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賞状を約束された園児は、絵を描く時間が半分になった——「自己満足」の根拠を読み直す
約束された賞状は、園児の自由遊びの絵を半分に減らした。その後の128本のメタ分析と、賞賛が言い方で向きを変える数字まで、原典で読み直す。
「趣味は自己満足でいい」という言い方がある。この一言に頷く人は、他人にどう見られるかを気にして趣味をやるなんて本末転倒だ、と考えているのだと思う。評価のために好きなことをやる、という構図に、むきになって反発する人もいる。その苛立ちの向きは、たぶん間違っていない。趣味の核にあるのは他人の採点ではなく、自分の内側から出てくる興味のはずだ、という直感は、報酬が興味に与える影響を調べてきた心理学の研究と、向きが重なる。ここで扱うのは、評価一般ではなく、主に報酬の研究である。
ただ、その裏づけがどのくらい太いのかを、原典の数字まで戻って確かめた人は、あまり多くない。確かめてみると、出発点の実験は小さい。小さいのに、あとから大きな研究がいくつも積み重なって、建物は倒れずに立っている。この記事は、その小さな実験と、積み重なった研究を、順番に見て歩く記録である。
一つ、断っておく。論文の全文を読めたものと、要旨しか読めなかったものがある。要旨しか読めなかったものは、その場で「要旨によれば」と断り、末尾の出典にも書いた。調べても見つからなかったことは、見つからなかった、と書く。
十二人ずつの二群が出発点だった
「報酬は内発的な興味を損なう」という話の出発点に置かれるのは、エドワード・デシが1971年に発表した論文だ。実験室で行われたのは、大学生二十四人に、立体パズル(ソーマ・キューブ)を組み立てさせる課題だった。十二人ずつの二群に分かれ、別々の日の三回のセッションに来てもらう。どのセッションにも、途中に八分間の休憩があり、休憩中は何をしてもよい。パズルを触り続けた秒数が、「その作業が好きかどうか」の指標になる。
実験群は、二回目のセッションだけ、パズルを一つ解くごとに1ドルをもらった。三回目では、報酬はもう出ない。対照群は、三回とも何ももらわない。休憩中にパズルを触っていた秒数は、実験群が一回目248.2秒、二回目313.9秒、三回目198.5秒。対照群は213.9秒、205.7秒、241.8秒だった。報酬のなくなった三回目に、実験群は一回目より約50秒減り、対照群は約28秒増えた。変化の差は77.6秒である。
ここで、数字の隣にある検定結果を見る。この差は、片側検定で5パーセント水準に届かず、10パーセント水準にとどまった。デシ自身が、通例の水準には達していない、と書いている。よく引かれる「報酬が内発的動機づけを下げた」という要約は、この実験室の結果だけを見れば、「下がる向きの傾向が見えた」くらいの強さだった。
同じ論文には、現場での実験もある。大学の新聞社の学生に、見出しを書く仕事で報酬を出したもので、参加者は八人。そのうち、動機づけの分析に使えたのは、実験群四人と対照群二人だった。二人と四人では、自由度は4である。
これは、1971年の論文が間違っている、という話ではない。新しい種類の問いを立てた論文は、たいてい小さく、粗い。ただ、小さな実験が出発点だったことと、その結論がいま確かなことは、別の問題だ。ここから先は、あとから積み上がった研究が、その小さな実験をどのくらい支えているかを見ていく。
保育園の絵と、予告された賞状
1973年に、マーク・レッパー、デイヴィッド・グリーン、リチャード・ニスベットが発表した実験が、「過剰正当化効果」の名で知られるようになった。舞台は大学付属の保育園で、対象は3歳から5歳の子どもたちだ(月齢で40〜64か月)。先に、自由遊びの時間に絵を描くのが好きな子どもたちを選んでおく。そのうえで、三つの群に分けた。
一つ目の群には、「絵を描いたら賞状をあげる」と事前に約束してから描いてもらう。二つ目の群には、約束なしで描いてもらい、あとから予想外に賞状を渡す。三つ目の群には、何も約束せず、何も渡さない。最終的に分析に残ったのは51人で、内訳は18人、18人、15人だった。
一、二週間後、自由遊びの時間に、子どもたちが絵を描いて過ごした割合が測られた。事前に賞状を約束された群は8.59パーセント。何ももらわなかった群は16.73パーセント。予想外に賞状をもらった群は18.09パーセントだった。差が出たのは、「約束された」群だけである。賞状そのものが毒だったのなら、予想外にもらった群も減るはずだが、減っていない。
