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血中の硫化物の報告値は、300倍以上ちがった——硫黄泉の「すっきり」を一段ずつ確かめる
血中の硫化物の報告値は、論文によって300倍以上ちがう。温めても脳の血流は増えるとは限らず、肌から入る量の実測も、硫黄泉と普通の湯を比べた試験も見つからなかった。
硫黄泉に浸かると頭がすっきりする、という話は、温泉案内でも口コミでもよく見かける。解説の定番は、硫化水素という気体が血管を緩め、血の巡りが良くなり、脳に酸素が届く、という順序だ。筋は通っている。通っているだけに、どこかで一度、一段ずつ確かめておく価値がある。暗い階段を降りるとき、踏み板を一枚ずつ足で確かめるのと同じで、確かめて初めて、抜けている段が見つかる。
この記事は、その説明を四つの段に分けて、それぞれに原典で当たる。硫化水素は血管を緩めるのか。それは入浴で肌から入る量で起きるのか。血管が緩めば、脳の血流は増えるのか。そして、頭の働きは実際に変わるのか。最初に一つだけ数字を出しておくと、血液中の硫化物の濃度は、報告された値が、研究によって300倍以上食い違っている。確かめられた段と、確かめられなかった段が出てくる。後半では、四つの段の外にある話として、湯あたり、浴室の安全、泉質の名前の読み方も扱う。どの研究を全文で読み、どれを要旨でしか確認できていないかは、出典の欄に書いた。おすすめの温泉は出てこない。
「すっきりした」は、何を測った言葉なのか
まず、確かめる対象を決めておく。「頭がすっきりする」は、感想であって測定値ではない。研究者が測れるのは、たとえば気分の質問票の点数、課題に答えるまでの時間、脳の血流の速さ、といったものだ。感想がこれらのどれかと対応するのかは、じつは自明ではない。
そのうえ、温泉に行く日は、ふだんの日とは条件がそろっていない。仕事のない一日で、見慣れない景色の中にいて、温かい湯に入り、眠くなる人もいる。すっきりした理由の候補は、湯の成分を数え始める前にすでにいくつも並んでいる。以下では、成分の効果を、その他の候補から切り分けられた研究があるのかを見ていく。
切り分けられていない、という結論が先に見えているのは、お断りしておく。ただ、どこまで確かめられて、どこから確かめられていないのかは、数字を見ないとわからない。そして、その境目のあたりに、この記事でいちばん読む価値のある数字が置かれている。
硫化水素は、実験では血管を緩める
最初の段は、動物実験では確かなほうだ。硫化水素は、体内で作られて血管の状態を調整する、ガス状の信号分子として扱われている。一酸化窒素と並べて、ガストランスミッター(気体のかたちで体内の情報を伝える分子)と呼ばれる。
代表的な実験は、2001年にZhaoらが発表したものだ。ラットに硫化水素を静脈から注入すると、血圧が下がった。体重1キログラムあたり2.8マイクロモルで平均約12.5ミリ水銀柱、14マイクロモルで約29.8ミリ水銀柱の低下が報告されている。ここまでなら、血管が緩むという説明の最初の段は、動物実験としては成り立っている。血管平滑筋のカリウムチャネルを開く経路で、チャネルを塞ぐ薬を先に与えると、降圧は大きく減った。
ただし、この数字には、注入という前提がついている。静脈に直接入れた量であって、湯に浸かって入った量ではない。摘出した大動脈を使った実験では、血管が緩み始める濃度の下限が、およそ18から60マイクロモル、半分が緩む濃度が約125マイクロモルだった。この濃度の見方が、次の段で効いてくる。
血中の濃度は、測る人によって三桁ちがった
体の中の硫化水素は、どのくらいの濃度なのか。この問いに、研究者のあいだで答えがそろっていない。
