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物を持たない趣味は、本当に身軽なのか
選択肢が多いと選べなくなる、というジャム実験で知られる効果は、ある統合研究では平均でほぼゼロだった。物を減らせば身軽になるという前提を研究で疑い、物を減らしたあとに残る空白を、日本の統計とあわせて読む。
部屋から不要な物を減らしていくと、最初は視界がクリアになる爽快感がある。棚に隙間ができ、床が見え、探し物をする時間が減る。ところがある程度片づけが落ち着いた頃に、奇妙な感覚に襲われることがあるらしい。時間が余っている。何をしていいかわからない。「ミニマリスト 趣味がない」のような言葉で、この感覚に名前を探したくなる人もいるのだろう。物を手放した先に訪れるのは解放感だけではなく、埋まらない空白であることもあるようだ。
この空白をどう扱うかという話に入る前に、確かめておきたい前提が一つある。物を減らせば身軽になり、身軽になれば幸福に近づく、という話の順番は、そのままの形で研究に裏づけられているわけではない。むしろ多くの研究は、もっと入り組んだ姿を見せている。物を持たない趣味を探すという行為自体が、実はこの前提を疑わないまま次の消費先を探しているだけかもしれない、という可能性も含めて、順番に見ていく。
あらかじめ断っておくと、以下で扱う研究の多くは、物を減らすこと自体を実験的に操作して効果を測った、というよりも、物や消費との距離の取り方が、心理的な指標とどう相関するかを調べたものが中心になる。相関と因果は別物であり、片づけが幸福をもたらすのか、もともと幸福度の高い人が片づいた生活を維持しやすいのかは、多くの場合はっきりしない。この曖昧さ自体、物を減らす行為の効能を語る際に、まず踏まえておくべき前提の一つである。
物を増やさずに始めるなら、入り方は一つではない
「物が増えない趣味」を探してここに来た人のために、研究の細部に入る前に、具体的な入り方を先に並べておく。歩く、書く、つくる、お金を払って体験する、の四つだ。順位はつけていない。どれも、このあとの節で扱う研究のどこかに手がかりがあり、その研究が言えることの幅は、入り方ごとに違う。だから物が少ないかどうかより、それぞれが何に支えられ、どこで支えが途切れるのか、という分け方で書いておきたい。
歩く、とくに木や緑のある場所を歩くのは、要る物がほとんどない入り方だ。支えも比較的はっきりしている。同じ38人が、日をあけて樹木園と市街地の両方を歩いた実験では、樹木園を歩いたときのほうが、注意の課題の成績がよく伸びた。フィンランドの野外実験でも、街なかより公園や森を訪れたほうが、気分や活力の回復感は大きかった。弱いところも、このフィンランドの実験の中にある。唾液のコルチゾールは訪れた場所によらず下がり、場所による差は出なかった。続けやすい入り方なのかどうかは、どちらの研究からも分からない。画面を見ながら歩いていては効きにくいだろう、というのは私の推論で、それを確かめた実験は、ここで挙げるものにはない。
書くほうは、ノートとペンか、手元の端末があれば足りる。手がかりはペネベーカーとビールの表現的筆記の研究にあるものの、確かめられたのは、つらい出来事について1日15分、4日続けて、感情と事実の両方を書く、というかなり決まった手続きだった。その書き方をした群は、ほかの群と違って、その後の保健センターの受診が増えなかった。それも統計的には境界的な結果である。思いつくままに書き留める日記に、同じ効果がそのまま及ぶ保証はない。書き始めの解放感が、繰り返すうちに当たり前のものになっていくこともあるだろう。慣れの節で見るこの見立ても、理屈の上の話にとどまる。
