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分解できないモノを、所有と呼んでいいのか
1932年、恐慌対策として政府が全製品に法律で「寿命」を割り当てるという案が真剣に検討された。中を開けられない今の製品は、その発想からどれだけ遠いのか。
ケトルの中身を、誰も見せてくれない
電気ケトルが、ある日突然お湯を沸かさなくなった。スイッチを入れると赤いランプはつくのに、いつまで待っても熱くならない。サポートセンターに電話すると型番を尋ねられ、少しの沈黙のあと「修理対応は終了しております、後継機種をご案内できます」と言われた。壊れているのはおそらく数百円の発熱体か、温度を感知するサーモスタットのどちらかだ。中を見たわけではないから確信はないが、ケトルという道具の構造として、壊れる場所はそう多くない。それでも返ってくるのは「見せられない」という答えだけだった。修理よりも新品を売るほうが利益率が高いのだから、企業の側からすれば筋の通った判断ではある。腹が立つというより、拍子抜けした。
代金を払い、棚に置き、毎朝使ってきたのだから、これは自分のものだと思っていた。しかし中身を知らず、直す手立ても与えられないまま持ち続けることを、はたして「持っている」と呼んでいいのか。答えの出ない問いを抱えたまま、私はそのケトルを可燃ごみの日まで居間の隅に置いておいた。
「寿命」を法律で決めようとした男がいた
1932年、大恐慌のさなかに、アメリカの不動産業者バーナード・ロンドンがある小冊子を自費出版している。タイトルは「計画的旧式化によって恐慌を終わらせる」。中身はもっと過激だ——政府があらゆる工業製品にあらかじめ法律で「寿命」を割り当て、期限が来た製品は「法的に死亡」したものとして強制的に回収・廃棄する。当時、人々は古い車も古いラジオも古い服も、統計が想定していたよりずっと長く使い続けており、それが不況を長引かせているというのがロンドンの理屈だった。この提案自体は実現しなかったが、「計画的旧式化(planned obsolescence)」という言葉は、この小冊子を起点に広まったとされている。
今、開封さえ想定されていないバッテリー内蔵機器を見ていると、ロンドンの構想は形を変えて実現しているようにも見える。ただし正確には、法律で決められたわけではない。接着剤の量、専用ネジの規格、部品供給を打ち切るタイミングといった無数の小さな設計判断の積み重ねが、法律なしに同じ機能を果たしている。誰も「この製品は何年で死ぬ」と宣言していないのに、結果としてほぼ同じことが起きている——その方が、法律で決めるより始末が悪いのかもしれない。責任の所在がどこにもないからだ。

「直せる」は、意志ではなく制度の問題だった
この状況への反動もある。iFixitというアメリカの修理コミュニティは、2011年から製品の分解しやすさを0から10で採点してきた。ネジか接着剤か、バッテリーは単体で交換できるか、分解にかかる時間はどれくらいか——採点は個人の感想ではなく、分解の手順を時間に換算した、かなり機械的な基準にもとづいている。フランスは2021年1月から、洗濯機・スマートフォン・ノートパソコンなどに「修理可能性指数」の表示を法律で義務づけた。10点満点で、店頭では価格の隣に貼られる。EUは2025年6月から、スマートフォンとタブレットについて、バッテリーが800回の充電サイクルを経ても初期容量の80%を維持すること、販売終了後7年間は5日から10日以内に交換部品を供給すること、部品の組み合わせをソフトウェアで固定しないことなどを製造者に義務づけた。欧州委員会の試算では、この規制だけで2030年までに消費者は200億ユーロを節約できるという。数字だけ見れば景気のいい話だが、裏を返せば、それだけの金額がこれまで「直せないこと」を通じて企業側に流れ続けていた、ということでもある。
ここで一度、立ち止まりたい。分解し、直し、部品表を読み込む——そういう行為を、私は最初、個人の意志や趣味の話として語りたくなっていた。だが実際に修理可能性を担保しているのは、大半が個人の根気ではなく、規制と表示義務という制度の力だ。iFixitのスコアも、フランスの指数も、EUの規則も、メーカーが自主的に用意したものではない。放っておけば提供されなかったはずのものを、外部からの採点や法律の力で引き出している。「直せる」という状態は、精神論で獲得するものというより、誰かが制度として要求し続けた結果としてようやく存在する、かなり脆いものらしい。
知っていることと、開けることは別だ
