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シャツより自由な布、ハンカチだけが持つ作り替えの選択肢

シャツより自由な布、ハンカチだけが持つ作り替えの選択肢

鼻をかむ布としての地位を失ったハンカチは、実はシャツやネクタイより作り替えの選択肢が多い。ラビッシュ理論とアフォーダンス理論から、その理由を追う。

TOMOAKI··趣味

洗濯物を畳んでいて、いつも枚数を数え間違える布がある。ハンカチだ。ワイシャツなら着た日数がそのまま枚数に対応するし、ネクタイなら箪笥の中の本数を把握している人も多いだろう。ところがハンカチは、鞄の底で丸まっていたもの、上着のポケットに入れっぱなしだったもの、洗濯機の中で行方不明になりかけていたものが不意に合流してきて、結局何枚あるのか誰も正確に言えない。この地味な数え忘れやすさは、実はこの布の性質をよく表している。単一の置き場所にも、単一の用途にも収まらない布だから、「何枚持っているか」という素朴な問いにすら、はっきりと答えが出せないのだ。そうして数え漏れた一枚が、気づけば引き出しの隅で出番のないまま留まっている。この中途半端な感覚の正体を、単なる「もったいない」という情緒の言葉で片づける前に、もう少し粘って考えてみたい。ハンカチという布切れが今のような扱いを受けるようになった経緯には、存外はっきりした理屈があるからだ。しかもその理屈は、この布がなぜこれほどリメイクや再利用の選択肢に恵まれているのか、という別の疑問にもつながっている。

一枚の布が背負っていたもの

ハンカチは、もともと鼻をかむためだけの道具ではなかった。装いの一部として胸ポケットに差し込まれ、頭文字を刺繍して結婚の贈り物にされ、喪の場では涙を拭う布として使われるなど、社会的な意味を何重にも背負ってきた布である。つまりハンカチは最初から単機能の道具ではなく、状況に応じて役割を切り替える多目的な布として設計も期待もされてきたわけである。

今の私たちがハンカチを「汗や手を拭く布」くらいにしか見ていないのは、この布の本来の姿ではなく、歴史のある時点で起きた用途の絞り込みの結果にすぎない。しかもその絞り込みは、布そのものの性能が劣化したからではなく、まったく別の商品が市場に登場したことが大きく絡んで起きている。

ティッシュに追い抜かれた瞬間

その絞り込みの背景にあるのが、使い捨てのティッシュペーパーだった。ティッシュが奪ったのは、ハンカチのいちばん日常的な用途、鼻をかむ仕事である。米国のキンバリークラーク社は1924年、コールドクリームを拭き取るための化粧用シートとして「クリネックス」を売り出している。当初の売り出し方は化粧落としで、鼻をかむための道具としては打ち出されていなかった。ところが、鼻をかむのに使う人が現れる。同社の以前の沿革ページには、社内の研究責任者が花粉症のとき、ハンカチの代わりに使い始めた、という話が残っている。企業が想定していた用途と、実際の使われ方がずれていた、という点がまず興味深い。

同社自身も1927年には「吸水性のハンカチ」という使い道を打ち出していたが、決め手になったとされるのが、イリノイ州ピオリアで行われたテストである(二次情報による紹介で、時期も1920年代後半から1930年と揺れがある)。このテストは、新聞に二つの使い方を描いた広告を出し、読者にどちらの使い方をしているかを尋ねたもので、鼻をかむのに使っていると答えたのはおよそ6割だったという。キンバリークラークはその後、広告の軸足を鼻かみ用途へと切り替えた。同社の後の版の沿革は、この転換を、1930年代に殺到した「風邪に使っている」という消費者の手紙への応答として書いている。転換のきっかけの説明は、紹介によって違う。売上は転換の後に大きく伸びたとされるが、これは同社自身の説明である。この経緯を紹介する産業史の記事に共通しているのは、方向転換の手がかりが、企業の先見性というより、すでに始まっていた「誤用」にあった、という点である。

ここで起きたのは、ハンカチという布が機能面で劣っていたから捨てられた、という単純な話ではない。布のハンカチは洗って繰り返し使えるぶん、費用の面で不利だったとは言い切れない。起きたのは、別の商品が消費者の実際の使用実態を先に言語化し、広告の力でそれを「使い捨てるのが当たり前」という新しい規範に育てていったことだった、と同社の説明からは読める。ハンカチの地位低下は布そのものの欠陥というより、代替品の側が用途を先取りした面が大きい、と言えそうだ。地位というものは、性能の優劣だけでなく、誰が先に言葉にしたかという順番でも決まる。