小説や記事のような文章を書く、コードを書く、画面の中で絵を描く、といった「つくる」入り方で積み上がっていくのは、物より技能のほうだろう、と私は考えている。技能が伸びるにつれて、課題を少しずつ難しくしていく余地もありそうだ。手がかりになるのは、没入は課題の難しさと技能がともに高く釣り合うことに左右される、というフローの研究である。とはいえ、根拠にしているのは高校生526人の授業中の関与を測った調査からの類推で、趣味が続くかどうかを調べたものとは違う。釣り合いが崩れ、簡単すぎるか難しすぎる状態が続けば、没入は起きにくいとされる。道具の多い趣味でも同じ釣り合いは起こりうるのだから、物が少ないことは、この入り方の利点の本体とは言いにくい。
残る一つは、ほかの三つと少し向きが違う。
物を買うかわりに、体験にお金を払う入り方だ。導入で触れた「次の消費先を探しているだけ」という疑いに、いちばん近いところにある。支払う先が物から体験に移っただけ、と見ることもできるからだ。それでも、支えがないわけではない。ヴァン・ボーヴェンとギロヴィッチの電話調査では、より大きな幸福感をもたらした支出として、経験のための支出を挙げた人が57%、物のための支出を挙げた人は34%だった。経験は時間がたつと肯定的に解釈し直しやすい、というのが著者らの説明の一つだ。この調査は、どんな体験だったかを種類までは分けていない。旅行やコンサートといった例は、読む側が思い浮かべるもので、この調査が分けた種類ではない。研究が扱ったのは支出をともなう経験に限られ、無料でできる活動に同じ理屈が当てはまるかどうかは分からない。経験に重心を移しても慣れから逃れられるとは限らない、という慣れの節の留保も、ここにかかってくる。
どの入り方にも、共通してかかる注意が二つある。一つは、物を持たないこと自体が地位を示す手段になりうる、という指摘で、それが実際に働くかどうかを確かめるのは今後の課題だと、研究者自身が書いている。その選択を人に語りたくなったときに、語りのほうが同じ働きをするかもしれない、というのは私の読みだ。もう一つは、所有物を自己の延長とみる見方から出てくるものだ。入り方を一つ選ぶことと、物を手放したあとに何をして生きるかを決めることとは、同じ作業ではないのかもしれない。
四つのどれにも、研究で言えることと、言えないことがある。その境目は、このあとのいくつかの節で、もう少し詳しく見る。
「趣味がない」は、数字の上ではどのくらい珍しいのか
冒頭で触れた空白は、どのくらい特殊なものなのか。まず日本の数字で見ておく。2021年(令和3年)の社会生活基本調査(過去1年間にその活動をした人の割合を聞く)で、「趣味・娯楽」の行動者率は86.3%だった(2016年は87.0%)。75歳以上では67.2%に下がる。1日あたりの趣味・娯楽の時間は、10歳以上の全員について、平日と土日を均した週全体の平均で48分(男性60分、女性37分)だった。
この数字から「日本人の8割以上に趣味がある」とは言えない。行動者率は、過去1年に一度でもしたかを尋ねたもので、音楽を聴くことのような活動も含まれる。調査期間はコロナ禍の最中でもある。一方で、行動者に含まれなかった約13.7%は、過去1年に自由時間で趣味・娯楽の項目に当たる活動をしなかったことになる。「趣味がない」と感じることと、統計の上で何もしていないこととは、別の話だ。統計が測るのは何かをしたかどうかで、「趣味がない」という感覚が指しているものは、数字の外にある。ここから先は、そう感じる人の空白を、物を減らしたことが生んだのか、それとも別の何かなのかを、研究で順に確かめていく。
空白の正体は、暇ではないかもしれない
「趣味がない」という空白を単なる暇と捉えると、対処は簡単に見える。何か新しい活動を探して埋めればいい。しかし消費者研究には、所有物を自己の延長として捉える見方がある(ベルクの「拡張自己」、1988年)。棚に並んだ本、集めた道具、使い込んだ器具は、それを持つ人が何者であるかを、本人にも他人にも示す役割を担っていた。物を一気に手放すという行為は、その自己定義の装置ごと外してしまうことに近い。だとすれば片づけ後に訪れる空白は、暇な時間の余りではなく、自分が何者であるかを示す手がかりが減った状態への戸惑いだと考えることもできる。
