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30代になって、趣味を「記録したくなるもの」で選んでいる
忙しいと、記録に残るかどうかで趣味を選んでしまう。ただ量を測ると、活動の量は増えるのに楽しさは下がるという研究がある。記録を前提に選ぶことは、選んだ先まで変えている。
30代になってから、新しく何かを始めるとき、無意識のうちに「これは後で振り返れる形で残るだろうか」と考えている自分に気づいた。コーヒー豆の産地をメモする。サウナに行った日をアプリに記録する。植物の成長を写真に撮る。趣味そのものより先に、その記録の仕方を考えている。
これは便利なようでいて、少し引っかかる癖でもある。記録に残しやすいものを無意識に選んでいるとしたら、それは趣味を選んでいるのか、記録の題材を選んでいるのか、区別がつかなくなる。
引っかかったまま置いておくのも落ち着かないので、記録すること自体が何をしているのかを調べてみた。出てきたのは、思っていたより気の滅入る話だった。
先に結論めいたことを書いておくと、記録は体験の写しではない。写しのつもりで作られているが、作る行為の側が、写される対象の方に手を入れている。
数えると、量は増えて、楽しさは減る
ジョーダン・エトキンが2016年に発表した研究は、この問題をほぼ正面から扱っている。六つの実験を通して示されているのは、活動の量を測ると、その活動の量は実際に増える。そして同時に、その活動を楽しむ度合いが下がる、というものだ。
いちばん分かりやすいのは塗り絵を使った実験である。参加者に図形を塗ってもらうだけの作業で、片方の条件では塗った数が表示され、もう片方では表示されない。
数が見えていた条件では、平均8.68個の図形が塗られた。見えていない条件では6.91個。測ると増える、という部分は予想どおりに出ている。
楽しさの評価は逆を向いた。数が見えていない条件が5.13、見えていた条件が4.63。同じ作業を、より多くこなして、より楽しんでいない。
差の大きさ自体は、劇的というほどではない。ただ、方向が逆だという事実の方が重い。量と満足が同じ方向に動くという前提は、この実験の中では成り立っていない。
「工作」が「作業」に変わる、という言い方
論文が挙げている説明は、測定が出力に注意を向けさせることで、楽しい活動を仕事のように感じさせる、というものだ。内発的な動機づけが削られる、という筋になっている。
この説明は、経験に照らして納得しやすい。歩くこと自体は楽しくても、歩数計を見た瞬間に「今日はあと2000歩」という課題が立ち上がる。課題が立ち上がると、歩くことは課題の遂行になる。
論文はさらに、この影響が活動中の楽しさだけで終わらないことも指摘している。測定は、その活動を将来も続けたいという関心を減らし、全体的な幸福感や満足度まで下げうる、と書かれている。
つまり記録は、その日の体験を薄めるだけでなく、次に手を伸ばす確率まで下げている可能性がある。続けるために記録している、という理解が正しいとは限らない。
実験と、自分の趣味のあいだにある距離
先に留保を置いておきたい。この実験で参加者がやったのは、数分で終わる塗り絵である。自分が問題にしているのは、何年か続ける趣味の話だ。同じことが起きると決めてかかるには、間が空いている。
差の出方にも注意がいる。塗った数は6.91個から8.68個、楽しさの評価は7段階と思われる尺度で5.13から4.63。統計的には差が出ているが、日常の感覚として気づける幅かというと、そうでもない。数か月やって「なんとなく前より楽しくない」と感じたとして、それが記録のせいだと切り分けられる人はいないと思う。
それでも参考にする気になるのは、方向が予想と逆だからだ。量が増えれば楽しさも増えるだろう、という素朴な期待が外れている。外れ方が小さくても、期待の側が間違っているなら、そこは知っておきたい。
逆に言えば、この研究から引き出せるのは「記録は楽しさを削りうる」という向きの情報までで、「どれくらい削るか」でも「あなたの場合はどうか」でもない。以下はその範囲での話になる。
それと、この研究が扱っているのは記録そのものではなく測定である。日付を書き留めるだけの記録と、歩数のように量が出る記録では、効き方が違う可能性がある。冒頭で挙げた例のうち、サウナの日付は前者に近く、植物の成長写真は後者に寄っている。同じ「記録」という語で束ねているが、中身は揃っていない。
記録できるかで選ぶことは、選んだ先まで変えている
ここで冒頭の癖に戻る。記録に残しやすいかどうかを基準に趣味を選ぶ、という話だ。
この癖には、二段階の作用がある。一段目は選択の偏り。記録しやすいものが選ばれ、しにくいものが選ばれなくなる。二段目は、選んだあとで起きることだ。記録するつもりで始めた活動は、始めた時点ですでに測定つきの活動になっている。
