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羊毛のうろこは、なぜ一方向にしか動かないのか

羊毛のうろこは、なぜ一方向にしか動かないのか

古いセーターを切る前に湯で縮ませてフェルト化させる作業には、繊維一本ごとに仕込まれた一方通行の仕組みと、後戻りできないことへの心理的な抵抗の両方が関わっている。損失回避、決定の不可逆性、そしてモノの「単一化」をめぐる研究を手がかりに、鋏を入れる前の逡巡を分解する。

TOMOAKI··趣味

もしウールのセーターを、ネットに入れずに、高めの温度の湯で洗濯機に放り込んだら、何が起きるだろう。普段なら絶対にやらない操作だ。うまく縮めば、表面はわずかに毛羽立ち、脱水が終わる頃には、袖はずいぶん短くなっているはずだ。伸ばして戻そうとしても、繊維はもう元の位置には帰らない。この時点でまだハサミは入れていないのに、後戻りできない一線はすでに越えている。セーターのリメイク、つまり切って何かに作り替えるという作業の重心は、実はハサミを持つ瞬間ではなく、この湯に浸けた数十分の方にある。

縮んだ生地は、手のひらで押すと、以前とは違う手応えになるのではないか。編み目という構造がまだ見えてはいるのに、指で強く引っ張っても糸と糸の境目がほとんど動かないはずだ。ニットが編み目という単位でできた構造物だったのに対し、そこにあるのは繊維という単位でできた、もっと均質な塊に近い。組み立てられたものから、ひとかたまりのものへ——大げさな言い方かもしれないが、触感としてはそのくらいの変化が起きる、と想像する。この変化がどこで、何によって起きたのかを確かめないまま鋏を入れるのは、原因を知らずに結果だけを消費することになる。だから作り方の手順より先に、繊維の中で実際に何が起きていたのかを追っておきたい。

繊維が一方向にしか進めないという話

羊毛の繊維を顕微鏡で見ると、表面は瓦屋根のように重なり合った小さな鱗状の構造で覆われている。キューティクルと呼ばれるこの構造は、繊維の根元から先端に向かって、屋根瓦と同じ向きに並んでいる。問題は、この鱗の向きが繊維の動きに強い癖をつけている点だ。繊維を一方向へ動かそうとするときと、逆方向へ動かそうとするときとで、鱗の縁の引っかかり方が違う。この摩擦の非対称性は「方向性摩擦効果」と呼ばれ、1946年に英国リーズ大学のヘレン・トムソンとJ・B・スピークマンが、繊維の表面を銀や金の薄膜で覆って摩擦を測り、この差が鱗の形によるのか、鱗の分子構造によるのかを確かめようとした(方向性摩擦効果そのものは、それ以前から知られていた)。繊維一本一本に、進む向きと戻る向きとで摩擦の大きさが違うという、小さな一方通行の弁が仕込まれているという話である。

湯と摩擦と機械的な動きが加わると、この一方通行の性質が生地全体の変形として表に出てくる。水分を含むと鱗が持ち上がる、とされる。そこに洗濯機の回転による揺さぶりが加わると、無数の繊維が互いに擦れ合いながら、それぞれ自分の根元の側を先にして、一方向にだけじわじわと移動していく。生地の中の繊維は向きがばらばらなので、各自が根元の方へ少しずつ潜り込むうちに互いに絡み合い、生地は詰まって面積が縮む、と考えられている。オーストラリアのCSIROの研究者レイチェル・マキンソンの1979年の著書『Shrinkproofing of Wool』は、Liu & Wang の引用から見るかぎり、こうした摩擦の差とフェルト化・防縮加工の関係を扱っているようだ。個々の繊維は自分の意思を持たないのに、鱗の向きという単純な物理条件が、生地全体の縮みという結果につながっていく。縮むという現象の出発点は、糸でも生地でもなく、この鱗一枚一枚の非対称な摩擦だった(どこまで縮むかには、繊維の長さや縮れも効くとされる)ということになる。

