ficus.life/趣味
目次▼
「趣味を仕事に活かす」という話の、どこまでが本当なのか

「趣味を仕事に活かす」という話の、どこまでが本当なのか

離れた趣味を掛け合わせれば市場価値が上がる、という話をよく見かける。ただ転移の実験では、数分前に読んだ物語ですら、ヒントなしでは15人中3人しか使えなかった。持っていることと、思いつくことは別だった。

TOMOAKI··趣味

「趣味を仕事に活かす」という話を、これまで何度も読んできた。エンジニアが家庭菜園から学んだ発想でシステム設計を変えた話、料理好きのマーケターが写真の技術でブランドを立ち上げた話。どれも面白く読めるし、実際にそういう人がいるのだろうとも思う。ただ、こういう話を読んだ後にいつも残る違和感がある。成功した後だからこそ、趣味と仕事の間に筋の通った物語を描けているだけではないか、という疑いだ。

この疑いを、疑いのまま置いておくこともできた。ただ、掛け合わせという言い方があまりに具体的で、数字めいた響きを持っているので、どこまでが検証された話でどこからが言い回しなのかを分けておきたくなった。

掛け合わせの理屈

「ある分野で上位10パーセントに入るのは、努力すれば十分に狙える。それを2つ、3つ掛け合わせれば、希少性は掛け算で増える」という考え方がある。『ディルバート』の作者スコット・アダムスが唱えたことで知られている。数字の上では筋が通っているように見える。ただ、これが実際に機能するのは、掛け合わせた先に需要がある場合に限られる。サウナに詳しい会計士がいたとして、その組み合わせを面白がってくれる仕事が、たまたま存在するかどうかは、掛け算の外側の話だ。

もう一つ、掛け算という比喩には見落としやすい前提がある。二つの技能が同時に呼び出せる、という前提だ。会計に取り組んでいる最中に、サウナの知識が勝手に立ち上がってくれなければ、それは掛け算ではなく、ただ二つ持っているだけになる。

離れた分野の知識を結びつける発想そのものは、認知科学で「アナロジー的思考」として長く研究されてきた。そして、その研究がいちばんはっきり示しているのは、掛け合わせの効き目ではない。呼び出しの難しさの方である。

掛け算は、独立していることを仮定している

実験の話に入る前に、算術の側を片づけておきたい。上位10パーセントを二つ掛け合わせれば100人に1人、三つで1000人に1人。この計算が成り立つのは、三つの技能が互いに独立している場合に限られる。

ところが現実の技能は、あまり独立していない。プログラミングが得意な人が数学に強い確率は、母集団の平均より高い。写真とデザイン、料理と化学、登山と地図読み。よく挙げられる掛け合わせの例ほど、隣接した領域から選ばれている。隣接しているから思いつきやすく、思いつきやすいから例として挙がる。

隣接していれば、掛け算は成立しない。上位10パーセントどうしでも、重なりが大きければ実際の希少性は100人に1人には遠く届かない。逆に、本当に独立した二つ——会計とサウナのような——を選べば計算は近づくが、今度は前節で見たとおり、独立しているぶん結びつきにくくなる。

つまりこの掛け算には、都合の悪い構造がある。希少性を上げようとして遠い組み合わせを選ぶほど、実際に掛け合わせるのは難しくなる。近い組み合わせを選べば掛け合わせやすいが、そのぶん希少ではない。両方を同時に満たす場所は、思っているほど広くない。

希少性は掛け算だが、時間は足し算である

この理屈がいちばん静かに省略しているのは、コストの側の計算だと思う。

希少性が掛け算で増えるという話は、成果の側だけを見ている。二つの分野で上位10パーセントに入るために必要な時間は、掛け算にはならない。素直に足し算になる。しかも二つの分野は、同じ一週間の中から時間を取り合う。

三つに増やせば1000人に1人、という言い方は、だから見た目ほど気前がよくない。分母は千倍になるが、支払いも三倍になっている。三つ目を足すかどうかを決めるとき、比べるべきは希少性の伸びではなく、三つ目に払う時間と、その時間を一つ目か二つ目にさらに注いだ場合との差の方だ。

そしてここで、前に見た独立性の問題がもう一度効いてくる。時間を取り合わない組み合わせ——たとえば通勤中にできるものと休日にしかできないもの——は選びやすいが、そういう組み合わせは生活の中で分離されている。分離されているということは、並んで見える機会がないということでもある。

掛け算の比喩は、こうした引き算をすべて式の外に置いている。外に置いたまま「努力すれば狙える」と言われると、必要なのは決意だけのように読めてしまう。実際に足りなくなるのは、たいてい決意ではなく週の残り時間である。