実験の条件で言えば、こちらは最初から数が表示されている側に立っている。しかも自分で表示させている。
そう考えると、「記録に残るかどうかは趣味の良し悪しとは関係がない」という言い方は、少し甘かったかもしれない。関係がないどころか、記録を前提にした時点で、その趣味の楽しみ方の方が変わっている。
記録しやすい趣味は、もともと数えられる形をしている
もう一つ、選択の偏りの中身を見ておきたい。記録しやすい趣味とは、どういう趣味か。
コーヒー豆の産地、サウナに行った日、植物の成長。どれも単位が最初から与えられている。産地は名前で、日付は数えられ、成長は前後の写真で比べられる。区切りがあるから記録に乗る。
逆に、記録しにくい趣味を考えてみる。ただ音楽を聴く。散歩の途中で立ち止まって空を見る。何をするでもなく手を動かす。これらは単位がない。何回やったかを数えることはできるが、数えたところで何も表していない。
記録を基準に選ぶと、後者はふるい落とされる。落ちるのは価値の低いものではなく、単に区切りのないものだ。そして区切りのなさは、その活動の欠点というより性質である。
この選別が働いた結果として、手元に残る趣味は、測ると楽しさが減る種類のものに偏る。偏った先で記録をつけているのだから、二重に効いている。
「30代」という括りが、実は何を指しているか
ここまで30代という言葉を疑わずに使ってきたが、少し引っかかる。
この記事で挙げてきた条件——仕事の責任が増える、家庭の時間が要る、自分のための時間が減る——は、年齢そのものが作っているものではない。責任の増え方が作っている。同じ30代でも、その責任が来ていない人の時間の使い方は、20代のそれとあまり変わらないだろう。
つまり「30代の趣味」という括りは、年齢の話に見えて、実際にはいくつかの生活条件を束ねた呼び名になっている。束ねたものに年齢の名前をつけると、変えられないものとして扱いやすくなる。年齢は動かせないが、条件の束の中には動かせるものも混ざっている。
記録への傾きも、たぶん年齢ではなく条件の側から来ている。日々の輪郭がぼやけるほど忙しい、という条件があって、そこに記録が効いているように見える。忙しくない時期に同じ癖が出るかというと、あまり自信がない。
そう考えると、この記事の題は少し正直でない。「忙しいときに、記録できるかどうかで趣味を選び始めていることに気づいた」の方が近い。ただ、忙しさはいつか終わるという前提が入るぶん、そちらの方が救いのある言い方でもある。終わる保証はないのだが。
忙しさが基準を歪める
30代は仕事や家庭の責任が増える時期で、自分のための時間は確かに減る。だからこそ「準備コストが低いこと」を趣味選びの条件にしたくなる気持ちは分かる。スマホを開いて数分で始められるもの、玄関を出てすぐ始められるもの。これ自体は悪くない基準だと思う。
ただ、そこに「記録に残したくなるか」という条件を足すと、少し違う話になる。準備コストの低さは、続けやすさに直結する実用的な話だが、記録に残るかどうかは、本来趣味の良し悪しとは関係がない。それでも両者が一緒くたに語られるのは、記録すること自体が、忙しい日々の中で「自分の時間を持てた」という証明のように機能しているからだろう。
この二つが混ざりやすいのは、どちらも「効率」という同じ語彙で語れてしまうからでもある。準備が早い、記録が残る。並べると同じ種類の利点に見える。ところが前者は始めるまでの話で、後者は始めたあとの体験そのものに手を入れている。作用する場所が違う。
記録は目的ではなく副産物のはずだった
コーヒーを丁寧に淹れる時間、サウナで頭を空にする時間、植物の世話をする数分。これらの価値は、体験そのものの中にあったはずだ。それを記録するかどうかは、あとから決めればいい話で、記録すること自体が体験の価値を作っているわけではない。
それでも記録を先に意識してしまうのは、忙しい毎日の中で「今日、自分のために何かをした」という手応えを、体験の記憶だけでは信じきれなくなっているからかもしれない。記録という形にしないと、忙しさに押し流されて、その時間があったことすら忘れてしまう不安があるのだと思う。
この不安自体は、根拠がないわけではない。忙しい時期の記憶は実際に薄い。ただ、薄さへの対処として記録を選ぶと、記録が体験を削るという先ほどの話に戻ってくる。忘れないために記録し、記録したせいで、忘れないでおくほどの体験ではなくなる。
日記が続かない理由について書いたときにも近い場所を通ったが、あちらは書くという行為そのものの話だった。ここで問題になっているのは、書けるかどうかで先に対象を選んでいることの方である。
「振り返れる形で残る」の、振り返りはいつ来るのか
冒頭に書いた自分の言い回しを、もう一度見ておきたい。「これは後で振り返れる形で残るだろうか」。
この文には、後で振り返るという予定が入っている。ところが実際に振り返っているかというと、ほとんど振り返っていない。コーヒー豆の産地のメモを読み返した記憶は数えるほどしかないし、サウナの日付に至っては一度も見ていない。