この仕組みを逆手に取ると、羊毛と縁を切りたい繊維も出てくる。セーターの洗濯表示でよく見る「ウォッシャブル」表記の裏には、しばしば、鱗を塩素などの薬剤で傷めるか、樹脂で覆って滑らかにする処理が施されている。塩素処理と樹脂コーティングを組み合わせたこの加工は、業界では長らく標準で、「ハーコセット処理」と呼ばれていたという報告がある。こうして鱗が潰され、繊維どうしもつなぎ止められると、方向性摩擦効果はほとんど働かなくなり、湯につけても縮みはごくわずかになる。つまり同じ「ウール100%」の表示でも、鱗が生きているか殺されているかで、フェルト化のしやすさが大きく変わる。これは後で触れる実践の話に直結してくる、地味だが決定的な分かれ目だ。

同じ動物繊維でも、鱗の目立ち方には種による差がある。カシミヤやアルパカの繊維は羊毛に比べて鱗が薄い。Liu & Wang の、ばらの繊維を揉んでフェルト球にする試験では、短く細いカシミヤは、同じくらいの太さの羊毛よりフェルト化しにくかった。ところが、同じく鱗の薄いアルパカは、逆に羊毛よりよくフェルト化した。著者らは、鱗の数が多いことと、縮れが少ないことを、それぞれ要因の候補に挙げている。柔らかい高級素材ならおとなしいだろうという予想は、少なくともアルパカについては、繊維の段階の試験で裏切られている。セーターの縮みにそのまま当てはまるかどうかは、別の話だ。

編むより先に、絡ませる技術があった

フェルト化という現象を、編み物の失敗形として見るのは、実は順序が逆かもしれない。フェルトは最も古い布の一つに数えられ、トルコのチャタル・ヒュユクで出土した、押し固められた獣毛の残片をフェルトと見る同定から、前6千年紀ごろにはすでに知られていたとする説もある(較正前の放射性炭素年代による)。糸を作らず、繊維を湯と圧力と摩擦だけで直接一枚の布に変えるという発想は、機織りという迂回路を経由しない、もっと直接的な布作りの手段だった。

だとすれば、セーターを縮ませる作業は、編み物という技術を壊しているように見えて、実は編み物より古い技術の方へ布を引き戻しているだけだ、という見方もできる。糸として一度組み立てられた構造を、繊維という部品の集合へと解きほぐし、その部品同士を編み目という間接的な結びつきではなく、鱗の引っかかりという直接的な結びつきで再結合する。フェルト化は破壊ではなく、布の作り方をより原始的な、しかしより頑丈な方式へと後退させる工程だと言った方が正確かもしれない。セーターという形は失われるが、布という素性まで失われるわけではない。

「戻せる」がなぜ怖いのか

湯に浸ける前に、手が一瞬止まりそうな気がする。この一瞬の逡巡を、単なる面倒くささや不安と呼んで片づけるのは簡単だが、もう少し腰を据えて考えてみたい。心理学者ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが1979年に発表したプロスペクト理論は、人が同じ大きさの利得と損失を心理的に等価には扱わないことを示した。失うことの痛みは、同じ額を得る喜びよりも大きく感じられる。この「損失は利得より重く感じられる」という非対称性は、後にトベルスキーとカーネマンが1992年に発表した研究で、大学院生25人の選択から一人ずつ推定した値の中央値として、損失の重みが利得のおよそ2.25倍と示されている(小さな一つの実験での値で、近年のメタ分析では平均がおよそ2倍と報告されている)。得より損の方が重い、という換算をあらかじめ体の中に持っているのだとすれば、まだ縮んでいない状態のセーターを湯に入れる手が止まるのも、単なる気の弱さではなく、この傾向が働いた結果かもしれない。

ここで見落としてはいけないのは、湯に入れる前の一枚には、まだ「損失」と呼べるものが実在しているわけではないという点だ。セーターはまだ元の形のままそこにあり、着ようと思えば着られる。損なわれているのは物ではなく、選択肢の方である。着る、しまう、譲る、フェルト化する、という複数の可能性が並んで存在している状態から、フェルト化するという一つを選んだ瞬間、残りの選択肢はまとめて消える。行動経済学でしばしば語られる損失回避は、手元にある物を失う場面で語られることが多いが、ここで実際に失われているのは物ではなく、まだ選んでいなかった別の未来の方だ、と私は読みたい。損失回避の研究そのものが扱ってきたのは、物や金額の損失である。湯温を上げるかどうかで迷う数十秒は、糸の運命よりも、自分がまだ持っていた選択の自由の運命を賭けている時間に近い。

