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「没頭度:非常に高い」の内訳を疑う

「没頭度:非常に高い」の内訳を疑う

趣味アプリやプラットフォームが表示する没頭度・熱中度のスコアは、行動ログなのか自己申告なのか案外あいまいなまま数字だけが一人歩きする。自己報告バイアスと内観研究の蓄積から、その表示の中身を疑う。

TOMOAKI··趣味

趣味系のアプリやプラットフォームを開くと、セッションの終わりに小さな数字や言葉が表示されることがある。「没頭度:非常に高い」「集中スコア:87」「今日のフロー度:深い」。読書アプリが読了後に表示することもあれば、フィットネスアプリが運動後に、瞑想アプリがセッション後に出すこともある。どれも似た体裁を取る——数値かラベルがひとつ示され、それがあたかも自分の内側で何が起きていたかを客観的に教えてくれているかのように振る舞う。

この表示を疑ってみたい。疑うといっても、企業が数字を捏造しているという話ではない。もっと地味な問題で、「その数字がそもそも何を測っているのか」が、多くの場合はっきりしないまま流通しているという話だ。

ランニングアプリが運動後に示す「頑張り度」のようなスコア、サブスクリプション型の学習アプリが表示する「継続の質」、瞑想アプリのセッション終了画面に出る深さのゲージ——これらは見た目こそ違うが、構造は共通している。ユーザーはその数字を見て、自分がどれだけその活動に入り込めていたかを判断材料として受け取る。良い数字が出れば続ける動機になり、悪い数字が出れば「今日はいまいちだった」という自己評価が上書きされる。数字が先に立ち、体感がそれに合わせて再構成される、という順番の逆転すら起こり得る。

こうした表示に対する率直な反応は、たいてい二つに分かれる。ひとつは、数字が出ている以上、それなりの根拠があるはずだという素朴な信頼。もうひとつは、しょせんアプリの演出だろうという、これまた根拠の薄い一蹴だ。どちらも、実際に何が測られているのかを確かめる手間を省いている点では変わらない。ここでは、その手間を惜しまずに、心理学がこれまで積み重ねてきた自己報告と内観の研究に照らして、この表示の内側を一段ずつめくってみたい。

行動ログなのか、自己申告なのか

没頭度や集中スコアの類は、大きく分けて二種類の材料からできている。ひとつは行動ログ——セッションの継続時間、画面のタップ間隔、途中で他のアプリに切り替えた回数、心拍数や皮膚電気反応のような生体データ。もうひとつは自己申告——セッションの直後に出てくる「今回はどのくらい集中できましたか」という質問への回答だ。

厄介なのは、多くのアプリがこの二つを混ぜ合わせ、どちらが土台になっているのかを開示しないまま、ひとつの数字やラベルとして出力する点にある。行動ログだけなら、それは「アプリを閉じずにいた時間」の代理指標であって、内側で何を感じていたかとは別の話のはずだ。ぼんやり画面を眺めながら別のことを考えていた30分も、記録の上では「継続時間30分」として同じように積み上がる。逆に自己申告だけなら、それは記憶に基づく事後の判断であって、体験そのものの記録ではない。この二つを一本の数字に押し込めた瞬間、どちらの限界も見えなくなる。

利用規約やヘルプページの隅に、算出方法の説明が載っていることもあるにはある。しかし大抵は「利用時間や操作パターンをもとに独自のアルゴリズムで算出しています」程度の記述にとどまり、行動ログと自己申告のどちらに重心を置いているのか、後者を含む場合はどの設問の回答をどう重みづけているのかまでは踏み込まない。利用者からすれば、算出根拠が見えない数字を、見えないまま信じるか、見えないまま無視するかの二択を迫られているのに近い。

