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収集とためこみ症を分けているのは、「選別」だけだ
切手、レコード、鉱石――集める対象は人それぞれでも、その衝動の裏にある仕組みには共通点がある。統制欲求、拡張自己、ホーディングとの境界線。収集という趣味を、研究の手がかりから読み解く。
集めるという行為を、どう考えるか
切手を集める人がいる。レコードを、鉱石を、古い腕時計を、マッチラベルを集める人がいる。集める対象はばらばらなのに、「なぜ集めるのか」と聞かれたときの答えは、驚くほど似通っている。楽しいから。落ち着くから。理由になっていない理由で、たいていの人は納得してしまう。
もう少し踏み込んで考えてみたい。収集という趣味が文化を守っているとか、次世代に何かを引き継いでいるとか、そういう大きな話をするつもりはない。棚に並んだ切手が世界に影響を与えることは、まずない。だが、それを集めている本人の中では、何かが確かに動いている。厄介なのは、この「何か」を心理学が長らく持て余してきたことだ。研究者の間でも、収集を説明する理論は消費主義、物質主義、神経生物学、精神分析と乱立していて、決定版と呼べるものがない。だからこそ、個々の研究が何を、どこまで言えているのかを丁寧に見ていく価値がある。
あらかじめ断っておくと、この記事は「収集はこんなに素晴らしい」という称賛の記事にはならない。統制感を求める心の動きが、そのまま健全な趣味として発現する場合もあれば、望ましくない形に転じる場合もある――研究を追っていくと、そのどちらもが同じ根から生えていることが見えてくる。効用の話をするのに、都合の悪い部分だけ隠しておく理由はない。
統制への渇望という説明
もっとも古典的な説明は、香港の嶺南大学のクラーク・カオらが2025年に『Journal of Consumer Research』誌に発表した研究に集約されている。クラウドファンディングの支援記録からゲーム内アイテム、レコード、観光地の周遊まで、性質の異なる六つの研究を積み重ねた末に、彼らが導いた結論は「統制への欲求(desire for control)」だった。人は自分を取り巻く環境が予測不能だと感じるとき、何か一つの構造――互いに関連しあうパーツが集まって全体をなすもの――を手元に確保しようとする。コレクションはまさにこの構造の条件を満たしている。だから、コロナ禍のような先行き不透明な時期に統制欲求が一時的に高まると、収集への関与も強まることが、この研究では確認されている。
ここに、単なる「集める人は几帳面だ」という印象論では出てこない具体性がある。統制欲求が収集への動機として働く効果は、コレクションが完成にほど遠いときや、そもそも秩序立てる余地がない集め方をしているときには弱まる、という点だ。つまり、ただモノを増やせば統制感が得られるわけではない。「あと何が欠けているか」を把握できる状態、つまり全体の輪郭が見えている状態でなければ、この効果は働かない。バラバラに買い集めるだけの行為と、構造を意識して埋めていく収集とは、外から見れば同じでも、心の中で起きていることは別物だということになる。
統制の欲求だけでは説明しきれないもの
ただし、この説明にも弱点がある。統制感がほしいだけなら、対象は別にコレクションでなくてもいい。ToDoリストを完璧に消化する、家計簿を几帳面につける、部屋を毎日同じ順序で片付ける――どれも構造への欲求を満たす行為のはずだ。なぜわざわざモノを、しかも往々にしてお金と時間をかけて集めるのか。
この隙間を埋めるのが、消費者研究の分野でいまなお引用され続けているラッセル・ベルクの1988年の論文「所有と拡張自己(Possessions and the Extended Self)」だ。ベルクは、人が所有するモノは単なる道具ではなく、自己という概念そのものを外側に拡張したものだと論じた。何を持ち、何を持たないかという選択の集積が、時間をかけて「自分がどういう人間か」を外部に描き出していく。統制欲求が「なぜ集める行為そのものが欲しいのか」を説明するとすれば、拡張自己の理論は「なぜ対象がモノでなければならないのか」を説明する。両者は矛盾しない。統制感を、目に見え、手で触れ、棚に並べて確認できる形で得ようとした結果が、コレクションだと考えると筋が通る。