ここで考えてみたいのは、この計算の重さが、対象の実際の価値とはあまり関係なく働くのではないか、ということだ。虫食いで穴が開き、もう二度と着る気にならない一枚であっても、湯に入れる手が止まる感覚そのものは、まだ状態のいい一枚を前にしたときとそう変わらないのではないか。損なわれるのが物の使用価値ではなく選択肢の存在そのものだとすれば、辻褄は合う。使い道をとうに失った一枚でも、「まだ複数の未来に開かれている」という一点だけは、状態の良し悪しにかかわらず成立していると考えられるからだ。逡巡の強さを、セーターの品質で説明しようとすると的を外すのではないか。逡巡が測っているのは布ではなく、自分の中に残っていた迷う余地の量の方なのかもしれない。

損失として数えられない損失

もっとも、損失回避という理屈をどこにでも当てはめていいわけではない。ネイサン・ノブムスキーとカーネマンは2005年の論文で、損失回避が働く場面には一定の境界があるのではないかと提案し、実験で予備的な支持を得ている。たとえば店で品物と引き換えに支払うお金は、心理的には「損失」として数えられにくいという。想定通りの目的のために手放した対価は、失ったというより初めから交換のために用意していたものとして処理されるから、というのが二人の見立てだ。買い物のたびに深い喪失感を覚える人がいないのは、この境界のおかげかもしれない。

この境界に照らすと、セーターを湯に入れて縮ませる行為の座りの悪さが、もう少しはっきり見えてくる。この作業は、何かを得る目的で対価を支払っているわけではない。セーターという一つの完成品を、鍋つかみやポーチという別の完成品と交換しているわけでもない。ただ、それまで一つの姿としてあり続けたものの姿を、後戻りできない形で変えているだけだ。ノブムスキーとカーネマンの理屈を借りれば、通常の買い物のような「想定通りの対価」という抜け道は、ここには見当たらない。だとすれば、店でハンカチを一枚買うのとは違って、着られたはずのセーターを湯に入れる手に迷いが残るのも、不思議ではない。損失回避という感覚が減免される条件に、この作業は当てはまりにくいように見える(二人の枠組みを私が当てはめたものだ)。

後戻りできないほうが、気に入りやすいことがある

ところが、この話には反転がもう一段仕込まれている。心理学者ダニエル・ギルバートとジェーン・エバートが2002年に発表した実験では、写真の講座に集まった学生たちに、自分で焼いた二枚のプリントから一枚だけを選んで持ち帰らせている。片方のグループには、数日のうちなら交換できると伝え、もう片方には交換できないと伝えた。数日後、手元に残した一枚をもう一枚と比べてどれだけ気に入っているかを尋ねると、交換できないと告げられていたグループの方が、残した一枚への好みが強まっていた(各群十数人の小さな実験だ)。なお、別の人たちに結果を予測させると、交換できるかどうかで好みは変わらないと答えた。選択肢が残っている方が好みも保てるだろうという直感は、ここでは裏切られている。

研究者たちは、後から変えられることが、決定のあとに結果を良いものとして受け入れ直す、ふだんの心の働きを起きにくくするのだと説明している。湯に浸けて縮ませるという工程は、まさにこの後戻りできない一線を先に引いてしまう行為に当たる。縮んだ後のセーターを「やはり元の形に戻したい」と思っても、その交換の余地は、繊維の側からすでに閉じられている。損失回避が縮める前の手を止まらせていたのだとすれば、縮んだ後には別の働き——決めたことを受け入れ直す働き——が、目の前の一枚を肯定する側に回るのかもしれない。怖がっていた不可逆性が、通り過ぎてしまえば安心の材料に変わるのかもしれない、という皮肉な順序である(写真の好みの研究からの当てはめで、私の推論になる)。

