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「没頭度:非常に高い」の内訳を疑う

「没頭度:非常に高い」の内訳を疑う

すり替えた顔写真に、その場で気づかれたのは354回のうち46回。多くの場面で、参加者は選んでいない写真の理由をよどみなく語った。没頭度スコアが何を測るかを、自己申告と行動ログの限界から読み直す。

TOMOAKI··趣味

趣味系のアプリやプラットフォームを開くと、セッションの終わりに小さな数字や言葉が表示されることがある。たとえば「没頭度:非常に高い」「集中スコア:87」「今日のフロー度:深い」。読書、運動、瞑想と、どんな趣味の記録アプリにも置けそうな表示だ。この記事で扱うのは、特定のアプリではなく、こうした表示の一般的な作りである。どれも似た体裁を取る——数値かラベルがひとつ示され、それがあたかも自分の内側で何が起きていたかを客観的に教えてくれているかのように振る舞う。

この表示を疑ってみたい。疑うといっても、企業が数字を捏造しているという話ではない。もっと地味な問題で、「その数字がそもそも何を測っているのか」が、はっきりしないまま流通していることがあるという話だ。

たとえば、運動後に示される「頑張り度」のようなスコア、学習アプリの「継続の質」のような表示、瞑想アプリの終了画面に出る深さのゲージ。こうした表示を思い浮かべると、見た目こそ違うが、構造は共通している。ユーザーはその数字を見て、自分がどれだけその活動に入り込めていたかを判断材料として受け取る。良い数字が出れば続ける動機になり、悪い数字が出れば「今日はいまいちだった」という自己評価が上書きされる。数字が先に立ち、体感がそれに合わせて再構成される、という順番の逆転すら起こり得る。

こうした表示に対する率直な反応は、たいてい二つに分かれる。ひとつは、数字が出ている以上、それなりの根拠があるはずだという素朴な信頼。もうひとつは、しょせんアプリの演出だろうという、これまた根拠の薄い一蹴だ。どちらも、実際に何が測られているのかを確かめる手間を省いている点では変わらない。ここでは、その手間を惜しまずに、心理学がこれまで積み重ねてきた自己報告と内観の研究に照らして、この表示の内側を一段ずつめくってみたい。

行動ログなのか、自己申告なのか

没頭度や集中スコアの類は、大きく分けて二種類の材料からできている。ひとつは行動ログ——セッションの継続時間、画面のタップ間隔、途中で他のアプリに切り替えた回数、心拍数や皮膚電気反応のような生体データ。もうひとつは自己申告——セッションの直後に出てくる「今回はどのくらい集中できましたか」という質問への回答だ。

厄介なのは、この二つが混ぜ合わされ、どちらが土台になっているのかが示されないまま、ひとつの数字やラベルとして出力される場合があることだ。行動ログだけなら、それは「アプリを閉じずにいた時間」の代理指標であって、内側で何を感じていたかとは別の話のはずだ。ぼんやり画面を眺めながら別のことを考えていた30分も、記録の上では「継続時間30分」として同じように積み上がる。逆に自己申告だけなら、それは記憶に基づく事後の判断であって、体験そのものの記録ではない。この二つを一本の数字に押し込めた瞬間、どちらの限界も見えなくなる。

利用規約やヘルプページの隅に、算出方法の説明が載っていることもあるだろう。ただ、載っていたとしても、たとえば「利用時間や操作パターンをもとに独自のアルゴリズムで算出しています」程度の記述にとどまっていれば、行動ログと自己申告のどちらに重心を置いているのか、後者を含む場合はどの設問の回答をどう重みづけているのかは分からない。利用者からすれば、算出根拠が見えない数字を、見えないまま信じるか、見えないまま無視するかの二択を迫られているのに近い。

直後に聞かれても、答えは体験をそのまま映さない

百歩譲って、自己申告のほうを見てみる。セッション終了直後に「どのくらい没頭しましたか」と聞かれれば、少なくともそのときの実感には即しているはずだと考えたくなる。ところが、心理学者のダニエル・カーネマン(のちにノーベル経済学賞を受けた)と医師のドナルド・レデルマイヤーが1996年に発表した研究は、この期待をくじく結果を残している。大腸内視鏡検査を受ける患者154人と、結石を砕く治療を受ける患者133人に、処置中の痛みを一定間隔で記録させ、終了後に「痛みの総量」を振り返らせた。事後の評価は、処置の長さとは関係が薄く、最も痛かった瞬間の強さと、最後の3分間の強さによく相関した。長い処置が、とくに嫌なものとして記憶されることもなかった。

