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誰の役にも立たない趣味について
靴を磨く、刃物を研ぐ、ただ火を見る。役に立たない趣味に惹かれる理由を調べたら、そういう時間ほど「無駄だ」という判定に弱いという話が出てきた。しかも壊すことはできて、直すことはできないらしい。
靴を磨くことに、実用上の意味はほとんどない。誰も見ていない足元に、休日の三十分を使う。それでも、磨き終えた靴を眺めていると、頭の中の雑音が少し静かになっているのに気づく。
効率やコストパフォーマンスという物差しで見れば、こういう趣味はどれも分が悪い。ソロキャンプに行くために道具を揃えても、火が思うようにつかず、結局スマートフォンで焚き火のコツを調べてしまうことがある。フライフィッシングのために道具を十数万円分揃えたのに、休日の朝四時に起きるのがつらすぎて、半年でほとんど使わなくなったという話も聞く。生産性の物差しで測れば、どれも失敗の部類に入るのだろう。
ただ、その「うまくいかなさ」自体が、この手の趣味の中身のような気もしている。革を縫って財布を作れば、市販品より分厚くて使いにくいものができる。それでも一度手を動かしてしまうと、その不格好さを含めて手放しがたくなる。効率を求めて始めたわけではないので、効率が悪いことに苛立つ理由もない。
とはいえ、ここまではずいぶん自分に都合のいい話だ。役に立たないことを肯定的に語るのは、役に立っていないという事実を処理するのにいちばん安上がりな方法でもある。そう思ってから、少し調べてみた。調べた結果として言えるのは、この手の趣味が良いものだということではなく、思っていたよりずっと壊れやすいものだ、ということだった。
「静かになる」という報告を、まず自分で疑う
先に一つ、自分の書いたことに注釈をつけておく。磨き終えた靴を眺めていると頭の中の雑音が静かになる、と書いた。これは観察のつもりで書いたが、実のところ観察と呼べる代物ではない。
三十分ぶん時間が経っているので、雑音が減っていて当たり前という可能性がある。靴を磨かずに三十分ぼんやりしていても、同じことが起きたかもしれない。比較対象がないところで「効いた」と感じるのは、たいてい効いていることの証拠にならない。
それに、静かになったから覚えているという順番もありうる。静かにならなかった日の靴磨きは、記憶に残らずに落ちていく。手元に残った印象だけを集めれば、どんな習慣でも効いているように見えてくる。
それでも書き残したのは、この感触が実際にあるからだ。ただ、以下で研究の話をするにあたって、出発点にあるのが検証されていない自分の感想だということは、先に置いておきたい。研究の側を疑う前に、疑う順番としてはこちらが先になる。
「無駄だ」と思っている人ほど、同じ余暇を楽しめていない
ガブリエラ・トニエットらが2021年に発表した研究は、余暇を無駄だと考える傾向そのものが、実際に余暇を過ごしているあいだの楽しさを削っていることを示している。四つの研究、参加者は合わせて1310人。
興味深いのは、削られ方に偏りがあることだ。この傾向が強い人は余暇全般の楽しさを低めに報告するのだが、落ち込みが大きいのは「それ自体が目的である余暇」の方だった。何かの手段としての余暇——健康のために走る、人脈のために集まる——は、比較すると傷が浅い。
つまり、靴を磨くような何の役にも立たない時間ほど、「これは無駄だ」という考えに弱い。いちばん無防備なのが、いちばん純粋な部類の余暇なのである。
同じ研究は、この考えを持つ人ほど幸福感が低く、抑うつ・不安・ストレスの自己報告が高いことも記録している。ただしここまでは相関の話で、無駄だと思うから不調なのか、不調だから無駄に見えるのかは、この時点では決められない。
もうひとつ、論文の補足資料に載っている地味な確認がある。学部生153人に尋ねたところ、余暇が無駄だと見なされるのは、それが果たすべきことを犠牲にして行われている場合だった、という。つまりこの判定は、余暇そのものへの評価というより、余暇と他の何かを並べたときの引き算として下されている。何もしていない時間が悪いのではなく、何かをしていない時間が悪い、という形をしている。
そして、その引き算はたいてい成立してしまう。同論文が引くところでは、アメリカ人の8割が時間の不足を感じているという報告がある。差し引く先の「やるべきこと」は、たいてい余っている。
壊すことはできるのに、直すことはできない
三つ目と四つ目の研究では、考え方の側を実験的に動かしている。「余暇は無駄で非生産的だ」という信念を刷り込むと、それ自体が目的の余暇の楽しさは実際に下がった。ここまでは予想がつく範囲だ。
予想しにくいのは、逆をやったときである。「余暇は生産的だ」と刷り込んでも、楽しさは上がらなかった。