「上位10パーセント」は、誰が判定しているのか

もう一つ、この理屈は自己申告の上に立っている。自分がある分野で上位10パーセントに入っているかどうかを、本人が判定している。

これは思ったより難しい。分野の全体像が見えていなければ、自分の位置は測れない。そして分野の全体像が見えるのは、たいてい上位に入ってからである。順序が逆になっている。

実務的には、もっと素朴な形で狂う。趣味として10年続けていれば、周囲の非経験者と比べて明らかに詳しくなる。その比較対象が「周囲」である限り、上位10パーセントという感触は容易に生まれる。だが掛け合わせが値を持つかどうかを決めるのは周囲ではなく、その分野の全体だ。

この見積もりの甘さは、掛け算のたびに増幅される。二つとも10パーセントのつもりで、実際にはどちらも30パーセントだったなら、100人に1人のはずが10人に1人になる。それでもそこそこ珍しいが、希少性を売りにできる水準ではない。

「知っている」と「思いつく」は、別の能力だった

メアリー・ギックとキース・ホリオークが1980年に発表した一連の実験は、この分野で最もよく引かれるものの一つだ。使われたのは、ダンカーの放射線問題という課題である。

患者の体内に手術できない腫瘍がある。強い放射線を当てれば腫瘍は破壊できるが、途中の健康な組織まで焼いてしまう。弱くすれば組織は無事だが、腫瘍も残る。どうするか。

答えは、弱い放射線を複数の方向から当てて、腫瘍の位置で交差させることだ。何もヒントがない状態でこの解にたどり着く人は、実験I・IIを通して10パーセントに満たなかった。

実験の仕掛けはここからである。参加者には事前に、まったく別の物語を読ませてある。ある将軍が要塞を攻略しようとする話だ。全軍を一本道から進ませると仕掛けに引っかかるので、軍を小隊に分け、複数の道から要塞へ同時に到達させる。構造としては、放射線問題の答えと同じものである。

この物語を読ませたうえで「さっき読んだ物語がヒントになるかもしれません」と一言添えると、12人中11人、92パーセントが正解を出した。転移は、確かに起きる。

ヒントを外した瞬間に起きたこと

同じ実験の別条件では、その一言だけを削った。物語は読ませてある。内容も覚えている。ただ「使えるかもしれない」とは言わない。

正解率は、15人中3人、20パーセントまで落ちた。

さらに細かく見ると、事態はもう少し厳しい。この3人のうち2人は部分的な解答にとどまり、しかも本人たちは物語を使おうとは考えなかったと答えている。論文の書き手は、自発的に物語を持ち出せたのは15人のうち1人だった可能性が高い、と書いている。

数分前に読んで、内容を思い出せる状態にある物語ですら、目の前の問題に結びつかない。持っていないのではなく、持っていることに気づかない。これが、アナロジー研究がいちばん一貫して示してきたことだ。

その前に、この実験の規模を見ておく

ここまで数字を並べてきたが、規模には触れていなかった。ヒントありが12人、ヒントなしが15人。合わせて27人である。

92パーセントと20パーセントという開きは、11対1と3対12という実数の言い換えでしかない。数人の増減でパーセントは大きく動く。1980年の研究で、いまの基準からすれば小さい。

この結果がその後どこまで追試されているかは、今回は確認していない。だから「転移は自発的には起きにくい」という方向は信じているが、92対20という比率そのものを、精度のある数値として持ち歩くつもりはない。ここで効いているのは倍率ではなく、ヒントの有無という一点だけで結果が入れ替わったという構造の方だ。

そのうえで、この構造を疑う理由も特に見つからない。自分の経験に照らしても、思いつかなかったことを後から指摘されて「言われてみれば」と思う場面の方が、自力で気づいた場面よりはるかに多い。

この落差が、掛け合わせ論のどこを崩すか

スキルスタックという考え方は、二つの技能を持つところまでを個人の努力の範囲に置いている。上位10パーセントに入るのは努力すれば狙える、という前提の部分だ。そこは、たぶん正しい。

崩れるのはその先である。持っていることと、必要な場面でそれが立ち上がることのあいだに、実験が示したぶんの断絶がある。92パーセントと20パーセントを分けていたのは技能の差ではなく、「使えるかもしれない」という一言があったかどうかだった。

そして仕事の現場で、その一言を言ってくれる人はいない。会計処理をしている自分に向かって「ここはサウナの知識が効きますよ」と教えてくれる役回りは、たいてい存在しない。実験室では実験者が担っていた仕事を、現実では誰も担っていない。

ヒントの正体は、たぶん「並べて見る機会」の方だ

同じ研究には、もう一つ示唆的な条件がある。物語を覚えさせる際に無関係な物語を混ぜなかった場合、ヒントなしでの正解率は43パーセントまで上がった。ただし混ぜた場合との差は統計的に有意ではなく、傾向にとどまる、と論文自身が断っている。

