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物を持たない趣味は、本当に身軽なのか
物を減らせば身軽になり、幸福に近づく、という前提を、材料主義研究や選択のパラドックスの再検証から疑ってみる。「ミニマリスト 趣味がない」という検索語の裏には、片づけの先に訪れる空白がある。
部屋から不要な物を減らしていくと、最初は視界がクリアになる爽快感がある。棚に隙間ができ、床が見え、探し物をする時間が減る。ところがある程度片づけが落ち着いた頃に、奇妙な感覚に襲われることがあるらしい。時間が余っている。何をしていいかわからない。検索欄に「ミニマリスト 趣味がない」と打ち込む人が一定数いることは、検索候補の並びを見れば察しがつく。物を手放した先に訪れるのは解放感だけではなく、埋まらない空白であることも多いということだ。
この空白をどう扱うかという話に入る前に、確かめておきたい前提が一つある。物を減らせば身軽になり、身軽になれば幸福に近づく、という話の順番は、そのままの形で研究に裏づけられているわけではない。むしろ多くの研究は、もっと入り組んだ姿を見せている。物を持たない趣味を探すという行為自体が、実はこの前提を疑わないまま次の消費先を探しているだけかもしれない、という可能性も含めて、順番に見ていく。
あらかじめ断っておくと、以下で扱う研究の多くは、物を減らすこと自体を実験的に操作して効果を測った、というよりも、物や消費との距離の取り方が、心理的な指標とどう相関するかを調べたものが中心になる。相関と因果は別物であり、片づけが幸福をもたらすのか、もともと幸福度の高い人が片づいた生活を維持しやすいのかは、多くの場合はっきりしない。この曖昧さ自体、物を減らす行為の効能を語る際に、まず踏まえておくべき前提の一つである。
空白の正体は、暇ではないかもしれない
「趣味がない」という空白を単なる暇と捉えると、対処は簡単に見える。何か新しい活動を探して埋めればいい。しかし物と自己の関係を扱う研究では、所有物は単なる道具ではなく、自己を定義する装置として機能してきたことが繰り返し指摘されている。棚に並んだ本、集めた道具、使い込んだ器具は、それを持つ人が何者であるかを、本人にも他人にも示す役割を担っていた。物を一気に手放すという行為は、その自己定義の装置ごと外してしまうことに近い。だとすれば片づけ後に訪れる空白は、暇な時間の余りではなく、自分が何者であるかを示す手がかりが減った状態への戸惑いだと考えたほうが説明がつく。
ここで注意しておきたいのは、この種の議論が「だから物を取り戻せ」という結論には向かわないことだ。物が自己定義の手がかりだったという指摘は、物を持たない生き方が間違っているという意味ではなく、物を減らす作業と、何をして生きるかという作業は、別の作業だという意味に近い。前者が終わったからといって、後者が自動的に解決するわけではない。片づけの達成感と、趣味が見つかった充実感を混同すると、次に何を買うかという話に逆戻りしやすくなる。
静かな時間そのものが苦手という可能性
片づけの後に訪れる空白を、物を失ったことの喪失感として説明する前に、もっと単純な可能性も検討しておく必要がある。人はそもそも、何もせずにただ座って考えているという状態自体が、あまり得意ではないのかもしれない。ウィルソンらが2014年に学術誌サイエンスで発表した一連の実験では、被験者を一人きりの部屋に入れ、6分から15分のあいだ、外部からの刺激を一切与えずに、ただ自分の考えに浸ってもらうという課題を課した。多くの被験者はこの時間を楽しめず、外的な刺激をともなう単調な作業のほうをむしろ好んだ。極めつけは、事前に「この機械で電気ショックを受けるなら金を払ってでも避けたい」と答えていた被験者の多く、とりわけ男性の67%が、何もせずに座っているあいだに、自らその電気ショックのボタンを押したという結果だった。
