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秘境の温泉に「効能」を期待しすぎていないか

秘境の温泉に「効能」を期待しすぎていないか

電波の届かない山奥の温泉に行くと、たしかに何かがリセットされたような感覚がある。ただ、それがどこまで実感で、どこまで思い込みなのかを、一度正直に考えてみる。

TOMOAKI··趣味

電波の届かない山奥まで、わざわざ時間をかけて温泉に行くことがある。行くたびに、着いた瞬間に何かが軽くなったような感覚があって、それを「効いている」と思いたくなる。ただ、この感覚のどこまでが実際に泉質や環境のおかげで、どこまでが単に「ここまで来たのだから何か効いているはずだ」という思い込みなのか、正直なところ自分でも切り分けられていない。

遠さと不便さが、休息の条件になっている

近所の銭湯ではなく、わざわざ電波の届かない場所を選ぶのには理由がある気がする。近ければ、行き帰りの間もスマホを見てしまうし、着いてからも「あとで返信しなければいけない連絡」のことが頭から離れない。物理的に届かない場所に身を置くことで、初めて「今は連絡が取れないのだから仕方がない」という言い訳が成立する。休むための言い訳を、自分の意志の弱さの代わりに場所に肩代わりしてもらっている、というのが実際のところに近いのかもしれない。

強い酸性泉や高濃度の硫黄泉のような、刺激の強い温泉を選びたくなるのも、似た構造がある気がする。ぬるくて優しい温泉よりも、肌がぴりつくくらいの泉質の方が「何かが起きている」という実感を得やすい。血流が良くなっている感覚はたしかにあるが、それが疲労の回復や思考のクリアさにどこまで結びついているのかは、自分の体感だけで語れる話ではないと思う。

何もない時間を、どう扱うか

温泉宿で過ごす時間のうち、実際に湯に浸かっている時間はそう長くない。それより長いのは、テレビもない部屋で、特に何をするでもなくぼんやりしている時間だ。この「何もしていない時間」が、日常では意外と確保しづらい。家にいると、手が空いた瞬間に何かしらの作業や通知が入り込んでくる。

この空白の時間に効能があるとすれば、それは温泉そのものというより、何もしなくていいと思える環境が用意されていることの方が大きいのではないかと思う。同じ空白を家で作ろうとしても、なぜか落ち着かない。場所を変えることでしか許可できない怠惰、というものが自分にはあるらしい。

ラベルを外しても、行きたい気持ちは残る

「戦略的な休息」とか「システムの再起動」といった言い方は、温泉に行くという行為に、もっともらしい理由をつけたいという欲求から出てきたものだと思う。ただの息抜きだと言ってしまうと、時間とお金を使うことへの後ろめたさが残るから、効能という言葉で正当化したくなる。

ラベルを外して考えてみると、自分がしているのは案外単純なことだった。連絡が取れない場所に身を置き、刺激の強い湯に浸かり、何もしない時間を許可する。それだけのことに、脳のメンテナンスというような大げさな説明をつける必要は、たぶんなかったのだと思う。効能の証明よりも、また行きたいと思う気持ちの方が、正直に語る価値のある部分だった。