Zhaoらの論文自体が、ラットの血清で約45マイクロモルという値を測っていた。血管を緩める濃度に近い値だから、体内の硫化水素は、いつも血管に働きかけていそうに見える。ところが、その後の測り直しは、これを大きく下回った。Whitfieldらは2008年に、六種類の動物の血液で、全硫化物が100ナノモル未満で、ほぼ検出できない水準だと報告した。Furneらも同じ年に、マウスの組織で、水に溶けて自由に動ける状態の硫化水素(遊離の硫化水素)を測り、脳と肝臓で約15ナノモルという値を出した。これは、従来の値より桁で三つ小さく、細胞の機能を試験管の中で変える濃度(100マイクロモル)の、数千分の1にあたる。Olsonの2009年の総説は、血中の硫化物として報告されてきた30から300マイクロモルという値そのものに疑義を呈している。
単位を言い換えておく。モルは物質の量の単位で、1マイクロモルは1,000ナノモルにあたる。30マイクロモルと100ナノモル未満のあいだは、300倍以上ある。最大の300マイクロモルで比べれば、3,000倍にもなる。動物の血液や組織について、論文によって三桁ほど違うことになる。家計簿の収支が、ある人の帳簿では千円、別の人の帳簿では三十万円と出たら、疑うのは使い方より、帳簿のつけ方のほうだろう。測定法で硫化物が壊れたり、逆に別の物質から生じたりする、という議論が続いている。決着はついていない(私が確認できたのは、2008年から2009年の報告までだ)。
この食い違いは、温泉の話にとっても他人事ではない。もし体内の濃度がナノモルの水準で、血管を緩めるのに必要な濃度がマイクロモルの水準なら、体の中の硫化水素は、血管を緩める仕事をふだんからしているわけではないことになる。逆に、マイクロモル水準が正しければ、いつも働いている。どちらが正しいかで、外から少し足したときの意味が変わる。第一の段は成り立っているが、その前提の数字が、まだ揺れている。
肌から入る、という説明に、実測はない
第二の段に進む。湯に浸かると、硫化水素は肌から入るのか。
解説でよく見るのは、硫化水素は水に溶けたイオンというより、脂に馴染みやすい気体の分子なので、皮膚を通りやすい、という説明だ。化学としては、半分は筋が通っている。水の中の硫化水素は、硫化水素の分子(H2S)と硫化水素イオン(HS−)の二つの形で存在し、その比はpHで決まる。環境省のガイドラインは、アルカリ性や弱アルカリ性の硫黄泉には硫化水素がほとんど含まれず、硫化水素イオンやチオ硫酸イオンが含まれる、と整理している。pHを言わずに「気体分子として」と言うのは、半分しか言っていないことになる。
では、気体分子のほうが、実際に皮膚を通って体に入るのか。ここで、公的な毒性評価の側が、はっきり書いていることがある。米国の有害物質・疾病登録庁(ATSDR)の2016年の毒性プロファイルは、ヒトが硫化水素を皮膚から吸収するかを調べた研究は見つからなかった、と書いている。動物については、広い面積を曝せば吸収が起こりうるとしている一方、モルモットの小さな面積などでは吸収の徴候がなかったとしている。
一方で、温泉医学の総説には、吸収を前提に書くものがある。Carbajoらの2017年の総説は、硫化水素が皮膚から吸収されうると述べるにとどまる。2025年の総説は、入浴で吸収が増えると書き、吸入も主な経路の一つに挙げる一方、無傷の皮膚は短時間の曝露に対して有効な障壁になる、とも書いている。読んだ範囲では、どちらも、ヒトの入浴中の吸収量を実測した数値は示していない。説明は、機構としてのもっともらしさに立っていて、測った数字に立ってはいない。
吸入と経皮の寄与を分けた研究は、確認できなかった。蒸気で曇った部屋で、窓が濡れていても、外から水が入ったのか、中の湿気が結露したのかは、窓を見ただけでは分からない。それと同じで、浴室に硫化水素が立ちこめていれば、息としても入りうる。どちらがどれだけかは、分けて測らない限り言えない。「肌から入って頭に効く」という物語は、この区別がつかないまま語られている。