この実験が示しているのは、外的な道具や刺激がない状態そのものに、人は本能的な居心地の悪さを覚えるということだ。物を手放した後の空白を、ミニマリズムという生き方に特有の副作用として語ってしまうと、実際にはもっと普遍的な、人間が静かな時間に弱いという性質を、物のせいにして片づけていることになる。趣味から物を抜いたときに感じる落ち着かなさは、物を失ったからではなく、単に手持ち無沙汰に耐える訓練が足りていないだけかもしれない。だとすれば、その空白を急いで別の趣味で埋めるという発想自体が、静かな時間に耐えられない自分から目をそらす、もう一つの逃げ道になっている可能性がある。
物を減らせば、本当に幸せになるのか
物質主義と幸福感の関係は、消費者心理学で最も繰り返し検証されてきたテーマの一つである。ディットマー、ボンド、ハースト、キャサーによる2014年のメタ分析は、259の独立したサンプル、753の効果量を統合し、物質主義的な価値観と主観的な幸福感のあいだに一貫した負の相関を見出した。数字で言えば、物質主義的な価値観の強さと幸福感の相関はおおよそマイナス0.19から0.24程度で、決して大きくはないが、文化や調査対象を変えても消えない程度には頑健だったという。
ただし、この研究が実際に示しているのは、単純な「物を減らせば幸せになる」という物語よりも慎重な内容だ。物質主義の悪影響が最も強く出たのは、リスクの高い消費行動や、自己に対する否定的な評価といった指標に対してで、人生満足度という、多くの人が「幸福」という言葉で思い浮かべる指標に対しては、影響が最も弱かった。つまり物を欲しがる傾向が強い人ほど不健全な消費行動に走りやすいという話と、物を欲しがる傾向が強い人ほど人生に満足していないという話は、同じ研究の中でも強さが違う。片づけ系のコンテンツが好んで引用する「物を持つほど不幸になる」という単純化は、この研究が本来示している程度の弱さを覆い隠してしまっている。
選択のパラドックスという、よくできた神話
物を持たない趣味を勧める文脈では、選択肢が少ないほうが人は楽になる、という話がよく添えられる。根拠としてしばしば持ち出されるのが、アイエンガーとレッパーが2000年に発表した、いわゆるジャム実験だ。試食コーナーに24種類のジャムを並べた場合と6種類だけ並べた場合を比較すると、立ち寄る客の数こそ24種類のほうが多かったものの、実際に購入した比率は6種類の場合が約30%、24種類の場合が約3%と、10倍近い差がついた。選択肢が多すぎると、人はかえって選べなくなる、という「選択のパラドックス」を象徴する実験として広く引用されてきた。
ところがこの効果は、その後の追試で思うほど再現されなかった。シャイベヘンネ、グライフェネダー、トッドが2010年に発表した、50件の実験を統合したメタ分析では、選択肢の多さが選択や満足度に与える平均的な効果は、ほぼゼロに近いという結果になった。効果が確認されたのは、選択肢同士の違いが比較しにくいときや、選ぶ対象に馴染みがないとき、判断の失敗が重く響く場面、あるいは常に最善を選ぼうとする「最大化志向」の強い人に限られていた。選択のパラドックスは、特定の条件が揃ったときにだけ姿を現す現象であって、選択肢が多いこと自体が万人を疲れさせる普遍的な法則ではなかったということになる。道具を持たない趣味なら選ぶ苦労から解放される、という話は、根拠として引用される実験の再現性そのものが、当初思われていたほど堅牢ではない。
持たないことを見せるという矛盾
物を持たない選択自体が、実は新しい形の誇示になりうるという指摘もある。ウィルソンとベレッツァが2022年に発表した「消費者ミニマリズム」の研究は、所有物の数を減らす、装飾を削ぎ落とした美意識を持つ、消費を意図的に選び抜く、という三つの側面から最小主義的な消費行動を整理した上で、これが単なる無所有の実践ではなく、消費のかたちを変えた一種の消費行動そのものであることを示している。ベレッツァはさらに2023年の別の論文で、豊かな消費者ほど、あからさまなブランド表示ではなく、所有物の少なさや控えめな美意識といった、一見すると質素にすら見える振る舞いを地位の代替シグナルとして用いる傾向があることを整理している。あえて機能的な満足を犠牲にしてまで何かを手放すという行為は、それを理解できる相手にだけ伝わる、もう一段階手の込んだ地位の示し方になりうるということだ。