つまり作っているのは、振り返るための材料ではなく、振り返れる状態である。使う予定のない備えを整えている。
備えること自体は、悪いことではない。ただ、備えのために体験の側を差し出しているなら、収支は考え直した方がいい。塗り絵の実験に照らせば、差し出しているのは楽しさの一部で、受け取っているのは「見返せるはずの記録」である。見返さないなら、受け取っている側は空に近い。
それでも記録をやめないのは、たぶん、いつか見返す日が来るという想定が消えないからだ。その日は来ないかもしれないが、来ないと決めることもできない。判断を保留したまま、毎回少しずつ払っている。
記録の残らない趣味は、どんな感じがするか
比較のために、記録がまったく残らない趣味を一つ挙げてみる。自分の場合、それは風呂で考えごとをする時間だった。
趣味と呼べるのかは怪しいが、条件は満たしている。自分から選んでやっていて、誰の役にも立たず、終わったあとに何も残らない。記録しようとしても、何を書けばいいのか分からない。「考えた」以外に書きようがない。
この時間について気づくのは、良かったかどうかを判定する材料が手元にないことだ。先週の風呂が今週より良かったかを比べられない。比べられないので、上達も後退もない。
記録のある趣味には、この比較がついてくる。今月は先月より少ない。去年の同じ時期はもっとやっていた。数字が並ぶと、並んだもの同士が勝手に比較される。比較は評価を呼び、評価は次にやるときの構えを変える。
記録のない趣味が気楽なのは、この連鎖が起きないからだと思う。ただし気楽さと引き換えに、その時間があったという痕跡も残らない。忙しい時期に、何もしていない気がする原因の一部は、たぶんここにある。気楽な方の趣味は、忙しさの中で真っ先に見失われる。
どちらを取るかという問題ではなく、両方に別の代償がある、というだけの話だと思う。記録すれば楽しさが少し削れ、記録しなければ存在した証拠が残らない。削れる方を選ぶか、消える方を選ぶか。
「証明」は、誰に向けて出しているのか
記録が「自分の時間を持てた」証明として機能している、と書いた。証明という言葉を使ったからには、その提出先を考えておきたい。
他人に見せる記録なら、話は分かりやすい。ところがコーヒー豆の産地のメモも、サウナの日付も、たいてい誰にも見せない。提出先は自分である。
自分が自分に対して、自分の時間を持ったことを証明する。妙な構図だが、必要とされる場面には心当たりがある。一日が終わったときに、何もしていない気がする。実際には風呂に入ったし本も少し読んだのに、手応えが残っていない。そこで記録を見返すと、確かに何かした形跡がある。
ただ、この用途で効いているのは記録の内容ではなく、記録が存在するという事実の方だ。だとすれば、体験の質を犠牲にしてまで詳細に残す必要はないことになる。実際、見返す頻度は残す手間に見合っていない。
証明が要るのは、たぶん体験の側が薄いからではなく、こちらの受け取る力が忙しさで落ちているからだろう。落ちている受け取り側を、記録という外部装置で補っている。補いは効くが、補っているうちに受け取る力の方が戻るとは限らない。
やめてみた結果は、原理的に確かめられない
では記録をやめれば楽しさは戻るのか。これが確かめられない。
実験なら、記録ありと記録なしの二群を比べられる。自分の趣味では、同じ半年を二回過ごすことができない。記録をやめて楽しくなったとしても、それがやめたおかげなのか、単に季節が変わったのか、仕事が落ち着いたのかは分けられない。
しかも判定する側にも偏りがかかる。やめようと決めた以上、やめて良くなったという結論の方が据わりがいい。良くなったかどうかを見ているのは、良くなってほしいと思っている人間である。
だからこの話は、「試してみて自分に合う方を選べばいい」という着地にはならない。試すことはできるが、結果を読むことができない。
できるのは、記録をつけているときの自分の状態を、その場で見ておくくらいのことだと思う。書きながら面白がっているのか、書かないと落ち着かないから書いているのか。この二つは、後から思い出そうとすると混ざる。混ざる前にしか区別できない。
記録を勧める側の事情も、少しある
もうひとつ、環境の側の話を書いておきたい。
いま使っている道具の多くは、記録する機能を最初から備えている。歩数は勝手に数えられ、写真には日付と場所がつき、アプリは連続日数を表示する。記録しないという選択をするには、機能を切る手間がかかる。既定値が記録する側に寄っている。
そして記録する機能を持つ道具は、たいてい記録が増えるほど手放しにくくなる。蓄積は乗り換えのコストになる。道具の側に、利用者に記録させておく理由がある、という程度のことは言える。