念のため書いておくと、脳の側に目を向ければ、硫化水素が神経の働きに関わるという実験はある。AbeとKimuraは1996年に、動物の海馬の切片で、生理的な濃度の硫化水素が、記憶に関わるとされる長期増強(神経のつながりが強まる現象)を促すと報告した。ただし切片を使った実験で、入浴で入った硫化水素が脳に届くことを示すものではない。届く、とする根拠は、今回の調査では見つからなかった。
温まると、脳の血流はむしろ下がる
第三の段は、最もよく知られた説明に、いちばん冷たい数字がある段だ。血管が緩んで血の巡りが良くなれば、脳にもたくさん血が行く。これは直感に合う。だが、体を温める実験の結果は、そうなっていない。
Fanらは2008年に、体を受動的に温めたとき、深部体温(体の芯の温度)が1度上がるごとに、脳の主要な動脈(中大脳動脈)の血流速度が約15パーセント下がると報告した。同時に、呼気の二酸化炭素が、1度あたり約8ミリ水銀柱下がっていた。人は暑くなると息が荒くなる。その結果、血中の二酸化炭素が減る(低二酸化炭素血症と呼ばれる状態だ)。二酸化炭素は、脳の血管を広げる信号として働くので、減ると脳の血管は縮み、血流が落ちる。Lucasらは2018年に、下半身に陰圧をかけない条件では、この低下が低二酸化炭素血症で完全に説明できると報告した。陰圧をかけた条件では、説明できたのは約7割だった。血流が下がるのは、加温そのものというより、息が荒くなって二酸化炭素が減るせいが大きい、という内容になる。蛇口の水圧にたとえるなら、途中の弁だけが絞られている状態に近い。ただしこれは見取り図で、実測された仕組みではない。
では、ふつうの入浴ではどうか。ここは条件を丁寧に見る必要がある。Worleyらは2021年に、首まで湯に浸かる実験を行い、浸かって30分の時点で脳の動脈の血流速度が、35度の湯では毎秒約4センチ増え、39度の湯では約3センチ減ったと報告した。これは18人の実験の値で、14人の別の実験では、増減の幅はやや小さく(約5センチ増と約1センチ減)、向きは同じだった。つまり、同じ人間が浸かっても、湯がぬるければ増え、熱ければ減る。増えたのは、ぬるいほうだった。
この結果は、血流という言葉のあいまいさも見せている。手足や皮膚の血流は、温めれば増える。一方、脳の血流は、温め方と呼吸のしかたに左右され、増えるか減るかは条件次第だ。「血流が良くなる」と言うとき、どこの血流を指しているのかが、説明からはよく抜け落ちる。
また、脳内にたまった代謝の副産物を血流が洗い流す、という言い回しもよく見る。この言い回しの出典は、今回の調査では確認できなかった。
注意点がある。Fanらの実験は、深部体温を1度以上上げる設計で、ふつうの入浴よりも強く温めている。40度で10分ほどの入浴で、脳の血流がどれだけ動くのかは、これらの結果からは言えない。言えるのは、血管が緩むから脳への血流が増える、という一本道の説明が、実測とは合わないということまでだ。
それでも、頭の働きが良くなった実験はある
血流が増えないのなら、頭の働きも変わらないのか。そうとも言えない。ここが、この主題でいちばん厄介なところだ。
Barryらは2022年に、温水浸漬で直腸の温度(深部体温)を約38.6度まで上げ、その最中にストループ課題を調べた。ストループ課題は、文字の意味と違う色のインクで書かれた字を見て、インクの色を答える課題で、その中の、字を読む課題の反応が、8人の平均で44ミリ秒速くなった。数える課題も39ミリ秒速くなった。どちらも処理の速さを見る課題で、色と字の食い違いを抑える力を見る部分には、要旨に差の記載がない。もともとは熱への順化を調べる研究で、同じ課題の繰り返しによる慣れを除けていない。人数は少ない。ただ、血流が下がっているはずの条件で、課題の成績が悪くなっていないどころか、速くなったことになる。血流の増減と、頭の働きとは、一直線には結びつかない。
