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シャツより自由な布、ハンカチだけが持つ作り替えの選択肢
鼻をかむ布としての地位を失ったハンカチは、実はシャツやネクタイより作り替えの選択肢が多い。ラビッシュ理論とアフォーダンス理論から、その理由を追う。
洗濯物を畳んでいて、いつも枚数を数え間違える布がある。ハンカチだ。ワイシャツなら着た日数がそのまま枚数に対応するし、ネクタイなら箪笥の中の本数を把握している人も多いだろう。ところがハンカチは、鞄の底で丸まっていたもの、上着のポケットに入れっぱなしだったもの、洗濯機の中で行方不明になりかけていたものが不意に合流してきて、結局何枚あるのか誰も正確に言えない。この地味な数え忘れやすさは、実はこの布の性質をよく表している。単一の置き場所にも、単一の用途にも収まらない布だから、「何枚持っているか」という素朴な問いにすら、はっきりと答えが出せないのだ。そうして数え漏れた一枚が、気づけば引き出しの隅で出番のないまま留まっている。この中途半端な感覚の正体を、単なる「もったいない」という情緒の言葉で片づける前に、もう少し粘って考えてみたい。ハンカチという布切れが今のような扱いを受けるようになった経緯には、存外はっきりした理屈があるからだ。しかもその理屈は、この布がなぜこれほど作り替えの選択肢に恵まれているのか、という別の疑問にもつながっている。
一枚の布が背負っていたもの
ハンカチは、もともと鼻をかむためだけの道具ではなかった。装いの一部として胸ポケットに差し込まれ、頭文字を刺繍して結婚の贈り物にされ、喪の場では涙を拭う布として、求婚の場面では落とし物のふりをして相手に手渡す小道具として使われるなど、社会的な意味を何重にも背負ってきた布である。ヨーロッパの一部の地域では、恋人同士が刺繍入りのハンカチを交換する習慣があり、そのハンカチの図柄や糸の色そのものが、二人の関係の進み具合を周囲に伝える符丁として機能していたという記録もある。つまりハンカチは最初から単機能の道具ではなく、状況に応じて役割を切り替える多目的な布として設計も期待もされてきたわけである。
今の私たちが「ハンカチ=鼻をかむ、汗を拭く」という一つの用途に縮小して認識しているのは、この布の本来の姿ではなく、歴史のある時点で起きた用途の絞り込みの結果にすぎない。しかもその絞り込みは、布そのものの性能が劣化したからではなく、まったく別の商品が市場に登場したことによる、外からの圧力によって起きている。
ティッシュに追い抜かれた瞬間
その絞り込みを引き起こしたのが、使い捨てのティッシュペーパーだった。米国のキンバリークラーク社は1924年、コールドクリームを拭き取るための化粧用シートとして「クリネックス」を売り出している。当初の広告は化粧落とし専用の製品として設計されており、鼻をかむための道具という発想はそもそも想定されていなかった。ところが発売から間もなく、利用者から「鼻をかむのに使っている」という便りが会社に届くようになる。企業が想定していた用途と、実際に消費者が発見した用途がずれていた、という点がまず興味深い。
1927年に行われた利用実態調査でこの乖離を把握した同社は、1930年にイリノイ州ピオリアで広告の出し分けテストを行っている。「化粧落とし」を訴える広告と、「使い捨てハンカチ」を訴える広告を別々に出し、どちらへの反応が強いかを比較したのだ。結果は、鼻をかむための使い捨てハンカチとしての需要がおよそ6割を占めるというもので、キンバリークラークはその年のうちに広告の軸足を鼻かみ用途へと切り替えている。売上はこの転換の後に大きく伸びたとされる。この経緯を紹介する複数の産業史の記事に共通しているのは、方向転換を主導したのは企業の先見性というより、消費者の側がすでに始めていた「誤用」だったという点である。
