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ショートスリーパーという体質には、遺伝子の手がかりがある。ただ、数字の線は資料ごとに違い、一本に定まらない — 定義のない言葉の使い道
睡眠が短い体質については、たとえば一つの家族の二人から、関わる遺伝子の変異が報告されている。ただ、この二人について、短くても支障がないかを確かめた結果は、論文の本文には示されていない。一方、睡眠を削った実験では、眠気の自己評価がわずかにしか増えなくなっても成績は落ち続けた。本物のショートスリーパーを数字で区切る、合意された線は見当たらず、同じ病名の患者3,703人には1,030通りの症状の組み合わせがあった。
睡眠が短い体質には、遺伝子の変異がその理由の有力な候補として報告された例が、すでにある。短くても日中に支障がない、というところまで確かめられているかは、別の話になる。
一方で、睡眠を削る実験では、眠気の自己評価が、途中からはわずかにしか増えなくなった。課題の成績は、そのあとも落ち続けていた。
短くて済む体質の人がいるとして、その人と、睡眠を削って慣れたつもりの人。この二つを、当人の感覚で見分けられるという根拠は、私の知るかぎり、ない。では、本物のショートスリーパーとは何か。そう尋ねると、数字で線を引く合意が見当たらない。同じ形の問題は、睡眠の外にいくらでもある。この記事では、定義のない言葉が議論を止める場面と、それでも手放せない理由を、順に見ていく。ここでいう「定義のない」には、二通りが入る。言葉の上の定義そのものが定まっていない場合と、定義はあっても、数字や検査に置き換えた線が一つに定まっていない場合である。
一つの家族の二人から始まった話
2009年、ヒトの睡眠の長さに関わる遺伝子の変異が、Science 誌で報告された。He らの論文である。朝きわめて早く目覚める家系の候補遺伝子を調べる中で、ある家族の二人が、DEC2 という遺伝子に同じ変異(P385R)を持っていることがわかった。この変異は、対照にした250を超えるDNA試料からは見つからなかった。
二人の睡眠時間は、論文の表では6.0時間と6.5時間。平均は6.25時間になる。同じ家族で変異を持たない5人は7.4時間から9.4時間にばらつき、平均は8.06時間だった。差は、1.8時間ほど。ただし変異を持たない5人には、10歳と16歳が含まれている。成人の3人だけなら平均は7.7時間で、差は1.5時間ほどになる。
この変異を持たせた遺伝子(マウスにはヒトの、ハエにはマウスの遺伝子)を組み込んだマウスやハエを調べると、やはり睡眠が短くなった。偶然の一致で片づけにくい、と研究者たちが考えたのはそのためだ。
ここで目をとめておきたいのは、数と測り方である。ヒトで変異を持つとわかったのは、一つの家族の2人だけだった。その2人を同じ家族の非保因者5人と比べたのが、中心になる比較である(表には、家族性睡眠相前進症候群の人16人と、一般の対照15人の平均も載っている)。「ショートスリーパーは遺伝子で決まる」と聞くと、大きな集団を調べた結果のように響くが、出発点は一つの家族の7人である。しかも、その睡眠時間は測定値ではなく、長い休暇のときの様子を構造化された面接で思い出してもらった自己申告だった。活動量計をつけて10日間記録したのは、二人のうち一人だけである。
自己申告に頼った数字だから価値がない、と言いたいのではない。動物実験は、睡眠が短くなるという点に裏づけを足している。揺らぐのは別の点、「短い睡眠でも活動的に暮らしている」という見立てのほうだ。論文は、1人の睡眠日誌と活動量計で、毎日の活動時間が長いことを示している。マウスの断眠実験の結果を述べた段落で、「活動的に暮らしている」は今後確かめるべき問いの前提として書かれているだけで、論文の本文は日中の機能を測った結果を示していない。起きて動いている時間が長いことと、その間の働きが落ちていないことは別の話で、次の節で見るように、その差は本人の感覚にも出てこないことがある。この家族のことと、別の家系で別の遺伝子の変異が報告されていることは、8時間睡眠の記事でも触れた。
「慣れた」は、成績が戻ったという意味ではない