この論文には、あまり語られないもう一つの数字がある。実験の最中に描かれた絵を、事情を知らない三人の評価者が五点満点で採点したところ、約束された群の平均は2.18で、予想外の群は2.85、何ももらわない群は2.69だった。報酬の約束は、興味を減らしただけでなく、描かれた絵そのものの出来も押し下げていた。
賞状の約束は、絵を描くという行為に、「賞状のためにやっている」という別の説明を足す。その説明が一度つくと、「好きだから」という元の説明は、なくても成り立つ余分なものに見えてくる。電気が通ったとたんに、蝋燭を灯す理由があいまいになる、といえば近いだろうか。蝋燭の味わいが消えたわけではないのに、理由を問われたとき、人は電気のほうを先に思い出すようになる。
百二十八本を束ねると、見えてきた条件
小さな実験は、束ねてはじめて大きさがわかる。デシ、リチャード・ケストナー、リチャード・ライアンは1999年に、報酬と内発的動機づけを扱った実験128本を統合して、メタ分析を発表した。以下は、その全文を確認した数字である。
言葉による報酬も含めた全体で、自由選択(何もしなくてよい時間に、その課題を自分から選ぶかどうか)の効果量は−0.24(101件)だった。ところが、「その課題を面白いと思うか」という自己報告で測ると、効果量は+0.04で、ほとんど動かない。やる時間は減るのに、面白さの評価は変えない、ということが、平均としては起きている。
悪影響の出る条件は、きちんと絞れた。予想外の有形の報酬は、効果量が+0.01で、影響がほぼない。保育園の実験と同じ向きだ。事前に約束された有形の報酬では、取り組みに連動していれば−0.40、課題の完了に連動していれば−0.36、出来に連動していれば−0.28になる。「これをしたら、これをあげる」という約束の形をとったときに、数字が沈む。
もう一つの条件は、課題の面白さだった。有形の報酬を、面白い課題と退屈な課題の両方で試した研究を、自由選択の指標(11件)で比べると、面白い課題では−0.68、退屈な課題では+0.18だった。退屈な課題の+0.18は、有意ではない。報酬が退屈な課題の動機を高めた、とは言えず、デシらは、損なう効果は退屈な課題には及ばないと整理している。有意に損なわれたのは、もともと興味があった課題のほうだけだった。満杯の器にしか、こぼれる水はない。
この結果を趣味に当てはめると、少し座りが悪い。趣味は、面白いから続けている活動だと考えれば、面白い課題に当たる。当てはまるなら、この現象の影響をいちばん受けやすい側にいることになる。ただし、これらの実験は、立体パズルや、お絵かきや、新聞の見出し書きといった、実験のために用意された、短い期間の課題で行われている。何年も続けてきた趣味が、同じ反応を示すかどうかを、長期に追った実験は、この記事で調べた範囲では見つからなかった。当てはまりそうだ、というのは私の推測で、実験が示したことではない。
なぜ面白い課題ほど脆いのか、という理由も、メタ分析は確かめていない。私の読みでは、面白い課題には「好きだから」という説明がすでに付いていて、そこに「報酬のために」という別の説明が割り込む余地がある。退屈な課題には、もともと「好きだから」という説明が付いていないから、割り込まれて困るものがない。これも、数字から導いた推測で、検証された説明ではない。
時間が経てば、悪影響は消えるのだろうか。子どもを対象にした研究には、その問いに答えるものがある。有形の報酬を約束した研究で、悪影響は、すぐに測れば−0.40、一週間以内に測り直しても−0.49、それより遅れて測っても−0.53(いずれも外れ値を除いた値)と、測る時期を遅らせても消えなかった。ただし、時間を置いて測ったのは、子どもを対象にした研究だけで、大人で同じことが言えるかどうかは、このデータからはわからない。
この領域には、異論もある。1994年にジュディ・キャメロンとデイヴィッド・ピアスが、別のメタ分析をもとに、報酬の悪影響は限られていて、この理論は捨てるべきだと主張した、とデシらは紹介している。デシらは、退屈な課題と面白い課題を混ぜたこと、不適切な対照群を入れたこと、集計の誤りなどを挙げて反論し、2001年にも再反論した。有形の報酬、自由選択の指標で、退屈な課題を入れ直して再集計しても、効果量は−0.34が−0.30になっただけだった、という。