ここで注意しておきたいのは、この種の議論が「だから物を取り戻せ」という結論には向かわないことだ。物が自己定義の手がかりだったという指摘は、物を持たない生き方が間違っているという意味ではなく、物を減らす作業と、何をして生きるかという作業は、別の作業だという意味に近い。前者が終わったからといって、後者が自動的に解決するわけではない。片づけの達成感と、趣味が見つかった充実感を混同すると、次に何を買うかという話に逆戻りしやすいのではないか。
静かな時間そのものが苦手という可能性
片づけの後に訪れる空白を、物を失ったことの喪失感として説明する前に、もっと単純な可能性も検討しておく必要がある。人はそもそも、何もせずにただ座って考えているという状態自体が、あまり得意ではないのかもしれない。T・D・ウィルソンらが2014年に学術誌サイエンスで発表した11の研究では、参加者を一人きりの部屋に入れ、6分から15分のあいだ、ただ自分の考えに浸ってもらった。参加者は、平均してこの時間をあまり楽しめなかった。極めつけは電気ショックの実験で、ショックを一度体験して「お金を払ってでも避けたい」と答えた人のうち、男性は18人中12人(67%)、女性は24人中6人(25%)が、一人で考える時間のあいだに、自分でショックのボタンを押した。
この実験が示しているのは、外からの刺激がない状態に、居心地の悪さを覚える人が少なくないということだ。物を手放した後の空白を、ミニマリズムという生き方に特有の副作用として語ってしまうと、実際にはもっと広く見られる静かな時間への弱さを、物のせいにして片づけていることになる。趣味から物を抜いたときに感じる落ち着かなさは、物を失ったからではなく、単に、静かな時間に居心地の悪さを覚える人がいるということかもしれない。だとすれば、その空白を急いで別の趣味で埋めるという発想自体が、静かな時間への居心地の悪さから目をそらす、もう一つの方法になっている可能性がある。
物を減らせば、本当に幸せになるのか
物質主義と幸福感の関係は、消費者心理学で最も繰り返し検証されてきたテーマの一つである。ディットマー、ボンド、ハースト、キャサーによる2014年のメタ分析は、259の独立したサンプル、753の効果量を統合し、物質主義的な価値観と主観的な幸福感のあいだに一貫した負の相関を見出した。数字で言えば、全体の平均的な相関はr=−.15(相関係数で、−1から1のあいだの値。0なら無関係。測定誤差を補正すると−.19)で、決して大きくはないが、性別や年齢、文化などの条件を変えても、おおむね負のままだった。研究間のばらつきは大きく、著者自身、相関研究なので因果の向きは分からないと明記している。ここで測られているのは、所有物の量ではなく、物を重視する価値観の強さだ。
ただし、この研究が実際に示しているのは、単純な「物を減らせば幸せになる」という物語よりも慎重な内容だ。物質主義との関連が最も強く出たのは、リスクの高い健康・消費行動や、自己に対する否定的な評価といった指標に対してで(r=−.28〜−.44。どれも幸福な側が大きくなる向きにそろえた値で、負は、物質主義が強いほど幸福が低いことを表す)、人生満足度と否定的な感情という、多くの人が「幸福」という言葉で思い浮かべる指標に対しては、関連が最も弱かった(r=−.13〜−.15)。つまり物を欲しがる傾向が強い人ほど不健全な消費行動に走りやすいという話と、物を欲しがる傾向が強い人ほど人生に満足していないという話は、同じ研究の中でも強さが違う。「物を持つほど不幸になる」という単純化は、持ち物の量についてはこの研究が何も答えていないうえ、物を重視する価値観との関連の弱さまで、覆い隠してしまう。
選択のパラドックスは、どこまで確かなのか