もうひとつ古い研究にも触れておきたい。心理学者ルース・フォルマネクが1991年に発表した「彼らはなぜ集めるのか、収集家自身による動機の告白」という論文は、収集家への聞き取りから、動機を五つに整理している。自己に関わる意味づけ(自己関連性)、他者や社会とのつながり(社会的関連性)、歴史や文化を保存し続けることへの関心、資産としての金銭的投資、そして依存・強迫的な性格の五つだ。この記事でここまで語ってきた統制欲求や拡張自己の話と重なるのは、主に最初の三つである。だが残りの二つ、とりわけ「依存・強迫」がフォルマネク自身の分類にすでに含まれていたという事実は見過ごせない。収集とホーディングの境界線という、この記事の後半で改めて扱う問題の種は、すでに1991年のこの論文の中に埋め込まれていたことになる。加えて、収集家たちの語りには「完成」「完璧」「世話をすること」「協調」といったテーマが繰り返し現れるという。数を増やすことそのものより、欠けたピースを見つけて全体を完成に近づけていく過程、そしてその過程で対象を「世話する」感覚こそが、収集家にとっての充足の中心にあるらしい。統制欲求の研究が2025年に数量的に裏づけた構造を、フォルマネクは1991年の時点で、収集家自身の言葉からすでに描き出していたことになる。
興味深いのは、フォルマネクが挙げた三つ目の動機、「社会的関連性」と「協調」だ。収集はしばしば孤独な作業だと思われている。棚の前で一人、目録と照らし合わせる時間は確かに孤独なものだが、その手前と奥には交換会、専門店、オンラインの掲示板やオークションといった、収集家同士のネットワークが広がっている。ウィリアム・マッキントッシュとブランドン・シュマイケルが2004年に発表した収集家研究のレビュー論文でも、収集の核となる作業――探索、調査、配列、目録づくり――そのものは個人で完結する一方、それを取り巻く行為としては、獲物を追うような競争的な駆け引きや、収集家同士のネットワークを介した情報交換が同時に発生すると指摘されている。集める対象を選ぶのは極めて個人的な判断でありながら、その判断を支え、検証し、時には競い合う相手として他者を必要とする。ひとりで完結する趣味に見えて、実際には他者の視線を経由してはじめて成立している部分が案外大きい。
集める人と、ためこむ人の境界線
ここで、都合の悪い事実にも触れておかなければならない。統制欲求も、モノによる自己表現も、行き過ぎればホーディング(ためこみ症)と地続きになる。2013年に改訂された精神疾患の診断基準DSM-5は、ホーディング障害を独立した診断名として初めて採用した。捨てられないモノが際限なく増え、生活空間を圧迫し、本人や周囲の生活に支障が出る状態を指す。
収集とホーディングを分けるものは何か。この問いに取り組んだ研究者たちが繰り返し指摘するのは、対象への「選別」の有無だ。臨床心理学の系統的レビュー(2012年、Clinical Psychology Review誌に掲載されたノルドスレッテンらの論文が代表的)によれば、収集家は特定のカテゴリーに絞り込み、整理し、優先順位をつけて手放す判断もできる。一方、ホーディングでは対象が無差別で、新聞の束から壊れた家電、空き容器まで、統一的な基準なしに積み上がっていく。さらに脳機能の研究では、収集における快感のピークは「探し、見分け、手に入れる」という未来志向の目標達成の場面で生じるのに対し、ホーディングでは手放すことへの苦痛回避が快・不快の回路を強く支配しているとの報告もある。同じ統制欲求から出発していても、片方は完成へ向かう構築の物語になり、もう片方は喪失を避けるだけの防御になる――この分かれ目は、当人にもなかなか自覚しづらい。
これは脅し文句として書いているのではないし、自己診断のチェックリストとして使ってほしいわけでもない。ホーディング障害の診断は、あくまで臨床の場で構造化された基準と面接に基づいて下されるものであって、ここで挙げた「選別の有無」という一点だけを取り出して、自分や身近な収集家に当てはめて良し悪しを判定するための道具ではない。そのうえで言っておきたいのは、「集めることは心の健康にいい」という単純な図式は成り立たない、ということだ。統制感を得るための行為が、選別という手間を放棄した瞬間に、むしろ統制感を失わせる方向に反転しうる――この構造自体は、診断の話とは別に、収集という行為の性質として興味深い。
見る力が上がるという、よくある主張への留保
収集にまつわる言説でよく語られるのが、「集めることで観察眼が鍛えられる」という話だ。鉱石を集める人は道端の石ころの断面にふと目を留め、切手を集める人は封筒の隅の消印の年代に気づく。これ自体は多くの実感を伴う話で、根拠がないわけでもない。認知心理学における熟達研究、たとえばウィリアム・チェイスとハーバート・サイモンが1973年に行ったチェスの熟達者研究では、グランドマスター級の棋士は盤面を意味のあるパターンの塊(チャンク)として認識していることが示された。素人には無秩序な駒の配置にしか見えないものが、熟達者には既知のパターンの組み合わせとして瞬時に立ち上がる。この記憶に蓄積されたチャンクの総量については、同じ1973年にハーバート・サイモンとケビン・ギルマーティンが発表したシミュレーション研究がある。この研究は熟達に必要なチャンク数を一万から十万というオーダーで見積もっており、俗に語られる「およそ5万個」という数字は、この幅の中間値にすぎない。厳密な実測値というより、モデルが弾き出した概算だと考えたほうがいい。いずれにせよ、これは繰り返し注意を向け続けた結果であって、生まれつきの才能の話ではない。