直後に聞かれても、答えは体験の要約ではない

百歩譲って、自己申告のほうを見てみる。セッション終了直後に「どのくらい没頭しましたか」と聞かれれば、少なくともそのときの実感には即しているはずだと考えたくなる。ところが、行動経済学者のダニエル・カーネマンと医師のドナルド・レデルマイヤーが1996年に発表した大腸内視鏡検査の研究は、この期待をくじく結果を残している。患者に処置中の痛みを一定間隔で記録させ、終了後に「全体としてどれくらい辛かったか」を振り返らせたところ、その事後評価は処置全体の長さや平均的な痛みの強さとはほとんど相関せず、代わりに「痛みが最も強かった瞬間」と「処置の最後の数分間」の平均とよく一致した。

この観察結果が偶然の一致ではなく本当に事後評価を左右しているのかを確かめるため、レデルマイヤーは2003年、ジョエル・カッツ、カーネマンとともに682人の患者を対象とした無作為化試験を実施している。一部の患者には、検査本体がすでに終わったあとに、あえて軽い不快感だけが続く時間を数分間追加した——処置全体としての痛みの総量(total discomfort)は増えているにもかかわらず、である。それにもかかわらず、この群のほうが検査全体を振り返って「楽だった」と評価し、次回の検査への抵抗感も少なかった。1996年の観察研究が見つけた相関を、2003年の実験がランダム化によって裏づけた形になる。

これはpeak-end rule(ピーク・エンドの法則)と呼ばれ、体験の長さそのものへの感度が乏しいこと(duration neglect、持続時間の無視)とセットで報告されている。趣味のセッションに置き換えれば、序盤の20分がうまくいかず苛立っていても、終盤の5分だけ調子が戻れば、「今日は集中できた」と答える側に振れやすいということになる。没頭度のスコアが自己申告に依存しているなら、それが映しているのは体験全体の平均ではなく、ピークと終わり際という、ごく限られた瞬間の重みづけである可能性が高い。

しかも厄介なのは、この歪みが本人にとってはまったく歪みだと感じられない点だ。大腸内視鏡の実験で「楽だった」と答えた患者は、嘘をついたわけでも、記憶力が悪いわけでもない。むしろ誠実に、そのとき思い出せる範囲で最善の答えを返している。没頭度アプリのアンケートに答えるときも同じで、「今日はよく集中できた」という回答は、セッションの終わり方が良かったことの正直な反映ではあっても、セッション全体の質を代表する数字ではない。アプリの側がこの区別をしないまま「集中スコア:87」と表示すれば、本人が気づかないところで、体験の一部が全体にすり替わっていることになる。

では行動ログなら信用できるのか、というとそうでもない

ここで「だったら自己申告をやめて、行動ログだけ見ればいい」と考えたくなるが、話はそう単純ではない。行動ログの土台にある「自分がどれだけの時間、その活動に費やしたか」という一見客観的な事実でさえ、本人の申告と実測はしばしば食い違う。

ポルトガルの研究者らが2023年に発表した調査では、211人の成人にスマートフォンの利用時間を自己申告させ、端末側で実測した数値と突き合わせている。ロックダウン期間中、参加者は自分の画面利用時間を平均で1日あたり約71分、実際より少なく見積もっていた。ロックダウン前は約20分の過小申告にとどまり統計的には有意でなかったが、外出が制限され利用時間そのものが伸びた状況では、申告と実測の差も広がった。運動習慣の少ない層ほど過小申告の幅が大きかったという結果も添えられている。

これが意味するのは、「どれだけの時間その活動をしていたか」という、内観も要らないはずの単純な事実でさえ、記憶に基づいて答えさせると簡単にずれるということだ。没頭度という、時間よりもさらに主観的な尺度を自己申告に頼るなら、その不確かさは時間の申告よりも大きくなりこそすれ、小さくなる理由はどこにもない。かといって行動ログだけを使えば解決するというものでもない——ログが拾えるのは「アプリが開いていた時間」であって、「意識がそこにあった時間」ではないからだ。両方とも、それぞれ別の理由で、知りたいものの代理でしかない。