ここで起きたのは、ハンカチという布が機能面で劣っていたから捨てられた、という単純な話ではない。むしろ布のハンカチは洗って繰り返し使えるぶん、経済合理性でも衛生面でも劣っていたわけではなかった。起きたのは、別の商品が消費者の実際の使用実態を先に言語化し、広告の力でそれを「使い捨てるのが当たり前」という新しい規範に育て上げたという、需要の作り替えである。ハンカチの地位低下は布そのものの欠陥ではなく、代替品の側が用途を先取りしてしまったことの結果だった、と言うほうが正確だろう。地位というものは、性能の優劣だけでなく、誰が先に言葉にしたかという順番でも決まる。
経営学者エリック・フォン・ヒッペルは1986年の論文で、新しい製品の使い道を最初に発見するのは作り手側ではなく、使い手側であることが多いという「リードユーザー」の概念を提示している。この考え方を裏づける形で、フォン・ヒッペルが小川進、デ・ヨングと2011年に発表した調査は、九つの産業にまたがる1678件の技術革新のうち、後年もっとも重要だったと評価されたものの54.4パーセントは、企業ではなく利用者自身が最初の考案者だったという結果を示している。クリネックスの一件はまさにこの構図の縮図で、企業が想定していなかった使い方を、利用者の側が先に見つけ、それを企業が後から追認して製品の定義そのものを書き換えている。ハンカチが鼻をかむ布としての地位を失ったのは、企業の販売戦略という一方的な力によってではなく、利用者自身の思いつきが、たまたま別の商品の側に取り込まれてしまったという、やや皮肉な経緯によるものだったことになる。
「ゴミ」という一時停止駅
人類学者マイケル・トンプソンは1979年の著作『ラビッシュ・セオリー』で、モノの価値がたどる経路を三つのカテゴリーで説明している。時間とともに価値が下がり続け、やがて寿命を迎える「トランジェント(一時的)」なモノ、時間が経っても価値が下がらない、あるいはむしろ上がっていく「デュラブル(永続的)」なモノ、そしてそのどちらでもない、価値がゼロと見なされ時間の外に置かれたような状態の「ラビッシュ(ゴミ)」の三つである。使われなくなったハンカチが引き出しの奥に沈んでいる状態は、まさにこの三つ目のカテゴリーに当たる。捨てられてはいないが、使われてもいない。値札のつけようがない、時間が止まったような場所に置かれている。
トンプソンの議論で重要なのは、このゴミという状態が固定的なものではなく、あくまで一時的な足場にすぎないという点だ。ゴミに落ちたモノは、誰かがそこに新しい枠組みを与えることによって、デュラブルの側へと引き上げられることがある。骨董品がまさにその典型で、かつて安物の古道具として扱われていたものが、ある時点で「価値ある骨董」という新しいカテゴリーに移されることで、急にデュラブルとして扱われるようになる。トンプソンはこの移し替えを行う主体を「創造的な個人」と呼び、その個人が既存の分類の外側に立てるかどうかが、モノの運命を左右すると述べている。
この理屈に照らせば、値段のつかないハンカチを鍋つかみやポーチに仕立て直す行為は、単なる暇つぶしの手芸ではなく、ゴミという停止状態からモノを引き戻す、価値の再定義そのものだということになる。針を持つ手は、思っている以上に大きな仕事をしている。しかも面白いのは、トンプソンの理論では、この移動が起きるかどうかは布の質や状態にほとんど左右されないという点だ。上等なリネンのハンカチでも、くたびれた木綿のハンカチでも、ラビッシュに落ちるときは同じように落ちるし、引き上げられるときも布の格ではなく、それを見る側の見立て次第で決まる。価値は布に内在するのではなく、布と人との関係の中に生まれる、という考え方がここにある。
誰が値札を書き換えられるのか
トンプソンの理論にはもう一つ、見過ごされがちな論点がある。モノの価値がどう分類されるかは、本来なら社会の中で力を持つ側、たとえば評論家や鑑定士、業界団体といった存在によって決められている。何を骨董品と呼び、何をただの古道具と呼ぶかは、個人の好みだけで決まっているわけではなく、権威づけられた誰かの判断を経て初めて確定する。ところがトンプソンは、ラビッシュという領域だけは、この権威の目が届きにくい場所だと指摘している。誰も値段をつけていない、誰の管轄でもないモノだからこそ、そこに手を伸ばした「創造的な個人」は、専門家の許可を得ることなく、自分の判断だけでモノの分類を書き換えることができる。骨董品市場に参入するには相応の知識や資金、人脈が要るが、引き出しの奥のハンカチを鍋つかみに仕立てるのに、そうした後ろ盾は一切要らない。