この観察が偶然の一致ではなく、本当に事後評価を左右しているのかを確かめるため、レデルマイヤーは2003年、ジョエル・カッツ、カーネマンとともに682人の患者を対象とした無作為化試験をおこなった。半数の患者には、検査の最後に、内視鏡の先端を最大3分ほど動かさずにとどめた。痛みは軽いが、検査はそのぶん長くなる(平均の時間差は約1分だった)。この群は、検査全体を振り返った不快さの評価が平均で1割ほど低く、ほかの不快な体験と並べたときの順位でも、嫌さが小さかった。その後に再び検査を受けた割合は、延長した群で53%、しなかった群で48%だった。単純な比較では差がはっきりせず、既往などを統計的にそろえると、わずかに有意になった。操作したのは「終わり」だけだが、終わりをましにすると全体の評価が変わる、という向きは、1996年の観察と合っている。

これはpeak-end rule(ピーク・エンドの法則)と呼ばれ、体験の長さそのものへの感度が乏しいこと(duration neglect、持続時間の無視)とセットで報告されている。冷水の実験(カーネマンら、1993年)は、その極端な形を見せる。14℃の水に60秒手を浸す試行と、同じ60秒のあとに30秒かけて少しだけ水温を上げる試行を経験させ、もう一度やるならどちらにするかを聞くと、32人中22人(69%)が、30秒長いほうを選んだ。痛みの総量は増えているのに、終わりがましなほうが選ばれたのである。

ただし、これで話が決まるわけではない。2003年の682人のデータでは、事後の評価と最も強く相関していたのは平均の痛み(r=0.56)で、ピーク(0.44)や最後(0.33)より高かった。ピークと終わりがすべてを決めるのではなく、平均も効いている。平均が効いているとしても、趣味のセッションに置き換えれば、序盤の20分がうまくいかず苛立っていても、終盤の5分だけ調子が戻れば、「今日は集中できた」と答える側に少し振れるかもしれない。没頭度のスコアが自己申告に依存しているなら、それが映しているのは体験全体の平均だけでなく、ピークや終わり際の重みづけも混じった何か、ということになる。

しかも、このずれは、本人にはずれとして感じられないのかもしれない。大腸内視鏡の実験で不快さを低く評価した患者は、嘘をついたわけでも、記憶力が悪いわけでもなかっただろう。むしろ誠実に、そのとき思い出せる範囲で答えていたと考えるのが自然だ。没頭度アプリのアンケートに答えるときも同じで、「今日はよく集中できた」という回答は、終わり方の良さの影響を受けているかもしれず、セッション全体の質をそのまま代表する数字とは限らない。アプリの側がこの区別をしないまま「集中スコア:87」と表示すれば、体験の一部の影響が全体の評価に混ざっていても、本人には見分けにくいかもしれない。

では行動ログがあれば足りるのか

ここで「だったら自己申告をやめて、行動ログだけ見ればいい」と考えたくなる。たしかにログは、記憶に頼らないぶん、記憶の歪みからは自由だ。ただ、話はそう単純ではない。まず、自己申告がどこまでずれるかを、ログを基準にして測った研究を見ておく。「自分がどれだけの時間、その活動に費やしたか」という一見客観的な事実でさえ、申告と実測は食い違う。

ポルトガルの研究者ら(ユディセら)が2023年に発表した調査は、成人のスマートフォン利用時間について、自己申告と端末の実測を突き合わせている。参加者は平均25歳ほどの成人で、過去7日間の1日あたりの利用時間を答え、端末のスクリーンタイム機能の数字を書き写した。ロックダウン前に調べた65人では、申告と実測の差は1日20分ほどで、偶然の範囲を出なかった。ロックダウン中に調べた別の146人では、申告が実測より1日平均で約71分短かった。

この2群は、同じ人を前後で追ったものではなく、別々の人たちの比較なので、ロックダウンで差が開いたとまでは言えない。ロックダウン中の群の内側では、使う時間が長い人ほど過小申告も大きかった。私たちが自分の行動を振り返るとき、時間の長さそのものを計測しているのではなく、「だいたいこれくらいだろう」という印象で答えているのだとすれば、長く使うほど見積もりの誤差が大きくなることとは辻褄が合う。ただし、これは読み方の一つにすぎない。後の節で見るように、こうした偏りの形は、統計の性質(平均への回帰)で説明できる場合もあり、この調査にどこまで当てはまるかは、ここでは決められない。