興味深いのは、この過小申告の幅が状況によって変わっていた点だ。外出の制限がなく、利用時間の絶対量が少なかった時期には、申告と実測の差はさほど目立たなかった。ところが利用時間そのものが伸びると、差も比例するように開いた。これは、私たちが自分の行動を振り返るとき、時間の長さそのものを計測しているのではなく、「だいたいこれくらいだろう」という印象を、過去の感覚に照らして答えている可能性を示唆する。趣味に没頭していたと感じる時間が長くなるほど、その長さの見積もりも粗くなるとすれば、没頭度が高いと自己申告される日ほど、申告内容の精度はむしろ下がっているという、皮肉な組み合わせも起こり得る。

内観という装置そのものへの疑い

ここまでは測定のタイミングや方法の話だったが、もう一段階根本的な問題がある。そもそも人は、自分の内側で起きていることに、思っているほど直接アクセスできていないのではないか、という疑いだ。

心理学者のリチャード・ニスベットとティモシー・ウィルソンが1977年に発表した論文は、この論点の古典として引用され続けている。彼らが検討した一連の実験では、参加者の判断や行動に実際に影響を与えた要因(実験者が操作した刺激)を、参加者自身に説明させると、その説明の中にその要因がほとんど登場しない、という現象が繰り返し観察された。参加者は自分の反応を正直に説明しようとしているのに、実際の原因ではなく、「もっともらしい理由」を後から組み立てて答えている——ニスベットとウィルソンはこれを、直接の内観ではなく、暗黙の因果理論に基づく推測だと結論づけた。

これをアプリの質問画面に当てはめると、少し不安になる。「今日はなぜ没頭できたと思いますか」「どのくらい深く入り込めましたか」という問いに対して、私たちが答えているのは、自分の内側にある「没頭メーター」を読み上げているのではなく、その場でもっともらしい物語を組み立てているだけかもしれない、ということになるからだ。しかもその物語は、直前の設問の言い回しや、画面に表示された選択肢の幅によっても揺れる。内観が不確かだという指摘は、別に「人は嘘をつく」という話ではない。むしろ逆で、誠実に答えようとしてもなお、参照すべき確かな内部記録が存在しない、という話である。

ニスベットとウィルソンの論文がとりわけ厄介なのは、参加者自身に「今の答えは推測ではなく実感か」と尋ねても、多くの場合「実感だ」と自信を持って答える点だった。つまり、答えが後づけの理屈にすぎないという事実は、答えている本人にはまったく感知されない。没頭度の自己申告についても、同じ構造を疑う理由がある。「今日はよく没頭できた」と答えるとき、その確信の強さは、答えの正確さとは別物である。確信があるからといって、それが内側の状態を正しく読み取った結果だという保証にはならない。

選んだはずの理由すら、後から作られる

この種の確信のもろさをさらに極端な形で見せつけたのが、選択盲(choice blindness)と呼ばれる一連の実験だ。心理学者のペター・ヨハンソンらが2005年に発表した研究では、参加者に二枚の顔写真を見せ、より魅力的だと思うほうを選ばせた。実験者は手品のカードすり替えの要領で、参加者が選んだのとは逆の写真をこっそり手渡し、参加者にその写真を見ながら「なぜそちらを選んだのか」を説明させる。すり替えは決して微妙なものではなく、髪の色が大きく異なる組み合わせも含まれていたにもかかわらず、全試行のうち検出されたのは最大でも26パーセントにとどまった。残りの大半で、参加者は自分が選んでもいない写真について、もっともらしい選択理由をよどみなく語った。

ここで起きているのは、単なる見落としではない。参加者は、実際には選んでいない結果を「自分が選んだもの」として受け入れたうえで、その理由まで即興で作り上げている。没頭度の自己申告に置き換えれば、アプリが「今日のあなたは没頭度が高かったようです」と先に提示してしまえば、利用者はその判定を出発点にして、「そういえば集中していた気がする」という理由を後から探し始める危険がある。判定が先にあり、実感が後からそれに合わせて組み立てられるとしたら、自己申告はもはや検証ではなく、追認の儀式に近づく。