商品から外れていくとき

人類学者イゴール・コピトフの1986年の論文は、二次的な要約によれば、モノが辿る生涯を人の伝記になぞらえて描いている。以下は、その要点を私が言い換えたものだ。工場から出荷されたばかりの品物は、誰のものにもなりうる、互いに交換可能な「商品」として世に出る。しかし人の手に渡り、使われ、傷がつき、名前がつけられていくうちに、その一点はほかの同型品とは取り替えのきかない、単一の存在へと移っていく。コピトフはこの移行を「単一化」と呼び、モノの価値がどこまで市場的な交換価値に還元され、どこから個人的な意味の塊になるかは、固定された性質ではなく、そのモノの歩んできた経路によって決まると論じた。

量産されたセーターは、もともと同じ型番の何百枚、何千枚のうちの一枚として世に出ている。着古すだけでは、この商品としての互換性は薄れても、すっかりは消えないことが多い。似たような一枚は古着屋にいくらでも並んでいるし、サイズさえ合えば別の誰かの一枚と入れ替えても機能上の違いはほとんどない。ところが湯に入れて縮ませると、事情が変わっていく。繊維の絡み方も縮み方も、その一枚が置かれていた湯温、水流、生地の厚み、洗濯機の癖まで含めて一回きりの条件で決まるから、同じ型番の別の一枚を同じように縮ませても、寸分違わず同じ結果にはならない。私の読みでは、コピトフの単一化は物理的な唯一性のことではなく、交換の圏から外れていくという社会的な移行を指すが、フェルト化はその移行を、手触りとして後押しするのかもしれない。同じ型番の一枚として店に戻すことは、この時点でもう難しい。損失回避が惜しんでいたのは、実はこの「まだ交換可能だった状態」そのものだったのかもしれない。

縮絨処理を跳ね返す羊毛

理屈はここまでにして、実践の話に移る。まず確かめたいのは、そのセーターが縮むのかどうかだ。メリノウール100%と表示されていても、洗濯機使用可の印がついていれば、ハーコセット処理かそれに類する加工で鱗の摩擦効果が潰されている可能性が高く、湯に浸けてもほとんど縮まないだろう。フェルト化を前提にするなら、ウールの含有率よりも先に、この「洗濯機で洗える」という表示の有無を確かめておく方が確実だと思う。逆に、ラベルのない古いラムズウールのセーターのように、加工を受けていない純毛は縮みやすいはずだ。同じ「ウール」という一語の中に、フェルト化する個体としない個体が混在している、という当たり前だが見落としやすい事実を、ここで押さえておきたい。

ウールとアクリルの混紡には、もう一つ別の落とし穴がある。アクリル繊維には鱗の構造がないので、フェルト化はしないとされる。混紡の場合、ウールの部分だけが縮もうとしてアクリルの部分がそれに追随しないため、生地が不均一に縮み、表面がでこぼこになるだろう。この失敗は、混紡率の数字を見ただけでは予測しきれないかもしれない。

湯温と時間の見当をつけるのは、おそらく難しい。同じ「ウール100%」でも紡績の撚りの強さや編み目の密度によって、必要な熱量はかなり違うと考えられる。同じ種類の布の端切れが手元にあれば、本体を回す前に、それを同じ条件で回して縮み具合を確かめておくと、失敗は減らせるだろう。端切れなら途中で何度でも取り出して触れる。そういう小さな身代わりを用意できるかどうかが、仕上がりを左右するのではないか。

縮んだ生地をどう切るか

縮んだ生地は、切り口がほつれない。これがフェルト化した生地の一番の利点で、袖を輪切りにすればそのままレッグウォーマーになるし、脇の下で胴体を水平に切ればネックウォーマーになる。針を持たなくてもここまでは形になる。もう少し手を入れるなら、裾のリブ部分を活かして巾着の口にすると、絞ったときの締まりがよく、まっすぐ縫うだけで十分な強度が出やすいはずだ。フェルト化した生地は繊維同士がすでに絡み合っているため、直線縫い程度なら、手縫いでもミシンと大きくは変わらない仕上がりになるのではないか。