経営学者エリック・フォン・ヒッペルは1986年の論文で、市場の大半より何か月も何年も先に強いニーズを抱え、しばしば自分でそれを満たそうとする利用者を「リードユーザー」と呼び、新製品の手がかりはそこにあると論じた。その後の研究では、ブラドニッチらが2019年、九つの分野で特に重要だった計1678件のイノベーションを調べた既存研究を集め、分野ごとに、生産者企業ではなく利用者によるイノベーションの割合を平均した。結果は54.4パーセントで、4割台から9割近くまで幅がある。管理職や政策担当者など1500人の意思決定者は、その割合を平均で21.7パーセントと見積もっていた。クリネックスの一件は、この構図に近い話として読めなくもない(ただ、既製品を別の用途に使う話は、利用者が自分で作るイノベーションそのものではない)。化粧落とし用として売り出された製品に、別の使い道が見つかり、企業がそれを後から前面に出して、製品の定義そのものを書き換えた。ハンカチが鼻をかむ布としての地位を失ったのには、企業の販売戦略だけでなく、使い手の側に先に生まれていた使い方が、たまたま別の商品の側に取り込まれてしまったという、やや皮肉な経緯も絡んでいたのかもしれない。

「ゴミ」という停留所

人類学者マイケル・トンプソンは1979年の著作『ラビッシュ・セオリー』で、モノの価値がたどる経路を三つのカテゴリーで説明している。時間とともに価値が下がり続け、やがて寿命を迎える「トランジェント(一時的)」なモノ、時間が経っても価値が下がらない、あるいはむしろ上がっていく「デュラブル(永続的)」なモノ、そしてそのどちらでもない、価値がゼロと見なされ時間の外に置かれたような状態の「ラビッシュ(ゴミ)」の三つである。使われなくなったハンカチが引き出しの奥に沈んでいる状態は、まさにこの三つ目のカテゴリーに当たる。捨てられてはいないが、使われてもいない。値札のつけようがない、時間が止まったような場所に置かれている。

トンプソンの議論で重要なのは、書評の紹介によれば、ゴミが終着点とは限らず、トランジェントがデュラブルへ移る道はゴミを経由するしかない、という点だ。ゴミに落ちたモノは、誰かがそこに新しい枠組みを与えることによって、デュラブルの側へと引き上げられることがある。骨董品がまさにその典型で、かつて安物の古道具として扱われていたものが、ある時点で「価値ある骨董」という新しいカテゴリーに移されることで、急にデュラブルとして扱われるようになる。

この枠組みを借りれば、値段のつかないハンカチをポーチなどに仕立て直す行為は、単なる暇つぶしの手芸ではなく、ゴミという停止状態からモノを引き戻す、価値の再定義と読むこともできる。もちろんこれは、トンプソンの主張ではなく、私の読みである。針を持つ手は、思っている以上に大きな仕事をしている。しかも面白いのは、この見方に立つと、布の質や状態だけでは、ラビッシュに落ちるかどうかも、引き上げられるかどうかも説明しにくくなる点だ。上等なリネンのハンカチでも、くたびれた木綿のハンカチでも、落ちるときは同じように落ちるし、引き上げられるのも、布の格より、それを見る側の見立て次第に見える。価値は布に内在するのではなく、布と人との関係の中に生まれる、という考え方がここにある(これも私の敷衍である)。

誰が値札を書き換えられるのか

トンプソンの議論には、価値の格付けを誰が決めるのか、という論点もある。書評の紹介によれば、彼はそれを社会の上のほうにいる人々の力とみている。私の言葉に置き換えれば、モノの価値がどう分類されるかは、本来なら社会の中で力を持つ側、たとえば評論家や鑑定士、業界団体といった存在によって決められている。何を骨董品と呼び、何をただの古道具と呼ぶかは、個人の好みだけで決まっているわけではなく、権威づけられた誰かの判断を経て初めて確定する。ところが書評によれば、トンプソンはラビッシュを「隠れた(covert)」「見えない(invisible)」カテゴリーとも呼んでいる。書評は、この呼び方が、カテゴリーの働きが隠れているという意味なのか、中のモノが誰にも気づかれていないという意味なのかがはっきりしないとし、後者にはいっそう無理があるとみている。ここではあえてその後者を借りて、まだ誰の目にも留まっていないモノの領域と読んでおく。そうであれば、権威の目も届きにくいはずだ。誰も値段をつけていない、誰の管轄でもないモノだからこそ、そこに手を伸ばす人は、専門家の許可を得ることなく、自分の手元でのモノの分類を書き換えることができる。ここで言う書き換えは、社会の値札を変えるものではなく、自分の手元での分類の話である。以下で「値札の書き換え」と呼ぶのも、この意味である。骨董品市場に参入するには相応の知識や資金、人脈が要るが、引き出しの奥のハンカチを鍋つかみに仕立てるのに、そうした後ろ盾は一切要らない。