選択肢が少ないほうが人は楽になる、という話がある。道具を持たない趣味なら選ぶ苦労から解放される、という期待も、そこから出てくる。根拠として持ち出されることの多いのが、アイエンガーとレッパーが2000年に発表した、いわゆるジャム実験だ。試食コーナーに24種類のジャムを並べた場合と6種類だけ並べた場合を比較すると、立ち寄る客の数こそ24種類のほうが多かったものの(60%と40%)、立ち寄った客のうち実際に購入した比率は、6種類の場合が約30%、24種類の場合が約3%と、10倍近い差がついた。選択肢が多すぎると、人はかえって選べなくなる、という「選択のパラドックス」を象徴する実験として広く引用されてきた。
ところがこの効果は、後続の研究を含めて統合すると、思うほど安定していなかった。シャイベヘンネ、グライフェネダー、トッドが2010年に発表した、50件の実験(63の条件)を統合したメタ分析では、選択肢の多さが選択や満足度に与える平均的な効果は、ほぼゼロ(効果の大きさを表すD=0.02。0なら差なし)だった。出やすい条件の候補はいくつか示されたが、効果が確実に出る条件は特定できなかった。一方、2015年のチェルネフらは、99の観測値(計7,202人)を統合し、選択肢の集合の複雑さ、課題の難しさ、選好の不確かさ、手間を省こうとする目標という四つの条件を考慮すると、全体の効果は有意になる、と報告して、先のメタ分析と見解が分かれている。選択のパラドックスは、平均ではほぼゼロでも、条件しだいで姿を現すかもしれない現象で、どの条件で出るのかは、研究者のあいだでも一致していない。その期待が頼る実験は、効果そのものが、当初思われていたほど堅牢ではなかった。
持たないことを見せるという矛盾
物を持たない選択自体が、実は新しい形の誇示になりうるという指摘もある。A・V・ウィルソンとベレッツァが2022年に発表した「消費者ミニマリズム」の研究は、所有物の数を減らす、装飾を削ぎ落とした美意識を持つ、消費を意図的に選び抜く、という三つの側面から最小主義的な消費行動を整理した上で、これが単なる無所有の実践ではなく、消費のかたちを変えた一種の消費行動でありうることを論じている。地位のシグナルとして働く場合があるとも書くが、確かめるのは今後の課題としている。ベレッツァはさらに2023年の別の論文で、既存の研究を整理し、一部の高地位の消費者が、あからさまなブランド表示ではなく、所有物の少なさや控えめな美意識を、地位の代替シグナルとして用いることがあると論じている(新しい調査ではなく、概念の枠組みの論文だ)。あえて機能的な満足を犠牲にしてまで何かを手放すという行為は、それを理解できる相手にだけ伝わる、もう一段階手の込んだ地位の示し方になりうる、と私は読む。
物を増やさない趣味を選ぶという判断そのものが、この構造と無縁でいられるとは限らない。道具を持たずに歩く、道具を持たずに書く、という選択を誰かに語りたくなる瞬間があるとすれば、そこにはすでに、物を持つことで示していたのと同じ承認欲求が、形を変えて残っている可能性がある。物を減らすことが、物を持つことに代わる新しい自己アピールの手段になっているのだとしたら、趣味から物を抜いただけで、趣味の構造自体は変わっていないことになる。
それでも「する」ことが「持つ」ことに勝る場面
ここまでは物を減らすことへの疑いを重ねてきたが、経験と物のどちらが幸福感に寄与するかを比べた研究は、一定の方向を示している。ヴァン・ボーヴェンとギロヴィッチが2003年に発表した研究のうち、全米の1,263人への電話調査では、回答者に自分の経験のための支出と、物のための支出を思い出してもらい、どちらがより大きな幸福感をもたらしたかを尋ねた。経験のための支出を挙げた人が57%、物のための支出を挙げた人は34%にとどまった。さらに追加の実験では、経験について考えているときのほうが、物について考えているときよりも、被験者の気分がより前向きになったという。
