ficus.life/趣味
目次
もてなされすぎない部屋を選ぶということ

もてなされすぎない部屋を選ぶということ

豪華な出迎えや盛りだくさんの食事より、何もない部屋のほうが休まることがある。「最高級のおもてなし」と「ただ静かな空間」は、なぜ両立しないのか。宿選びについて考えたこと。

TOMOAKI··趣味

いわゆる高級旅館というものに、少し苦手意識がある。玄関での丁寧すぎる出迎え、部屋までの案内、館内設備の説明、色とりどりの会席料理、その合間を埋めるようにかかるBGM。どれも一つひとつは好意でしかないのだが、まとめて受け取ると、休むために来たはずなのに、処理すべき情報が増えていく感覚がある。

「至れり尽くせり」は本当に休息なのか

宿のパンフレットは、たいてい「何を足したか」で自分たちの価値を語る。豪華な食事、充実したアメニティ、行き届いた接客。しかしここ数年、自分が実際に落ち着けたと感じる宿を思い返してみると、共通していたのは足し算ではなく引き算だった。壁に掛け軸がない。テレビがそもそも置かれていない、あるいは目につかない場所に隠されている。仲居さんが最小限の会釈だけで下がってくれる。そうした「ない」ことの積み重ねのほうが、記憶に残っている。

環境心理学には「直接的注意」という概念があって、複雑な作業や意思決定に使う集中力は有限のリソースだとされる。装飾の凝った部屋や、次々と説明される館内案内は、それ自体が小さな判断の連続を強いる。休むために来た場所で、絶えず何かを解釈させられているとしたら、それはもう休息とは呼べない気もする。

何もない部屋を「手抜き」と読むかどうか

装飾のない部屋を、コストをかけていないと受け取る人もいるだろう。実際、そういう宿もあるはずだ。ただ、意図的に何も置かない部屋というのは、たいてい素材そのものにお金をかけている。無垢の木や本物の土壁は、プラスチックや合板よりも高くつく。何も足さないという選択は、案外贅沢の裏返しでもある。

BGMについても同じことが言える。ジャズやヒーリングミュージックが流れている宿より、風の音や薪が爆ぜる音しか聞こえない宿のほうが、自分にとっては落ち着く。もっとも、これは単なる好みかもしれない。BGMがあることで安心する人も当然いるだろうし、無音を心地よいと感じるかどうかは、その人がどれだけ普段から音に囲まれて生活しているかにもよる気がする。

退屈を持て余す時間について

情報の少ない部屋に長時間いると、最初の数時間は落ち着かない。手持ち無沙汰になって、スマートフォンを触りたくなる。何かをしなければという焦りに近い感覚もある。ここでスマートフォンを取り出してしまうと、せっかくの何もない時間があっという間に埋まってしまう。かといって、意識的に「何もしないぞ」と力むのも、それはそれで不自然だ。結局、何もしないことに慣れるまでの、少し居心地の悪い時間を通過するしかないのだと思う。

豪華なもてなしを否定するつもりはない。それを心から楽しめる人もいるし、旅の目的によっては、賑やかで満たされた時間のほうがふさわしいこともある。ただ自分の場合、宿を選ぶときの基準は、料理の品数でも設備の充実度でもなく、「何が置かれていないか」に静かに寄っていった。何もない部屋で数日を過ごしたあと、日常に戻ってから何を面倒だと感じ、何を心地よいと感じるか。その違いを確かめるのが、最近の旅の目的の一つになっている。