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Vol.01:壊れたものを、すぐに買い替えなかった話

Vol.01:壊れたものを、すぐに買い替えなかった話

接着剤で密閉され、分解を拒む製品が増えている。修理をめぐる連載の最初に、なぜ自分で直してみたくなるのかを考えてみる。

TOMOAKI··修理する権利

買ったものが壊れたとき、直すか、買い替えるか。今はほとんど後者しか選択肢がないように作られている製品が多い気がする。接着剤で密閉されたケース、専用工具でしか開けられないネジ、分解した瞬間に保証が切れる警告シール。中を見せない設計は、たぶん意図的にそうなっている。

「計画的陳腐化」という言葉がある。製品に意図的な寿命を組み込む発想のことで、これがどこまで実際の設計方針として存在するのかは企業ごとに濃淡があるだろうし、都市伝説として語られている面もあるかもしれない。ただ、少なくとも「壊れたら買い替える」ことが前提になっている製品が増えているという実感自体は、うそではない気がする。

数年前、ぐらついた椅子の脚を自分で直してみたことがある。特別な動機はなく、捨てるにはまだ惜しいと思っただけだった。木ねじを抜いて緩んだ接合部を見て、思っていたより単純な作りだったことに拍子抜けした。同時に、これくらいのことも自分では確かめずに、壊れたら買い替えるものだと思い込んでいたことに、少し驚いた。

直すことは、何かを取り戻す行為なのか

修理について書かれた文章を読むと、「主権を取り戻す」というような大きな言葉が使われていることがある。自分でも一時期そう書きたくなったことがある。ただ、椅子のねじを締め直しただけで、主権も何も取り戻していないというのが正直なところだと思う。起きたのはもっと小さなことで、その製品がどういう論理で組み立てられているかを、少しだけ知ったというだけだ。

それでも、知ってしまうと物との距離は変わる。壊れたときに感じる不安の一部は、中がどうなっているか分からないことから来ているのだと思う。ネジを一本外して構造を確かめるだけで、その不安がいくらか小さくなる。仰々しい話ではなく、単に見慣れない箱の中身を見た、というだけのことなのだろう。

この先、書いていくこと

これから何回かに分けて、身の回りのものを直したり分解したり、手を入れたりした話を書いていくつもりでいる。デニムの継ぎ当て、がたついた家具、古いガジェットの中身、スピーカーの音の出し方。どれも大げさな技術の話ではなく、一度ちゃんと見てみたら思っていたより単純だった、という記録になる予定だ。

直したところで、その製品の寿命が劇的に伸びるとは限らない。それでも、壊れたら買い替えるという選択肢しか持たずに生活するより、中を見てから決める方が、少なくとも自分にとっては納得しやすい。