これは地味だが、案外大きな意味を持つ指摘だ。値打ちを決める仕組みの外側に、たまたま誰の目にも留まっていない布切れがあり、それを勝手に別のものへと作り替えてよい、という許可が最初から与えられている。専門家の査定を待つ必要もなければ、市場の評価を仰ぐ必要もない。裁縫箱と少しの時間さえあれば、誰でもこの「値札の書き換え」を行う権利を持っている。使わなくなったハンカチを前にしたときの手持ち無沙汰は、見方を変えれば、めったに与えられない裁量権を渡されている状態でもある。
もっとも、この裁量権が歴史的にずっと日の目を見てきたわけではない。歴史学者サラ・ゴードンは2009年の研究で、19世紀末から20世紀初頭のアメリカにおいて、家庭での裁縫や繕いものが女性の無償労働として扱われ、賃金を伴う仕事とは見なされない一方で、当人たちにとっては数少ない創造的な裁量の場でもあったという、二重の性格を持っていたことを指摘している。傷んだ布を仕立て直す技術は、経済の外側に置かれた地味な家事労働として長らく見過ごされてきたが、同時にそこでしか行使できない判断力や美意識の発揮の場でもあった。使わなくなったハンカチをどう仕立て直すか、という今の小さな選択も、この長い歴史の末端に位置している。値札を書き換える権利は、誰でも持っているとはいえ、その権利が正当に評価されてきたかどうかはまた別の話だ。
なぜハンカチはこんなに作り替えやすいのか
ここで一つ、素朴な疑問が残る。同じ「もう使わない布もの」でも、ワイシャツやネクタイに比べて、ハンカチはやけに作り替えの選択肢が多い。小さなポーチにも、台所の鍋つかみにも、荷物を包む風呂敷代わりにも、鉢植えの下に敷く布にも、コースターにも、簡易的な洗顔用のパッドにもなる。この違いを説明するのに使えるのが、心理学者ジェームズ・ギブソンが1979年の著書で体系化したアフォーダンス理論である。ギブソンは、モノが持つ「意味」や「使い道」が人間の頭の中だけにあるのではなく、モノの物理的な形状そのものに埋め込まれていると考えた。段差は「座れる」という行為を、取っ手は「引く」という行為を、その形状自体が周囲の生き物に向けて発信している、という発想である。
この理論は、モノの持つアフォーダンスが必ずしも最初から見えているとは限らない、という論点へと後に発展していく。認知科学者ウィリアム・ゲイヴァーは1991年の論文で、アフォーダンスには目に見えて知覚できる「知覚可能なアフォーダンス」だけでなく、実際には存在しているのに気づかれていない「隠れたアフォーダンス」があると整理した。さらにゲイヴァーは、一つの行為が次の行為の可能性を連鎖的に開いていく「連続的なアフォーダンス」や、複数のアフォーダンスが組み合わさって初めて一つの用途が成立する「入れ子状のアフォーダンス」があることも指摘している。つまりモノの用途は、最初の一瞥ですべてが見て取れるようにはできていない。手に取り、折り、結んでみるという探索の過程を経て初めて、隠れていたアフォーダンスが表に出てくる。モノの正体は設計者の意図一つで決まるわけではなく、使う側が手を動かしながら発見していく物理的な可能性の総体として決まる、という見方がここにある。
この物差しでシャツとハンカチを比べると、違いは一目瞭然になる。シャツは袖があり襟があり、体の形にあらかじめ合わせて裁断されている。つまり形状に強い制約、いわば「これは腕を通すためのものだ」という設計意図が生地の裁ち方の段階ですでに刻み込まれている。ネクタイはさらに細長い一本の布で、幅も長さも用途を強く縛る。一方でハンカチは、正方形に近い、ダーツもタックもない、ほぼ無地の平面の布にすぎない。縫い目の少なさ、裁断の単純さ、体のどの部位にも合わせて作られていないという事実、そのすべてが構造的な制約の少なさとして働き、結果としてアフォーダンスの数を単純に増やしている。