この論争を、デシらの側からだけ読むのは偏っている。キャメロンらが2001年に出した論文は、要旨の限りで、報酬が広く悪影響を及ぼすわけではないと結論している。予想外の報酬が影響しないことは、争いの外にあるように見える。退屈な課題を面白い課題と混ぜて集計してよいかどうかは、むしろ争点の一つだった。ほかに争われているのは、有形の報酬が及ぼす悪影響の大きさと、出来に連動する報酬の扱いである。
賞賛は、薬にも毒にもなる
報酬ではなく、賞賛ならどうか。ここで、1971年の論文に戻る。三つ目の実験は言葉による賞賛を扱っていて、「賞賛を与えると、かえって興味が高まった」と読まれやすい。実験群は、パズルを解いている途中で、課題の出来を肯定する言葉をかけられる。
数字を見ると、実験群の休憩中の取り組みは、134.0秒、146.7秒、129.3秒で、ほとんど動いていない。一方の対照群は、246.8秒、146.1秒、64.7秒と、大きく落ちている。差は大きいが、「増えた」のではなく、対照群が落ちて、賞賛群は落ちなかった、という形だ。しかも一回目の時点で、二つの群には大きな差があった(134秒と247秒)。デシ自身も、対照群の落ち込みの理由は説明しにくい、と書いている。初期値の違いを調整して分析し直すと、有意水準は5パーセントから10パーセントに後退する。
1999年のメタ分析では、言葉による報酬の効果量は、自由選択の指標で+0.33だった。ただし、大学生では+0.43(14件)、子どもでは+0.11で、子どもでは有意ではない。同じ領域の結果が、対象の年齢で、ここまでずれる。
もう一つ、この領域でいちばん意外な数字は、同じ賞賛が、渡し方一つで向きを変えるという結果だ。賞賛を、能力についての情報として伝えた場合は、何も言わない対照と比べて+0.66。賞賛に、統制的な調子を足した場合は、無フィードバックの対照と比べて−0.44になる。二つを直接比べた研究は四件で、そこでの差は−0.78だった。+0.66と−0.44は、そのうち無フィードバックの対照がある三件の値である。四件のうち三件は自由選択の指標、一件は自己報告の指標を使っている。統制的な賞賛の作り方は、研究ごとに違う。ライアンらの実験では「~すべきだ」の一言だったが、ほかの実験では別の言い方が使われている。
これを、「よくできているから、このまま続けるとよい」と「よくできているのだから、続けるべきだ」のような、身近な言い換えに置き直して読むことはできる。ただ、その言い換えが実験の文言と同じだとは限らない。なぜ後者が興味を損なうのかは、行為の主導権を取り上げられるからだ、というのが理論の説明で、メタ分析が確かめたのは、効果量の違いまでである。
SNSの「いいね」が、情報的に働くのか、統制的に働くのか。この問いに答える実験は、見つからなかった。「いいね」は一つの数字でしかなく、何についての情報なのかは、受け取る人によって違う。数が増えて、自分の趣味が上達したと感じる人もいれば、数に合わせて作るものを変える人もいるだろう。どちらが多いのかは、わからない。
一人で磨く時間は、楽しかったのか
ここまでの話は、「他人の評価はいらないのではないか」という直感のほうを支える側だった。別の角度から、よく引かれる研究もある。アンダース・エリクソンらが1993年に発表した、音楽アカデミーのヴァイオリン専攻の学生を調べた研究だ。他人の目がなくても人は上達できるのか、という読者の疑問に、いちばん近いところで答えているように見える。
調べられたのは、各群十人の学生で、西ベルリンの音楽アカデミーの学生たちだった。教授から「ソリストになる見込みがある」と推薦された学生が一群、それに次ぐ水準の学生が一群、音楽教育学科でヴァイオリンを専攻する学生が一群だ。よく「音楽教師になった人たち」と紹介されるが、実際は、まだ教師になっていない音楽教育学科の学生だった。論文には、中年のオーケストラ奏者の群もあるが、ここでは三つの若い群だけを見る。回想にもとづく推定で、18歳までの累積の練習時間は、最上位群で7,410時間、次の群で5,301時間、音楽教育学科の群で3,420時間だった。
この論文の数字で、いちばん生々しいのは、日誌をつけてもらった一週間のほうにある。最上位の二群は、一人での練習に、一週間で平均24.3時間を使っていた。一日にすると三時間半ほどだ。音楽教育学科の学生は9.3時間で、一日一時間強だった。
エリクソンの理論は、上達につながる練習は、本来は楽しくない、と予測していた。課題を意図して組み立て、弱点を突き、すぐにフィードバックを受ける練習は、遊びとは性質が違う、という理屈だ。実際に測ってみると、一人での練習は、関連性が9.82、努力が8.00、楽しさが7.23(いずれも十点満点)と評定された。楽しさは、全活動の平均(6.52)と有意な差がなく、「楽しくない」とはいえない数字だった。「楽しみのために弾く」は8.33、余暇は8.93。一人稽古の楽しさは、遊びで弾く場合より低い値だったが、不愉快なものでもなかった。