断りつきの数字なので強くは言えないが、方向としては素直に読める。関係のない情報に埋もれているほど、必要なものは見つからない。逆に言えば、二つのものが近くに置かれていれば、結びつく確率は上がる。

だとすると、掛け合わせが起きるかどうかは、個人がどれだけ離れた技能を持っているかより、その二つを並べて眺める機会があるかどうかに寄っていることになる。趣味と仕事が完全に切り離された生活をしていれば、両方をどれだけ深めても、並ぶ瞬間は来ない。

これは、掛け合わせを個人の資質の話として語る言い方に、静かに反論している。問題は組み合わせのセンスではなく、配置の方だ。そして配置は、意志より環境で決まる部分が大きい。

先に物語があるのではないか

柔術を10年続けている人事担当者の話も、釣りが得意なエンジニアの話も、後から振り返れば筋の通った物語になる。けれど、同じように柔術を10年続けていて、仕事には特に何の影響もなかった人事担当者も、同じ数だけいるはずだ。目立つのは前者の方で、後者は誰も記事にしない。

この選択の偏りだけでも、掛け合わせ論の根拠はかなり細くなる。ただ、話はもう一段ある。

バルーク・フィッシュホフが1975年に発表した研究は、結果を知らされた人が、その結果の起こりやすさを事前に高く見積もっていたかのように判断してしまうことを示している。後知恵バイアスと呼ばれるものだ。結果を知ると、そこへ至る道筋が実際より必然に見えてくる。

この研究で厄介なのは、影響の大きさそのものより、参加者がその影響にほとんど気づいていなかったという部分である。自分の判断が結果の知識に染められていることを、内側から検出できない。

つまり、趣味が仕事に効いたと語る人は、嘘をついているわけではない。本人にとって、その道筋は実際に必然に見えている。見えているのに、その見え方自体が結果を知った後で作られたものである、という可能性を、本人は原理的に確かめられない。

二つの偏りは、別々にかかる

整理しておくと、成功譚には二種類の歪みが重なっている。

一つは、語られる事例が成功例に偏っていること。これは外側の問題で、失敗例を集めれば補正できる。もう一つは、成功例の語り手自身が、経路を実際より整った形で思い出していること。これは内側の問題で、本人に問い直しても補正されない。むしろ丁寧に振り返ってもらうほど、物語は整っていく。

後者があるので、「実際に成功した人に聞いてみればいい」という手続きは、思ったほど検証にならない。聞けば聞くほど、掛け合わせは機能したという話が集まる。

では、掛け合わせは嘘なのか

ここまでの流れだと、そういう結論に向かいそうだが、そうはならない。

ギックとホリオークの実験で、ヒントがあった条件の正解率は92パーセントだった。これは、転移そのものは非常によく起きるということでもある。人は離れた領域の構造を持ってくる能力を、確かに持っている。持っていないのは、それを自力で起動する仕組みの方だ。

だから正確な言い方はこうなる。掛け合わせは機能する。ただし条件つきで、しかもその条件は本人の努力の内側にはあまりない。

この違いは、実務的にはそれなりに大きい。掛け合わせを個人の能力として語れば、うまくいかないのは持っている技能が足りないせいになる。条件の話として語れば、足りないのは技能ではなく、二つが並ぶ機会の方だという読み方が出てくる。後者の方が、少なくとも打つ手の見当がつく。

「市場価値」という言葉が引き受けているもの

もう一つ、掛け合わせ論には最初から外側に置かれている変数がある。需要である。

希少性は掛け算で増えるという理屈は正しい。ただ希少であることと、値がつくことは別だ。誰も必要としていない組み合わせは、希少なだけで終わる。そして需要の有無は、本人がどれだけ努力しても動かせない側にある。

この点を曖昧にしたまま「市場価値が上がる」と言うと、努力の範囲が実際より広く見えてくる。二つの技能を深めることは自分でできる。それを欲しがる場所があるかどうかは、自分ではどうにもならない。同じ文章の中で両方を扱うと、後者まで努力で届くように読めてしまう。

一つに絞るべきか、広げるべきかという問いについては別に書いたが、どちらの立場を取るにせよ、需要の側は動かせないという事実は共通して残る。

逆向きの染み出しは、あまり語られない

ここまで、趣味から仕事へという向きだけを見てきた。当然、逆向きもある。そしてそちらの方が、たぶん頻度は高い。

仕事で身についた進め方が、趣味の側に入り込む。計画を立て、記録をつけ、前回との差分を確認する。写真を撮るのに機材の投資対効果を考え、料理に手順の標準化を持ち込む。うまくいっているように見えるし、実際に効率は上がる。

ただ、この向きの転移は誰も成功譚として書かない。書きようがないからだ。趣味が仕事に効いた話は市場価値の物語になるが、仕事が趣味に効いた話は、ただ趣味が仕事に似てきたという報告にしかならない。