アフォーダンスは布の裁断だけでなく、経年変化によっても書き換えられる。新品のハンカチは糊が利いていて張りがあり、角も立っている。しかし何十回と洗濯を繰り返すうちに繊維がほぐれ、生地はくたびれ、同時に驚くほど柔らかくなる。新品の状態では気づきにくいこの変化こそが、実は次の用途を大きく左右している。張りのある新しい布は結び目を作っても形が崩れやすく、袋としての実用性は案外低い。逆に、洗い込まれてくたびれたガーゼ地は、肌に触れたときの摩擦が少なく、顔を拭う用途に向いている。つまり同じ一枚の布でも、時間の経過とともに物理的な性質そのものが変わり、それに伴って発信するアフォーダンスの種類も変わっていく。ハンカチが「もう使い道がない」と思える瞬間は、実は次の用途に向けて最も条件が整った瞬間でもある、というねじれがここにも見つかる。
四隅を結べば中身を包める袋になり、二つ折りにして端を縫えば小物入れのポーチになり、間に厚手の芯を挟んで斜めにステッチを入れれば鍋つかみとして通用する厚みが出る。柔らかくなった木綿のガーゼ地であれば、手のひらに収まる大きさに切って端を始末するだけで、繰り返し使える洗顔用のパッドに変わる。大判のものであれば、贈り物を包む布として使い捨ての包装紙の代わりを務めることもできる。どれも縫製の難度としては高くない部類に入るが、それはハンカチという素材が持つ制約の少なさゆえであって、腕前の問題ではない。布としての完成度が最初から低い、というより「未確定」であるからこそ、次に何になるかの選択肢が広い。格下げされやすいモノほど、実は再定義のための自由度も高いという、ねじれた関係がここにある。
もっとも、素材が違えば向き不向きははっきり分かれる。上質なコットンローンの薄手のハンカチは軽さゆえに小物入れの内布には向くが、芯を入れずに自立させようとするとすぐにへたって形を保てない。リネンのハンカチは張りがあって鍋つかみのような厚みを要する用途に強い一方、繊維が太い分だけ針を通す抵抗も大きく、生地が三重に重なる角の部分では手縫いだと指に負担がかかる。実際、シルクのポケットチーフを転用しようとして失敗したことがある。四隅を結んで簡易の巾着に仕立てたつもりだったが、シルクは表面が滑りすぎて結び目がすぐに緩み、持ち上げた瞬間に中身がこぼれ落ちた。摩擦の少なさという、この生地がふだん評価されている長所が、この用途では単純に欠点として働いた格好だ。同じ結び方を綿ガーゼのハンカチで試すと、繊維同士がほどよく引っかかり合って結び目が緩みにくい。「四隅を結ぶ」という、道具も要らないもっとも単純な作業一つを取っても、素材が変われば成否ははっきり分かれる。厚手のワッフル織りであれば芯を入れずとも鍋つかみとして最低限の断熱性を持つが、化学繊維の混紡が多いものは熱で生地が硬化する恐れがあるので、火のそばで使う用途にはそもそも向かない。仕立てる前に、その一枚がどの繊維でできているかを確かめておく手間は、出来上がってから後悔するよりよほど安上がりだ。
手をかけると惜しくなる、ただし条件つきで
作り替えの過程には、もう一つ見逃せない心理的な効果が働く。行動経済学者のマイケル・ノートン、ダニエル・モション、ダン・アリエリーが2012年に発表した研究は、人が自分の労力をかけて組み立てたIKEAの家具や折り紙、レゴのセットを、既製品と同じか、それ以上に高く評価する傾向があることを、複数の実験を通じて示している。いわゆる「IKEA効果」と呼ばれるこの現象は、労力そのものが対象への愛着を生み出すことを裏づけている。使い古したハンカチを自分の手でポーチに仕立てれば、その仕上がりの粗さとは無関係に、既製品のポーチよりも手放しにくいものに変わる可能性が高い、ということになる。
ただしこの研究には見落とされがちな条件が付いている。同じ一連の実験の中で、組み立てたものを完成させる前に壊してしまったり、途中で投げ出したりした参加者には、この効果がまったく現れなかったという結果も同時に報告されているのだ。労力は無条件に愛着を生むわけではなく、最後までやり遂げたという達成の実感があって初めて機能する。素人がいくら手間をかけても、それが完成に至らなければ、労力は評価の材料にすらならない。