物を増やさない趣味を選ぶという判断そのものが、この構造と無縁でいられるとは限らない。道具を持たずに歩く、道具を持たずに書く、という選択を誰かに語りたくなる瞬間があるとすれば、そこにはすでに、物を持つことで示していたのと同じ承認欲求が、形を変えて残っている可能性がある。物を減らすことが、物を持つことに代わる新しい自己アピールの手段になっているのだとしたら、趣味から物を抜いただけで、趣味の構造自体は変わっていないことになる。
それでも「する」ことが「持つ」ことに勝る場面
ここまでは物を減らすことへの疑いを重ねてきたが、経験と物のどちらが幸福感に長く寄与するかという比較研究は、比較的一貫した方向性を示している。ヴァン・ボーヴェンとギロヴィッチが2003年に発表した研究では、被験者に自分の経験のための支出と、物のための支出を思い出してもらい、どちらがより大きな幸福感をもたらしたかを尋ねたところ、経験のための支出を挙げた人が57%、物のための支出を挙げた人は34%にとどまった。さらに追加の実験では、経験について考えているときのほうが、物について考えているときよりも、被験者の気分がより前向きになったという。
この差が生まれる理由として、彼らは三つの説明を挙げている。経験は物よりも自己のアイデンティティに強く結びつくこと、経験は物ほど他人との比較で人を落ち込ませないこと、そして経験は物よりも他者との結びつきを育みやすいことだ。被験者の83%は、物よりも経験のほうを繰り返し思い出す頻度が高いとも回答している。瞑想や散歩や日記といった、物をほとんど必要としない活動が続けやすいと感じられるのだとしたら、それは単に道具が邪魔にならないからというより、こうした経験特有の性質のおかげである可能性がある。ただしこの研究が扱っているのは、あくまで「お金を払って得た経験」であり、無料でできる瞑想や散歩に、同じ理屈がそのまま当てはまるという保証はない、という留保はつけておく必要がある。
消費するより、つくることの条件
物を増やさない趣味の候補として、文章を書く、コードを書く、画面の中で絵を描くといった「つくる」系の活動がよく挙げられる。これが続けやすいと感じられるとしたら、その理由の一端は、チクセントミハイが提唱した「フロー」の概念で説明がつく。フロー状態とは、課題の難易度と自分の技能水準がちょうど釣り合っているときに生じる、行為そのものへの没入感のことで、これまでの研究では、この釣り合いが取れているときほど、活動への集中度や満足度が高まることが繰り返し確認されている。シャーノフ、チクセントミハイ、シュナイダー、シャーノフが2003年に発表した、全米の高校生526人を対象にした調査でも、課題の難易度と自分の技能がともに高く、かつ釣り合っている授業ほど、生徒が報告する集中度や関与の度合いが明確に高くなることが確認されている。
ここで見落とされがちなのは、フローが生じる条件が「物を持たないこと」ではなく「難易度と技能の釣り合い」だという点だ。道具を持たずに始められる活動であっても、技能が全く伸びず、常に簡単すぎたり難しすぎたりする状態が続けば、没入は起きない。逆に言えば、道具を大量に必要とする趣味であっても、この釣り合いさえ保たれていれば同じ没入は起こりうる。物を増やさない趣味が続きやすいと感じられるのは、物がないからではなく、たまたまその活動が自分の技能に見合った難易度で設計されていたから、という可能性のほうが高い。消費するだけの趣味に飽きが来やすいのも、多くの場合は技能が伸びる余地がなく、難易度が固定されたまま繰り返されることが原因であり、そこに物があるかないかは、副次的な要因にすぎない。
