失敗のコストを下げるためだけではなく、この帯の中に踏みとどまるためでもある。

もう一つの理由は、最初から高価な道具や大きな作品で始めてしまうことだ。3Dプリンターにせよ本格的なレザークラフト工具にせよ、初期投資が大きいほど「失敗してもいい」という余裕がなくなる。しかもここには効果正当化の裏面がある。高い道具を買った後は、それを正当化するために「自分はこの趣味に向いている」と思い込みたくなる圧力がかかる一方、実際に手を動かして基準が育つ前に無理に大きな作品へ進み、失敗して心が折れれば、今度は高い出費だけが残って続かなくなる。投資の大きさは、続ける動機にも、やめる決め手にも、どちらにも転びうる。

何を選ぶかで、下手な時期の中身が変わる

「ハンドメイドの趣味を始めたい」という相談に対して、特定の一つを勧めるつもりはない。ここまでの話を踏まえると、選ぶべきは「人気があるもの」でも「映える完成品ができるもの」でもなく、自分がどの種類の下手さになら耐えられるかという基準になる。素材によって、下手な時期の性格そのものがかなり違うからだ。

レザークラフトは、失敗の取り返しがつかない部類に入る。コバを磨きすぎれば革は薄くなり、そこで終わる。ただし一つの工程が短く、コインケース程度なら数時間で完成にたどり着けるため、イケア効果が働く「完成」の回数を早いペースで積み上げられる。木工は、レザークラフトよりもさらに取り返しがつかない。削りすぎた木材は元に戻らず、しかも一つの作品が仕上がるまでの時間が長いため、完成の手前で心が折れるリスクも大きい。最初の題材を箸置きのような小品に絞る意味は、この時間の長さそのものを圧縮するところにある。時計のカスタムは、部品それ自体は失っても買い直せることが多いという点で、木工よりは取り返しがつく。ただし0.1ミリ単位の作業がひたすら続くため、フロー理論の言う不安の帯に入りやすく、心理的な消耗は大きい。編み物は、目を一段ほどいてやり直せるという意味で、この中では最も寛容な部類に入る。失敗のたびにやり直しがきくということは、裏を返せば「完成」という区切りが曖昧になりやすいということでもあり、イケア効果が働くタイミングを見失いやすい。陶芸は、成形の段階では編み物に近いほど手直しがきくのに、焼成という後戻りのできない最終工程が一度だけ挟まる、少し特殊な構造をしている。3Dプリントは、データさえ直せば何度でも出力し直せるという点で、素材としての取り返しのつかなさがほぼ存在しない。その代わり、力加減や刃物の使い方といった、体を通した誤差の検出そのものを経験する機会も少なくなる。運動学習の研究が触覚フィードバックを重視していたことを思い出すなら、これは学習の密度という意味では他の素材に劣る面がある。

どれが優れているという話ではない。取り返しのつかなさに耐性がない人が木工から始めれば、下手な時期に必要な試行錯誤の数をこなす前に折れる。逆に、じっくり考える時間そのものを楽しみたい人が編み物のような寛容な素材を選べば、ちょうどいい負荷で長く続けられる。自分の性格と、素材が要求する下手さの種類を先に照らし合わせておいた方が、途中で投げ出す確率は下がる。ランキングをつけて一つを勧めることができないのは、この相性の部分が、技術的な難易度以上に個人差の大きい変数だからだ。

下手な時期をどう設計するか

「正しい始め方」を提示するつもりはない。ここまでの研究を並べ直すと、下手な時期の内側で実際に何が起きているかについて、いくつかの傾向が見えてくるだけだ。

イケア効果は労働そのものではなく完成に対して働くという条件を思い出すなら、最初の一個が小さく安いほど、この効果が働く「完成」という区切りにたどり着きやすくなる、という関係が導ける。革ならコインケース程度、木彫りなら小さな箸置き程度に材料費が数千円で収まっていれば、途中で放り出すコストも小さく、完成までの距離も短い。逆に最初から大きな作品を選んでしまうと、完成という区切りにたどり着く前に力尽きる確率がそれだけ上がる、という単純な話でもある。