足湯にも研究がある。Miwaらは2009年に、高齢者12人に42度の足湯を10分させ、前頭葉の血流が増えたことを測った。ところが、暗算の成績は前後で変わらなかった。血流は動いたのに、課題の成績は動かなかったわけで、先ほどとは逆向きの、ずれの例になる。IvanovėとBrazaitisの2022年の報告では、14人が45度の湯に5分浸かると、難しい課題での反応が速くなった。
逆向きの結果もある。Racinaisらは2008年に、50度の室に置かれた16人で、記憶の課題の成績が落ちたと報告した。単純な注意の課題は落ちなかった。Brazaitisらの2015年の報告では、43から44度の浴で、40人の認知に影響が見られなかった。加温が頭の働きを良くするのか悪くするのかは、課題の種類と温度で、向きが変わる。
ここまでを並べて、一つ言えることがある。血流が増えたからすっきりした、と言える形の証拠は、見つかっていない。成績が上がる実験と、脳の血流が下がる実験が、同じ条件のあたりに並んでいる。血流を介した説明を支える材料は乏しい。かといって、別の説明が裏づけられたわけでもない。体が温まって覚醒の水準が上がり、反応が速くなる、という読みもありうるが、覚醒そのものを測った研究を、私は引いていない。Barryらは8人で、脳の血流を測っていないし、Ivanovėらで改善したのは、三つの課題のうち最も難しいものだけだった。上がる、変わらない、下がる、と結果が割れているので、どの説明とも折り合ってしまう。これは私の読みであって、検証された説明ではない。
そして、深部体温を38度台まで上げるような実験は、実際の入浴よりかなり強い加温を使っている。40度で10分から20分、肩まで浸かったときの浴後の認知を、ランダム化して測った試験は、今回の調査では見つからなかった。
硫黄泉を、ふつうの湯と比べた試験は見つからなかった
ここまでの話は、硫黄泉でなくても、温かい湯なら起きうることだ。温泉の硫黄の成分が上乗せで効くのかは、硫黄泉と、成分のない湯を比べないとわからない。
そのような比較で、覚醒や認知、気分を測った対照試験は、PubMedなどでの検索では見つからなかった。見つからなかったことは、存在しないことと同じではない。日本語の文献や、ロシア語圏で行われてきた硫化水素浴の文献を、取り逃がしている可能性は残る。
近いものとして、関節の病気で硫黄泉を使った試験がある。Brancoらは2016年に、膝の変形性関節症の140人を、硫黄泉、硫黄を含まない温泉、無治療の三つに分け、10週間の入浴をしてもらい、終了時と終了の2か月後に調べた。終了の時点では、硫黄泉と硫黄を含まない温泉の差はなかった。2か月後の時点で差が出た。ただし、患者はどの湯に入っているかを知っていて、盲検になっていない(評価する側は盲検だった)。痛みという主観の指標で、期待の影響を除けていない。
この試験の読み方は、二つに割れる。硫黄に特別な効果がある、と読む人もいるだろう。終了時点で差がなかったことを重く見て、差は遅れて出たのだから、湯の成分より、その後の過ごし方の違いかもしれないと読む人もいるだろう。どちらの読みも、この設計からは決められない。期待の影響については、公開済みの温泉の効能の記事で扱っている。
では、どんな試験なら切り分けられるのか。考え方は単純で、同じ温度、同じ時間、同じ浴室で、硫黄を含む湯と含まない湯に、本人にも測る人にも知らせないまま入ってもらい、入浴の前後に課題と質問票で測る。単純なのに実現しにくいのは、硫黄泉には特有のにおいがあるからだ。においがすれば、入っている人は、どちらの湯かを知ってしまう。盲検にならない。もっとも、においが弱いアルカリ性の硫黄泉なら、盲検(どちらの湯かを知らされない状態)が成り立つ余地はあるし、評価者だけが知らない設計もできる。試験が少ない理由は、設計のむずかしさかもしれないが、それは調べていない私の推測だ。試験が見つからないことと、効果がないことは、ここでも別々に置いておく。