地味な話だが、この読みには少し先がある。値打ちを決める仕組みの外側に、たまたま誰の目にも留まっていない布切れがあり、それを勝手に別のものへと作り替えてよい、という許可が最初から与えられている。専門家の査定を待つ必要もなければ、市場の評価を仰ぐ必要もない。裁縫箱と少しの時間さえあれば、誰でもこの「値札の書き換え」を行う権利を持っている。使わなくなったハンカチを前にしたときの手持ち無沙汰は、見方を変えれば、めったに与えられない裁量権を渡されている状態でもある。

手元で布を縫うという営みには、長い歴史がある。歴史学者サラ・ゴードンは2009年の著作で、19世紀末から20世紀初頭のアメリカの家庭での裁縫を、女性の家事労働であると同時に、楽しみや、自分の装いを選ぶ場でもあったものとして、多面的に論じている(ここは出版社の紹介と目次によるもので、本文の論旨までは確かめていない)。使わなくなったハンカチをどう仕立て直すか、という今の小さな選択も、この長い歴史の末端に位置している。

なぜハンカチはこんなに作り替えやすいのか

ここで一つ、素朴な疑問が残る。同じ「もう使わない布もの」でも、ワイシャツやネクタイに比べて、ハンカチはやけに作り替えの選択肢が多い。小さなポーチにも、台所の鍋つかみにも、荷物を包む風呂敷代わりにも、鉢植えの下に敷く布にも、コースターにも、簡易的な洗顔用のパッドにもなる。この違いを説明するのに使えるのが、心理学者ジェームズ・ギブソンが1979年の著書で体系化したアフォーダンス理論である。ギブソンは、モノが持つ「意味」や「使い道」が人間の頭の中だけにあるのではなく、モノの形と、それを使う生き物の体との関係の中にあると考えた。膝の高さの平らな面は「座れる」という行為を、その形状自体が周囲の生き物に向けて発信している、という発想である。

この理論は、モノの持つアフォーダンスが必ずしも最初から見えているとは限らない、という論点へと後に発展していく。研究者のウィリアム・ゲイヴァーは1991年の論文で、アフォーダンスには目に見えて知覚できる「知覚可能なアフォーダンス」だけでなく、知覚できる手がかりがなく、ほかの証拠から推し量るしかない「隠れたアフォーダンス」があると整理した。さらにゲイヴァーは、一つの行為が次の行為の可能性を連鎖的に開いていく「連続的なアフォーダンス」や、取っ手を引くことがドアを引くことの中に収まるように、アフォーダンスが空間の中でまとまっている「入れ子状のアフォーダンス」があることも指摘している。つまりモノの用途は、最初の一瞥ですべてが見て取れるようにはできていない。ここからは、私の敷衍である。手に取り、折り、結んでみるという探索の過程を経て初めて、隠れていたアフォーダンスが表に出てくるのかもしれない。モノの正体は設計者の意図一つで決まるわけではなく、使う側が手を動かしながら発見していく物理的な可能性の総体として決まる、とも言える。

この物差しでシャツとハンカチを比べると、違いが見えやすくなる(これも私の当てはめである)。シャツは袖があり襟があり、体の形にあらかじめ合わせて裁断されている。つまり形状に強い制約、いわば「これは腕を通すためのものだ」という設計意図が生地の裁ち方の段階ですでに刻み込まれている。ネクタイはさらに細長い一本の布で、幅も長さも用途を強く縛る。一方でハンカチは、正方形に近い、ダーツもタックもない、ほぼ無地の平面の布にすぎない。縫い目の少なさ、裁断の単純さ、体のどの部位にも合わせて作られていないという事実、そのすべてが構造的な制約の少なさとして働き、結果としてアフォーダンスの数が多くなる、と私は考える。