毎晩5時間や6時間で足りている、と言う人は、何を感じているのか。手がかりになる実験がある。
2003年、Van Dongen らは、健康な成人(21〜38歳)に、1晩に床にいられる時間を4時間・6時間・8時間のどれかに割り当て、14日間続けてもらった。人数は、4時間と6時間の群が13人ずつ、8時間の群が9人(ほかに、3晩眠らない群も置かれていた)。反応時間を測る課題などで、毎日、成績と眠気の自己評価を記録している。
結果は、はっきりしていた。4時間と6時間の群は、日を追うごとに成績が下がった。下がり方は削った量に応じて大きくなった。著者らは、6時間以下の制限が、徹夜を最大で2晩した場合に並ぶほどの低下をもたらした、とまとめている。内訳では、2晩分に並んだのは4時間の群の注意の見落としと作業記憶で、6時間の群は、同じ課題で徹夜1晩分に並んだ。8時間の群では、成績が日を追って有意に下がることはなかった。
眠気の自己評価は、まったく別の動きをした。制限を始めた直後に眠気は強まる。その後も増え続けはしたが、増え方はわずかだった。4時間の群と6時間の群を、はっきり区別することもなかった。著者らは、参加者が自分の成績の低下に、ほとんど気づいていなかったと読んでいる。
比喩を使うなら、壊れかけた体重計のようにも見える。最初のうちは針が動くのに、途中から動きが鈍くなり、実際の体重が増え続けても、針はわずかにしか進まない。眠気という感覚は、睡眠不足を測る道具として、早い段階で鈍くなるのかもしれない。論文は二つの説明を並べるだけで、決めていない。本人が自分の眠気を正しく内省できないのか、4時間ほど眠っていれば、眠らない群ほどの眠気は本当に生じないのか。どちらの説明でも、眠気の針は成績の低下を知らせてくれなかった。
だから、「少ない睡眠で平気だ」という感覚は、その人が本当に短くて済む体質であることの証拠として、あまり役に立たない。慣れたと感じている人の中に、こうした状態の人が混じっている可能性は、十分にある。混じっている割合を直接数えた研究を、私は知らない。
しかも、本物の側の人も、同じ「平気だ」という言葉を口にするかもしれない。
本物かどうかを、誰も決めていない
本物とそうでない人を分けるものは、何なのか。
概念のうえでは、はっきりしている。生まれつき睡眠の必要量が少なく、短くても日中に支障がない人。ところが、これを「何時間以下」という数字で区切る線は、資料によって位置が違い、一つに合意されたものは、私が調べた範囲では見当たらなかった。米国睡眠医学会(AASM)が一般向けに出している解説は、ふだんから6時間未満の睡眠で、日中に問題なく過ごせる人と説明している。同じ学会がまとめた睡眠障害国際分類の第2版(2005年)は、習慣的に5時間以下としていた。こちらは査読論文での紹介に拠る二次情報で、分類の本体を私は見ていない。言葉の上の定義はあっても、数字の線は資料ごとにばらつき、短くても日中に支障がないかを確かめる検査も決まっていない。ショートスリーパーの場合、まず欠けているのは、一本にそろった線である(言葉の意味のずれも起きることは、後の仮の例で見る)。後半で扱う「ゲーム」や「種」は、言葉の上の定義そのものが一つに定まらない、もう一つの型である。
目覚ましなしで自然に起きるか、といった目安も見かけるが、体質を見分ける線として裏づけた原論文には、行き当たらなかった。休日に寝だめをしないか、子どもの頃から短いか、家族にも同じ人がいるか、といった手がかりも、あくまで状況証拠で、一つで決め手になるものはない。
睡眠が短い体質だと言える根拠がいちばん強いのは、遺伝子の変異まで確かめられた人だ。ただ、変異が見つかってわかるのは、短く眠る理由の候補を持っていることまでで、実際の睡眠の長さや、短くても日中に支障がないかは、別に確かめなければならない。He らの二人の場合、睡眠の長さは自己申告で(一人は活動量計でも)示されているが、短くても日中に支障がないかを確かめた結果は、前に見たとおり、論文の本文に出てこない。変異が見つからない人のほうは、偽物なのか。それも言えない。まだ見つかっていない遺伝子があるかもしれないし、遺伝子以外の理由で短い人もいるかもしれない。本物だと確かめる手段も、偽物だと確かめる手段も、どちらも中途半端にしか届かない。