ドレイファスの段階モデルに従えば、次の段階への移行を運ぶのは完成度そのものではなく、規則が通用しなかった場面の蓄積の方だ。だとすれば、作業中に「わからない」と感じた回数は、出来栄えよりもよほど学習の進み具合を映す指標になっている可能性がある。出来のよさばかりを気にしていると、この指標は見えないまま通り過ぎてしまう。

比較についても同じ構図がある。先に見た創造的自己効力感の研究が示すのは、失敗そのものよりも、その失敗を「基準がまだできていないだけ」と捉えるか「向いていない証拠」と捉えるかの分かれ道が効いてくるという点だった。他人の完成品と自分の途中経過を並べる比較は、生存者バイアスのかかった相手と戦っているという点でそもそも公平でないうえ、この分かれ道を悪い方に押しやりやすい。比較の対象として意味を持ちうるとすれば、他人の完成品ではなく、先週の自分の作業と今週の作業の方だろう。

道具についても、効果正当化の裏面から同じ傾向が導ける。大きな初期投資は、それを正当化したいという心理的な圧力を生む一方で、技術そのものの向上を保証するわけではない。道具を先に揃えるほど後戻りしにくくなるという関係は、続ける動機にも、やめられなくなる足かせにも、どちらにも転びうる。

3Dプリントのように、失敗のコストがほぼゼロに近い分野(データを直せば何度でも出力し直せる)もあれば、木材や革のように一度削りすぎると取り返しがつかない分野もある。取り返しのつかなさの度合いは、素材によってかなり違う。だからこそ、最初に選ぶ素材や作業は、失敗の重さがどれくらいかを見極めてから決めた方がいい。取り返しのつかない失敗を最初から選んでしまうと、下手な時期に必要な数の試行錯誤を積む前に、心が折れる可能性が高くなる。

採点者のいない基準

ここまでの話を並べると、手作りの趣味を美化する要素の大半が、心理的な錯覚や統計的な偏りで説明できてしまうことに気づく。自分の作品を高く見積もるのはイケア効果という認知の癖であり、苦労した対象を好きになるのは効果正当化という帳尻合わせであり、SNSで見える完成品の眩しさは生存者バイアスがつくった見せかけであり、練習時間の蓄積そのものは技能のばらつきの一部しか説明しない。これだけ並べると、手作りという行為から特別さを差し引いていく作業をしているように見えるかもしれない。だが、これらの錯覚や偏りを取り除いた後にも、まだ残るものがある。

完成した革のコインケースも、削ったククサも、組み替えた時計も、物としての実用性で言えば既製品に劣ることの方が多い。それでもなお残るのは、物ではなく、物を作る過程で自分の手と目が獲得した基準の方だ。革の断面をどこまで磨けば十分かを、自分の手と目で判断できるようになったという事実、木を削りすぎた失敗を二度としない加減が身についたという事実は、イケア効果のような評価の上乗せとは別の場所にある。それは他人に見せて評価してもらう性質のものではなく、次に同じ作業をするときに、自分がその通りにできるかどうかでしか確かめようがない。証明ではなく、確認だけが可能な種類の知識だということになる。

買うことでは、この種の基準が手元に残ることはない。届いた物がどれだけ精巧でも、その精巧さを生み出した判断の基準は、作った人の中にあって自分の中にはないからだ。下手な時期を飛ばして完成品だけを追い求めると、技術は身につかないまま、完成した物と、その物に対する見かけ上の愛着だけが手元に残ることになる。それはそれで一つの選択だが、この記事が最初に問うていた「買うのとは違う手応え」の正体からは、一番遠い場所にある結果でもある。手応えという言葉が指しているのは、完成品の見た目の良さでも、それを見た他人の反応でもなく、次に同じ場面に立ったときに自分がどう判断するかという、地味で検証しづらい部分の方なのだろう。

出典

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