この非対称は、よく見かける助言の効き目をそのまま否定している。趣味が楽しめないなら、その趣味が実は役に立っているのだと考え直せばいい——という助言だ。壊れた側から見ると、それは元に戻すための操作になっていない。壊すためのレバーは確かにあるのに、同じレバーを逆に倒しても戻らない。
この形の効き目は、他の場所でも見かける。信頼は一度の裏切りで失われるが、一度の誠実さでは回復しない。静けさは一つの物音で壊れるが、静かにしたところで元の静けさが戻るわけではない。余暇の楽しさも、どうやらその仲間らしい。
だとすると、趣味を守るために本当に要るのは、役に立つという理屈を用意しておくことではない。無駄だという判定を下さずに済ませることの方だ。ただ、これが厄介なのは、その判定が必ずしも自分の意志で下されていないところにある。
この研究を、どこまで信じておくか
ここで少し引いておきたい。四つの研究のうち二つは相関で、因果を担っているのは刷り込みを使った残りの二つである。そして刷り込みという手法は、心理学の中でも再現性をめぐって長く議論されてきた領域に属する。効果が確認された、という報告をそのまま「そういうものだ」と受け取るには、まだ間がある。
楽しさの測り方も自己申告で、実際にどれだけ楽しんでいたかを外から測っているわけではない。無駄だと思っている人が、楽しさを低めに申告しやすいだけ、という説明も原理的には残る。
それでも、この研究を手放したくないと思うのは、結論が直感に逆らっているからだ。「役に立つと考え直せば楽しめる」という方が、話として据わりがいい。据わりの悪い方が出てきたときは、少し長めに見ておく価値がある。
判定を下しているのは、たぶん時計の方だ
同じ論文の注記に、地味だが引っかかる観察がある。通常なら勤務時間とされる時間帯の余暇は、夕方や週末の余暇より無駄だと見なされやすい、というものだ。
中身は一ミリも変わっていない。靴を磨く三十分は、火曜の十一時でも日曜の十六時でも、同じ三十分である。それでも判定は変わる。何をしているかではなく、何時にしているかが効いている。
そう考えると、「役に立たない趣味が好きだ」と言えるかどうかは、その人の性格の問題というより、その時間が誰のものだと見なされているかの問題に近い。休日の三十分が守られているのは、その三十分に他の請求権が立っていないからで、趣味そのものが強いからではない。
ここで、冒頭に書いた「効率が悪いことに苛立つ理由もない」という一文を、自分で疑っておきたくなる。苛立たずに済んでいたのは、たまたま請求書の来ていない時間帯にやっていたからかもしれない。同じ作業を平日の昼間にやれば、同じ心境でいられる自信はあまりない。
誰も見ていない、ということ
靴磨きについて最初に書いたとき、「誰も見ていない足元」と書いた。書いたときは情緒的な言い回しのつもりだったが、いま読み返すと、これは条件を述べている。
見せることを前提とした趣味であれば、無駄だという判定に対して外からの反論が入る。褒められる、感心される、少なくとも話題として機能する。ところが誰も見ていない趣味には、その反論が来ない。判定は下されっぱなしになる。
逆に言えば、そこが手つかずである理由でもある。見せる相手がいないということは、見せるために内容が歪む余地もないということだ。高い趣味が何を買っているのかを考えたときにも行き当たったが、見られることを織り込んだ趣味は、どこかで見られ方の側に引っ張られていく。誰も見ていない三十分には、その引力がかからない。
守りが弱いのと、汚染されにくいのは、同じ一つの性質の裏表になっている。どちらか片方だけを取ることはできない。
面倒であること自体が、値打ちに変わる場合がある
もっとも、話は壊れやすさだけでもない。手間がかかるという事実が、そのまま価値の側に回ることがある。
マイケル・インズリクトらが2018年にまとめた総説は、認知科学で主流だった「努力はコストであり、人はそれを避ける」という見方を、半分でしかないと整理している。人も動物も、努力と報酬を結びつけて憶える。そして時には、努力を要するという理由でその対象を選ぶ。
革の財布が市販品より使いにくいのに手放しがたいのは、この線で説明がつく。使いにくさは、投じた時間の証拠として働いている。効率の悪さは失敗ではなく、値札の一部になっている。
これは冒頭の直感——うまくいかなさ自体が中身だ——に、それなりの裏付けを与えてくれる話ではある。ただし総説であって実験ではないので、条件の整理を読んでいるのだということは忘れないでおきたい。
ただし、面倒なら何でもいいわけではない
これを「苦労すればするほど愛着が湧く」と読むと行きすぎになる。総説が扱っているのは努力が価値に転じうる条件の整理であって、努力の量と価値が比例するという主張ではない。実際、途中で投げ出した作業に愛着が残ることはまずない。