ただし、ここに留保をつけたい。熟達によって培われる知覚のパターン認識は、基本的にその領域に強く紐づいている。チェスの盤面を一瞥で理解できる棋士が、将棋の盤面でも同じ能力を発揮できるとは限らない。放射線科医の知覚的熟達に関する2019年のレビュー論文(ウェイトらによる)でも、その読影の効率の良さは訓練を積んだ画像の種類や検査手技に強く紐づいており、無条件に別の領域へ持ち越されるわけではないことが指摘されている。つまり、鉱石の目利きになった人が、その「見る力」をそのまま家具や食器の質感を見抜く力に転用できるという主張は、実証されているというより願望に近い。多少の波及効果はあるかもしれないが、過大に語る理由はない。収集がもたらす解像度の向上は、基本的にはその対象そのものに閉じた技能だと考えておいたほうが正確だろう。
ここで「それなら見る力が鍛えられるという話自体が眉唾ではないか」と切り捨てるのも、また急ぎすぎだと思う。チャンクという単位で情報をまとめて処理できるようになる、という現象自体は、対象を限定すれば確かに起きている。切手の刷色のわずかな違いや、鉱石の結晶構造の癖に気づけるようになるのは、その対象に絞って言えば紛れもない技能の向上であり、素人の目には映らない情報を、収集家は文字通り「見えている」。ただ、この技能が本人の中でどこまで一般化されうるかという一段上の主張、つまり「集めることは人生観そのものを豊かにする」といった飛躍とは、話の階層が違うというだけのことだ。効用を語るときに、確かに実証されている狭い範囲の話と、そこから期待だけで広げた話とを、うっかり同じ重みで扱ってしまいがちなのは、収集に限った話ではない。
ノスタルジーという、もうひとつの回路
統制や自己表現とは別の角度から収集を説明する研究に、ノスタルジーをめぐるものがある。サウサンプトン大学のコンスタンティン・セディキデスらが積み重ねてきた一連の研究によれば、ノスタルジー――過去への感傷的な郷愁――は単なる感傷ではなく、人生の意味の実感、自尊心、他者とのつながりの感覚を高める、測定可能な心理的効用を持つ感情だとされる。古いレコードや子どもの頃に見た漫画の初版、かつて訪れた土地の絵葉書を集める行為は、この回路を意図的に、あるいは無意識に起動させている可能性がある。モノを媒介にして過去の自分や、その時代の空気とつながり直す。集めるという行為の中には、未来に向かって完成を目指すベクトルと、過去に向かって記憶を確かめ直すベクトルの、両方が同居していることになる。
ただ、この効用を語るときは商業側の思惑も割り引いて見ておく必要がある。収集市場を長年調査してきたパメラ・ダンジガー率いるユニティ・マーケティング社の2000年前後の調査では、アメリカの世帯の4割前後が何らかの収集を行っているという数字が繰り返し引用されてきた。この数字自体はすでに四半世紀近く前のもので、そのまま現在に当てはめるのは無理があるが、コレクター向けの市場がそれだけの規模で成立し続けてきたことは事実だ。統制欲求やノスタルジーが本物の心理的効用だとしても、それを喚起して売る側の産業が並走している以上、「なぜか集めたくなる」という感覚のどこまでが自分自身の欲求で、どこからが巧妙に設計された欠品感の演出なのかは、収集家自身にも判別しづらい。ここは楽観的に語りすぎないほうがいい。
この設計は、対象が物理的なモノでなくなっても消えるどころか、むしろ精緻になっている。カオらの2025年の研究が調査対象に含めていたのは、レコードや観光地の周遊記録だけではなく、ゲーム内アイテムのようなデジタルの収集対象も含まれていた。物理的な保管場所という制約がないぶん、デジタルの収集対象は「あと何が欠けているか」を可視化する仕組み、たとえば図鑑形式の達成率表示や、コンプリートに近づくほど強調される演出を、設計段階から組み込みやすい。統制欲求という同じ心理を土台にしながら、欠落の可視化という一点だけを工業製品並みに最適化できてしまう。物理的な収集につきものだった「探す手間」や「偶然の出会い」が薄れ、欲求を刺激する部分だけが純化された形で残る。これが良いことなのか悪いことなのかを一概に言うつもりはないが、少なくとも、切手やレコードを集めていた時代の収集とは、欲求の刺激され方の密度がまるで違うということは指摘しておきたい。
何を集めるか、その具体例
実際に何が収集の対象になっているかを見ると、対象ごとに満たしているものの重心が微妙に異なることが分かる。
- 機械式の時計やカメラ — 分解し、手入れをし、仕組みを理解できる対象。手を動かす過程そのものに統制感覚が宿る。