目盛りは同じように刻まれているのに、どこから先を「短い」と呼ぶかの印は、定規ごとに別の位置に付いている。そんな定規を何本か並べて、二人で覗き込んでいるようなものだ。何センチかは読めても、どの印で「短い」と言うかは決められない。そして本当に知りたいのは長さではなく、その長さで足りているかのほうで、それはどの定規にも刻まれていない。
こういう言葉は、反証されにくい。「それは本物ではなかった」と後から言えるし、「いや、私は本物だ」と言い返すこともできる。決着をつける一本の線がないまま、双方が自分の言葉を守れる。
反証されにくい言葉は、商品にもなりやすい。「本物のショートスリーパーに近づく方法」と名づけられたものが売られていても、効果を本人の感覚で確かめられるという根拠はないので、買った人は、成績を測りでもしないかぎり、外れたかどうかを確かめる手立てをほとんど持たない。測ったとしても、どこまで来れば「本物」なのかの線は、一つに定まっていない。そういう取引が成り立つ余地を、実験で眠気が成績の低下を知らせなかったことと、線の定まらなさが二重に作っている。
もう一つ、名前が説明の席に座ってしまうことがある。「なぜ短い睡眠で平気なのか」と尋ねて「ショートスリーパーだから」と返ってくるとき、説明は一周している。名前の中身は「短く眠っても日中に支障がない」という観察で、その人について「生まれつき必要量が少ない」ことまで確かめられていないなら、名前は観察を言い直しただけになるからだ。同じ形は、ほかにも見つかる。「なぜ成績がいいのか」「地頭がいいから」。「なぜ続くのか」「根性があるから」。名前は説明のように見えるが、観察したことに名前をつけ直しただけで、原因については何も足していない。
名前が説明の席に座ると、それ以上の説明を探す動機が消える。問いが終わったように感じられる。この快さが、定義のない言葉が広まる理由の一つなのだろう、と私は思う。
そして、名前が一つでも中身が一つとは限らない、という状態は、睡眠に限った話ではない。
同じ病名の下に、1,030通りがあった
Fried と Nesse が2015年に発表した研究は、その広がりを、数字で見せてくれる。
調べたのは、米国の大規模研究(STAR*D)に参加した、うつ病の外来患者3,703人。最初の治療段階の1週目に、どの症状があるかを一人ずつ電話で尋ねて数えると、症状の組み合わせは1,030通りあった。864通りは5人以下にしか当てはまらず、501通りは一人だけ。いちばん多い組み合わせでも、全体の1.8%にとどまった(その組み合わせは、どの症状も、著者らが全項目に共通して「あり」とみなした点数、つまり0〜3点のうち2点以上に届かない、というものだった)。
ここで数えた症状は、診断基準の症状を評価尺度の項目にもとづいて12に分け、それぞれを有無に二分したものだ。診断基準も「いくつかを満たせば該当する」作りなので、組み合わせが増える面はある。そう承知していても、同じ病名で呼ばれる人たちの中身が、これほどばらばらだとは、数字を見るまで想像しにくい。看板は同じなのに、一軒ごとに出てくる料理が違う食堂に近い。著者らは、論文の題名で「一貫した症候群ではない」と言い切り、抄録の結論では、一つの診断名としての一貫性に疑問を投げかけている。
誤解のないように書いておくと、この研究が示したのは、つらさが実在しないということではない。症状を有無で二分して数えたことや、ほかの病気のために処方された薬が症状の出方に影響した可能性は、著者ら自身が限界として挙げている。論点は、「うつ病」という一つの名前で括ったとき、一つの原因、一つの治療を想定してよいのか、という点にある。
この場合、定義はあり、線もある。診断基準という形で、いくつ満たせば該当するかまで書かれている。にもかかわらず、その定義と線で診断を受けて登録された人たちの症状は、一つの中身にそろってはいなかった。名前が一つだと中身も一つだと思いたくなる、というのが、言葉の上の定義が定まっている言葉にも、定まらない言葉にも共通する、いちばん普通の落とし穴である。
名前が先に広まった例
名前が先に広まり、中身の検証があとから追いついた例として、グリット(やり抜く力)がある。