厚みが出た分、針を通す抵抗も増える。薄手のセーターなら普通の縫い針で問題ないが、厚く縮んだ生地には目の大きい厚地用の縫い針や毛糸とじ針を使わないと、途中で折れることがあるという。生地の厚みに合わせて針を替えるのは、当たり前だが省きがちな手順だ。厚みのある生地は保温性にも優れているので、鍋敷きやコースターに仕立てると、薄い生地で作るより実用に耐えそうだ。逆に、薄手のセーターを軽く縮ませただけの生地は、巾着やポーチの裏地としては十分だが、鍋敷きにするには心もとない。縮み方の程度に応じて、作るものの見当をあらかじめつけておく方が、後から生地を選び直す手間が省ける。

装飾を足す段では、フェルト化した生地のもう一つの性質が使える。切り口がほつれないので、別の色のフェルト化した端切れを模様の形に切り出し、生地の表面に重ねて置いてから、専用の針で何度も突き刺すだけで固定できるとされる。ニードルフェルトと呼ばれるこの技法は、針の返しで繊維を機械的に絡めて留めるもので、縫うという工程をほとんど必要としない。ここにも落とし穴はありうる。アクリル混の生地の上に純毛の端切れを乗せて突いた場合、どの程度しっかり留まるかは試してみないとわからない。洗濯後に外れてしまうかもしれない。土台になる生地の素材によって、仕上がりが変わる可能性はある。

もう少し立体的なものも作れる。両袖を肘のあたりで切り落とし、開いている側の口をぐるりとまつり縫いで閉じれば、そのままミトンになる。フェルト化した生地は伸縮性をほとんど失っているので、手を入れる開口部の寸法だけは事前に測っておかないと、あとで指が入らないという単純な失敗をしかねない。見た目の袖幅だけを頼りに縫い進めて、閉じ終わってから手首が入らないことに気づく、というのは、いかにもありそうな失敗だ。裁つ前に、実際に自分の手を袖に通して確かめておく、というごく当たり前の手順が効いてくる。乾かす工程も軽視できない。脱水した生地を平らな場所に置いて自然乾燥させると、重なった部分だけがなかなか乾かず、においが残ることがあるので、タオルで水気を挟んでから風通しのいい場所に立てて乾かす、という一手間が近道になるだろう。

後戻りできない選択の重さを測り直す

ここまでの話を並べ直すと、湯に入れる前後の心には少なくとも三つの層が重なっていた、と見ることができる。ひとつは、失うものの重みを得るものより大きく見積もる、損失回避という単純な計算。もうひとつは、この作業には買い物のような「想定内の対価」という抜け道が見当たらないように見えるために、その計算が減免されずに働いてしまうのかもしれない、という当てはめ(二人の枠組みを私が当てはめたものだ)。そしてもうひとつは、後戻りできない一線を越えた後には、決めたことを受け入れ直す別の働きが、目の前の結果を肯定する側に回るという、時間差で現れる逆向きの働きである。この三つは別々の研究から来ているが、並べると、決断の前と後とで心が違う顔を見せているようにも見える。

フェルト化という工程が特殊なのは、この心理的な逡巡と、繊維一本一本に刻まれた物理的な一方通行とが、重ねて見られる形をしている点だ。繊維は鱗の向きのせいで、根元の側へはじわじわ進めるが、逆にはほとんど進めない。決断もまた、湯に入れる前は複数の未来へ開かれているが、入れた後は一つの結果に閉じていく。どちらも、開いていたものが閉じていくという意味で、可逆から不可逆への移行に見える。繊維の話をしているつもりが、いつのまにか自分の決断の癖を観察していたということに、気づかされるかもしれない。

縮んだ生地が教えてくれること

湯温を上げた瞬間から、その一枚はもう元の型番の在庫とは違う何かになっていくのかもしれない。同じ型番の一枚として店に戻すのも、元の寸法に戻すのも、もう難しい。損なわれたのは布の量ではなく、まだ交換可能だった状態の方だったのだろう。それでも、切り口を気にせずハサミを入れられるようになった生地を前にすると、惜しんでいた気持ちの方は静かになるのかもしれない。繊維が一方向にしか進めないのと同じように、決めた後の心もまた、選ばなかった方へ戻る道が閉じたことに、少しずつ慣れていくのかもしれない。それは諦めというより、絡み合った繊維がもう元には戻らないことの、心の側の似姿のようなものだ。

出典

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