この評定は、2019年に、別の研究者たち(マクナマラとマイトラ)が各群13人で追試し、7.27とほぼ同じ数字を得ている。一方で、追試では、18歳時点の累積練習時間が、最上位群で8,224時間、次の群で9,844時間と、順序が入れ替わった。二つの群の差は、有意ではなかった。成績の違いを、練習量でどれだけ説明できるかという割合も違う。元の研究は、最上位と次の群をまとめて下位群と比べ、48パーセントと報告した。追試は、三つの群を比べて、26パーセントだった。比べ方が違うので、同じ尺度が下がった、とは読めない。
ここで、調べられた人たちのことを思い出しておく。音楽アカデミーでソリストを目指し、教授に推薦されるような学生たちだ。週に24時間を一人で弾き続ける人と、週末に趣味で楽器を弾く人は、同じ「練習」という言葉で呼ばれていても、置かれている条件がまるで違う。この調査の数字を、趣味の世界にそのまま持ち込むことはできない。
この論争は、いまも続いている。2014年のメタ分析(要旨で確認。2018年に訂正があるが中身は未確認)は、限界的練習が成績の差を説明する割合を、ゲームで26パーセント、音楽で21パーセント、職業で1パーセント未満などと報告し、エリクソンらは2019年に、元の定義に絞れば29パーセント(補正後で61パーセント)になると反論した(これも要旨で確認)。
エリクソンの理論は、課題の設計と、すぐのフィードバックと、練習を設計する教師の存在を、限界的練習の条件に置いている。だが、1993年の調査そのものが測ったのは、練習の時間と、各活動についての評定である。フィードバックの有無と上達の関係を、直接に検証したものではない。理論の主張と、調査の結果が、同じ強さで語られていることがある。
見せることは、楽しさを足すのか、引くのか
最後に、冒頭の苛立ちが向かっている先に、いちばん近い問いが残っている。他人に見せることを前提にすると、活動そのものの楽しさは目減りするのか。この問いへの答えは、まだ出ていない。出ていないことを、順に書く。
2016年にダイールらが発表した実験は、要旨によれば、没入できる好ましい体験の最中に写真を撮ると、その体験の楽しさが上がると報告している。ここで測られたのは、写真を撮ることの効果で、共有ではない。別の研究(バラシュらの2018年の報告)は、共有するつもりで撮ると、かえって楽しさが下がると報告した、と紹介されている。これは二次情報の紹介で知ったもので、一次の論文は確認できていない。
自分についての情報を話すこと自体に、報酬としての性質がある、という研究もある。タミールとミッチェルが2012年に、脳の活動と行動の選択を使って示したもので、要旨によれば、人は自分について話す機会のために、金銭的な利益を手放すことがある。「見てほしい」という気持ちは、承認欲求という言葉でまとめられるが、その中身には、話したいという、もっと素朴な快も混ざっているのかもしれない。
趣味の成果を人に見せることが、内発的な動機づけを損なうのかどうか。趣味を収益化したときに何が起きるのか。そのものを直接検証した実験は、確かめられなかった。「見せる」ことと「お金」は、近いようで、別の問題である。
「自己満足」という言葉が、混ぜているもの
ここからは、私の整理になる。研究が確かめたことではない。
「自己満足でいい」という一語は、二つの別のことを混ぜているように見える。一つは、行為を支えている動機の出どころの話だ。報酬や評価のためにやっているのか、行為そのものが面白いからやっているのか。デシらの研究が扱ってきたのは、主にこちらである。もう一つは、出来を測る物差しを誰が持つかの話だ。自分で合格と決めるのか、他人の目を借りて決めるのか。こちらは、物差しの持ち主を独立の変数として操作した研究が、この記事で見てきた範囲にはない。
この二つは、独立に動きうる。動機は内側から来ていても、出来の物差しは外から借りてくることができる。反対に、人に見せるために始めた活動でも、物差しを自分で持つことはありうる。煮物の味見にたとえるなら、自分が食べたくて鍋を火にかけている人が、味の濃さだけは他人に確かめてもらう、ということがある。逆に、人に出すために作っている人が、最後の味の決め手は自分の舌に頼る、ということもある。「自己満足」という言葉は、この二つの軸を、一本の線に押し込めてしまうのかもしれない。