- 鉱石や貝殻、流木といった自然物 — お金をかけずに始められ、散策という行為自体が収集の一部になる。見る目を育てることが収集の中心になるが、前述の通りその技能は対象領域に強く縛られる。
- レコードや古書 — 中身の情報そのものに価値があり、モノを媒介にして過去の誰かの仕事、あるいは自分自身の過去と向き合う体験に近い。ノスタルジーの回路が特に働きやすい領域だ。
- 切手やマッチラベル、絵葉書 — 単価が低く、分類や比較の余地が大きいため、フォルマネクの言う「完成」や「協調」への欲求が前面に出やすい。
どれが優れているという話ではない。何を集めるかは、その人が普段どこに満たされなさを感じているかを、逆説的に映し出す鏡のようなものだ。手を動かしたい人は機械式の道具に向かい、外に出たい人は自然物に向かい、過去とつながり直したい人は紙モノや書物に向かう傾向がある――あくまで傾向であって、断定できるものではないが。
意味のあるコレクションと、ただの物量の違い
ここまで挙げてきた効用は、実は無条件に得られるものではない。棚の中身が増えるだけで、統制の感覚も、自己表現の手応えも、ノスタルジーの充足も、自動的にはついてこない。数を増やすことと、集めることとは、似ているようでいて別の行為だ。カオらの研究が示した通り、統制欲求への効果は「全体の構造が見えているとき」にしか働かない。構造を意識しないまま増やしていく行為は、統制欲求を満たすどころか、ホーディングの節で見たような、選別なき蓄積に近づいていく。
違いを分けているのは、選び取る基準がその人の中に育っているかどうかだと思う。基準がないままモノが増えていくと、それは収集ではなく単なる滞留になる。棚がいっぱいになっても心当たりのつかない充足感しか残らないとしたら、それはたぶん、選ぶという工程が省略されているサインだ。逆に、数は少なくても、なぜそれを選んだかを自分の言葉で説明できるとき、そのコレクションは持ち主にとって意味を持ち続ける。
「集めれば集めるほど豊かになる」という発想は、この分かれ目を見えなくする。むしろ問うべきは量ではなく、選ぶという行為をどれだけ自分の中で続けられているか、ということではないか。
この選別という工程を、もう少し具体的に言い換えると、「今回は見送る」という判断を自分に許せているかどうか、ということでもある。目の前に対象があり、予算もあり、コレクションの欠けを埋める候補になりうるものだったとしても、あえて選ばない。この保留の判断ができているうちは、統制欲求はまだ収集家自身の手の内にある。逆に、見送るという選択肢が頭に浮かばなくなったとき、つまり目に入ったものをとりあえず確保しておく、という判断が既定値になったときは、対象がまだ棚に収まる分量であっても、その内実はすでにホーディングの節で見た「無差別な蓄積」の側に片足を踏み入れている。数の多寡よりも、この「見送れるかどうか」のほうが、収集という営みの手応えを左右する要素として大きいように思う。ただし、これは臨床的な診断基準の代わりにはならない。ホーディング障害にあたるかどうかを判定するのは専門家の仕事であり、この一点だけを取り出して自分や誰かを測るための物差しではない。ここで言いたいのは、あくまで収集家自身にとっての満足の質の話にとどまる。
棚の前で、何を確かめているのか
収集は、世界を変える行為ではない。文化を後世に伝える使命でもなければ、資産形成の手段として語るのも、たぶん本筋を外している。研究の積み重ねが示しているのは、もっと個人的で、もっと具体的な話だ。予測不能な世界の中で構造をつくり、モノを通じて自分という輪郭を外側に描き、過去の自分や誰かの仕事とつながり直す。そのどれもが、派手さのない、しかし裏づけのある効用だと言える。
同時に、同じ心の動きがホーディングという不健全な形に転じうることも、商業的な欠品感の演出に利用されうることも、研究は静かに指摘している。効用と落とし穴は、同じ一本の線の上にある。
もうひとつ言い添えておくと、ここまで挙げてきた研究のどれ一つとして、「集めることが良いことだ」とも「悪いことだ」とも断定していない。統制欲求を測る質問紙も、拡張自己の理論も、ホーディングとの境界線を探る臨床研究も、収集という行為をあくまで観察対象として扱っているだけで、そこに規範を持ち込んでいるわけではない。棚をどう扱うかという判断は、結局のところ研究の外側、当人の生活の中にしか答えがない。だから、何を集めるべきかという答えをここで示すつもりはない。ただ、次に何かを手に取って棚に置くとき、それが自分にとって何を満たしているのか、そしてその棚に本当に選別という工程が生きているのか、一度立ち止まって確かめてみる価値はある。答えは人によって違っていいし、そもそも一言で言い切れるものでもないだろう。
出典
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