湯あたりという反対側の現象
温泉の効果として語られる反応には、反対側にも名前のついたものがある。湯あたりだ。
環境省の2014年の通知は、湯あたりを、療養を始めて、おおむね3日から1週間前後に出る症状として書いている。つまり、一回の入浴の直後にふらつくのとは、通知の書き方では別のものだ。入浴後については、30分程度の安静と、コップ一杯程度の水分補給を求めている。永田が2015年に日本温泉気候物理医学会雑誌に書いた論説は、民間の宿での約1か月の温泉療法で、線維筋痛症などの被験者の80パーセント(対象は線維筋痛症などの慢性の痛みの患者が多い)に、湯あたりが3日目から7日ごろに現れたと述べている。論説であって、仕組みを検証した研究ではない。
一方で、頻度は、どこまでを湯あたりと数えるかで大きく動く。杉山尚が1961年に日本温泉気候学会雑誌の講演要旨に載せた調査は、条件で数字が大きく動く。湯治に来た人の自覚を尋ねると15から41パーセント、鳴子の1,086人を診察して調べると、何らかの反応のある人が80.6パーセント(自覚は40.9パーセント)、狭い定義で数えると10から15パーセントで、60から90パーセントという値は、1日に5、6回の高温浴という条件つきの広い定義の話だった。
よく見る説明に、湯あたりは急激な血管の拡張に体がついていけない現象だ、というものがある。通知にも、取得できた論文にも、この仕組みの記述はなかった。もっともらしさで広まった説明なのだろう。通知は、「好転反応」という言い回しも使っていない。体が悪いものを出している証拠、といった読み方は、少なくとも公的な資料の側にはない。
においが消えるとき
ここで、いちばん現実的な話をしておく。硫化水素は、毒性のある気体だ。
環境省の2017年のガイドラインは、告示で定められた基準を補足して、硫黄を含む温泉の浴室について、湯面の10センチ上で20ppm、床から70センチの高さで10ppmという値を示している。ppmは、空気100万の体積のうち、何が硫化水素か、という割合だ。換気口は2か所以上で、うち1か所は床面と同じ高さに置く。2018年2月にまとめられた環境省の利用実態調査では、総硫黄(硫化水素イオン、チオ硫酸イオン、遊離の硫化水素に含まれる硫黄の合計)が2ミリグラム毎キログラム以上の浴槽が、室内で4,918、露天で1,926あり、そのうち基準を超えたものが50あった。値は20から65ppmだった。
環境省の委託報告書(2016年)には、2014年10月に、入浴中の硫化水素中毒が疑われた事例が載っている。1名が重体になった。事故の翌年、2015年9月に測った浴室の濃度は50から200ppmで、測定時は窓を開けた状態だった。事故当時の換気は不明とされている。持ち帰った浴槽水の遊離の硫化水素は、1リットルあたり62.7ミリグラム、pHは5.7だった。
この気体の厄介さは、においにある。低い濃度では卵の腐ったようなにおいがする。ガイドラインの表は、0.025ppmで感じ、150から200ppmで臭気を感じなくなる、と整理している。高い濃度になると、においがしなくなる。Guidottiが2015年に述べているのは、嗅覚の麻痺と、においに慣れて感じなくなる嗅覚疲労とを、混同してはならない、という点だ。ガイドラインの中でも、別の節には、0.1ppmで感知、100から150ppmで嗅覚疲労、と別の数字がある。同じ文書の中ですら、数字は完全にはそろっていない。