アフォーダンスは布の裁断だけでなく、経年変化によっても書き換えられる。新品のハンカチは糊が利いていて張りがあり、角も立っている。しかし何十回と洗濯を繰り返すうちに繊維がほぐれ、生地はくたびれ、同時に驚くほど柔らかくなる。新品の状態では気づきにくいこの変化が、次の用途を左右しうる。張りのある新しい布は、結び目を作っても形が崩れやすいかもしれない。逆に、洗い込まれてくたびれたガーゼ地は、肌に触れたときの摩擦が少なく、顔を拭う用途に向きそうだ。つまり同じ一枚の布でも、時間の経過とともに物理的な性質そのものが変わり、それに伴って発信するアフォーダンスの種類も変わりうる。ハンカチが「もう使い道がない」と思える瞬間は、次の用途に向けて案外条件の整った瞬間でもある、というねじれがここにも見える。

四隅を結べば中身を包める袋になり、二つ折りにして端を縫えば小物入れのポーチになる。鍋つかみにするなら、まず数字を見ておきたい。安価な布製の鍋つかみ10点に170℃の熱を当てた神奈川県の商品テストでは、手に触れる側の生地の温度が10℃上がるまで2〜6秒、20秒後には最高で50℃を超えた。水濡れや油の付着した状態では使わないよう、同じテストは注意している。ハンカチ一枚で代わりが務まるとは思えない(ハンカチを使った実験は、このテストにはない)。作るなら、間に綿100%のキルト芯を重ねて、斜めにステッチを入れる。市販の断熱芯にはポリエステルでできたものもあるので、使うときは製品の説明に従う。手作りの鍋つかみの断熱性は確かめようがないので、市販品と同じだけ頼れるとは考えないでおきたい。柔らかくなった木綿のガーゼ地であれば、手のひらに収まる大きさに切って端を始末するだけで、繰り返し使える洗顔用のパッドに変わる。大判のものであれば、贈り物を包む布として使い捨ての包装紙の代わりを務めることもできる。どれも縫製の難度としては高くない部類に入るが、それはハンカチという素材が持つ制約の少なさゆえであって、腕前の問題ではない。布としての完成度が最初から低い、というより「未確定」であるからこそ、次に何になるかの選択肢が広い。格下げされやすいモノほど、実は再定義のための自由度も高いという、ねじれた関係がここにある。

もっとも、素材が違えば向き不向きも変わる。上質なコットンローンの薄手のハンカチは軽さゆえに小物入れの内布には向くが、芯を入れずに自立させようとすると、へたって形を保ちにくいだろう。リネンのハンカチは張りがあって、形を保たせたい用途に向く一方、針を通す抵抗が大きくなりやすく、生地が三重に重なる角の部分では手縫いだと指に負担がかかるかもしれない。四隅を結ぶという、道具も要らないもっとも単純な作業でも、つるりとした薄手の布は結び目が緩みやすいのではないか、と想像はできる。ただ、結び目が緩むかどうかは、糸の種類だけでなく、織り方や厚み、仕上げ加工にも左右され、素材名からだけでは言い当てにくい。ワッフル織りは厚みがあるが、芯なしの一枚布で鍋つかみの代わりになるわけではない。ポリエステルなど化学繊維の多い布や芯は、高温で縮んだり溶けたりする恐れがある。熱い面に直接触れる側には使わない。仕立てる前に、その一枚がどの繊維でできているかを確かめておく手間は、出来上がってから後悔するよりよほど安上がりだ。

手をかけると惜しくなる、ただし条件つきで

作り替えの過程には、もう一つ見逃せない心理的な効果が働く。行動経済学者のマイケル・ノートン、ダニエル・モション、ダン・アリエリーが2012年に発表した研究は、人が自分の労力をかけて組み立てたIKEAの収納箱や折り紙、レゴのセットに、高い値をつける傾向があることを、複数の実験を通じて示している。収納箱は組み立て済みの箱より高く、不格好な自作の折り紙には、専門家の作品並みの値がついた。いわゆる「IKEA効果」である。主に測られたのは、いくらまで払うかという入札額で、好意度を7段階で尋ねた実験も一つある。使い古したハンカチを自分の手でポーチに仕立てれば、その仕上がりの粗さとは無関係に、既製品のポーチより高い値をつけたくなる可能性がある、ということになる。