線を引く場所を、少し動かす
ここまでの数字を並べ直してみる。有形の報酬が内発的な興味を損なうのは、面白い課題で、報酬が約束の形をとって、行為に連動するときだった。予想外の報酬には、その害は見られない。賞賛は、大学生では興味を高め、子どもでは有意な効果が出なかった。同じ賞賛でも、統制的な調子が混ざると向きが逆になるという数字がある。一人で磨く時間は、思ったよりも楽しかったが、その上達にフィードバックが不可欠だと示した調査は、見つけられなかった。
これらを材料にすると、少なくとも二つのことが見える。一つは、「自分か他人か」という線が、研究の分けている線とは少しずれている、と私には見えることだ。数字が分かれ目に置いているのは、評価の出どころそのものよりも、見返りの約束があるか、賞賛が統制的に聞こえるか、という二つの点だった。もう一つは、その線を、実際の生活の中で引くのは、とても難しいということだ。同じ「すごいね」でも、受け取る側がどう聞くかで、中身が変わる。
ここから先も、私の読みになる。冒頭で苛立っていた人の反応は、他人の目を気にし始めたら趣味ではなくなる、という理屈にもとづいている。そう考えると、気にし始めた自分を責めることになる。研究のほうは、そこまで言っていない。気にすること自体ではなく、予告された見返りのために、自分のやることが変わっていく動きのほうを、問題にしている。その動きに気づくための、確かな物差しは、私には見つけられなかった。それでも、「その見返りが約束されていなくても、私はこれをやるだろうか」という問いを、ときどき自分に向けることはできる。答えが出るかどうかは、また別の話だ。
「自己満足でいい」と言われて安心した人も、苛立った人も、実は同じ問いの、別の側面を見ていたのかもしれない。この記事は、結論を渡すためのものではない。小さな実験と、積み重なった研究のそれぞれが、思ったよりも細く、思ったよりも太かった、という記録である。
出典
Edward L. Deci, "Effects of Externally Mediated Rewards on Intrinsic Motivation", Journal of Personality and Social Psychology, 18(1), 105–115, 1971.(全文で確認)
Mark R. Lepper, David Greene, and Richard E. Nisbett, "Undermining Children's Intrinsic Interest with Extrinsic Reward: A Test of the 'Overjustification' Hypothesis", Journal of Personality and Social Psychology, 28(1), 129–137, 1973.(全文のスキャンで確認)
Edward L. Deci, Richard Koestner, and Richard M. Ryan, "A Meta-Analytic Review of Experiments Examining the Effects of Extrinsic Rewards on Intrinsic Motivation", Psychological Bulletin, 125(6), 627–668, 1999.(全文で確認)
Edward L. Deci, Richard Koestner, and Richard M. Ryan, "Extrinsic Rewards and Intrinsic Motivation in Education: Reconsidered Once Again", Review of Educational Research, 71(1), 1–27, 2001.(全文で確認)
Judy Cameron and W. David Pierce, "Reinforcement, Reward, and Intrinsic Motivation: A Meta-Analysis", Review of Educational Research, 64, 363–423, 1994.(原典は未確認。Deci らの1999年・2001年の論文での紹介による)