ここに、作り替えという行為特有の危うさがある。中途半端に切って、糸を通しかけて放置されたハンカチは、単に使われていない状態のハンカチよりも厄介な存在になりかねない。トンプソンの言うラビッシュの状態に、今度は「投じたのに報われなかった労力」という重みまで加わってしまうからだ。作りかけの布は、手をつけなかった布より始末に困る。裁ちばさみを入れる前のハンカチはまだ何にでもなれる可能性を残しているが、中途半端に手を入れた布は、その可能性の一部をすでに使い果たしてしまっている。作り替えに手をつけるかどうかを迷う瞬間、実はこの非対称性こそが一番の判断材料になる。
だとすれば、作り替えに着手する前に完成の見込みを見極めておくことには、単なる計画性以上の意味がある。縫い代を最小限にした単純な形であるほど、途中で投げ出される確率は構造的に低くなる傾向がある。四隅を結ぶだけの包み布は、ミシンも針も要らないぶん失敗のしようがなく、IKEA効果が要求する「完成」という条件を最も低いハードルで満たしてくれる。逆に、芯を入れて縫い合わせる鍋つかみのような手の込んだ工程は、達成感も大きいが、途中で挫折したときに残るのは、単なる不用品ではなく「やりかけの不用品」という一段重い荷物である。どの作り替えを選ぶかは、見栄えの好みだけでなく、自分がその工程を最後までやり切れるかどうかという、地味だが切実な自己申告でもある。
もう一つの読み方——喪失のない作り替え
ワイシャツやネクタイの作り替えについて語るとき、そこにはしばしば「かつての役割からの離脱」という筋書きが重ねられる。フォーマルな装いの象徴だったものが、家庭用の雑貨に姿を変える。そこには一種の身分の降格、あるいは別れの儀式めいた響きが伴いやすい。しかしハンカチについては、この筋書きがどうもうまくはまらない。もともとハンカチは、シャツやネクタイのように一つの明確な地位だけを占めたことがない布である。贈答品にもなれば涙を拭う道具にもなり、鼻をかむための消耗品にも扱われてきた。単一の栄光を持たない布だから、そこからの転落や離脱を語る意味自体が薄い。
むしろ作り替えという行為は、ハンカチにとっては地続きの延長にすぎない。もとから多義的だった布が、また新しい意味を一つ引き受けるだけのことだ。この点で、ハンカチの作り替えは感傷を伴う儀式というより、もとの性質をそのまま引き継いだ、ごく自然な振る舞いに近い。大げさな決意も、名残惜しさの演出も要らない。そういう意味では、この作業に向いているのは手先の器用さよりも、目の前の一枚の布に「これはまだ何にでもなれる」という見立てを持てるかどうかの方なのかもしれない。見立てる力さえあれば、道具は後からいくらでも追いつく。
誰かからの贈り物として受け取ったハンカチを作り替える場合はどうか。一見、贈り主との関係を断ち切る行為のように思えるかもしれないが、これも先に触れた多義性の延長線上に置いてみると、印象は変わってくる。贈り物としてのハンカチは、そもそも受け取った瞬間から「装飾」「実用品」「思い出の品」という複数の役割を同時に引き受けている物であり、そのどれか一つを選び続けなければならない義務はどこにもない。実用品としての役目を新しい形で引き継ぎながら、思い出の品としての側面は記憶の中に残す、という分業も十分成り立つ。一枚の布に複数の役割を背負わせすぎないことも、長く付き合っていくための一つのやり方だろう。
色柄も生地の厚みもばらばらな複数枚のハンカチを縫い合わせてテーブルランナーに仕立てるという手もある。異なる時期に、異なる場所で手に入れた布が一枚の面として並ぶことになるが、これは統一感を欠いた失敗作というより、それぞれの布が背負ってきた個別の経緯が、一枚の面の上で同居している状態と見ることもできる。トンプソンの言葉を借りれば、複数のラビッシュが合流して一つのデュラブルに生まれ変わる瞬間であり、そこに柄の統一性を求めるのは、この作業の趣旨とはやや違う話になる。
布が布のままでいられる場所