フライフィッシングの道具が半年で使われなくなった話に値打ちが宿っている感じがしないのは、そのためだろう。あそこで投じられたのは金額であって、時間ではなかった。買った時点では努力が要らず、努力が要る局面——朝四時に起きること——で止まっている。順番が逆になっている。
そして、努力が価値に転じるという話は、無駄判定への防御にはならない。むしろ逆で、努力を投じたぶんだけ「これだけの手間をかけて何になるのか」という引き算の材料が増える。値打ちが増すことと、判定に強くなることは、別の軸である。
道具を買った時点で、判定の種類が入れ替わる
フライフィッシングの道具に十数万円かけて、半年で使わなくなった。この話をもう一度取り上げたいのは、ここで判定の種類が静かに切り替わっているからだ。
道具を買う前、この趣味に向けられる問いは「それは無駄ではないか」だった。買った後に立つ問いは違う。「元は取れたのか」になる。前者は時間についての問いで、後者は金額についての問いである。同じ趣味に、別の物差しが当たっている。
厄介なのは、後者の方が答えが出てしまうことだ。無駄かどうかには最終的な正解がないので、判定は下されても宙に浮く。ところが元が取れたかどうかは、使用回数で割れば数字になる。一回あたり数万円、という形で。「もったいない」という感覚が何をしているのかを考えたときにも同じ構造に行き当たったが、いったん金額が入ると、そこから先は算術の問題になってしまう。
そして算術は、たいてい趣味に不利に働く。朝四時に起きられなかったという事実は、数字の側では「使用回数が伸びなかった」としか記録されない。起きられなかった理由も、起きた日に何を感じたかも、割り算には入らない。
ここから引き出せるのは、道具を買うなという助言ではない。買った瞬間に問いが入れ替わることを、買う側があまり意識していない、という指摘までである。無駄判定に耐えるために道具を揃えるという動きは——形になれば言い訳が立つ、という直感は——判定を回避しているのではなく、より答えの出やすい判定へ自分から移動している。
「男らしい趣味」という括りが引き受けているもの
ところで、靴磨き、刃物研ぎ、焚き火、釣り。ここまで挙げてきたものは、しばしば「男らしい趣味」という括りで語られる。並べてみると、共通しているのは道具と手を使うことであり、そして実用のなさである。
この括りが何を根拠に成立しているのかは、それ自体で一本ぶんの話になるので、ここでは踏み込まない。趣味が性別でコード化されることについては別に書いた。
ここで書いておきたいのは、もっと狭いことだ。この括りに入る趣味の多くが「それ自体が目的の余暇」に分類される、という点である。だとすれば先ほどの研究に照らして、これらはもっとも無駄判定に弱い部類にあたる。強そうな名前がついている趣味ほど、実は無防備だということになる。
「男らしい趣味」という言い方が、その弱さを補強する装置として働いている面はあるのかもしれない。役に立たない時間に、性別と結びついた別の名目を与えておけば、無駄だという判定を一段かわせる。ただしそれは、余暇を役立つものとして再定義する動きと構造としては同じで、そして先ほど見たとおり、その方向の刷り込みは楽しさを回復させない。名目を足しても、たぶん効かない。
そもそも、かわす必要があるという前提自体が、判定を認めてしまっている。「これは男の趣味だから」と言うとき、無駄かどうかという物差しは下ろされていない。物差しの上で別の目盛りを探しているだけである。
目的を持たせた瞬間に起きること
手段としての余暇の方が傷が浅い、という結果には、素直に読むと妙な含みがある。趣味に目的を持たせておけば守れる、と読めてしまうからだ。
実際、そうしている人はいる。革細工を売ってみる、焚き火の動画を上げてみる、釣った魚の記録をつけて誰かに見せる。どれも、無駄判定に対する保険としては筋が通っている。
ただ、これは守っているというより、対象を入れ替えている。手段になった余暇は、手段としての成績で測られはじめる。売れない革細工、伸びない動画。無駄だという判定はかわせても、今度は失敗だという判定が来る。しかも後者には、逃げ場としての「役に立たなくていい」が使えない。
三つ目と四つ目の研究が示した非対称を、ここでもう一度思い出しておきたい。生産的だと考え直しても楽しさは上がらなかった。だとすれば目的を持たせるという操作は、楽しさを増やすためではなく、判定の種類を取り替えるために効いていることになる。取り替えた先が良い場所かどうかは、研究は何も言っていない。
記録することについて、ひとつ
こうした時間を記録に残すこともある。誰かに見せるためではなく、自分が数日前の感動をすぐに忘れてしまう生き物だからだ。「ソロキャンプに行った」という事実そのものより、「夜明けのコーヒーが妙な味だったが、それが悪くなかった」というような、些細な感覚の方を書き留めておきたくなる。