Duckworth らが2007年に提唱した概念で、長期的な目標に向けた粘り強さと、関心の持続を合わせたもの、とされる。広く知られるようになり、成功の鍵として語られる場面も増えた。
2017年、Credé らが、これまでの研究をまとめて分析した。対象は88の独立した標本、延べ6万6千人余り。グリットの得点と、性格の五因子のひとつである誠実性との相関は、測定の誤差を補正したうえで .84 だった(22の標本、延べ18,826人)。著者らは、グリットは今の測り方では誠実性(またはその一側面)の焼き直しにすぎないかもしれない、と書いている。さらに、「粘り強さ」と「関心の持続」を足して一つのグリットとみなす構造は、データでは支持されなかった。
話は、そこで終わらない。同じ分析の中で、粘り強さの側の得点は、誠実性を揃えても学業成績の説明に役立っていた。名前の新しさは疑わしくても、部分には使い道があった、ということになる。
新しい名前がつくと、新しいものが見つかったように見える。同じ尺度で測り直してみなければ、それが既存の何かの言い換えなのか、本当に別のものなのかは、わからない。グリットには共通の尺度で測った研究が積み重なっていたから、まとめて比べ直せた。ショートスリーパーは、睡眠時間なら測れても、必要量が少ないことと日中に支障がないことを、どの検査で確かめるかについて、合意されたものを私は見つけられなかった。
測定の分野には、この種の取り違えに名前がついている。Credé らの論文は、Kelley(1927年)を引いて、名前が違えば別物だと思い込む誤りを「ジャングル」と呼び、グリットの研究がこの誤りに陥っているかもしれない、と書いている。その対になる、同じ名前なら同じものだと思い込む誤りは「ジングル」と呼ばれることがあるようだが、Credé らの論文には出てこず、出どころは確かめていない。
同じ言葉で、別のものを話している
「ショートスリーパーは本当にいるのか」という議論が、二人の間で起きたとする。これは実際にあった会話ではなく、仮の例である。
一人は、DEC2 の変異を持つ、あの家族の二人を思い浮かべている。遺伝子の変異があって、体質として睡眠が短いとされる人。もう一人は、毎晩5時間で十年やってきて、午後にはいつも疲れた顔をしている同僚を思い浮かべている。前者の「いる」は、変異を持つ人がいる、という意味だ。後者の「いない」は、自分の周りで睡眠を削っている人は、たいてい消耗している、という意味だ。
二人は、おそらく、どちらも正しい。それなのに「いる」「いない」の応酬が続くのは、言い争っているのが事実ではなく、「ショートスリーパー」という言葉の指す範囲だからである。範囲の話をしていると気づかないまま、事実をぶつけ合うので、どちらの証拠を出しても、相手には響かない。
誰かが嘘をついているわけでも、誰かが無知なわけでもない。同じ言葉に、別々の中身が入っているにすぎない。言葉の範囲がそろっていないことの損失のうち、いちばん日常的なのは、おそらくこれだ。前者が「ショートスリーパー」と呼んでいるのは「体質として短く眠る人」、後者が呼んでいるのは「短く眠っても消耗しない人」。ずれているのは数字の線ではなく、この二つの意味のほうだ。議論が噛み合うのは、たいてい、誰かが範囲をそろえる一言を挟んだあとである。もっとも、範囲をそろえる作業は、議論に勝つ役には立たない。だから、勝ち負けを競っている最中には、後回しにされやすい。
見る人の印象に任せるとき
見る基準を決めないまま判断すると何が起きるかは、人を評価する場面で、数字になっている。採用面接で考える。質問と採点の基準をあらかじめ決める「構造化面接」と、面接官の判断にまかせる「非構造化面接」とで、入社後の仕事ぶりをどれだけ予測できるか。Sackett らが2022年に、過去のメタ分析を補正の方法から見直したところ、構造化面接の妥当性係数が .42、非構造化面接が .19 になった。Schmidt と Hunter の1998年の推定値(.51 と .38)より、どちらも下がっている。補正のやり方が、これまでは効果を大きく見積もりすぎていた、というのが見直しの理由だ。
順位は変わらなかった。見る基準を決めた型のほうが、決めない型より、よく当たる。