鍋つかみになったハンカチは、もう鼻をかむための布ではない。しかし化学繊維の使い捨て雑巾とは違い、洗えば元の色柄が戻り、擦り切れるまで使い続けられる、という点だけは変わらない。ゴミという停止駅から引き上げられたモノは、必ずしも元の姿に戻る必要はなく、ただ時間の中で価値を減らし続けない場所へと移動できればそれでいい。台所の隅で鍋の熱を受け止めている布が、かつて誰かの晴れ着のポケットに収まっていた記憶を持っているかどうかは、使う本人にしか分からないことだが、それを知っているという事実自体が、量産品の道具にはない重みを持たせている。
作り替えがうまくいかず、結局もとの四角い布のままドロワーに戻ることになったとしても、それは失敗というより、まだ次の見立てを待っている状態というだけのことだ。ラビッシュの停留所に長くいることは、悪いことではない。骨董品も長い停留の末に価値を見出されている。急いで結論を出す必要は、この布に関してはどこにもない。もともと一つの用途に縛られたことのない布なのだから、次にどんな姿になるかを決めるのに、締め切りは要らないはずだ。
考えてみれば、鼻をかむ布として一時代を築いたこと自体、この布の長い経歴からすればほんの一区間にすぎない。恋人同士の符丁として使われていた時期のほうが、鼻をかむための消耗品として扱われた数十年よりもよほど長い。だとすれば、今この布が鍋つかみやポーチとしてもう一つの区間を歩き始めたとしても、それは経歴の中では特に珍しい出来事ではないことになる。むしろ珍しいのは、一つの用途にしか使われない期間がこれほど長く続いたことのほうかもしれない。次にこの布がどんな形になるかは、まだ決まっていない。それでいい。決まっていないことこそが、この布がずっと持ち続けてきた性質だからだ。
出典
- Michael Thompson, Rubbish Theory: The Creation and Destruction of Value, Oxford University Press, 1979.
- James J. Gibson, The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin, 1979.
- William W. Gaver, "Technology Affordances," Proceedings of the SIGCHI Conference on Human Factors in Computing Systems (CHI '91), 1991, pp. 79–84.
- Michael I. Norton, Daniel Mochon, and Dan Ariely, "The IKEA Effect: When Labor Leads to Love," Journal of Consumer Psychology, Vol. 22, No. 3, 2012.
- キンバリークラーク社のクリネックス誕生の経緯および1927年の利用実態調査、1930年のピオリア広告テストに関する紹介記事(Mary Bellisによる産業史記事および関連する製品史サイトの紹介による)。
- Eric von Hippel, "Lead Users: A Source of Novel Product Concepts," Management Science, Vol. 32, No. 7, 1986.
- Eric von Hippel, Susumu Ogawa, and Jeroen P.J. de Jong, "The Age of the Consumer-Innovator," MIT Sloan Management Review, Vol. 53, No. 1, 2011, pp. 27–35.
- Sarah A. Gordon, "Make It Yourself": Home Sewing, Gender, and Culture, 1890–1930, Columbia University Press, 2009.