ずれ方は、一方向とも限らない。47の研究をまとめたメタ分析(パリーら、2021年)によれば、デジタルメディアの利用時間の自己申告と実測ログの相関はr=0.38にとどまり、申告の平均値が実測の±5%に収まった比較は、49のうち3つだけだった。過大に申告した比較と過小に申告した比較は、どちらも23ずつで、方向もそろっていない。単独の研究の「過小申告」を、そのまま一般化することもできない。

これが意味するのは、「どれだけの時間その活動をしていたか」という、内観も要らないはずの単純な事実でさえ、記憶に基づいて答えさせるとずれることがある、ということだ。没頭度という、時間よりもさらに主観的な尺度を自己申告に頼るなら、その不確かさは時間の申告よりも大きくなりうる。小さくなると考える理由は、さしあたり見当たらない。かといって行動ログだけを使えば解決するというものでもない——行動ログが拾えるのは「アプリが開いていた時間」であって、「意識がそこにあった時間」ではない。ランダムなタイミングでスマートフォンから、今していることと心の在りかを尋ねた大規模な調査(キリングスワースとギルバート、2010年)では、2,250人から集めた回答の46.9%で、心が目の前の活動から離れていた。この調査もその場での自己申告だが、後から思い出させる方式ではない。画面を開いていた時間は、意識がそこにあった時間の代わりにはならない。両方とも、それぞれ別の理由で、知りたいものの代理でしかない。

内観という装置そのものへの疑い

ここまでは測定のタイミングや方法の話だったが、もう一段階根本的な問題がある。そもそも人は、自分の内側で起きていることに、思っているほど直接アクセスできていないのではないか、という疑いだ。

心理学者のリチャード・ニスベットとティモシー・ウィルソンが1977年に発表した論文は、この論点の古典として引用され続けている。自分の判断や行動に実際に影響した要因を参加者に説明させると、その説明の中に実際の要因がほとんど登場しない、という事例を、彼らは多くの実験から集めてまとめた。たとえば、実際には同じ品だった4足のストッキングを並べて、品質のよいものを選ばせた実験(52人)では、右端に置かれた品が、左端の品の4倍近く選ばれた。ところが、理由に位置を挙げた人は一人もおらず、位置の影響を直接尋ねると、ほぼ全員が否定した。ニスベットらは、参加者は自分の内側を直接読んでいるのではなく、暗黙の因果理論、つまり「それらしさ」の判断に基づいて理由を答えているのだと論じた。

これをアプリの質問画面に当てはめると、少し不安になる。「今日はなぜ没頭できたと思いますか」「どのくらい深く入り込めましたか」という問いに対して、私たちが答えているのは、自分の内側にある「没頭メーター」を読み上げているのではなく、その場でもっともらしい物語を組み立てているだけかもしれない、ということになるからだ。しかもその物語は、直前の設問の言い回しや、画面に表示された選択肢の幅によっても揺れうる。内観が不確かだという指摘は、別に「人は嘘をつく」という話ではない。むしろ逆で、誠実に答えようとしてもなお、参照すべき確かな内部記録が存在しない、という話である。

ニスベットとウィルソン自身、内観がもっともらしさの判断にすぎないことは、答えている本人にはまったく感じられない、と書いている。感じられないからこそ、確信の強さは手がかりにならない。「今日はよく没頭できた」と答えるときの確信は、答えの正確さとは別物である。

選んだはずの理由すら、後から作られる

この種の確信のもろさをさらに極端な形で見せつけたのが、選択盲(choice blindness)と呼ばれる一連の実験だ。心理学者のペター・ヨハンソンらが2005年に発表した研究では、120人の参加者に、女性の顔写真を二枚ずつ見せ、より魅力的だと思うほうを選ばせた。実験者は手品のカードすり替えの要領で、参加者が選んだのとは逆の写真をこっそり手渡し、その写真を見ながら「なぜそちらを選んだのか」を説明させる。すり替えは一部の組でおこなわれ、合計354回のうち、その場で気づかれたのは46回、13%にとどまった。事後の面接で気づいたと答えた分を合わせても、26%を超えなかった。互いにほとんど似ていない顔の組でも、気づかれる割合は変わらなかった。残りの大半で、参加者は自分が選んでもいない写真について、もっともらしい選択理由をよどみなく語った。