もっとも、これを陰謀のように書くのは行き過ぎだと思う。記録機能が便利なのは事実で、望んで使っている場面も多い。ただ、自分が記録を「選んだ」のか、切らなかっただけなのかは、分けて見ておいた方がいい。冒頭で気づいた癖も、能動的な選択というより、既定値をそのまま受け取っていただけかもしれない。
始めるより前に、記録の方法を調べている
冒頭でもう一つ書いたことがある。趣味そのものより先に、その記録の仕方を考えている、という部分だ。
これは順番の問題として見ると、それなりに奇妙である。まだ一度もやっていない活動について、どう残すかを先に決めている。豆を挽く前にメモアプリを選び、植物を買う前に撮影の角度を考える。
準備が楽しいのは分かる。ただ、この準備には、始めなくても成立してしまうという性質がある。記録の方法を調べている段階では、まだ何も始まっていない。それでも何かを進めている感触は得られる。
そして記録の方法を十分に整えたところで満足してしまい、本体を始めないまま終わる、という経路も普通にある。整った仕組みだけが残る。忙しい時期ほど、この経路に入りやすい気がする。本体には時間が要るが、仕組みを整えるのは通勤中にできる。
始める前に記録を考えるという癖は、記録が体験を削るという先ほどの話より、もしかすると手前で効いているのかもしれない。削る以前に、体験が始まっていない。
測ること全般が悪い、という話にはならない
ここまでの流れだと、記録をやめればいいという結論に向かいそうだが、そうはならない。
まず、エトキンの実験で楽しさが下がったのは、もともと楽しい活動を測った場合である。楽しくない活動を測ることは、別の話になる。運動の習慣づけのように、続けること自体が目的で、内発的な動機がもともと薄い場合には、測定が量を増やすという性質はそのまま利点になる。
次に、効果の大きさ。塗った図形は6.91個から8.68個へ、楽しさの評価は5.13から4.63へ。どちらも極端な差ではない。測った瞬間に趣味が仕事に変わる、というほど強い現象ではないことは押さえておきたい。
そして測ること自体には、測れないものに価値がないわけではない、という話で書いたような別の論点もある。測定の問題は、測ると楽しくなくなるという一点に還元できるものではない。
ここで言えるのは、もっと限定的なことだ。楽しむために始めた活動を、記録を前提として選ぶと、選ぶ段階と続ける段階の両方で、楽しさの側が少しずつ削られる。削られ方は小さいが、方向は一定している。
それでも、続けやすさは大事な話
記録への欲求は一旦脇に置くとして、忙しい人が趣味を続けるための実際的な工夫は、いくつかある。既存の習慣に紐づける。ハードルを極端に下げる。何かを始めるかどうかを毎回考え直さなくて済むように、決めごとにしてしまう。地味だが、これらは効果がある。
面白いのは、これらの工夫がどれも記録を必要としていないことだ。紐づけも、ハードル下げも、決めごとも、量を数えずに機能する。続けるために記録が要る、という前提は、少なくとも必須ではない。
むしろこの三つは、判断の回数を減らすという一点で揃っている。既存の習慣に紐づければ、始めるかどうかを決めなくて済む。ハードルを下げれば、やるだけの価値があるかを考えずに済む。決めごとにすれば、そもそも考える場面が来ない。記録はこの逆で、判断の材料を増やす方向に働く。数字が出れば、多いか少ないかを判定することになる。
忙しいときに足りていないのが時間ではなく判断の余力だとすれば、記録は足りていない方を使わせている。平日の夜に脳が何を求めているのかを調べたときにも、刺激より余白の方が要るらしい、という方向の話が出てきた。記録は余白ではなく刺激の側に入る。
趣味を「人生の主役」だとか「聖域」だとか大げさに位置づける必要はない。ただ、忙しさの中でも続けられる形にすることと、それを記録に残す必要があるかどうかは、別の問題として分けて考えたほうがいいと思う。
分けて考えたうえで、それでも記録したくなるなら、それはもう趣味の一部なのだと思う。コーヒー豆の産地を書き留めること自体を面白がっているなら、削られているものより得ているものの方が大きい。問題になるのは、面白がってもいないのに、残さないと落ち着かないという理由だけで書いている場合の方だ。その見分けは、書いているときの気分でだいたいつく。つくのに、忙しいと確かめないまま続けてしまう。確かめる余力がないことが、そもそも記録に頼りたくなる理由でもあるので、ここは循環している。抜け道は、いまのところ思いつかない。
出典
- Etkin, J. (2016). The Hidden Cost of Personal Quantification. Journal of Consumer Research, 42(6), 967–984. 塗り絵の実験の数値(統制条件 平均6.91個 / 測定条件 平均8.68個、楽しさ 5.13 / 4.63、F(1,103)=6.87, p=.010)は同論文による。