部屋のコルチゾールと、その限界
片づけがストレスを減らすという主張には、実際に生理指標を用いた裏づけがある。UCLAの「21世紀の家庭生活」プロジェクトでサックスビーとレペッティが行った調査では、ロサンゼルスの共働き家庭を対象に、自宅を撮影・記録し、家族に自宅を案内してもらいながら唾液中のコルチゾール値を測定した。自分の家を「散らかっている」「未完成の作業だらけだ」といった言葉で語った人ほど、一日の中でコルチゾール値が本来下がっていくべき勾配が平坦になる、つまり慢性的なストレス状態に近いパターンを示していたという。片づいていない環境が、単なる主観的な不快感にとどまらず、体内のホルモン動態にまで影響しうるという意味では、この研究は物を減らすことの効用を支持する材料になる。
ただし同じ調査には、見落とされがちな条件がついている。この効果がはっきり出たのは主に女性の被験者で、男性の被験者ではクラッター(散らかり)についての語り方とコルチゾール値の関連が、女性ほど明確には現れなかった。片づいた部屋が誰にとっても等しくストレスを軽減するというより、家事や空間の管理に対する社会的な役割の割り振られ方によって、効果の出方が変わるという含みがある。「片づければ誰でも楽になる」という一般化は、この調査が実際に見せている姿より、いくらか粒度の粗い話になっている。
快楽は道具を選ばず摩耗する
物を減らして経験に重心を移せば、幸福が長続きするという話にも、覚えておくべき裏側がある。ブリックマンとキャンベルが1971年に提唱した「快楽の踏み車」という考え方は、人は良い出来事にも悪い出来事にも慣れていき、一定期間が過ぎればもとの幸福度の基準線に戻っていくというものだ。ブリックマンらが1978年に行った有名な調査では、宝くじの高額当選者と、当選していない対照群を比較したところ、当選から時間が経った後の幸福度には、両者のあいだにほとんど差が見られなかった。新しい物を買った直後の高揚感が長続きしないのと同じ理屈は、理屈の上では新しい習慣や趣味にも及びうる。瞑想を始めたばかりの新鮮さも、日記を書き始めたばかりの解放感も、繰り返すうちに慣れが生じて当たり前のものになっていく。
日記についてはもう一点、注意しておきたいことがある。ペネベーカーが1986年に発表した表現的筆記の研究、いわゆるエクスプレッシブ・ライティングの効果は、つらい出来事について15分から20分、三日から五日にわたって書き続けるという、かなり具体的な手続きのもとで確認されたものだ。頭に浮かんだことをただ気軽に書き留めるという、日常的な日記の書き方全般にまで、同じ効果がそのまま当てはまるという保証はない。物を持たない趣味として日記が挙げられるとき、そこで期待されている効能と、実際に研究が測定してきた効能のあいだには、思われているより距離がある場合がある。
歩くという趣味の、条件つきの効能
スマートフォンを置いて歩くという行為には、比較的説得力のある根拠がある。カプランが提唱した注意回復理論は、自然環境には強制的にではなく緩やかに注意を引きつける刺激が多く、そうした環境に身を置くことで、日常的に酷使している意図的な注意力が回復すると説明する。バーマン、ジョナイズ、カプランによる実験では、自然の中を歩いたグループのほうが、都市部を歩いたグループよりも、その後の記憶力や注意力に関する課題の成績が向上したことが確認されている。ティルヴァイネンらが2014年にフィンランドで行った野外実験でも、都市部の街なかを歩いた場合に比べ、公園や森を短時間歩いた場合のほうが、気分や活力の回復感が大きく、唾液中のコルチゾール値もより下がったことが確認されている。