心理学自身が、この不確かさを前提に設計を変えてきた

この不確かさは、心理学の研究方法自体にも影響を与えている。ミハイ・チクセントミハイと共同研究者のリード・ラーソンが1987年に発表した経験サンプリング法(Experience Sampling Method、ESM)は、まさにこの問題への対処として設計された手法だ。参加者にポケベルや端末で1日に何度もランダムなタイミングで信号を送り、「今、何をしていて、何を感じているか」をその場で短く記録させる。狙いは単純で、後から振り返って答えさせる調査には記憶の歪みがつきまとうから、体験の最中にできるだけ近いタイミングで記録を取ろう、というものだ。裏を返せば、フロー研究の創始者たち自身が、事後の自己申告をそのままでは信用していなかったということでもある。

ただし、ESMを使えばすべて解決するわけでもない。2024年にドイツと米国の研究者らが発表した研究では、日常生活の中でのフロー体験について、その場で答える瞬間的な測定と、一日の終わりに振り返って答える回想的な測定とを比較したところ、両者は完全には一致しなかった。同じ人の同じ一日を対象にしても、「その瞬間ごとに聞いた集計」と「後で振り返って聞いた総括」は、微妙に違う絵を描く。これは意外な結果だ——研究の世界で「歪みの少ない測り方」とされてきた手法どうしを比べても、なお食い違いが残るのだから、アプリの没頭度スコアが単一の正しい値に収束するはずだという期待は、そもそも前提から無理があることになる。

これは、より測り方を精密にすれば、いずれ「本当の没頭度」にたどり着けるはずだという発想そのものへの反証でもある。瞬間ごとの記録を積み上げた集計と、後から振り返った総括とが違う絵を描くのだとしたら、そのどちらか一方が間違っていて、もう一方が正解だという話ではない。むしろ、「体験の総量」というものが、測るタイミングによって別の姿を見せる、性質の定まらない対象なのだと考えたほうが筋が通る。アプリの開発者に精密な測定技術が足りないから数字が粗いのではなく、そもそも一意に定まる正解値が存在しない対象を、あたかも存在するかのように数字にしているのである。

「不慣れな人ほど自分を見誤る」という通説も、思ったほど確かではない

ここでもう一つ、よくある補助線を疑っておきたい。「自分の実力や没頭度を正しく測れないのは、その趣味に不慣れな初心者に特有の問題で、経験を積めば自己評価も正確になる」という考え方だ。いわゆるダニング=クルーガー効果——能力の低い人ほど自分を過大評価し、能力の高い人はむしろ謙虚になる、という語られ方をする現象——は、この考え方を後押しする形でよく引用される。

ところが、この効果そのものの解釈をめぐって、近年は反論が積み重なっている。心理学者のギルズ・ギニャックとマルチン・ザイェンコフスキが2020年に発表した分析では、実際の能力と自己評価の関係は、通説が描くような「初心者だけが極端に過大評価し、熟達者だけが正確になる」という非対称な曲線ではなく、能力の水準を通じてほぼ一様な、緩やかな相関に近いという結果が示されている。つまり、自己評価のズレは初心者に集中した特殊な欠陥ではなく、能力の高低にかかわらず広く薄く存在する傾向だという見立てだ。

この見立てが正しいなら、没頭度スコアについても同じ構図が疑われる。「慣れてくれば自分の没頭具合を正確に申告できるようになる」という期待には、根拠が乏しい。ベテランの陶芸家も、始めたばかりの人と同じように、自分がどれだけ没入していたかを、後から作られた物語で埋めている可能性がある。年季が自己認識の精度を保証するわけではない、というのは、思っていたより一段階意地の悪い結論である。