この差が生まれる理由として、彼らは三つの説明を挙げている。経験は時間がたつと肯定的に解釈し直しやすいこと、経験は物よりも自己のアイデンティティに強く結びつくこと、そして経験は他者との結びつきを育みやすいことだ。別の小さな調査(コーネル大学の学生40人)では、83%が、物よりも経験のほうを頻繁に思い出すと答えている。瞑想や散歩や日記といった、物をほとんど必要としない活動が続けやすいと感じられるのだとしたら、それは単に道具が邪魔にならないからというより、こうした経験特有の性質のおかげである可能性がある。ただしこの研究が扱っているのは、あくまで「お金を払って得た経験」であり、無料でできる瞑想や散歩に、同じ理屈がそのまま当てはまるという保証はない、という留保はつけておく必要がある。
消費するより、つくることの条件
物を増やさない趣味の候補として、文章を書く、コードを書く、画面の中で絵を描くといった「つくる」系の活動がよく挙げられる。これが続けやすいと感じられるとしたら、その理由を考える手がかりに、チクセントミハイが提唱した「フロー」の概念がある。フロー状態とは、課題の難易度と自分の技能水準がともに高く、釣り合っているときに生じる、行為そのものへの没入感のことで、これまでの研究では、この釣り合いが取れているときほど、活動への集中度や満足度が高まる、という報告が多い。シャーノフ、チクセントミハイ、シュナイダー、シャーノフが2003年に発表した、米国各地の高校生526人を対象にした調査でも、課題の難しさと自分の技能がともに高く釣り合っているときに、生徒が報告する関与の度合いが最も高くなった。
ここで見落とされがちなのは、フローが生じる条件が「物を持たないこと」ではなく「難易度と技能の釣り合い」だという点だ。道具を持たずに始められる活動であっても、技能が全く伸びず、常に簡単すぎたり難しすぎたりする状態が続けば、没入は起きない。逆に言えば、道具を大量に必要とする趣味であっても、この釣り合いさえ保たれていれば同じ没入は起こりうる。物を増やさない趣味が続きやすいと感じられるのは、物がないからではなく、たまたまその活動が自分の技能に見合った難易度で設計されていたから、という可能性もある。消費するだけの趣味に飽きが来る場合も、技能が伸びる余地がなく、難易度が固定されたまま繰り返されることに、一因があるのではないか。なお、挙げた調査は高校の授業中の関与を測ったもので、趣味が続くかどうかを直接調べてはいない。
散らかりを語る言葉と、コルチゾール
散らかりとストレスの関係を、生理指標で見た調査がある。サックスビーとレペッティが2010年に発表した調査では、米国西海岸の都市に住む共働きの30家庭(夫婦60人)の一人ひとりが、自宅を案内する様子を自分で撮影した。その後の平日3日間、1日4回、唾液のコルチゾールを自分で採取した。案内の中で、自分の家を「散らかっている」「未完成の作業だらけだ」といった言葉で語った妻ほど、一日の中でコルチゾール値が本来下がっていくべき勾配が平坦になる、つまり慢性的なストレス状態に近いパターンを示していたという。測られたのは、家を語る言葉とホルモンの日内パターンの関連で、散らかりの実際の量でも、片づけの効果でもない。それでも、住まいをどう語るかが、体の側の指標とも結びうることを示す材料にはなる。
同じ調査には、見落とされがちな条件がついている。この関連が出たのは妻だけで、夫では、散らかりについての語り方と、コルチゾールの勾配や気分との関連が、ほぼ見られなかった(例外は、散らかりを語った夫の朝のコルチゾールが高かったことで、著者も予想外としている)。家を語る言葉とコルチゾールの関連が誰にでも等しく出るというより、家事や空間の管理に対する社会的な役割の割り振られ方によって、出方が変わるという含みがあり、著者もそれを推測として書いている。「片づければ誰でも楽になる」という一般化は、この調査が測ったものの外にある。
快楽の慣れは、趣味にも及びうるのか
