ficus.life/趣味
目次
電波の届かない温泉宿を、あえて選ぶ理由

電波の届かない温泉宿を、あえて選ぶ理由

「不便だから」ではなく「不便だから行く」。圏外の温泉地に惹かれる理由を、注意回復理論という言葉を借りながら、疑いつつ考えてみる。

TOMOAKI··趣味

温泉地を選ぶとき、いつからか「電波が入るかどうか」を気にしなくなった。むしろ、圏外だと聞くと少し安心する。乗り継ぎが多く、最寄り駅からもバスで一時間かかるような場所ほど、行ってみたくなる。効率を考えれば明らかに非合理な選び方だが、なぜそれを心地よく感じるのかを、一度きちんと考えてみたことがなかった。

遠さが情報をふるいにかける

移動時間が長くなるほど、日常の些末な心配事はどうでもよく感じられていく。締め切りの焦りも、返信していないメッセージも、車窓の外の景色が変わっていくにつれて、少しずつ輪郭がぼやけていく。これは気のせいというより、単純に脳が処理すべき対象を絞り込んでいく過程なのだと思う。特急列車からローカル線に乗り換え、さらに徒歩になる。移動手段が不便になるほど呼吸が深くなっていくのを感じるのは、都市のテンポから自然のテンポへ切り替わるのに、それなりの時間がかかるからなのだろう。早く着きすぎると、体は追いついているのに心の準備だけが整っていない、という妙な感覚になることがある。

圏外という強制的な余白

Wi-Fiがない、電波が届かない。それを不便だと感じるのは、常時つながっていることが当たり前だという前提に、自分がどれだけ慣れているかの裏返しでもある。誰からも連絡が来ない数日間を実際に過ごしてみると、通知に反応する形で使われていた注意力が、行き場をなくして自分の内側に戻ってくる感覚がある。これまで他人の投稿や更新を追うことに使っていた時間が、ふと自分自身への問いに向かう。大げさに言うことでもないが、確かにある変化だ。

注意回復理論という言葉を、少し疑いながら使う

環境心理学に「注意回復理論」という考え方がある。都市での生活は、雑多な情報の中から必要なものを選び取り続ける「意識的な注意」を酷使させ、これは有限のリソースなので、使い果たすと苛立ちや判断力の低下を招く、というものだ。自然の中で過ごすとこの消耗が回復するとされているが、正直なところ、これがどこまで自分の実感を後付けで説明しているだけなのかは判別がつかない。木々の枝分かれや、岩の割れ目、川のせせらぎのように、脳が「意味を読み取る」作業を求められない対象を眺めていると、頭の中が静かになる感じは確かにある。都市の看板や標識のように「解釈しなければならないもの」が視界から消えるだけで、ずいぶん楽になる。それを理論の名前で説明できるのは面白いが、理論が正しいから楽になっているのか、単に休暇だから楽になっているのかは、切り分けようがない。

標高について、正直に書いておく

標高の高い温泉地に惹かれるようになったのも、ここ数年のことだ。気圧が下がると血管が広がりやすくなる、酸素が薄くなると脳が目先の生存以外の処理を後回しにする、という話をいくつか読んだ。将来の不安や過去の後悔が心なしか遠ざかる感覚は確かにあるのだが、それが酸素濃度そのものの効果なのか、旅先という状況全体がもたらす効果なのかは、自分では確かめようがない。眠りが深くて機嫌がいいだけかもしれない、という可能性は常に残しておきたい。

持ち帰れるものは、たぶん少ない

秘境で得た静けさを、そのまま日常に持ち帰れると思うほど楽観的にはなれない。都市に戻れば数日でまた元のリズムに引き戻される。それでも、スマートフォンを別の部屋に置いて過ごす十五分を毎日のどこかに作っておくとか、三か月に一度くらいは同じような場所へ戻る予定を先に決めておくとか、そのくらいのことはしている。大きな変化を期待するというより、たまにこういう時間を挟んでおかないと、自分が何にどれだけ気を取られていたかにさえ気づけなくなる、という程度の話だ。

不便な場所を選ぶことに、たいした理屈は要らないのかもしれない。ただ、電波が届かない数日間があると、届いていたはずの情報の量に、初めて気づく。