.19 の二乗は約 .04(.19×.19=.036)。仕事ぶりのばらつきのうち、非構造化面接の評価で説明できるのは、4%弱になる。「地頭がいい」「コミュ力がある」という手応えを、面接で見ているつもりでいても、この型で見えている部分は小さいのかもしれない。研究が直接調べたのは「地頭」でも「コミュ力」でもないので、これは私の読みにすぎない。
ラベルは、人を助けもする
曖昧な言葉の損な面ばかりを並べてきた。
名前があることで、楽になる人もいる。「自分だけがこうなのだと思っていた」ところに、同じ感覚を持つ人がいて、それに名前がついていると知る。それだけで、説明のつかなかった居心地の悪さが、少し軽くなる。たとえば「繊細さ」のような言葉が広まった背景には、そういう働きがあったのではないか。
こうした効果を、量った研究があるのか、あるとしてどれだけの大きさなのか、私は把握していない。だから、どれほど効くのかは言えない。名前に助けられたと感じる人がいる、という話を退ける理由も、私は持っていない。
同じ名前が、逆向きにも働く。自分の状態を名前で説明できたつもりになると、確かめる動機が薄れる。睡眠を削っている人が「自分はショートスリーパーだから」と考えれば、睡眠が足りているかを調べる理由が、一つ減る。助けになる名前と、確かめることをやめさせる名前は、同じ名前でありうる。
定義すれば解決する、とは限らない
ここまで読むと、定義をきちんと決め、線を引けばいい、という結論に流れそうになる。だが、決めた瞬間に起きることもある。
2006年8月24日、プラハで開かれた国際天文学連合(IAU)の総会で、「惑星」の定義が採決された。太陽のまわりを回り、ほぼ球形になるだけの質量があり、軌道の近くから他の天体を一掃している天体。この定義に照らして、太陽系の惑星は八つになった。冥王星は、新設された「準惑星」の最初の仲間に入っている。
IAU の発表を読むと、票の扱いが面白い。惑星の定義を定めた決議5Aは、「票は数えられなかったが、大多数で可決された」と書かれている。冥王星を準惑星とし、海王星以遠の新しい区分の原型と位置づけた決議6Aは、賛成237、反対157、棄権17。その区分を「Plutonian objects」と呼ぶことを加える決議6Bは、賛成183、反対186で、3票差で否決された。
定義の三つ目の条件は、軌道の近くから他の天体を「一掃している」ことだった。どこまで片づいていれば一掃したと言えるのかは、決議の文言からは決まらない。決まらないまま条件に入れて票を集められるのは、定義というものが、曖昧さをすっかり取り除いた状態を指すわけではないからだろう。定義が決着をつけたのは、教科書に何と書くかという点で、「一掃」の範囲は、決議の文言のうえでは開いたままだった。
冥王星という天体は、前の日と何も変わっていない。変わったのは、私たちがそれを呼ぶ名前と、教科書に載せる位置だけだ。定義とは、見つけるものであると同時に、会場で決めるものでもある。
決めることには、代償もある。5時間50分の人と6時間10分の人を、どこかの数字で分ければ、その線に特別な意味がなくても、数字だけが一人歩きする。測れるものだけを見るようになれば、測れないものは視野から落ちる。数字にした瞬間に別のものになる話は、測れるものだけを実在として扱うことについて、別の記事でも書いた。線を決めた目的が忘れられ、線そのものが目的に入れ替わる過程は、手段が目的に入れ替わることの一つの形でもある。
また、線は、引いた人の都合も一緒に固定する。誰が、どんな目的で線を引いたのかを抜きにして数字だけが残ると、後から来た人は、それを自然の線と取り違える。
用途ごとに線が違っていい、という考え方もある。遺伝子を探す研究者が必要とする「短い人」の線と、診察室で睡眠が「短すぎる」と見なす線と、友人との会話で使う「短い」の目安は、別の目的の道具である。一つの言葉に一本の線を求めるから、どの線も窮屈になる。言葉の名前を共有したまま、目的ごとに別の線を引く。それが成り立つのは、どの線を使っているのかを、互いに言える間だけだ。
定義がなくても、通じている