物を減らして経験に重心を移せば、幸福が長続きするという話にも、覚えておくべき裏側がある。ブリックマンとキャンベルが1971年に提唱したとされる「快楽の踏み車」は、人は良い出来事にも悪い出来事にも慣れていき、一定期間が過ぎればもとの幸福度の基準線に戻っていく、という考え方として知られている。ブリックマンらが1978年に行った有名な調査では、宝くじの高額当選者22人と、当選していない対照群22人を比較したところ、現在の幸福度に、両者のあいだで有意な差は見られなかった。当選者は、日常のありふれた出来事から得る喜びが、むしろ有意に少なかった。当選前に幸福度を測ったわけではないので、基準線に戻ったことまでは、この研究からは言えない。新しい物を買った直後の高揚感が長続きしないのと同じ理屈は、理屈の上では新しい習慣や趣味にも及びうる。瞑想を始めたばかりの新鮮さや、日記を書き始めたばかりの解放感も、繰り返すうちに慣れが生じて当たり前のものになっていくことがあるだろう。
慣れとは別に、日記という趣味への期待にも留保がある。ペネベーカーとビールが1986年に発表した表現的筆記の研究、いわゆるエクスプレッシブ・ライティングの効果は、つらい出来事について1日15分、4日連続で書き続けるという、かなり具体的な手続きのもとで確認されたものだ。その後の保健センターの受診は、ほかの群では増えたのに対し、出来事の感情と事実の両方を書いた群だけは増えなかった(ただし統計的には境界的な結果だ)。頭に浮かんだことをただ気軽に書き留めるという、日常的な日記の書き方全般にまで、同じ効果がそのまま当てはまるという保証はない。物を持たない趣味として日記が挙げられるとき、そこで期待されている効能と、実際に研究が測定してきた効能のあいだには、思われているより距離がある場合がある。
歩くという趣味の、条件つきの効能
自然の中を歩くことには、比較的説得力のある根拠がある。カプランが提唱した注意回復理論は、自然環境には強制的にではなく緩やかに注意を引きつける刺激が多く、そうした環境に身を置くことで、日常的に酷使している意図的な注意力が回復すると説明する。バーマン、ジョナイズ、カプランが2008年に行った実験(38人)では、同じ人が1週間あけて樹木園と市街地を歩き、樹木園を歩いたあとのほうが、数字を逆順に答える課題(意図的な注意の指標)の成績が向上した。ティルヴァイネンらが2014年にフィンランドで行った野外実験では、都市部の街なかを訪れた場合に比べ、公園や森を訪れた場合のほうが、気分や活力の回復感が大きかった。唾液中のコルチゾール値は、どの場所でも下がり、場所による差は見られなかった。
この理論には、あまり語られない条件がついている。注意の回復が起きるとされているのは、周囲の環境から緩やかに刺激を受けながら、日々の用事や気がかりから少し離れられる状態にあるときで、歩きながらスマートフォンの画面を見ていては、この条件は満たされないと考えられる(スマートフォンの有無を比べた実験は、ここで挙げたものにはない)。道具を持たずに歩くという趣味が効くのだとすれば、効いているのは、道具がないという欠如そのものより、注意を引きつける対象が周囲の環境に置き換わっている、というもう一段具体的な条件のほうだろう。何も持たずに歩けば自動的に効果が出るわけではなく、歩きながら何に注意が向いているかのほうが、実質的には重要になりそうだ。
手放したはずの所有欲
物を持たない趣味に落ち着いた先でも、所有という心理そのものから完全に自由になれるとは限らない。カーネマン、クネッチ、セイラーが1990年に行った有名な実験では、コーヒーマグを渡された売り手が手放す代わりに求めた金額は、同じマグを買う側が支払ってもよいと答えた金額の、多くの条件で2倍を超えた(実験によっては2.5倍を超えた)。もっとも、マグの市場を5回繰り返した実験の一つでは、この比が3.8倍から1.8倍まで下がった。それでも成立した取引は毎回、予想の半分に届かなかった。著者らは、この実験も含めて、同じ財の市場を繰り返しても売り手と買い手の評価の食い違いは安定していた、と見ている。何かを一度持ってしまうと、それを手放すことの痛みは、同じものを新たに手に入れる喜びよりも大きく感じられる。これが「保有効果」と呼ばれる現象だ。物理的に手にしていることが効果を強めるかを調べた実験もある。レブとコノリーの2007年の実験(チョコバーとマグ、約100人ずつ)では、実際に持たせた場合には効果が有意に出たが、効果の大きさは小さく(金銭的な評価のばらつきのうち、持たせたかどうかで説明できるのは数%ほど)、「あなたのものです」と伝えるだけでは有意にならなかった。