ただしこの理論には、あまり語られない条件がついている。注意の回復が起きるとされているのは、周囲の環境から緩やかに刺激を受けながら、意識が「今ここ」から少し離れられる状態にあるときで、歩きながらスマートフォンの画面を見ていては、この条件は満たされない。道具を持たずに歩くという趣味が効くのだとすれば、それは道具がないという欠如そのものが効いているのではなく、注意を引きつける対象が周囲の環境に置き換わっているという、もう一段具体的な条件が満たされているからだ。何も持たずに歩けば自動的に効果が出るわけではなく、歩きながら何に注意が向いているかのほうが、実質的には重要だということになる。
手放したはずの所有欲
物を持たない趣味に落ち着いた先でも、所有という心理そのものから完全に自由になれるとは限らない。カーネマン、クネッチ、セイラーが1990年に行った有名な実験では、被験者にコーヒーマグを与え、それを同程度の価値のペンと交換してよいと伝えたところ、マグを渡す代わりに求める金額は、同じマグを買うために支払ってもよいと答えた金額のおよそ2倍にのぼった。何かを一度持ってしまうと、それを手放すことの痛みは、同じものを新たに手に入れる喜びよりも大きく感じられる。これが「保有効果」と呼ばれる現象で、後の研究では、法的な所有権そのものよりも、物理的に手にしているという「所有している感覚」のほうが、この効果を強く引き起こすことも確かめられている。
この保有効果は、物理的な物だけに働くとは限らない。「自分は物を持たない人間だ」という自己像そのものが、いったん確立されてしまえば、同じように手放しにくいものになりうる。物を減らした過程を誰かに語り、その語り方に慣れ、それが自分の一部だと感じ始めた頃には、その自己像を手放すことのほうが、物を手放すことよりも痛みを伴うようになっているかもしれない。物を増やさない趣味を探すという営みは、物という対象を失っただけで、対象に執着するという構造自体はそのまま持ち越されているだけなのかもしれない。
空白を急いで埋めない
ここまで見てきた研究は、それぞれ別の角度から、物を減らす行為にまつわる素朴な物語に留保をつけている。物質主義と不幸の相関は、思われているより穏やかである。選択肢が多いと選べなくなるという話は、条件つきでしか成立しない。物を持たないという選択そのものが、地位を示す新しい手段になりうる。経験は物より幸福に長く寄与するとされる一方で、その研究が扱っているのは支出をともなう経験に限られる。片づけとストレス軽減の関係には、性差という但し書きがつく。快楽の摩耗は物にも経験にも等しく訪れる。注意の回復は、道具の不在ではなく注意の向け先によって決まる。没入が生まれるかどうかは、物の有無ではなく課題と技能の釣り合いで決まる。そして所有への執着は、物という対象がなくなっても、自己像という別の対象に移動しうる。
並べてみると、これらの留保にはひとつ共通する形がある。物を減らすという行為そのものは、心理的な効果の原因ではなく、たいていの場合は別の何かの結果、あるいは単なる舞台装置にすぎない、という形だ。ストレスが下がるのは片づいた部屋そのものの力ではなく、家事という役割の負荷が減ったからかもしれない。趣味が続くのは道具がないからではなく、技能と難易度がたまたま釣り合っているからかもしれない。空白が気まずいのは物を失ったからではなく、人間がもともと静かな時間に弱いからかもしれない。物の量という、目に見えて数えやすい変数に効果を帰属させたくなる気持ちはよくわかるが、その帰属のほとんどは、検証してみると別の変数に置き換わってしまう。
だとすれば、次に選ぶべき趣味を「物が少ないかどうか」で選別すること自体が、あまり筋の良い基準ではないということになる。物の量を減らすことは、目的というよりせいぜい副産物であって、それ自体を目指す理由にはならない。片づけの後に訪れる空白は、急いで何かで埋めるべき穴というより、こうした前提の一つひとつが姿を現す、めずらしく静かな時間なのかもしれない。物を持たない趣味を探すという行為自体が、次の消費先や次の自己像を探す作業にすり替わっていく瞬間は、案外気づかれないまま過ぎていくものなのだろう。
出典
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