Judy Cameron, Katherine M. Banko, and W. David Pierce, "Pervasive Negative Effects of Rewards on Intrinsic Motivation: The Myth Continues", The Behavior Analyst, 24(1), 1–44, 2001.(要旨のみ確認)
Richard M. Ryan, Valerie Mims, and Richard Koestner, "Relation of reward contingency and interpersonal context to intrinsic motivation: A review and test using cognitive evaluation theory", Journal of Personality and Social Psychology, 45(4), 736–750, 1983.(「~すべきだ」の統制的な賞賛を使った実験。原典は未確認で、Deci らの1999年のメタ分析での紹介による)
K. Anders Ericsson, Ralf Th. Krampe, and Clemens Tesch-Römer, "The Role of Deliberate Practice in the Acquisition of Expert Performance", Psychological Review, 100(3), 363–406, 1993.(全文で確認)
Brooke N. Macnamara and Megha Maitra, "The role of deliberate practice in expert performance: revisiting Ericsson, Krampe & Tesch-Römer (1993)", Royal Society Open Science, 6(8), 190327, 2019.(全文で確認)
Brooke N. Macnamara, David Z. Hambrick, and Frederick L. Oswald, "Deliberate Practice and Performance in Music, Games, Sports, Education, and Professions: A Meta-Analysis", Psychological Science, 25(8), 1608–1618, 2014.(要旨のみ確認。2018年に訂正あり、内容は未確認)
K. Anders Ericsson and Kyle W. Harwell, "Deliberate Practice and Proposed Limits on the Effects of Practice on the Acquisition of Expert Performance: Why the Original Definition Matters and Recommendations for Future Research", Frontiers in Psychology, 10, 2396, 2019.(要旨のみ確認)
Kristin Diehl, Gal Zauberman, and Alixandra Barasch, "How Taking Photos Increases Enjoyment of Experiences", Journal of Personality and Social Psychology, 111(1), 119–140, 2016.(要旨のみ確認)
Alixandra Barasch, Gal Zauberman, and Kristin Diehl, "How the Intention to Share Can Undermine Enjoyment: Photo-Taking Goals and Evaluation of Experiences", Journal of Consumer Research, 44(6), 1220–1237, 2018.(二次情報の紹介による。一次は未確認)
Diana I. Tamir and Jason P. Mitchell, "Disclosing information about the self is intrinsically rewarding", Proceedings of the National Academy of Sciences, 109(21), 8038–8043, 2012.(要旨のみ確認)