保有効果が物以外にも及ぶのかは、これらの実験からは言えない。想像を許してもらえるなら、「自分は物を持たない人間だ」という自己像は、いったん確立されれば、手放しにくいものになるかもしれない。物を減らした過程を誰かに語り、その語り方に慣れ、それが自分の一部だと感じ始めた頃には、その自己像を手放すほうが、物を手放すよりも痛みを伴うこともありうるだろう。物を増やさない趣味を探すという営みは、対象に執着する構造が、物から自己像へ持ち越されているだけ、という見方もできる。
空白を埋める前に
ここまで見てきた研究は、それぞれ別の角度から、物を減らす行為にまつわる素朴な物語に留保をつけている。物を重視する価値観と不幸の相関は、思われているより穏やかである。選択肢が多いと選べなくなるという話は、平均ではほぼゼロで、条件しだいで現れるかもしれない。物を持たないという選択そのものが、地位を示す新しい手段になりうる。経験のほうが物より幸福につながると答える人が多い一方で、その研究が扱っているのは支出をともなう経験に限られる。散らかりを語る言葉と、コルチゾールの一日の下がり方との関連は、妻にだけ出た。快楽の慣れは、理屈の上では新しい趣味にも及びうる。注意の回復が、道具の不在より注意の向け先に左右されるというのは、研究の結果ではなく、私の推論にすぎない。没入は、課題と技能の釣り合いに左右される、という研究がある。所有への執着が自己像という別の対象に移るかどうかは、研究では確かめられておらず、ここでは想像にとどまる。
並べてみると、これらの留保にはひとつ共通する形がある。物を減らすという行為そのものが心理的な効果の原因だとは、ここまでの研究からは言い切れず、別の何かが効いている可能性が各節で残る、という形だ。散らかりを語る言葉と、コルチゾールの下がり方との関連が妻にだけ出たことには、家の管理への責任の感じ方の違いが関わっているのかもしれない。趣味が続くかどうかも、道具の有無より、技能と難易度の釣り合いのほうに左右されている可能性がある。とはいえ、これは高校の授業中の関与を測った研究からの類推で、趣味の継続を確かめた研究は、ここで挙げたものにはない。空白が気まずいことについても、物を失ったせいと決める前に、一人で考えるだけの時間を、参加者が平均してあまり楽しめなかった、というT・D・ウィルソンらの実験を思い出しておきたい。物の量という、目に見えて数えやすい変数に効果を帰属させたくなる気持ちはよくわかる。ただ、その帰属が別の変数にも向けられうることを、ここまでの研究は示している。
物の量を減らせば幸福や没入が生まれる、という主張を直接支える根拠は、ここで見た研究の中には見当たらない。
だとすれば、次の趣味を「物が少ないかどうか」で選り分けることは、少なくともここまでの研究からは、あまり筋の良い基準には見えない。片づけの後に訪れる空白は、急いで何かで埋めるべき穴というより、こうした前提の一つひとつが姿を現す、めずらしく静かな時間なのかもしれない。社会生活基本調査が測っていたのは、何かをしたかどうかであって、「趣味がない」という感覚の中身ではない。物を持たない趣味を探すという行為自体が、次の消費先や次の自己像を探す作業にすり替わっていく瞬間は、案外気づかれないまま過ぎていくものなのだろう。
出典
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