ここで見落とせないのは、すり替えられた写真について語られた理由が、本当に選んだ写真について語られた理由と、確信の強さも、細かさも、感情の込め方も変わらなかったことだ。起きているのは、単なる見落としではない。参加者は、実際には選んでいない結果を「自分が選んだもの」として受け入れたうえで、その理由まで即興で作り上げている。没頭度の自己申告に置き換えれば、アプリが「今日のあなたは没頭度が高かったようです」と先に提示してしまえば、利用者はその判定を出発点にして、「そういえば集中していた気がする」という理由を後から探し始める危険がある。判定が先にあり、実感が後からそれに合わせて組み立てられるとしたら、自己申告はもはや検証ではなく、追認の儀式に近づく。

記憶の歪みを避ける工夫と、その限界

この不確かさは、心理学の研究方法にも影響を与えている。ミハイ・チクセントミハイらが1970年代から使ってきた経験サンプリング法(Experience Sampling Method、ESM)は、この問題を避けるために使われてきた手法の一つだ。参加者にポケベルや端末で、日に何度もランダムなタイミングで信号を送り、「今、何をしていて、何を感じているか」をその場で短く記録させる。後から振り返って答えさせる調査には記憶の歪みがつきまとうから、体験の最中にできるだけ近いタイミングで記録を取ろう、という発想である。1987年には、チクセントミハイとリード・ラーソンが、この手法の信頼性と妥当性を検討した論文をまとめている。ただし、その場で聞く申告でも、内観そのものの限界は残る。

ただし、ESMを使えばすべて解決するわけでもない。2024年にドイツと米国の研究者らが発表した研究(バルトロマイチクら)は、学生を中心とする38人に、3日間はランダムな瞬間に「今」の体験を、別の3日間は2時間ごとに「この2時間」の体験を答えてもらい、日常のフロー体験を二つの聞き方で比べた。フローの強さは、どちらの聞き方でもほぼ同じだった。ところが、「フローがあったか」と有無を聞くと、2時間の振り返りのほうが「あった」と答える割合がはっきり高く、モデルの推定で66%と46%だった。強さは揃い、有無は揃わない。2時間の振り返りと瞬間の記録とでは、有無の割合が同じにならなかった。

瞬間の抽出がまれな没頭を取りこぼしたのか、振り返るときに「仕事中ならあったはずだ」という思い込みが入ったのか。著者らは前者を主な説明としつつ、後者の可能性も排除していない。どちらの聞き方が正しく、もう一方が誤りだ、という話でもなさそうだ。何を聞くか(強さか、有無か)、どれだけの幅を振り返らせるかで、答えが変わる。アプリの没頭度スコアが、どの聞き方に近い数字なのかを明かさないまま一つの値として示されるとき、その値を「本当の没頭度」と呼ぶには、足りないものがある。ただし、これは38人の探索的な研究で、この結果から「正しい没頭度は存在しない」とまで言うことはできない。

「不慣れな人ほど自分を見誤る」という通説も、思ったほど確かではない

ここでもう一つ、よくある補助線を疑っておきたい。「自分の実力や没頭度を正しく測れないのは、その趣味に不慣れな初心者に特有の問題で、経験を積めば自己評価も正確になる」という考え方だ。いわゆるダニング=クルーガー効果(1999年にクルーガーとダニングが報告した)——能力の低い人ほど自分を過大評価し、能力の高い人はむしろ謙虚になる、という語られ方をする現象——は、この考え方を後押しする形でよく引用される。

ところが、この効果の解釈をめぐって、近年は反論が積み重なっている。心理学者のジル・ジニャックとマルチン・ザイェンコフスキが2020年に発表した分析は、929人の成人に知能検査を受けさせ、自分の得点の見積もりと突き合わせた。能力の低い群ほど過大評価の幅が大きい、というおなじみの形は、このデータにも現れた。だが、見積もりの外れ方のばらつきを能力の水準ごとに調べると、低い群で特に大きいわけではなかった(相関はr=−0.05で、有意でない)。否定されたのは、「能力の低い人ほど、自己評価の精度が悪い」という部分で、通説の形そのものではない。著者らは、この形は、自分を平均より上と見積もりがちな傾向(平均以上効果)と、極端な得点ほど平均に寄って見える統計の性質(平均への回帰)で説明でき、ほぼ統計的な人工物だと論じている。

この研究が扱ったのは知能の見積もりで、趣味の技能や没頭の申告ではないから、以下は類推にとどまる。その上で、この見立てが正しいなら、没頭度スコアについても同じ構図が疑われる。「慣れてくれば自分の没頭具合を正確に申告できるようになる」という期待は、少なくとも確かめられていない。ベテランの陶芸家も、始めたばかりの人と同じように、自分がどれだけ没入していたかを、後から作られた物語で埋めている可能性がある。年季が自己認識の精度を保証するわけではない、というのは、思っていたより一段階意地の悪い見立てである。