ここから言えることは、においが薄くなったことは、濃度が下がったことの証拠にならない、ということだ。電池が切れた火災警報器が鳴らないのは、安全だからではない。においの感覚も、同じ種類の当てにならなさを持っている。委託報告書の2005年から2015年の一覧は5件で、浴槽の事故は北海道の1件、残りは駐車場、貯湯槽、源泉付近だった。浴室で起きる確率が高い、という話ではない。それでも、すっきりすると言われる気体は、同時に、気づかないうちに意識を落とす気体でもある。この二つは、同じ分子の話だ。
泉質の名前が、何を保証しているか
硫黄泉の定義は、環境省の鉱泉分析法指針にある。総硫黄が1キログラムあたり2ミリグラム以上のもので、硫化水素型は、硫化水素の量が、硫化水素イオンとチオ硫酸イオンの合計を(モル濃度で比べて)上回る場合を指す。定義が決めているのは、含まれる成分の量と型であって、入浴した人にどう感じられるかではない。
温泉の名前や泉質から、刺激の強さを連想することがある。連想と公的な資料の記載を、突き合わせておく。福島の高湯温泉について、環境省の国民保養温泉地の計画書は、「酸性・含硫黄(硫化水素型)」の泉質としている。2014年の通知は、酸性泉と硫黄泉の両方を、刺激の強い泉質の例に挙げている。つまり高湯は、資料の上では、酸性と硫黄の二つが重なる泉質になる。
日光湯元も、令和6年3月の計画書では硫化水素型とされている。草津は酸の強さで知られ、硫黄も含む温泉として紹介されているが、公的な資料では確かめられなかった。
万座については、「硫化水素の含有量が日本一」という言い方を見かける。1952年の山縣・島の調査の時点で、すでに日本一とされていたと書かれており、その調査自身の最高値が、奥万座の苦湯の1リットルあたり524ミリグラムだった。どちらも昔の値で、現在の値ではない。万座については別の記事で書いたので、ここでは繰り返さない。
各温泉地の現行の分析書の数値は、観光系の紹介以外では確認できなかった。温泉の看板や案内に出ている数字を、現在の測定値と読んでよいかは、別に確かめる必要がある。
どの段が持ちこたえて、どの段が抜けていたか
最初の問いに戻る。硫黄泉に浸かると頭がすっきりする、という説明を、四つの段に分けて当たった。
第一の段、硫化水素が血管を緩めることは、動物実験では確かめられている。ただし、体内の濃度の見積もりは、三桁の幅で揺れている。第二の段、入浴で肌から入るということは、実測の数字がなかった。公的な毒性評価は、研究が見つからなかったと書き、総説には、実測の数値を示さないまま、入浴での吸収増加を書くものがある。第三の段、血管が緩めば脳の血流が増えるということは、加温の実験とは逆向きだった。呼吸が変わり、二酸化炭素が減ることで、血流は下がりうる。第四の段、頭の働きが変わるかについては、成績が上がる実験も、変わらない実験も、落ちる実験もあった。ふつうの入浴の条件で、硫黄泉と普通の湯を比べた試験は、今回の検索の範囲にはなかった。
では、すっきりした感覚は、嘘なのか。そうは言えない。温かい湯が覚醒の何かを動かす可能性は、実験の側にも残っている。ただ、その感覚が硫化水素によるのか、温度によるのか、見慣れない場所で何もせずにいることによるのかは、まだ切り分けられていない。見つからないのは、三つのどれかが正解と決まったからでも、三つとも外れとわかったからでもない。誰もまだ分けていないだけだ。
説明のうまさと、証拠の厚さは、別のものだ。血管が緩み、血が巡り、頭に酸素が届く、という順は、聞いた途端に納得できる。納得できる説明ほど、一段ずつ確かめる手間を省きたくなる。今回、段ごとに当たってみると、動物実験で確かめられていたのは第一の段だけだった。残りの三つは、説明が先にあり、測定が追いついていなかった。
感覚が頼りにならなくなる気体だということは、効能とは独立に、確かめられている数少ないことの一つだ。
出典
確認の水準は、全文(本文を読んだ)、要旨(PubMed等の要旨のみ)、二次(総説、紹介、案内を通した情報)で示す。
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