もっとも、ダニング=クルーガー効果をめぐる論争自体、まだ決着がついたわけではない。ギニャックとザイェンコフスキの分析に対しては、能力の測り方や自己評価の尺度化の仕方によって結果が変わり得るという再反論も出ている。ここで確定した事実として扱いたいのは、「効果は存在しない」ということではなく、「不慣れな人ほど極端に見誤り、経験を積めば見誤らなくなる、という単純な物語は、少なくとも当初考えられていたほど強固な裏付けを持っていない」という、もう少し慎重な言い方のほうだ。趣味の世界に置き換えれば、初心者向けの注意書きとしてよく見る「最初のうちは自分の実力や没頭度を過信しがちなので注意」という助言は、暗に「経験者は大丈夫」という前提を含んでいるが、その前提自体が揺らいでいるということになる。

数字が悪いのではなく、数字が語らないことがある

ここまでの話を積み重ねると、没頭度表示という仕組みそのものを断罪したくなるかもしれないが、それは行き過ぎだと思う。行動ログには行動ログなりの、自己申告には自己申告なりの、限定された用途がある。ただ、それらを合成して「没頭度:非常に高い」という一枚のラベルにした瞬間、その中身——どのタイミングで、何を根拠に、誰の判断で数字が決まったのか——が見えなくなる。見えなくなった時点で、そのラベルは体験の記録というより、アプリ側の設計判断の産物に近づいていく。

アプリの開発側にも、単純化に踏み切る動機はある。継続率やエンゲージメントを高めたいサービスにとって、「今日はよくわからないけれど、なんとなく続けている」という曖昧な状態よりも、「没頭度:非常に高い」という明快な達成表示のほうが、利用者を次のセッションへ呼び戻す力が強い。数字が測定の精度を追求した結果ではなく、継続を後押しする設計の結果として選ばれている可能性は、十分に考えておく価値がある。悪意があるという話ではない——測定の不確かさと、行動を促す仕掛けとしての有効性は、そもそも別の評価軸で最適化されているというだけのことだ。

この編集部が公開している趣味診断も、似た種類の危うさと無縁ではない。あの診断は、6つの質問への回答を三つの傾向に振り分けて多い傾向を表示するだけの、単純な集計ツールであり、AIによる分析でも、利用者の内面を読み取る仕組みでもない。それでも、「診断」という言葉を使う以上、実際よりも精緻な内部プロセスを想像させてしまう危険は残る。数字やラベルを提示する側は、その簡潔さがどれだけの単純化の上に成り立っているかを、常に自分に問い直す必要がある——それは診断ツールでも、没頭度スコアでも変わらない。

測れないものを、測ったことにしない

「没頭度:非常に高い」という表示を見て確かに言えるのは、その趣味に取り組んだ時間のうちのどこかで、ピークと呼べる瞬間があったか、あるいは終わり方が悪くなかったか、その程度のことでしかないのかもしれない。それは体験の実相を要約したものではなく、限られた材料から作られた、ひとつの推測に過ぎない。

だからといって、その数字を今すぐアプリから消せという話にはならない。人はもともと、自分の内側で何が起きたかを、完全な精度で語れる生き物ではない。数字やラベルは、その不完全さを埋め合わせる道具として、それなりに便利ではある。ただ、便利さと正確さは別の軸にある。

むしろ落ち着いて考えると、私たちが本当に知りたいのは「アプリが何点をつけたか」ではなく、「また明日もやりたいと思えるかどうか」に近い。この二つは重なることもあれば、まったく重ならないこともある。没頭度が非常に高いと表示された日の帰り道に、うっすらとした徒労感だけが残っていて、逆に平凡なスコアしかつかなかった日のほうが、ふとした瞬間に「また触りたい」と思い出すことがある。数字が教えてくれないのは、まさにこの後者の感覚——測定のタイミングにも、質問の言い回しにも依存しない、もう少し長い時間をかけてしか姿を現さない実感のほうだ。趣味を選ぶ基準として「没頭度が高いと表示された」という事実に頼るとき、頼っているのはその趣味の性質そのものではなく、測定の設計者が採用した近似の仕方だという自覚だけは、手放さずにいたい。

出典

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