もっとも、ダニング=クルーガー効果をめぐる論争自体、まだ決着がついたわけではない。約1万4千人の米国の調査データで同じ検定をやり直したダンケルらの研究(2023年)では、能力の低い人ほど見積もりの精度が悪い、という傾向は、統計的には有意だった。ただし大きさはr=−0.07と極めて小さい。ここで言えるのは、「効果は存在しない」ということではなく、「不慣れな人ほど極端に見誤り、経験を積めば見誤らなくなる、という単純な物語は、少なくとも当初考えられていたほど強固な裏付けを持っていない」という、もう少し慎重な言い方のほうだ。趣味の世界に置き換えれば、初心者向けの注意書きにありそうな「最初のうちは自分の実力や没頭度を過信しがちなので注意」という助言は、暗に「経験者は大丈夫」という前提を含んでいるが、その前提自体が揺らいでいるということになる。

数字が悪いのではなく、数字が語らないことがある

ここまでの話を積み重ねると、没頭度表示という仕組みそのものを断罪したくなるかもしれないが、それは行き過ぎだと思う。行動ログには行動ログなりの、自己申告には自己申告なりの、限定された用途がある。ただ、それらを合成して「没頭度:非常に高い」という一枚のラベルにした瞬間、その中身——どのタイミングで、何を根拠に、誰の判断で数字が決まったのか——が見えなくなる。見えなくなった時点で、そのラベルは体験の記録というより、アプリ側の設計判断の産物に近づいていく。

アプリの開発側にも、単純化に踏み切る動機はある。継続率やエンゲージメントを高めたいサービスにとって、「今日はよくわからないけれど、なんとなく続けている」という曖昧な状態よりも、「没頭度:非常に高い」という明快な達成表示のほうが、利用者を次のセッションへ呼び戻しやすい、と考えたくなるのは自然だ。数字が測定の精度を追求した結果ではなく、継続を後押しする設計の結果として選ばれている可能性は、十分に考えておく価値がある。悪意があるという話ではない——測定の不確かさと、行動を促す仕掛けとしての有効性は、そもそも別の評価軸で最適化されているというだけのことだ。

このサイトで公開している趣味診断も、似た種類の危うさと無縁ではない。あの診断は、6つの質問への回答を三つの傾向に振り分けて多い傾向を表示するだけの、単純な集計ツールであり、AIによる分析でも、利用者の内面を読み取る仕組みでもない。それでも、「診断」という言葉を使う以上、実際よりも精緻な内部プロセスを想像させてしまう危険は残る。数字やラベルを提示する側は、その簡潔さがどれだけの単純化の上に成り立っているかを、常に自分に問い直す必要がある——それは診断ツールでも、没頭度スコアでも変わらない。

数字を、体験そのものと取り違えない

「没頭度:非常に高い」という表示を見て確かに言えるのは、それが、限られた材料から作られた一つの推測だ、ということくらいかもしれない。自己申告を含むなら、終わり方の影響を受けることがあり、聞き方によっても答えが変わりうる。体験全体を忠実に写し取ったものとは言えない。

だからといって、その数字を今すぐアプリから消せという話にはならない。人はもともと、自分の内側で何が起きたかを、完全な精度で語れる生き物ではない。数字やラベルは、その不完全さを埋め合わせる道具として、それなりに便利ではある。ただ、便利さと正確さは別の軸にある。

むしろ落ち着いて考えると、私たちが本当に知りたいのは「アプリが何点をつけたか」ではなく、「また明日もやりたいと思えるかどうか」に近いのではないか。この二つは重なることもあれば、まったく重ならないこともある。たとえば、没頭度が非常に高いと表示された日の帰り道に、うっすらとした徒労感だけが残り、逆に平凡なスコアしかつかなかった日のほうが、ふとした瞬間に「また触りたい」と思い出す、ということも、ありうる。数字が教えてくれないのは、この後者の感覚のほうだ。ただし、「また触りたい」という実感も、思い出すときの終わり方や聞かれ方で動きうる。冷水の実験で、どちらの試行をもう一度やるかの選択が終わり方で動いたことを思い出してもよい。どの感覚を基準にするのが正しいのかは、数字にも、この記事にも決められない。趣味を選ぶ基準として「没頭度が高いと表示された」という事実に頼るとき、頼っているのはその趣味の性質そのものではなく、測定の設計者が採用した近似の仕方だという自覚だけは、手放さずにいたい。

出典

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