線を引くことには代償があり、定義を決めても曖昧さは残る。では、定義のないまま使うことには、どれだけの実績があるのか。日常の言葉の多くは、定義なしで通じている。
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』(1953年)で、「ゲーム」という言葉を例にした。盤上のゲーム、カードゲーム、球技、競い合う遊び。すべてに共通する性質を探しても、見つからない。勝ち負けのないものもあれば、技量と運の効き方がゲームごとに違うものもある。あるのは、あちらとこちらが少し似ていて、こちらとそちらが別の点で少し似ている、という重なり合いだけだ(第66節)。続く第67節で、彼はこの重なり合いを「家族的類似」と呼んだ。さらに、数という概念が広がっていく様子を、一本の繊維が端から端まで通っているのではなく、短い繊維がいくつも重なって強さが出る糸に喩えている。
定義がなくても、私たちは「ゲーム」という言葉で、ふつうに話が通じる。
心理学者のロッシュは、1975年に、ある種類の例がどのくらいその種類らしいかを、7段階で評価してもらう実験を報告したと紹介される。教科書でよく挙がるのは、鳥ならコマドリが上位に、ペンギンが下位に並ぶ例だ。この結果から、人は定義の条件だけでなく、典型的な例を手がかりにしてもカテゴリを扱っている、と読まれることが多い。生物学の定義がはっきりしている「鳥」でさえそうなら、定義のない言葉が通じるのも不思議ではない、と私は読む。
科学も、定義が決まるのを待ってはいない。「種」をどう定義するかについては、Wilkins(2006年)の紹介によれば、Mayden(1997年)の整理だけで22の概念が挙がっている。数え方による違いはあるが、20を超える概念が並び立っていても、生物学の研究は止まっていない。曖昧なままの言葉を仮に使いながら、観察と議論を重ねていく。そういう使い方が、現にある。
ショートスリーパーには言葉の上の定義がある。だが、仮の例の二人のように、どちらの意味で使っているかがずれれば、会話は噛み合わない。困るのは、中身の揃わないまま、その言葉を重い判断に使うときで、それは少し先の節で扱う。
争うこと自体が、使い方の一部になる言葉
もう一歩進めた見方もある。哲学者の Gallie は、1956年に「本質的に論争的な概念」という考え方を示したことで知られる。民主主義、芸術、社会正義のように、使う人たちが、その言葉の正しい意味をめぐって争い続けること自体が、言葉の使い方に含まれている、というものだ。
こういう言葉で、定義を一つに決めてしまうと、争う余地が狭まる。同時に、争いが運んでいた中身も失われかねない。「いい仕事」や「いい趣味」を、全員が同じ定義で使いはじめたら、おそらく、何かが損なわれる。
もちろん、この擁護には逃げ道がある。「曖昧だから意味がある」という言い方は、どんな主張にも貼りつけられる。ショートスリーパーの例なら、「線が定まっていないのだから、私も本物だ」という言い方にも使える。曖昧さが役に立つ場面と、役に立つふりをしているだけの場面を、言葉の側から見分けることはできない。
曖昧さの値段は、賭けているもので変わる
曖昧な言葉が損をさせる場面と、そうでない場面を、何が分けているのか。例を並べると、一つの傾向が見える。
「あの人は繊細だよね」という会話が曖昧でも、困る人はほとんどいない。外れていたら、次の会話で直せばいい。賭けているものが小さく、引き返せる。
一方、睡眠を削る、人を採る、治療を選ぶ、は事情が違う。外れたときに戻せないか、戻すまでに時間と代償がかかる。そこで「本物のショートスリーパー」「地頭」のような、中身の揃わない言葉に頼ると、曖昧さの代金は、判断が外れたときに、まとめて請求される。病名の下に中身のばらつきがあることも、同じ形で、診断や治療を考える場面で効いてくる可能性がある。
とはいえ、これも傾向にすぎない。賭けているものが小さいと思っていた会話が、後から重い判断の根拠になることもある。軽く使った「あの人は向いていない」が、人事の場で一人歩きする、というように。言葉は、使った人の手を離れてから、重さを変える。
問いだけ残しておく
定義のない言葉を、使うなとは言わない。定義せよとも言わない。これまで見てきたのは、同じ曖昧さが、ある場面では会話を進め、別の場面では議論を止める、という事実だけだ。