もっとも、修理可能性指数が高い製品ほど実際に修理されているかというと、そう単純でもない。iFixitのスコアはあくまで分解にかかる時間や手間を測ったものであり、それを見た所有者が実際にドライバーを手に取るかどうかは、また別の話だ。私自身、あのケトルの型番を検索すれば分解手順くらいは出てきたかもしれないのに、結局ごみの日を待った。中を見られる可能性があることと、実際に見ることのあいだには、思っていたより距離がある。知人にドライバー一本でノートパソコンのバッテリーを毎年自分で交換している人がいるが、彼のような人はどちらかというと少数派で、大半の人にとって修理可能性指数は、実際に使う情報というより「もしものときの逃げ道がある」という安心材料として機能しているように見える。

だとすれば、構造を把握していることの価値は、「実際に直せる」ことそのものより、「直せるかもしれないと知っている」という保険に近いのかもしれない。壊れたときに為す術がないという状態と、為す術はあるが今回は選ばなかったという状態は、結果としては同じ廃棄でも、心理的にはまったく違う場所に立っている。後者には少なくとも、自分で下した判断だという実感が残る。
ただし、これも無条件に喜べる話ではない。身の回りのすべてのモノの構造を把握しておくことは、それ自体がひとつの労働だ。ケトルの発熱体も、椅子の接合部も、スマートフォンのバッテリーも、家じゅうすべてを「透明化」しておくという理想を本気で追いかければ、それは新しい種類の疲労を生むだろう。何かを知らないままにしておく自由——中を見ないと決める自由も、構造への理解を追い求める自由と同じくらい、正当な選択のはずだ。すべてを把握している人間になることが目標なら、その先にあるのは達成感ではなく、際限のない点検リストだろう。
直せることは、誰にでも平等ではない
ただ、ここまでの話には抜け落ちている前提がある。分解し、部品表を読み、必要な工具を揃え、実際にドライバーを握る——それができるのは、時間と、多少の失敗を許容できる余裕がある人に限られる。忙しい人にとっては、修理に費やす数時間より、新しいケトルを買いに行く数十分の方が、はるかに安い買い物だ。「直せる」という選択肢が制度として用意されたとしても、それを行使できるかどうかは、結局のところ、その人がどれだけ時間を自由に使えるかに左右される。規制が保証できるのは部品と情報へのアクセスまでで、それを使う側の余裕までは保証してくれない。
だから、修理可能性指数の高さを誇らしげに語る自分自身にも、少し距離を置いておきたい。分解を楽しめるのは、失敗しても大きく困らない程度の余裕があるからで、それは美徳というより、単なる条件のよさかもしれない。直せることを個人の見識や意志の勝利として語るのは、居心地はいいが、いくらか都合のいい物語でもある。ロンドンが恐慌下で夢見た「寿命の強制的な管理」も、iFixitやEUが積み上げてきた「修理する権利」も、結局は同じ一つの問いをめぐって回っている——モノの一生を決める力を、誰の手に置くのか、という問いだ。
次に何かを買うとき
それでも、次に何かを買うときに、値札の横にあるかもしれない修理可能性指数や、パーツリストが公開されているかどうかを、一度だけ確かめてみることはできる。確かめたところで、何が変わるのか。単に判断材料がひとつ増えるだけなのか、それとも購入という行為そのものの手触りが変わるのか、それは試してみないとわからない。少なくとも、値段と見た目だけでモノを選んでいたときには存在しなかった問いが、そこに生まれることだけは確かだ。
私は結局、あのケトルの後継機種を買った。新しいケトルの底には、小さなネジが四本見えている。接着剤で固められているよりはましだと思ったが、実際に開けて確かめたわけではない。開けるかどうかは、次に壊れたときに決めればいい話だ。少なくとも今は、その決定権が自分の側にわずかでも残っている、という事実だけで十分な気がしている。
出典
Bernard London, "Ending the Depression Through Planned Obsolescence" (1932)
iFixit, "How iFixit Scores Repairability" / Repairability Scoring Rubric(2011年運用開始)
フランス共和国 法律第2020-105号(循環経済に向けた廃棄物対策法)にもとづく「修理可能性指数」(indice de réparabilité、2021年1月施行)
European Commission, "New EU rules for durable, energy-efficient and repairable smartphones and tablets start applying"(2025年)、および2024年版 Ecodesign Impact Accounting Overview Report