そして転移の起きやすさで言えば、逆向きの方が有利な条件が揃っている。仕事のやり方は毎日繰り返されていて、いつでも呼び出せる状態にある。前節の言い方を借りれば、ヒントが常時出ているようなものだ。趣味の側の知識が仕事の場面で立ち上がらないのに、仕事のやり方が趣味の場面で立ち上がるのは、量の差で説明がつく。

掛け合わせを狙うということは、この非対称な流れに逆らって、弱い方の向きを起こそうとすることでもある。難しいのは当然だが、それ以上に気になるのは、逆向きの方は狙わなくても起きてしまう点だ。掛け合わせようとして趣味と仕事を近づけたとき、実際に混ざるのがどちらの向きなのかは、始める前には決められない。

この助言が広く読まれる理由の方を、少し考える

掛け合わせ論の効き目が条件つきだとして、では、なぜこれほど繰り返し語られるのか。

ひとつ思い当たるのは、この話が余暇に言い訳を用意してくれることだ。休日に費やした時間を、投資として記帳できる。何の役にも立たないことをしていた、という記述を、将来の希少性への布石だった、という記述に書き換えられる。

書き換え自体は害がない。むしろ、そう思えたおかげで続いた趣味もあるだろう。ただ、書き換えた側は元に戻せない。いったん投資として記帳したものは、回収できたかどうかで採点される。採点は、たいてい良い点にならない。

そしてこの構図は、掛け合わせが実際に機能するかどうかとは無関係に成立する。機能してもしなくても、記帳した時点で物差しは入れ替わっている。

冒頭の二つの例に、戻ってみる

ここまでの見方で、最初に挙げた例を読み直してみる。家庭菜園から発想を得たエンジニアと、写真の技術でブランドを立ち上げた料理好きのマーケター。

前者は、独立した二領域の転移にあたる。土と水と生育のサイクルから、システムの設計に持ち込むものがあったという話だ。掛け算としては理想的で、そして自発的には最も起きにくい形でもある。この人がどこで「使えるかもしれない」に相当する一言を受け取ったのかは、記事にはたいてい書かれていない。書かれていないのは、本人も覚えていないからだろう。

後者は、そもそも掛け算になっていない。料理と写真とブランドは、隣接している。食べ物を撮る仕事の周辺では、この三つは日常的に並んで置かれている。前節の言い方をすれば、並べて見る機会が最初から用意されていた。うまくいったのは自然だが、希少性が掛け算で増えたわけではない。

並べてみると、成功譚として流通しているものの中には、性質の違う二種類が混ざっている。本当に遠い領域が結びついた稀な例と、もともと近かったものが素直に結びついた例と。後者の方が数は多いはずだが、語られるときにはどちらも同じ「掛け合わせ」という言葉で束ねられる。

読む側にとって厄介なのは、束ねられた状態からは、自分がどちらを目指しているのか分からないことだ。遠いものを選んだつもりで近いものを選んでいれば、うまくいくかわりに希少にはならない。遠いものを本当に選べば、希少になるかわりに結びつかない。

それでも、続けている理由

とはいえ、自分が長く続けている趣味が、まったく仕事に染み出していないかと言われると、そうでもない。文章を書く仕事をしていて、まったく別の分野の本を読んでいるときに、たまたま今書いている原稿の構成のヒントを得ることは、これまでにも何度かあった。ただそれは、狙って掛け合わせた結果というより、たまたま頭の中でつながっただけのことに近い。

ここまで調べたあとだと、この「たまたま」の中身が少し見える。つながったのは、たまたま両方が近くに置かれていた時期だった、ということなのだろう。そして、つながらなかった時期のことは覚えていない。覚えているのはつながった数回だけで、そのぶん自分でも成功譚を作りかけている。

趣味を市場価値に変換する方法として語るより、単に、遠い場所の知識が時々つながることがある、というくらいの控えめな言い方の方が、実感には近い。つながりを当てにして趣味を選ぶのは、たぶん本末を転倒させている。

ただ、控えめに言い直したところで、つながる回数が増えるわけでもない。実験が示していたのは、必要なのは覚悟でも謙虚さでもなく、外からの一言だった。自分の中にそれを置いておく方法は、いまのところ思いつかない。

出典

  • Gick, M. L., & Holyoak, K. J. (1980). Analogical Problem Solving. Cognitive Psychology, 12(3), 306–355.
  • Fischhoff, B. (1975). Hindsight ≠ Foresight: The Effect of Outcome Knowledge on Judgment Under Uncertainty. Journal of Experimental Psychology: Human Perception and Performance, 1(3), 288–299.
  • 「上位10パーセントを掛け合わせる」という考え方は、スコット・アダムスが自著およびブログで述べているもので、査読を経た研究ではない。ここでは検証対象となる主張として扱っている。