ただしこの研究には見落とされがちな条件が付いている。同じ一連の実験では、組み立てた後に分解するよう指示された参加者で、自作への上乗せが消えた。最後の二工程の手前で作業を止めさせられた参加者の入札額も、完成させた人より低かった(1.46ドルに対して0.59ドル)。自分から投げ出した人を調べたわけではないが、完成させることが条件らしい、とは読める。素人がいくら手間をかけても、完成に至らなければ、評価への上乗せは小さいようだ。

ここに、作り替えという行為特有の危うさがある。中途半端に切って、糸を通しかけて放置されたハンカチは、単に使われていない状態のハンカチよりも厄介な存在になりかねない。トンプソンの言うラビッシュの状態に、今度は「投じたのに報われなかった労力」という重みまで加わってしまうからだ。作りかけの布は、手をつけなかった布より始末に困る。裁ちばさみを入れる前のハンカチはまだ何にでもなれる可能性を残しているが、中途半端に手を入れた布は、その可能性の一部をすでに使い果たしてしまっている。作り替えに手をつけるかどうかを迷う瞬間、実はこの非対称性こそが一番の判断材料になる。

だとすれば、作り替えに着手する前に完成の見込みを見極めておくことには、単なる計画性以上の意味がある。縫い代を最小限にした単純な形ほど、途中で止まる場面は少ないだろう。四隅を結ぶだけの包み布は、ミシンも針も要らず、結び終えたところで出来上がる。この研究が示唆する「完成」という条件を、最も低いハードルで満たしてくれる。逆に、芯を入れて縫い合わせる鍋つかみのような手の込んだ工程は、達成感も大きいが、途中で挫折したときに残るのは、単なる不用品ではなく「やりかけの不用品」という一段重い荷物である。どの作り替えを選ぶかは、見栄えの好みだけでなく、自分がその工程を最後までやり切れるかどうかという、地味だが切実な自己申告でもある。

もう一つの読み方——喪失のない作り替え

ワイシャツやネクタイの作り替えについて語るとき、そこにはしばしば「かつての役割からの離脱」という筋書きが重ねられる。フォーマルな装いの象徴だったものが、家庭用の雑貨に姿を変える。そこには一種の身分の降格、あるいは別れの儀式めいた響きが伴いやすい。しかしハンカチについては、この筋書きがどうもうまくはまらない。もともとハンカチは、シャツやネクタイのように一つの明確な地位だけを占めたことがない布である。贈答品にもなれば涙を拭う道具にもなり、鼻をかむための消耗品にも扱われてきた。単一の栄光を持たない布だから、そこからの転落や離脱を語る意味自体が薄い。

むしろ作り替えという行為は、ハンカチにとっては地続きの延長にすぎない。もとから多義的だった布が、また新しい意味を一つ引き受けるだけのことだ。この点で、ハンカチの作り替えは感傷を伴う儀式というより、もとの性質をそのまま引き継いだ、ごく自然な振る舞いに近い。大げさな決意も、名残惜しさの演出も要らない。そういう意味では、この作業に向いているのは手先の器用さよりも、目の前の一枚の布に「これはまだ何にでもなれる」という見立てを持てるかどうかの方なのかもしれない。見立てる力さえあれば、道具は後からいくらでも追いつく。

誰かからの贈り物として受け取ったハンカチを作り替える場合はどうか。一見、贈り主との関係を断ち切る行為のように思えるかもしれないが、これも先に触れた多義性の延長線上に置いてみると、印象は変わってくる。贈り物としてのハンカチは、そもそも受け取った瞬間から「装飾」「実用品」「思い出の品」という複数の役割を同時に引き受けている物であり、そのどれか一つを選び続けなければならない義務はどこにもない。実用品としての役目を新しい形で引き継ぎながら、思い出の品としての側面は記憶の中に残す、という分業も十分成り立つ。一枚の布に複数の役割を背負わせすぎないことも、長く付き合っていくための一つのやり方だろう。

色柄も生地の厚みもばらばらな複数枚のハンカチを縫い合わせてテーブルランナーに仕立てるという手もある。異なる時期に、異なる場所で手に入れた布が一枚の面として並ぶことになるが、これは統一感を欠いた失敗作というより、それぞれの布が背負ってきた個別の経緯が、一枚の面の上で同居している状態と見ることもできる。トンプソンの枠組みを比喩として借りれば、複数のラビッシュが合流して一つのデュラブルに生まれ変わる瞬間とも言え、そこに柄の統一性を求めるのは、この作業の趣旨とはやや違う話になる。