ただ、記録という行為には、無駄判定をかわすための小細工が紛れ込みやすい。書き留めておけば後で役に立つかもしれない、という言い訳が、書く動機のどこかに混じる。混じったところで害はないが、混じっていることには気づいておいた方がいい。読み返して誰の役にも立たないのなら、それはそれで正しく機能している。
手入れという、いちばん静かな部類
手入れという行為にも、似た性質がある。新しいものを次々買い替える方が、単純には合理的だ。それでも、使い込んだ道具を手入れして長く使うことには、消費とは別の落ち着きがある。
深夜、台所で包丁を研ぐ。シュッ、シュッという音だけが響く部屋で、切れ味が戻ったことをトマトを切って確かめる。それだけの行為だが、それで十分だと思える瞬間がある。
手入れが無駄判定をかわしやすいのは、たぶん、道具の性能が実際に回復するからだ。切れ味という結果が出てしまう以上、完全に無目的とは言い切れない。その意味では、ここまで書いてきた「純粋な余暇」の中では例外に近い。いちばん無防備な部類の趣味に、こっそり保険がかかっている形になる。
そう考えると、手入れという趣味が広く受け入れられやすいことにも説明がつく。これは無駄ではないと言い返せる材料が、行為そのものに埋め込まれている。靴磨きが刃物研ぎより言い訳しにくいのは、光った靴が性能の回復ではないからだろう。同じ三十分でも、防御の厚みが違う。
「誰の役にも立たない」の「誰」に、自分は入っているのか
ここまで「役に立たない趣味」という言い方を何度もしてきたが、この言い方には最初から穴がある。役に立たないと言うとき、誰にとってかを省いている。
靴磨きは、靴にとっては役に立っている。革は保湿され、寿命は延びる。自分にとっても、雑音が静かになるという効き目を先ほど報告したばかりだ。役に立っていないのは、他人と、そして経済の側から見たときだけである。
つまり「誰の役にも立たない」は、正確には「他人の役には立たない」の言い換えでしかない。そしてその言い換えを自分で使っている以上、他人の目で自分の時間を採点する癖は、とっくに内側まで入っている。無駄判定は外から来るのではなく、こちらが先回りして下している。
この見方を採ると、先ほどの研究の読み方が少し変わる。刷り込みで信念を動かせたということは、信念が外から入れられる程度には可塑的だということでもある。可塑的なものは、放っておけば環境の側の値に落ち着く。生産性の話が絶えず流れてくる場所にいれば、自分の余暇についての判定も、だいたいその値になる。
そう考えると、趣味を守るという言い方自体が少し的を外している。守る対象は趣味ではなく、その趣味を採点している自分の物差しの方だ。物差しは自前で作ったものではなく、借り物である公算が高い。
測るのをやめろ、という話にはしない
ここまでの研究は、役に立たない趣味を持て、とは一言も言っていない。言っているのは、役に立つかどうかで測る癖が、測られた側の楽しさを削るということだけである。何をやるべきかについては、何も言っていない。
それに、測るのをやめればいいという助言も、あまり現実的ではない。時間帯ひとつで判定が変わってしまう程度には、この癖は自分の意志の外にある。意志で切れるものなら、最初から困っていない。
できることがあるとすれば、判定が下りたときに、それを趣味の評価ではなく判定の癖の方の作動として眺めておく、くらいのことだろう。靴を磨きながら「これは無駄だ」と思ったとして、そこで分かるのは靴磨きの価値ではなく、いま自分の中で何が動いたかである。区別したところで楽しさが戻る保証はないが、少なくとも靴の側に責任を負わせずに済む。
社会的な有用性から意図的に外れた時間を、誰にともなく確保しておくこと。それが性別に関係なく誰にでも当てはまる話だという感触は、調べたあとも変わらなかった。変わったのは、その時間が思っていたより脆いと分かったことの方だ。守り方については、いまのところ何も言えない。ただ、脆いものを脆いまま置いておくという扱い方も、たぶんある。
出典
- Tonietto, G. N., Malkoc, S. A., Reczek, R. W., & Norton, M. I. (2021). Viewing Leisure as Wasteful Undermines Enjoyment. Journal of Experimental Social Psychology, 97, 104198.
- Inzlicht, M., Shenhav, A., & Olivola, C. Y. (2018). The Effort Paradox: Effort Is Both Costly and Valued. Trends in Cognitive Sciences, 22(4), 337–349.
- アメリカ人の8割が時間の不足を感じているという報告は、Tonietto ら (2021) が Whillans (2019) を引く形で紹介しているもので、原典には当たっていない。