冒頭の二つの話に戻る。短くて済む体質の人がいるとして、その人も、睡眠を削って慣れたつもりの人も、朝には同じように「平気だ」と言うかもしれない。言葉は同じで、中身が違う。その違いを本人の感覚で見分けられる根拠は、私の知るかぎりなく、言葉の側にも、誰にでも当てはまる、数字で区切る線は見当たらない。線が一つに定まっていないことを承知でその言葉を使うのか、一本の線があるつもりで使うのか。
賭けているものの大きさは、傾向としては見えた。定義や線が定まっていないことを承知して使っているかどうかも、効いているように思える。ただ、それ以上に何が分けているのかを、私はまだはっきりとは言えない。手がかりは、いくつかの問いの形でしか出せない。
その言葉が外れたとき、何が変わるのか。ショートスリーパーという名前が外れても、その人の睡眠時間は変わらない。変わるのは、睡眠を削る判断が、体質の話から、削っているだけの話に戻ることだ。
その言葉は、いま、議論を進めているのか、止めているのか。「あの人は地頭がいい」は、話の入口にはなる。でも、採用や評価の根拠に使われるなら、止めている側に傾く。
そして、自分がいま使っている言葉の中に、定義を尋ねられたら答えに詰まるものは、いくつあるのか。数えてみると、思ったよりも多いかもしれない。私は、まだ数え終えていない。
出典
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- Van Dongen HPA, Maislin G, Mullington JM, Dinges DF (2003) "The cumulative cost of additional wakefulness: dose-response effects on neurobehavioral functions and sleep physiology from chronic sleep restriction and total sleep deprivation." Sleep 26(2): 117–126.
- 米国睡眠医学会(AASM)の一般向け解説サイト Sleep Education のショートスリーパーの項(2021年1月、Skiba・Hershner 査閲。https://sleepeducation.org/sleep-disorders/short-sleeper/ )。
- American Academy of Sleep Medicine (2005) International Classification of Sleep Disorders, 2nd ed.(ICSD-2。本体は未見。「習慣的に5時間以下」という定義は、下の論文での紹介に拠る二次情報)。
- Hao YL, Zhang B, Jia FJ, Li XL, Tang Y, Ren YZ, Liu WH (2014) "A three-phase epidemiological study of short and long sleepers in a middle-aged Chinese population: prevalence and characteristics." Braz J Med Biol Res 47(2): 157–165(ICSD-2 の定義を紹介した箇所として参照した)。
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- Sackett PR, Zhang C, Berry CM, Lievens F (2022) "Revisiting meta-analytic estimates of validity in personnel selection: Addressing systematic overcorrection for restriction of range." Journal of Applied Psychology 107(11): 2040–2068.
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