布が布のままでいられる場所

鍋つかみになったハンカチは、もう鼻をかむための布ではない。しかし化学繊維の使い捨て雑巾とは違い、洗えば元の色柄が戻り、擦り切れるまで使い続けられる、という点だけは変わらない。ゴミという停留所から引き上げられたモノは、必ずしも元の姿に戻る必要はなく、ただ時間の中で価値を減らし続けない場所へと移動できればそれでいい。台所の隅で鍋の熱を受け止めている布が、かつて誰かの晴れ着のポケットに収まっていた記憶を持っているかどうかは、使う本人にしか分からないことだが、それを知っているという事実自体が、量産品の道具にはない重みを持たせている。

作り替えがうまくいかず、結局もとの四角い布のままドロワーに戻ることになったとしても、それは失敗というより、まだ次の見立てを待っている状態というだけのことだ。ラビッシュの停留所に長くいることは、悪いことではない。骨董品も長い停留の末に価値を見出されている。急いで結論を出す必要は、この布に関してはどこにもない。もともと一つの用途に縛られたことのない布なのだから、次にどんな姿になるかを決めるのに、締め切りは要らないはずだ。

考えてみれば、布で鼻をかむ作法は、少なくとも1530年のエラスムスの礼儀書には書かれている。その長い区間を、使い捨ての紙がここ百年ほどで置き換えた。だとすれば、今この布がポーチや包み布として、もう一つの区間を歩き始めたとしても、それは経歴の中では特に珍しい出来事ではないことになる。むしろ珍しいのは、ハンカチが「汗や手を拭く布」に縮んで見えている今のほうかもしれない。次にこの布がどんな形になるかは、まだ決まっていない。それでいい。決まっていないことこそが、この布がずっと持ち続けてきた性質だからだ。

出典

  • Michael Thompson, Rubbish Theory: The Creation and Destruction of Value, Oxford University Press, 1979(本文の紹介は、Bernard Williams, "Knocking Through," London Review of Books, Vol. 2 No. 4, 1980 などの書評・事典による二次情報で、原典の全文は確認していない)。
  • James J. Gibson, The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin, 1979(原典は未確認。二次情報による).
  • William W. Gaver, "Technology Affordances," Proceedings of the SIGCHI Conference on Human Factors in Computing Systems (CHI '91), 1991, pp. 79–84.
  • Michael I. Norton, Daniel Mochon, and Dan Ariely, "The IKEA Effect: When Labor Leads to Love," Journal of Consumer Psychology, Vol. 22, No. 3, 2012, pp. 453–460.
  • キンバリークラーク社のクリネックスの沿革(同社公式サイトの沿革。2015年時点の BrandStory と2023年時点の Our History を、いずれも Wayback Machine で確認。1924年発売、1927年に「吸水性のハンカチ」という用途を提案)。ピオリアのテストについては紹介記事(Mary Bellisによる産業史記事ほか。いずれも二次情報で、年は1926年とも1930年ともされ一定しない)による。
  • Eric von Hippel, "Lead Users: A Source of Novel Product Concepts," Management Science, Vol. 32, No. 7, 1986, pp. 791–805(著者がMITのページで公開している原稿で確認。掲載誌版とは細部が異なる可能性がある).
  • Philip Bradonjic, Nikolaus Franke, and Christian Lüthje, "Decision-makers' underestimation of user innovation," Research Policy, Vol. 48, No. 6, 2019, pp. 1354–1361, doi:10.1016/j.respol.2019.01.020(全文で確認)。
  • 神奈川県くらし安全防災局くらし安全部消費生活課「鍋つかみの商品テスト」(2024年度、2025年4月10日公表), https://www.pref.kanagawa.jp/docs/r7b/cnt/f370222/nabetsukami2024.html
  • Desiderius Erasmus, De civilitate morum puerilium, 1530(1532年のラテン語・英語対訳版〔Whittinton 訳〕の翻刻〔Text Creation Partnership〕で確認。1530年の初版そのものは開いていない。紹介は Matthew Dennison, "Style and substance: Why the handkerchief remains a small symbol of civilised behaviour," Country Life, 2025(英訳の引用)にもある)。
  • Sarah A. Gordon, "Make It Yourself": Home Sewing, Gender, and Culture, 1890–1930, Columbia University Press, 2009.(出版社の紹介と目次による。本文は未確認)
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